島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

36≠P孝徳天皇

2018-07-25 | 天皇陵巡り
   
 軽皇子(カルノミコ)は第35代皇極天皇の同母弟なので、父は茅渟王で母は吉備姫王です。
王位とは無縁の三世王でしたが、姉の宝皇女が第34代舒明天皇の皇后になり、その後は第35代皇極天皇ともなったので、一世王に準じた地位に自動的に上がりました。
   
 写真の板蓋宮で実行された乙巳の変(大化の改新)の主導者は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったという説もありますが、その変後、姉の皇極天皇が初の譲位をし、次の天皇に成るのを中大兄皇子は辞退し、古人大兄皇子は出家してしまったので、軽皇子が第36代孝徳天皇(コウトク)(596~654)(在位645~654)として即位しました。
 唐の属国ではないという証のためか、初めて元号をもうけ大化としました。
     
 姉の皇極天皇の娘で中大兄皇子とは同母兄妹である若い間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)を皇后としましたが、二人の間には子供はなく、左大臣の阿部内麻呂(アベノウチマロ)の娘小足媛(オタラシヒメ)を妃として、悲劇の主人公と言われてる有間皇子(アリマノミコ)をもうけていますし、右大臣になった乙巳の変の功労者蘇我倉山田石川麻呂(ソガノクラヤマダイシカワノマロ)の娘乳娘(チチノイラツメ)も妃としています。
 二上山山麓、駐煌X道に沿ってある孝徳天皇陵には、車を道の駅に置いて、そこから自転車で太子町の他の御陵と一緒に廻りました。
   
 中臣鎌子(ナカトミノカマコ)(藤原鎌足のことです)を内臣(ウチツオミ)にし、徐々に政権は中大兄皇子に集中していき、出家していた古人大兄皇子も謀反の疑いで滅ぼし、蘇我山田石川麻呂も間違った情報で殺してしまった中大兄皇子の独裁が目立ってきました。
 石段を登った先の孝徳天皇陵拝所は、正面には廻れない配置になっていました。
      
 外交政策でも中大兄皇子と対立し、自分の若い皇后間人皇女と同母兄妹の中大兄皇子との許されぬ恋もあったようですが、孝徳天皇の周りの皆が離反していき、難波長柄豊崎宮(ナニワノナガラノトヨサキノミヤ)(大阪市北区)で一人寂しく亡くなり、ここ大阪磯長陵(オオサカシナガノミササギ)(大阪府太子町)に葬られました。
 この古墳は円墳の山田上ノ山古墳(ヤマダカミノヤマコフン)です。

      返事
花水木さん:元気ではないですよ。
    さすがに今年の夏は暑いですね!
    外では水分補給あまりしない私ですが、ャJリを買い仕事中飲みました。
    夜中クーラーをつけっぱなし(29度設定)で寝るなんてのも、人生初めての経験です。
     70才になったせいか、今年の夏は心も体もやられそうです!

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする