島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

34≠Q押坂彦人大兄皇子

2018-07-14 | 天皇陵巡り
   
 1年間の全国靴下生産量6億足のうち約4割を生産する町、又虫謨ィ語の舞台にもなってるそうで、可愛いのか美人なのか浮「のか、ちょっと迷ってしまうような大きなかぐや姫もそびえていた奈良県広陵町には、古墳もたくさん集まっています。
   
 押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトノオオエノミコ)の墓は、一応宮内庁はここ広陵町にある新木山古墳(ニキヤマコフン)を三吉陵墓参考地(ミヨシ)として、敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子舒明天皇御父の墓としています。
 しかし、新木山古墳は5世紀前半の築造なので、先ず当てはまらないようです。
   
 ここまでの歴代天皇のうち父親が天皇ではない天皇は、当然の初代神武天皇は別として、日本武尊が父の第14代仲哀天皇、市辺押磐皇子が父の第24代仁賢天皇・第25代顕宗天皇、そして天皇まで5代遡らねばならない第26代継体天皇の4人だけでした。
前回の第34代舒明天皇は、5人目の父が天皇でない天皇です。
 写真の新木山古墳の入り口は、周濠が埋まって葦の森になってる向こうにありました。
    
 第34代舒明天皇の父親は、第30代敏達天皇と息長真手王(オキナガマデノミコ)の娘30≠Q廣姫(滋賀県まで陵を探しに行って報告してます)との間に産まれた今回の押坂彦人大兄皇子です。
敏達天皇の第1皇子だったので、次の天皇候補ではあったのですが、母親の廣姫が早くに亡くなり、後妻に入ったのが蘇我家からの後の推古天皇だったので、結局天皇には成れませんでした。
  写真は新木山古墳の後円部を、石葺きに整えられた三吉石塚古墳(ミヨシイシヅカコフン)から眺めています。
    
 押坂彦人大兄皇子は父敏達と推古の間に産まれた娘、すなわち異母妹2人を妃にしていますし、敏達と菟名子との間の娘糠手姫皇女も妃として(すなわち計3人の異母妹を妃に)、その間に産まれたのが田村皇子(舒明)です。
 また、漢王の妹大俣(オオマタノミコ)(女です)も妃として、茅渟王(チヌノオオキミ)を授かり、茅渟王が第29代欽明天皇の孫29≠S吉備姫王(キビヒメノオウキミ)(猿石があった墓で、祖母が堅塩媛なので少し蘇我の血が入ってる)と結婚して、後の皇極・斉明天皇と孝徳天皇を産んでいます。
 押坂彦人大兄皇子の本当の墓は、新木山古墳から15分ほど歩いた牧野古墳(バクヤコフン)であろうと言われています。
   
 したがって少しややこしいですが、蘇我氏によって天皇になれなかった押坂彦人大兄皇子ですが、その子1人(舒明)と孫2人(皇極・斉明と孝徳)が天皇になりましたし、更にその子供と孫が(舒明と皇極)結婚して、孫のようなひ孫のような天智天皇と天武天皇をも生みだしたことになりました。
 写真は牧野古墳の横穴式石室が開口してる部分ですが、柵があって中までは入れません。
   
 この牧野古墳は直径約55ⅿの円墳で、成相墓(ナライノハカ)と呼ばれて、昔から押坂彦人大兄皇子の墓だと言われていたようです。
 柵の間から覗いてみてもよく分かりませんが、写真に撮ると約10ⅿの羨道の向こうに玄室の石棺の一部が見えました。
石棺は2基あったようで、もう一人の埋葬者は誰なのか、糠手姫皇女は息子の舒明天皇と一緒に入っていましたので、他の妃か誰でしょうか。
写真をよく見てみると、棺に卒塔婆が立てかけられていて、柵がなかっても私は一人では入れなかったかもしれません。
じっと柵外から観てただけで、背中がぞくっとしてくる浮ェりです。

