内大臣三条公忠(キンタダ)(1324~1384)の娘であった藤原(三条)厳子(タカコ・イズコ)(1351~1407)は、20歳で緒仁親王(オヒト)(直後に北朝5代後円融天皇になる)(1359~1393)(在位1371~1382)に上臈女房(ジョウロウニョウボウ)(身分の高い女官)として仕えました。
前々回も訪問した親切なお寺の方がおられた華開院(ケカイイン)です。
写真横のくぐり戸から、おそるおそる入りました
厳子は1377年には後に北朝第6代及び第100代の後小松天皇になった皇子を産み、1381年には珪子内親王(1381~1399)も産んでいます。
華開院本堂左手の玄関であいさつして、右手のほうから墓地に回りました
夫後円融と3代将軍足利義満との関係は、天皇在位中も上皇になってからも最悪で、後円融はかなりすねてる状態にあったようです。
1383年に厳子が、出産後わずか20日足らずで里帰りから宮中に無理矢理戻され、義満との密通までも疑われて、刀の峰で殴られるという夫のDVにより、出血が止まらなくなって実家に逃げ帰る事件まであったようです。
華開院墓地では、塀に囲まれた立派な宮内庁治定の光照院宮墓地のほうが目につきますが、この塀の裏側に廻って塀越しに光照院宮墓地を見下ろした写真です。
肝心の厳子の墓は、この向こう側になります
この時は、姑である藤原仲子が中に入って、我が子後円融をなだめたりしていますので、お墓は制札も何故か無い小さなものですが、嫁と姑が仲良く同じところに眠っています。
この後厳子は宮中に戻らなかったことなどから、作家海音寺潮五郎さんは「後小松は義満の子ではないか」という説を唱えています。
万一そうであっても、後小松のその後の系統は今の天皇家には繋がっていないので、現在の皇統に義満の血は入ってはいません。
しかしながら怒られそうですが、男系で繋がっていると思われる家系でも、密通とかがあって、他の男子の血が入ってしまう危険性は必ず有るでしょうね。
皇后にはなってないので、後円融天皇後宮通用門院藤原厳子墓(上京区衛町華開院墓地内)です
返事
Toitennさん:Toitennさんの笑いのツボは、
どこか理解不能の時がありますね。
勉強いたします