アナーキー小池の反体制日記

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#571 勤め人時代(36)機構改革

2010年12月19日 | 勤め人時代
市役所に勤めて30数年、機構改革の名の下に随分と部・課・係が変わりました。
時代の流れもありましょうが、この間、機構が大きく膨張し、その後収縮しました。
度重なる変遷に市民のみならず、職員でさえ戸惑ったものです。
このシリーズを記してみて、時代とともに同じ仕事で部や課や係名が変わっていったことを再認識しました。
係などは今はもうなくなり、スタッフ制になったほどです。

建設関係を主に、記憶の残っている範囲で変遷を綴りたいと思います。(記憶違いがありそうですがお許しください。)
このマチは昭和40年代に部が出来たのだと思います。
その前は課が一番上で、職員の中で課長が一番えらかったのです。
町村の大半はいまも課が一番上で、小さな市もそんなところがあります。
最初、建設関係は独自の部を持たず経済部の中の一つの課としての存在でした。
建設課(都市計画課といったのかもしれません。)と水道課があったのでしょうか。
昭和40年代後半、ボクがまだ勤める前ですが建設部と水道部が独立しました。
ボクが勤め始めの昭和49年に建設部は土木課、都市計画課、建築住宅課の3課でしたが、間もなく都市計画課から下水道課が独立し、同じく土木課から開発課が独立し5課体制となりました。

平成のはじめ、今度は建設部が土木部と都市住宅部の二つに分かれ、水道部とあわせると3部の体制となりました。
土木部には土木課と開発課、都市住宅部には都市計画課、下水道課、みどり対策課それに建築住宅課の4課になりました。(もしかして下水道課は水道部に入り、水道部は上下水道部となったのかもしれません。)
全国的には景気が翳り始めていたこの時期、なぜこのような膨張型の機構に変えたのか解りませんが、この時代の市長がみどり(緑)好きだったのが一番の要因だったのかもしれません。
公園や街路樹など緑に係わるものを、みどり対策課に集めました。

そんな体制が10年ほど続いたでしょうか?
平成10年代前半、今度は機構の大幅な縮小です。
3部に膨れ上がった建設関係を大昔の1部にしてしまったのですから、大胆といいますか思慮不足の結果といいますか、無定見さを露呈させました。
そして、建築住宅課を除く建設部の土木部門を計画、建設、維持の3課に分けました。
国、道の縦割りをそっくり真似をしていた以前の体制を大転換したのです。
その数年後、今度は土木部門3課を土木課の1課にまとめてしまい、建設部は土木課と建築住宅課の2課体制になってしまいました。
昭和40年代半ばの体制に戻ったのです。(上水道部門は近隣市町との一部事務組合に統合されました。)
そのうちに建設部は経済部に吸収され、無くなってしまうのかも知れませんし、人口減が進んでいますので部制度の維持が出来なくなっちゃうのかもしれません。

機構"改革"というより革命のような激変の時代を、当事者の勤め人として体現しました。
次回からは平成10年の機構改革で建設課が新設され、20年ぶりで2回目の公園を担当することになりましたのでこの仕事についてです。
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