島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

47⁻1淳仁天皇

2019-05-11 | 天皇陵巡り
 
 先代の第46代孝謙天皇が女帝ですので、皇太子には第40代天武天皇の孫道祖王(フナドオウ)をたてていましたが、なんか言いがかりのような理由(淫欲に溺れていた)でこれを廃し、替わってたてられたのが、同じく天武天皇の孫である大炊王(オオイオウ)です。
 
 大炊王の父親は舎人親王で、その第7子として生まれましたが、3才の時にはもう父は死んでしまっています。
時の権力者藤原仲麻呂は、自分の長男の亡き真従(マヨリ)の未亡人である粟田諸姉(アワタノモロネ)を大炊王に娶らせ、自邸の田村第(タムラテイ)住まわせていたので、皇太子にと大炊王を強く推挙しました。
そして、孝謙天皇の譲位後、大炊王は第47代淳仁天皇(ジュンニン)(733~765)(在位758~764)になりました。
 
 淳仁天皇の政治の実権は、父親にも等しく、その即位を強力に後押しした藤原仲麻呂が握っていたのは当然で、比べられないほどの恵みを与え、あらゆる騒乱を平定出来る者と言う意味の名、恵美押勝(エミノオシカツ)と言う名まで、仲麻呂に与えています。
 
 その頃孝謙上皇は、あの牛崧ケ鏡を寵愛するようになり、上皇と天皇の対立を招いたので、764年あせった仲麻呂は恵美押勝の乱を起こしましたが、意外なことに強そうだった仲麻呂軍はあっさり上皇軍に負けてしまい、淳仁天皇も拘束されて、淡路島に流されてしまいました。
 
 そもそも淳仁天皇という諡号は、明治時代になってから付けられたもので、それまでは淡路廃帝(アワジハイタイ)と呼ばれていて、長くに渡って天皇とは認められていなかったようです。
淡路島から逃亡を計って捕まり、亡くなりましたが、多分殺害された天皇でしょう。
 ここ淡路陵(アワジノミササギ)(兵庫県南淡町)には、徳島に行く時に途中で高速を降りて参りましたが、だいぶ前の頃です。

    返事
和さん:年齢的に行く所が、同じような所になりますね。
    豊岡・丹波も、この1ヶ月で2回も行ってます。
花水木さん:しっかりした味です。
    食レモヘ語彙が少ないので、苦手ですよ。
大雪男さん:4人目の孫は4月2日生まれなので、
    この利を生かしてもらいたいです。
     少し強くなっても、巨人に勝たないと面白くありませんよ。
ヌカタオキミさん:H病院の職員とゴルフに行ったのですが、
    ゴルフ場も意外と空いていましたね。
  
  私事ですが、本日月に1度の外科外来の仕事の通勤帰り、
 自転車で思い切り転唐オてしまいました。
 周りの外人観光客に「ダイジョウブデスカ?」と思い切り声をかけられました。
 頭も少し打ちましたが、挫創だけで骨折はしてないようです。
 でも心はかなり折れています。

コメント (2)
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