1912年(明治45年)に完成した楠原(クスハラ)天主堂、五島の天主堂としては珍しく福江島の中央、海から離れた場所に建っています。
天主堂と言うより楠原教会と言った方が言い易いですが、「教会」は共通の信仰によって形成される集団のことで、その「教会」の建築物が一般的に「教会堂」らしいです。
「ローマカトリックのアジア名は天主教、その建築物は天主堂になります」と、以前信者さんから説明されたことがあるので、五島の教会堂はほぼ天主堂になります。
ですから、「長崎の教会群を世界遺産に」と運動していますが、「長崎の天主堂群を世界遺産に」変えなくてはと、天邪鬼の私は思ってます。
それでも、天主堂と言うより教会の方が言い易い。
昭和41年の楠原天主堂の写真です。
昭和41年には私はもう高校生、天主堂の玄関のヤシの木はまだ2ⅿぐらいの高さしかありませんでした。
その後私はまったく背が伸びず、むしろ2~3㎝縮んだぐらいですが、ここのヤシの木は立派に育って、狛犬か左近の桜・右近の橘以上に教会によく似合っています。
窓の外から中をそっと撮らしてもらいました。
窓ガラス越しなので余計幻想的に、今にも神が降臨するような雰囲気です。
明治の初めにこの地であったキリシタン迫害で、牢屋として使われていた民家が老朽化し、解体されたものを集めて、平成8年にこんな小屋の中に復元されていました。
内部は明治の頃の民家一部です。
ここに入牢していたのは全部で69名、楠原や水ノ浦、それに少し離れたあの小さな島姫島の18人も含まれていました。
名簿の中には(名前の末は蔵・吉・助など)女性名は見当たりませんでした。
返事
花水木さん:カーナビの女性の声にも心ときめく老人です。
京都弁にしてくれたら、もっと現実感をもってときめくかも。
大雪男さん:確かに、カーナビはわざと狭い道を教える時がありますね。
和みさん:遊具はまだ古くなかったのに、
あの芝生広場はそんなに昔からあったのですね。
なんてね。
これが河内弁とかだったら浮「でしょうね。
ボケとかカスとか言われ唐キのかしら。
失礼しました。
教会よりも天主堂の方が趣きもあり、格調高い感じです。
大雪男さんのおっしゃる繁敷も存じません。 富江中学はその繁敷も校区内でした。 私の生まれ育った所から 富江の町まで3・5キロ 繁敷きはどれほど? 福江島のそんな奥にもひっそりと教会がるのですね。