島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

54-1仁明天皇

2020-01-22 | 天皇陵巡り
 
 伏見区の山の上にある老人ホームの午前中だけの仕事を終えて、最寄りのJR駅まで歩いて降りてくるのですが、この日はそのままもう少し北へ歩いて、仁明天皇陵の石柱まで行きつきました。
石柱の横面には、ここから東にある宇多天皇皇后の御陵の文字も刻まれていました。
 
 かなり民家に依って浸食されたような、仁明天皇陵に行きつきました。
第52代嵯峨天皇と橘嘉智子との間に産まれた第1皇子正良親王(マサラシンノウ)(後に第53代淳和天皇の皇后になった正子内親王とは双子だったらしい)は、14歳で淳和天皇の皇太子になり、淳和天皇の譲位により即位して第54代仁明天皇(ニンミョウ)(810~850)(在位833~850)となりました。
 
 奥は手水鉢もあって、予想より広々としていました。
藤原冬嗣の長女で良房の妹でもある藤原順子(ジュンシ・ノブコ)を皇后として、道康親王(ミチヤス)(後の第55代文徳天皇)をもうけ、藤原総継(フサツグ)の娘藤原沢子(タクシ・サワコ)を妃として、時康親王(トキヤス)(後の第58代光孝天皇)をもうけています。
 
 奥の左に銀色に光ってるのは名神高速道路の防音壁です。
ここは55年ほど前に高速道路としては日本で最初に開通した所なのですが、この陵は避けて開通させたのでしょうね。
 仁明天皇の皇太子は、最初は前回ブログの淳和天皇の息子(母は正子内親王)の恒貞親王で、平穏に過ぎていたのですが、淳和・嵯峨上皇が次々と亡くなると、とうとう承和の変(842年)が起こりました。
 
 光仁・桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明の時代、政権の中枢にずっとい続けてた藤原氏ですが、意外とその間の歴代天皇の母親は、藤原氏の娘ではありませんでした。
藤原冬嗣の長女で良房の妹順子が、この道康親王を産んだので、なんとしても道康親王を次期天皇にしたかった藤原良房と橘嘉智子が、これも皇太子恒貞親王を次期天皇にしたかった伴健岑(トモノコワミネ)・橘逸勢(タチバナノハヤナリ)や、同じ藤原氏ではあるが競争相手であった藤原愛発(チカナリ)・藤原吉野(ヨシノ)をも含めて、謀反を企てたとして処罰したのが承和の変です。
 
 これによって、以後は良房の一人勝ち、藤原北家だけと嵯峨源氏が急速に台頭することに成りました。
 仁明天皇は子供の時から病弱であったようで、850年病により息子道康親王に譲位し、その2日後には40歳で亡くなり、この深草陵(フカクサノミササギ)(伏見区深草)に葬られました。


       返事
大雪男さん:日本でも紙が流せないトイレがあることを
    初めて知りました、そうか山ですか。
花水木さん:帰って来るのが決まってる旅行よりも、
    帰るかどうかわからない放浪が夢です。
Toi tenlabeeさん:結局のところ、
    日本のトイレットペーパーは上等だということですね。
     だけど、大便器横のホースが何かは誰も教えてくれませんよ。

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2020-01-23 16:07:40
文字が多い~そして画像が地味~
すみません。日々疲弊してる嫁は、これが苦手。
できれば、美味しそうなスイーツとか入れて貰えると
頑張って読めます。

今回多く登場した橘。
我が家の橘、今年は実が少ししか付かず。
そして、順子・・・と書いて、夫の従妹に二人。
一人はジュンコとそのまま読みますが、もう一人はヨリコと読みます。
これがおばあさんの実家の諸悪の根源。
語るも恐ろしい人物で、夫は他人と言い切ります。

ぁ・・・全く関係ない話ですみません。m(__)m
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