島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

九州旅行1 田原坂

2008-09-24 | 九州本土
 台風もうまく(私の旅行には)通り過ぎてくれて、人妻との逃避行は、鳥栖駅で出会った人妻を車に乗せた5分後には、もう単なる家内との家族旅行に変わっていましたが、無事終了。
 旅行中浮ュて、3連戦(丁度3泊)をTVで観れませんでしたが、風の便りでは、なんとなく最悪の結果になっているようですね。
 これで優勝できなかったら・・・・・・。

 1泊目は、熊本の少し手前、あまり知られてない 植木温泉に泊りました。
     
 この近くに田原坂が有ります。
西南の役で激戦地として有名な、歌にもある、
    越すに越されぬ あの田原坂です。
 この戦いで、政府軍・西郷軍両方からの銃撃戦が激しく、両方の弾と弾が空中で激突した、と言う話を昔から聞いていたので、それを見たさに行ってきました。
 植木町田原坂資料館に有りましたね!
    
 映画「マトリックス」の世界のような証拠品が飾ってありました。
1個だけと思っていたら、3個もあったので、これをどうして見つけたのか?本当に残るものか?チョット疑問も生まれました。
 実物を見てしまったが故に逆に、うその話のように思えてしまいましたが、この旅行の6番目の目的は、この空中衝突弾を見ることでした。
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神代三陵

2008-09-18 | 九州本土
 以前もお話したかもしれませんが(最近の丸谷才一の文のように、自分で書いたかどうか判らなくなっている)、50歳になった頃、あまりの記憶力の減衰に驚いて、歴代天皇名の暗唱に、通勤電車内で数ヶ月も取り組み、何とか125代天皇名を暗唱出来るようになりました。(別に右翼ではなく、どちらかと言えば左翼です)
 
 そしたら今度は、歴代天皇陵の参拝を試み、奈留島に来るまでコツコツと、4分の3ぐらいの天皇陵を巡って陵印も集めていました。
 奈留島(九州)へ来ることが決まった時も、これで安徳天皇陵と神代三陵に参拝できると思ったぐらいです。
    神代三陵(じんだいさんりょう)
 天孫降臨したニニギ__ホホデミ__ウガヤフキアエズ__神武天皇
と続きますが、初代天皇 神武の 父・祖父・曽祖父 の3人(三神?)の墓と言われている御陵を神代三陵と言い、いずれも鹿児島県にあります。

    
 しかし、九州本土と五島列島は遠く、昨夏やっと、下関の赤間神社にある安徳天皇陵を訪ねて、ブログでも紹介しましたね。
 今回、1日夏休みを貰い連休にして、鹿児島に有る神代三陵を訪ねようと思います。
     
  陵印は既にもう写真の如く、宮内庁の京都桃山陵墓監区事務所で貰っています。
 今は京都に居る 人妻 とは、ロマンチックにも九州の中心 鳥栖駅で落ち合って、台風の中を逃避行?です。

 それもこれも、台風で船が欠航しなければですが?
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奈留島121ヶ所ゴミ箱霊場観光巡り 7

2008-09-16 | 奈留島121ヶ所ゴミ箱霊場観光巡り
 台風が近づいているのに、戸を開けておくと、虫の声がTVの音声より大きい、
    秋になっている奈留島です。
 週末九州に、を予定しているので、行けるかどうか?

  
 <b>総本山清巣Zンターを左手に見て、海岸の道を行くとすぐに、
 第7番霊場田尻地区(畑○シ○宅前)海岸側のゴミ箱です。
 潮風にも耐えて、可愛い色で塗られ、いかにも「私は島のゴミ箱です」と言っているような、可憐な霊場です。
    
 霊場から道を隔てた山側を眺めると、家がありますが、多分この2軒ぐらいの家の為だけに、このゴミ箱が有るようです。
   
 霊場は防波堤の開口部にひっそりと鎮座しているため、見逃さないように歩いてください。
 その向こうには、奈留瀬戸越しに久賀島の蕨の村落が、また大串の皺ノ浦も見渡せます。
   
 ここから第8番霊場へは、昔、村の有志が作った小さな打ち放し場跡を通り、海岸に沿って歩きます。
   
 途中には、淡水貝の化石が露出している岩が有ります。
 このことから、大昔は、五島から佐世保にかけては、大陸に繫がる大きな淡水湖に成っていて。 これが一度沈んでから隆起して、五島列島が出来た、という証拠にもなっているそうです。
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奈留町銅像巡り 3

2008-09-15 | 奈留島

 3連直3日目、チョット退屈、チョットお疲れです。
台風がゆっくり近づいていますが、直撃ではなさそうです。 雨。

   
 奈留小学校(今年からは旧奈留小)の校庭道路側に建つ、「考える人」のこれはセメントですか、石膏ですか?
 作者は、さすがに<b>佐藤敬助</b>さんではなく、ロダンさんのレプリカです。
 昭和34年卒業生の贈り物です。
何故?二宮金次郎ではなく、「考える人」なのでしょうか?
 そういえば、あの頃(私は昭和35年小学校卒)は、ロダンの人気があった頃ですかね。(それでもハイカラ)
 京都国立博物館の庭にある「考える人」より、かなり小さ目ですが、道路からは寂しげな背中が良く目に付きます。
    
 像のわりには立派な台座ですが、元々は「宿輪卓爾」さんの胸像が置かれていた台座だったようです。
 前回の宿輪静磨さんのお父さんで、慶応3年(1867)生まれの、奈留の元の元を造った人のようです。
 この親子2代の頑張りで、奈留は精神的にも文化的にも繁栄したようです。
この胸像は、太平洋戦争時に供出され、台座だけが残りました。
 近所の私より少し年配の方は。「台座の上に登ってよく遊んだ」と言われました。
この像が向こうを向いていて、地獄ではなく「焼肉や」を見下ろしていれば、ロダンももっと喜んだかもしれません・・・。

 フークの散歩の範囲内で見る銅像は、これくらいだとを思うので、銅像巡りの旅は早くも終了です。
  又他を考えよう! 121ヶ所にあきたわけでは有りませんが。
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奈留島銅像巡り 2

2008-09-14 | 奈留島

 3連直2日目、今日は発熱の子供が数人ぐらいで、今のところのんびりです。
台風のせいか、ぱらぱら雨が降ったりやんだり、第28回地区対抗年齢別ソフトボール大会も結局中止すると、告知放送が有りました。

   
 奈留病院横の離島開発総合センター前に有る、名誉町民「宿輪静磨」さんの胸像です。
 長きにわたり奈留村長や漁業組合長を歴任され、
   *漁業振興と網の地区共同経営を推進し、特別な富者貧者のいない村作りを実行。
    (奈留島には鰊御殿のような豪邸はありませんが、飢えてる人もいなかったようです)
   *教育にも力をいれ、高給で優れた教師を集めた。
    (教育には全島熱心です)
   *奈留病院の元となった、漁業組合立厚生病院を設立。
    (私も来れました。静磨さん、ありがとうございます)
 などなど、なんとなく今も残る、奈留島の雰囲気と伝統を作ったような人なので、
偉い人だったような気がします!
 昭和52年(1982)建立で、作者は誰だと思いますか?



   なんとなんとこれも、佐藤敬助さんでした。

コメント (2)
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