島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

55-1文徳天皇

2020-02-11 | 天皇陵巡り
 
 光仁・桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明と続いた歴代天皇の治世時代、藤原氏はその政治の中枢にはずっといましたが、この歴代天皇の母は藤原氏の出ではないので、外戚にはなれていません。
 写真は御陵に通じる、私にとってはなんとなく懐かしい参道入り口です。
 
 しかし827年に仁明天皇と藤原冬嗣の娘順子の間に第1皇子として道康親王(ミチヤスシンノウ)が産まれると、冬嗣はその時はもう死んでいましたが、順子の同母兄良房が、その後時の皇太子淳和天皇の皇子恒貞親王(ツネサダ)を廃して、16歳の道康親王を皇太子にたてました。
この陰謀が何度もこのブログで書いてる842年の承和の変です。
 参道は直角に曲がって拝所に続きます。
 
 850年父親の仁明天皇がその母橘嘉智子が何度も悶絶するなか亡くなると、道康親王は26歳で即位し、第55代文徳天皇(モントク)(827~858)(在位850~858)と成りました。
 即位数日後には良房の娘明子(アキラケイコ)との間に、第4皇子惟仁親王(コレヒトシンノウ)(後の清和天皇)が産まれています。
 
 文徳天皇には以前から紀名虎(キノナトラ)の娘静子(シズコ)との間に、第1皇子惟高親王(コレタカシンノウ)などをもうけており、惟高親王を皇太子にしたかったようですが、藤原良房に遠慮してか8ヵ月の惟仁親王を皇太子にしました。
 
 最後は遠慮が確執に変わっていき、32歳で没した時は、突然の発病と死が少々異常だったこともあって、生きてる間に早く外祖父になりたかった藤原良房による暗殺説もあるようです。
 
 文徳天皇は田村天皇とも呼ばれていて、田村陵(タムラノミササギ)(右京区太秦三尾町)が御陵に治定されていますが、写真の京都市内では最大級の前方後円墳で桂坂近くにある、昔から天皇陵と言われてた写真の天皇の杜古墳(テンノウノモリコフン)(西京区御陵塚ノ越町)が本当の文徳天皇陵だという説もあります。
 
 実は私はこの治定されてるほうの田村陵から500mぐらいしか離れてない場所で産まれています。
この辺の人は皆「ぶんとくさん・ぶんとくさん」と呼んでいた御陵です。
 終戦後4年、1歳未満の私が父母と叔母そして姉と一緒に近くの田村陵へ行った時の写真です。
この写真の場所がどこか田村陵の中を捜して見ましたが、それらしい場所は見つかりませんでした。
 もうだいぶ天皇陵巡りをしましたが、私が最初に行った天皇陵はこの文徳天皇陵である田村陵と言うことになります。

      返事
花水木さん:1円切手でよいのに、
    無いので62円はがきに2円切手を貼って出しています。
     タカアシガニは美味しいと以前ブログで書かれていませんか?
    見た目の驚きだけですか?
    でも、蟹は渡り蟹もモズク蟹も毛蟹も何でも美味しいですね。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お年玉付き年賀はがき | トップ | 55-2文徳天皇皇子惟高親王 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (花水木)
2020-02-11 15:06:13
あら~かわいらしい事。
昔の白黒写真は、何故か皆さん同じようなヘアスタイルに服装。丸眼鏡・・・、女性はサザエさん風。
お子様は、前髪揃えて、眉毛の上。

ほのぼのとした良い写真ですね。

今の皇室も、眞子様とか佳子様とか・・
なんだか今時ですね。
返信する

コメントを投稿

天皇陵巡り」カテゴリの最新記事