島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

番外藤原基経の墓?

2020-04-15 | 天皇陵巡り番外
 
 新型コロナで、今朝の仕事も自粛中です。
 宇治の木幡(コハタ)にある許波多神社(コハタジンジャ)、645年に第35代皇極天皇が中臣鎌足に命じて、ここに社殿を造らせたという由緒正しい神社です。
 大化の改新の頃から、ここは藤原家と繋がっていたのです。
 
 境内にある「お休み石」、天武天皇が近江の大津京から吉野に逃げる時に、途中ここに腰かけて休んだので、その後の壬申の乱に勝利したそうです。
やけに新しそうな石ですが、ここに腰かけて願えば、勝運が授かるので、この神社は競馬の神様でもあるので、もちろん私は腰かけて祈りました。
しかし以後も競馬の勝運は寄ってきていません。
 
 伏見の施設の仕事の帰りにここに来たのは、石に腰かけるためではありません、この境内に宇治陵の36号陵があるからです。
しかしこの36号陵は、皇族ではなく藤原基経(フジワラノモトツネ)(836~891)の墓と言われています。
 
 そもそもこの宇治陵の治定自体が、藤原北家の墓か藤原北家ゆかりの皇后などの墓か判らないのを集めて、宇治陵として治定したようなので、なんか皇族とは思えないような人の墓を、宮内庁が管理してるのかもしれません。
 
 藤原鎌足→不比等→房前(フササキ)→真?マタテ)→内麻呂→冬嗣→良房→基経と続き、以後も時平・忠平から道長に至る、藤原北家全盛時代を築いた基経です。
 
 基経は、高潔な、なかなか良い人間の藤原長良(ナガラ)の三男として生まれましたが、時の権力者の叔父良房に見込まれ、その養子となりました。
清和・陽成・光孝・宇多と4代にわたり、ほぼ朝廷の実権を握り、ほぼ自分の思うとおりに政治や人事を動かして、実質上の関白になった人物です。
阿衡の紛議の時以外でも、気に入らないと政務をボイコットしたり、実の妹高子が反抗的だと毛嫌いしたり、なんか性格は悪い感じはします。
 
 木幡近辺には、藤原北家ゆかりの墓がたくさんあったそうですが、あの道長の墓さえはっきりしません。
現在も続いている皇室と藤原家の関係にしては、意外と墓は軽視されてるようですね。
 でも、鎌足ゆかりの神社境内にあるこの墓が、基経の墓なら、基経も喜んでいるでしょうね。

      返事
花水木さん:育休なんて考えられなかった世代、
    長男はたまたま王子動物園で初めて歩いたんで、
    よく憶えていますが、
    次男や娘はどうなって歩きだしたのか、
    あまり記憶がありませんね。
     三遊亭朝橘・ユーチューブで検索して、
    落語自由研究にたどり着けました。
    めちゃくちゃ面白かったですよ!!
    あまりの阿保らしさにくじけずに続けて下さいね。  
    私のブログもこれくらいの高みを目指したいと、常々思ってます。

コメント (2)
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