先週の日曜日3月22日は、朝からもやがかかったような日、PM2.5はなんと福江島で105を記録。
PM2.5上限の35以上になったこともあまりなかったですが、一挙に3倍の105、北京(行ったことないですが)の様な感じです。
当直明けで少し眠たかったが、朝に又椿園に行って見ると、椿の木々の間は気持ち良かったですが、真近くの鬼岳もかすんでいました。
昼食べて午後は、五島観光歴史館主催の史跡巡り、
=奥浦地区の歴史散策=
~五島キリシタン史と奥浦~ に夫婦で参加。
福江島の北東部にある奥浦地区を、バスで廻って説明してくれます。
ほぼ老人ばかりの30人ほど、会費は1000円でした。
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が来年は世界遺産に登録されると思うので、もう一度五島のキリシタン史を学びます。
説明や資料で、やっと概略がつかめたような気もしたかな?
理科系の人間にしては説明文が下手で、ちょっと読みにくい文になりましたが、堪忍してもらって読んで下さい。
「いごよく(1549)ひろまるキリスト教」と憶えた、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教が伝わった1549年からわずか17年後の1566年、信長が着々と天下統一を進めていたころに、イエズス会宣教師アルメイダが五島藩主の要請で、早くも福江島を訪れキリスト教が広まったようです。
その後1587年の秀吉の禁教令、1614年の徳川幕府による禁教令もあって、福江のキリスト教も一旦は壊滅しました。
ここまでが五島の前期キリシタン史になるそうです。
その200年後、五島藩主は開拓民を受け入れて領土を豊かにしようと、長崎の大村藩に農民の移住を依頼。
大村藩では、人口増加の人減らしと、潜伏キリシタンの処遇がいっぺんに片付くと、両藩の利害が一致しました。
1797年、福江市街北東の六方(ムカタ)の浜に、108人の長崎の西海岸沿いの外海(ソトメ)の農民が上陸、奥浦地区に移住していったそうです。
案内して説明してくれた奥浦木ノ口地区の木口さんは、この人たちの末裔で、家の裏山で最近発掘されたキリシタン墓地には、こんな十字架の付いた石がころがっていました。
木口さんの家からは長崎外海地区しかない、この温石石(オンジャクイシ)も見つかりました。
外海の人はこの石を石垣などにも利用しましたが、船の上で煮炊きをする時のかまどとしたり、船の安定を保つ重りとしても使用するほか、潜伏キリシタンにとっては信仰と結びついた石だったそうです。
だからわざわざこんな大石を舟に積んで外海から運んできたようです。
最初の頃の移住者は、1年間の年貢免除などの優遇を受けたようで、
「五島へ五島へと皆行きたがる 五島はやさしや土地までも」
とうたいましたが、
その後五島藩の要請1000人に対して、3000人もが移住したため、
「五島極楽、来てみりゃ地獄 二度と行くまい五島ヶ島」と、
更に福江島の奥地や、上五島などの五島列島の他の島へと散らばって、江戸時代の残り70年ぐらいを潜伏キリシタンとして過ごしました。
その後1873年(明治6年)に信仰の自由が得られてからは、五島の隠れキリシタンは、
1.カトリックに復帰する者
2.潜伏のまま(表向きは神道)隠れキリシタンとして生きる者
3.仏教などの他の信仰に替わる者。
に別れていったそうです。
返事
花水木さん:女の人は愛にどん欲ですね。
かなり愛されているのに、愛に縁が薄いと言う人多いです。
綾部のとしちゃん:綾部と福江なら、福江の方が都会かも?
大雪男さん:モスバーガーは注文してから作るので、
待たされますが、五島に来てから船を待つことに慣れたので、
私は待てる人間になりつつあります。