西都モノクローム

西都大好きな市議会議員が、徒然なるままに街のこと、写真のこと、空手のこと語ります。

軍艦島

2010-10-24 21:42:10 | 日記
名古屋から西都に帰ってきて青年会議所(JC)という組織に所属しました。
JCはどこからも補助金をもらわず、自分たちの年会費(一人11万円ぐらい)を運営費としていろいろな事業を行っていました。
最大の特徴は、どこからの援助も受けていないので、どこからの縛り(しがらみ)無く事業が行えたことです、志を同じくするものどうしが討議し、承認し、そして互いに協力してながら事業を組んでいく自由さと達成感は、さらなる行動へのエネルギーになり、自分の血となり身となりました。
この経験は今の議員活動のための良い経験となっています。
そのころ日本JCは「もったいない運動」を展開していました(多分1993-1994年ぐらいだったと思います)、それは世界中を巡り「MOTTAINAI」として、何年か後に日本に戻ってきてブームとなりました。

さて何が言いたいかというと、仕事にJCに(家庭を顧みず)がんばっていた僕たち若者の息抜きはお酒を飲ませてくれるところです。
何軒かいきつけが出来ます、その中の一軒に僕と同じくらいの年のママさんがいました。
年も近いし良く皆といっていました。
暇なときはママさんもお酒を飲みます。
客が入らないとママさんもついつい飲み過ぎて、昔話しになりました。
「toshiroさん、私の生まれ育ったのは長崎の端島なの、みんなは軍艦島と言っているけど・・。もう誰もいなくなった島なのね、もうだいぶん見ていないな、長崎にも帰ってないし・・。懐かしいな、ホント狭い島だったけど、子供達がいっぱいいて、大人達も優しかったし・・楽しかったな・・。台風の時は島を包むくらい波がきて、子供だったからそう思ったのかもしれないけど・・帰ってみたいな・・懐かしいな・・」
お酒でトローンとして、子供の頃を思い出すように話しをしてくれました。

その軍艦島にツアーで行ってきました。
あいにく天候が悪く、小さな船は縦に横に揺れています。

そんな中、軍艦島が海の向こうに見えてきました、1960年の最盛期には5267名住民がいました。5267のいろんな生活があり、いろんな人生がありました。その中には先の子供の頃のママさんもいました。今は閉山して、社会から捨てられ、朽ち果てようとしているその島をそんなこと考えながら見ていました。

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