島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

54-2仁明天皇女御尊称太皇太后順子

2020-01-26 | 天皇陵巡り
 
 藤原冬嗣(~826)と藤原美都子(ミツコ)との間には、長良(ナガラ)・良房(ヨシフサ)(804~872)・順子・良相(ヨシミ)と、そうそうたる子供が産まれています。
 この藤原順子(フジワラノノブコ)(809~871)が、後々に仁明天皇となる正良親王との間に道康親王(ミチヤス)(827~858)(後の文徳天皇)を産んだのは、父冬嗣が亡くなって1年後でした。
 
 夫が第54代仁明天皇となり、子が兄たちの強力な後押しで第55代文徳天皇と、孫が第56代清和天皇となったので、女御→皇太夫人→皇太后→太皇太后となりました。
 
 順子は情け深く容姿端麗だったと言われ、夫や息子にも先立たれていますので、孫の清和天皇や姪でもあり嫁でもある藤原明子を助け、五条后と呼ばれていましたが、最後は出家して、この後山階陵(ノチノヤマシナノミササギ)(山科区御陵沢ノ川町)に葬られています。
 
 この御陵、山科駅から北へ少し行かねばならない山の奥にありました。
近くに天智天皇陵は有りますが、藤原家ゆかりの皇后が何故こんな所に御陵を持つのか不思議ですが、近くにある安祥寺(アンショウジ)が順子の厚い庇護を受けていたためかもしれません。
またこの近くに古代製鉄のたたら遺跡もあることを知りましたが、これとは関係ないでしょうね。

     返事
花水木さん:すみません!
    地味な面白みのない天皇陵巡りですが、ここまで来て止めるわけにはいかないので、
    (また島に赴任でもしたら別ですが)(まずありませんが)続けます。
     今回の順子さんは、それ程悪い人ではないですが、
    短くはまとめておきました。
    

コメント (1)
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