    返事
花水木さん:いつの世も、大でも小でも、
    跡目争いは他人事なら面白いですね。
     そろそろ神話から歴史上の人物になってくるので、
    面白くしていきます。(予定です)
     ボケず体力が残ってる間に、
    自転車日本一周で毎日ブログ更新するのが夢なのですが、無理かな?
元商家の嫁さんさん1:宝くじでも当たったのですか!
    旦那のブログ相変わらずリッチですが。
元商家の嫁さんさん2:すし富・すし良、憶えておきます。

コメント (1)
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34≠P舒明天皇

2018-07-10 | 天皇陵巡り
   
 第33代推古天皇は皇太子であった聖徳太子に先立たれ、次の皇太子に誰も立てませんでしたので、推古天皇没後次の天皇争いは混乱しました。
 勢力を伸ばしていた蘇我一族にとっては、蘇我家の血が濃い聖徳太子の息子山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)の方が、蘇我家の血が全く入ってない第30代敏達天皇の孫田村皇子(タムラノミコ)より良かったと思います。
しかし、蘇我一族内での主導権争いや、蘇我馬子の娘 法堤郎媛(ホテイノイラツメ)と田村皇子との間に古人大兄皇子(フルヒトノオオエノミコ)が産まれていたこともあって、蘇我蝦夷(エミシ)は田村皇子を推したようです。
   
 第30代敏達天皇が30≠Q廣姫に産ました押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトオオエノミコ)と、同じく菟名子(ウナコ)に産ました糠手姫皇女(アラテヒメノヒメミコ)の、異母兄妹の結婚に依って産まれた田村皇子は、飛鳥岡本宮(アスカオカモトノミヤ)に即位し第34代舒明天皇(ジョメイ)(593~641)(在位629~641)になりました。
   
 前述したように、舒明天皇は法堤郎女との間に古人大兄皇子をもうけていましたが、皇后になったのは宝皇女(タカラノヒメミコ)(後の皇極・斉明天皇)で、その間には葛城皇子(カズラキノミコ)(後の天智天皇)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(後の孝徳天皇皇后)・大海皇子(オオアマノミコ)(後の天武天皇)のそうそうたる二男一女ができました。
    
 こうして王統は蘇我家から離れて(宝皇女は女系ですが少し蘇我の血が入っていますが)、敏達・舒明系に収斂され、このまま現在の天皇家に繋がっていきます。
 舒明天皇の時代、歴史的には630年遣隋使の経験もある犬上御田鍬(イヌガミノミタスキ)をして第1回遣唐使が始まりました。
    
 49歳で亡くなった舒明天皇の押坂内陵(オサカノウチノミササギ)(奈良県桜井市)には、近鉄桜井駅から奈良らしい道を走って自転車で行きましたが、この陵には息子舒明よりはるかに長生きした母の糠手姫皇女も合葬されてるので、制札には敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃糠手姫皇女押坂墓(オサカノハカ)とも書いてありました。
    
 正式名段ノ塚古墳(ダンノツカコフン)はわが国初と思われる八角墳であり、その後の天皇陵には八角墳が見られるようになりました。
 横の道を少し上ると、第29代欽明天皇の娘で29≠Rで紹介した大伴皇女の墓や、万葉歌人の鏡女王の墓もありました。
   いいとこです!

       返事
花水木さん:花水木さんはもうちょっと頑張って下さいよ、
    孫の世話は体力入りますし、
    私への追悼コメントも入れなければなりませんよ。
元商家の嫁さんさん:オリンピックとサッカーはあまり興味湧きませんが、
    ラグビーは楽しみにしています。
     小浜は昼しか行かないので、病院前の寿司屋の地元評はどうですか?
    美山の新座さんは覚えておきます。
     それはそうと、今気づきましたが、
    元が付いてる!なんで元が付いてるんですか?

