第120代仁孝天皇(1800~1846)(在位1817~1846)の第4皇子である幼名煕宮(ヒロノミヤ)、母は正親町実光(サネミツ)の娘雅子(ナオコ)(1803~1856)ですが、仁孝天皇の正妃である鷹司祺子(ヤスコ)(1811~1847)の養子となり儲君治定、親王宣下もうけて統仁親王(オサヒトシンノウ)として立太子しました。
写真は、泉涌寺北にある後月輪東山陵(ノチノツキノワノヒガシヤマノミササギ)への参道の石柱です
父仁孝天皇の崩御にともない即位した統仁親王は、第121代孝明天皇(コウメイ)(1831~1866)(在位1846~1866)と成りましたが、その治世の20年間はまさに幕末動乱期にあたりました。
参道左に第86代後堀河天皇の観音寺陵を見ながら、写真の参道を進みます
すなわち
1853年;ペリー浦賀来航
1854年;日米和親条約
1860年;桜田門外の変
1862年;14代徳川将軍家茂に孝明天皇異母妹和宮の降嫁
1863年:8月18日の政変で七卿の都落ち
1864年;第1次長州征伐
1866年;薩長連合
と、その間孝明天皇は一貫して佐幕攘夷でした。
陵前は広く、ここまで車で入れるのは、皇族の方々が良く参拝に来られるからかもしれません
孝明天皇の女御としては、九条夙子(アサコ)(1834~1897)がいましたが、産んだ2皇女はいずれも夭折、典司中山慶子(ヨシコ)(1836~1907)の産んだ第2皇子祐宮(サチノミヤ)(後の明治天皇)を実子としています。
この陵は一部塀と門に囲まれていました
孝明天皇は幕府の開国方針には反対(攘夷)でしたが、徳川幕府そのものは否定せず(佐幕)、公武合体して鎖国の方針を取り戻すのが基本方針でした。
また仁孝天皇の遺志を継いで、学習所を設立したり、歴代天皇陵修復事業なども進めました。
この神州日本を信じ、佐幕攘夷思想でがんじがらめになった天皇ですが、結局36歳で痘瘡で突然亡くなりました。
あまりに突然だったため、岩倉具視などによる毒殺説が根強く残っています。
沢山の江戸時代の天皇が眠る月輪陵とは離れて、少し山際の後月輪東山陵(東山区今熊野泉山町)に葬られています。
まるで笹舟、生き抜くのは並大抵の事では、無かったでしょうね。
改革派でありたいと思いつつ、基本保守派の私の血は、曾祖父から貰ったのかもしれません。
光悦、改めて凄い天才だったんですね。
実物よりちょっと老けては写ってましたが、光悦寺の説明をしてたお坊さんが、私の娘の婿ですので、またどうかよろしくお願いします。