島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

101-1称光天皇

2022-01-21 | 天皇陵巡り
 せっかくの金曜日休みの日も、朝から京都は雪で、もう10㎝以上積もってまだ降っています。
車で遊びに出かけるのは午後からでないと無理なので、朝から雪を見ながらブログを書いています。
 
 第100代後小松天皇(1377~1433)(在位1382~1412)の第1皇子で、母は日野西資子(ヒノニシシシ・スケコ)(1384~1440)の実仁親王(ミヒトシンノウ)は、父の譲位を受けて12歳で第101代称光天皇(ショウコウ)(1401~1428)(在位1412~1428)となりました。
  いつもの石柱です
 
 称光天皇は生まれながら病弱で、何度も危篤になって葬儀の準備をすると持ち直すことを繰り返してたようです。
典侍藤原光子との間には子は生まれず、他の数人の妃との間にも数人の皇女が生まれただけでした。
  いつものJR奈良線踏切です、右側が御陵
 
 病弱であったことが精神にも及んだのか、妻と側近の密通を疑ってその側近を謹慎にしたり、後継ぎがないので父後小松上皇が崇光流から皇位継承を計画してることを知って、すねるように父と不仲になったり、天皇という地位にいるにしては称光天皇は問題児だったようです。
 
 称光天皇には皇位継承なら次の同母弟小川宮(オガワノミヤ)(1404~1425)がいたのですが、この弟もかなり問題児で、頼み込んで兄称光から貰った羊をその日のうちに撲殺したり、同母妹に突然暴行を加えたりと、精神状態はかなり不安定なうえに身体も病弱で、兄より早く22歳で突然死んでしまいました(突然すぎてるので殺されたのかもしれません)。
  12人の天皇が眠る十二帝陵
 
 こうして長男の第89代後深草(持明院統)と弟の第90代亀山(大覚寺統)から始まった、変わりばんこにその系統が皇位に就いた両統迭立は、第96代後醍醐の武力による反抗によって南北朝に分裂しました。
その北朝方も長子の北朝3代崇光と弟北朝4代後光厳の二つに何となく分裂、第4代足利将軍義持によって守られていた後光厳側も、南北朝合一は果たしたものも、今回の第101代称光の死で継承男子がいなくなり、元の長子系の崇光流から天皇を迎えざるを得なくなりました(第102代後花園天皇)。
  称光など持明院統の12人が眠る深草北陵(伏見区深草坊町)は、12回(13)出てきますので、おなじみというか・・・・

  書き終えて朝10時ですが、まだ雪が降り続いています、午後からの外出もできないかもしれません。

        返事
和さん:そう言われてみたら、
    完全におこたの上ですね。
     富江の「ニク勝」家は、元々走る一家だったのですね。
Toitennさん:しばらく冬眠ですね。
    ブログのネタ無くなりますが。
花水木さん:「鎌倉殿」2回目も面白かったですね。
    静岡が今後もたくさん出てきそうですので、また「クレソン畑」で現地紹介してください。
     古希は越えると、かなりしんどくなりますよ。
    家内も老人化してきましたし、私は当然それ以上です。

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2022-01-21 11:31:56
今年はやけに寒く、体に堪えてますが
沼津では雪はさっぱり降りません。
たまに降っても積もることがありません。

毎年、この時期には富士山は真っ白になるのですが
今年は天気続きで、雪がまだらです。

人間の出来不出来。
今も昔も変わりませんね。
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