コメント (3)
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古希

2018-07-08 | ノンジャンル
    
 私の住む京都市松ケ崎学区にも、7月5日木曜日には避難勧告が出され、一部の人から安否うかがいも貰いましたが、避難することもなくすみました。
7月6日金曜日に予定していた和歌山県北山村での筏下りは、中止の連絡が入って、この休みは家に居ますし、仕事でもないので止まってる電車の心配もせず過ごしました。
7月8日日曜日、今朝は朝から日もさしていますが、広島や岡山は大変なことになっていますね、こんな時に気楽なブログで申し訳ありません。

 恥ずかしながらとうとう70年も生きてしまいました。
それほどは世間に迷惑はかけてないつもりですが、それ程世間の役にも立たず、自分の思い通りに自己中心的に70年を過ごさせてもらいました。
先日は4人の孫も集まってくれて、孫Ⅱ≠Qの7歳の誕生日と一緒に、私の70歳も祝ってくれました。
    
 イクメンの練習もしながら、あと10年ほど気楽に生きていけたら上等と考えています。
ほぼ60歳台を綴ってきたこのブログ、読んでる人が嫌になっても、私が嫌にならない限り、もう少し続けたいと思っていますので、よろしくお願いいたします!

    返事
花水木さん1:やっと登録されました!
    この事が、今奈留島に住んでる人々にとって、本当に良かったと思われるようになることを、
    祈っています。
     私にとって奈留島は、すべてが懐かしいです!
大雪男さん:上五島もこれで少しでも良くなれば嬉しいです。
     セ・リーグはもうどこが強いのか判らなくなっていますね。
    7月になって阪神も少しは打ちだしたので、観てる分には面白くなってます。
花水木さん2:ご心配いただきましたが、大丈夫です。
    筏下りも、行けなくなって良かったぐらいですが、他の場所が大変ですね。
和さん:誕生日まで憶えていただいて、ありがとうございます!
     奈留島もあまり観光客が増えすぎるのは、心配です。

コメント (2)
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奈留島が世界遺産に

2018-07-04 | 奈留島
  
 やっとこさ!
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録されました!!
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)もその中に含まれています。
 登録の名前が変わったり、私が奈留島に居る頃より登録されそうでされないと、紆余曲折で10年以上かかったと思いますが、先ずはおめでとうございます!!!
     
 10年ぐらい前、私が奈留島にいた頃、大合併で奈留町から五島市に変わった為か、奈留島の道路案内看板がすべて新しくなりました。
撤去された古い看板は、廃屋寸前の家に住み空き缶回収などしていたお爺さんに引き取られました。
その庭にあった看板を、フークの散歩の途中に見つけた先見の明ある?私は、ちょっと知ってたのでお爺さんから無料でもらい受けました。(違反だったら目をつぶって下さい)
 わざわざ車に積んでフークと共に京都まで持って帰り、庭に置いて今日の日を待っていたのです。
   
 奈留島で世界遺産登録されたのは、奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)なので、私のゴミ箱霊場巡りの江上教会周辺のゴミ箱も、世界遺産になりました!!
 あの頃は天主堂とは呼ばずに、江上教会が普通でしたね。
   
 長崎市内や天草の教会群も良いですが、ちょっと足をのばして、皆さまぜひ奈留島の教会も尋ねて下さい!
私も写ってる江上天主堂のャXターも、船着き場でお待ちしています。
   
 30個ぐらいあった撤去看板の中から、もう一つだけ貰って帰ったのが、このユーミンの歌碑看板、病院に立っていました。
  
 奈留島での2大名所は江上教会と、奈留高校の校歌になりかけたユーミンの「瞳を閉じて」、
この二つの貴重な案内看板、100万円で買ってくれる人がいたら、自宅までお届けいたします。

  返事
花水木さん
小野選手は北海道で選手だと思います。
    静岡県はサッカー王国ですよね

コメント (3)
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