ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



物事って、いいか悪いか、好きかキライか、だよね。そうしないと、判断ってできないじゃない。でも、私のまわりって、キライなことだらけなんだよね。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いままでに宗教的な本を読んだことのある方は、ずいぶんいるでしょう。そうした本のなかには、善い心・悪い心、善い念い・悪い念い、善い行動・悪い行動──こうしたことが説かれていて、善悪二元的にものごとを考えていく傾向が多かったのではないかと思います。
 宗教では、人間について語るときでも、「この人は善い人か悪い人か」「地上を去ったあとは、天国へ行くか地獄へ行くか」というように、すべて二分法的に考えていく傾向があります。特に、霊的なものに強く惹かれるタイプの人は、善悪を感じやすいため、とかく善悪二元論的にものごとを考えてしまうのです。そして、善悪二元的にものごとを考えた場合には、たいてい、〝色分け″の考え方をしていきます。すべての人や事物、環境などに関して、善か悪か、どちらかに色分けをしないと、気がすまなくなってくるのです。
 しかし、そのようにものごとを見てしまうと、そこには大きな可能性があったにもかかわらず、それを捨てていくおそれがあるということです。まことに惜しいことです。
 たとえば、宇宙人が円盤に乗って、はるかなる星からやって来て、梅雨の時期の地球に着陸したとしましょう。そして、円盤から出た宇宙人が、「この地球という星は、来てはみたが、何だか知らないがザーザーと雨ばかり降っている。実におもしろくない星である。こんな星からは、早く立ち去ってしまいたい」と考えたとしたならば、可能性の広がる余地はそれまでだと思います。地球の可能性に関しても、自分の活動の可能性に関しても、それで終わりです。
 しかしながら、地球では、雨が降ることもあるが、もちろん晴れることもあるわけです。そうしたことに気がつくかどうかです。そして、カラッと晴れ上がってみると、「この地球という星も、けっこう住みよいのではないか」と思えることがあるでしょう。
 ところが、最初に来た日に雨が降っていたため、「ああ、こんな星はだめだ。こんな所はだめだ」と決めつけたならば、それ以上の可能性はないのです。自分の決めつけで、可能性を放棄してしまうことになり、そして、次なる星をめざしてまた宇宙空間を漂わなければならなくなります。これは非常な徒労です。(中略)
 宇宙人のたとえで語りましたが、みなさん自身も、実は同じようなことをしているのです。(中略)
 ここにおいて大事なことは、一つには、発想の転回、すなわち新たな発想を持つことです。別な視点がないかどうかを、常に考えてみる必要があります。もう一つは、努力や工夫といわれるものの存在です。ここのところが、きわめて大事なのです。
(72~76ページ)

この世のものごとは、善か悪か、白か黒かというふうに、二元的に分けられるものではない。

そういう発想をしていると、そこにあったはずの大きな可能性を捨てているおそれがある

大事なことは、新たな発想を持ち、別な視点がないかを常に考えること。努力や工夫をしてみること──。

では、具体的には、どうしたらいいのでしょうか。

それが、この最後のところでちょっとだけご紹介した「光明転回の理論」であるわけです。

その詳しい続きは、ぜひ、本書『常勝思考』を手にとってみていただけたらと私は思っているのです。

 

『常勝思考』

 大川隆法著

 

↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




子供を産んで育てるって、大変だよね。親として決断しなきゃだよね。だから、堕胎って、許されるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 泣きながら生まれてくるのは不思議な感じがします。人は、喜び、笑いながら生まれてきてもよいのに、なぜか泣きながら生まれてきます。
 実は、十月十日、お母さんのおなかのなかにずうっといて、真っ暗ななかで、この世に生まれてくるときを待っていた、その孤独な悲しみ、「無事に生まれることができるだろうか」という不安や恐怖心、それらから解き放たれた喜びが、泣き声になって表れてくるのです。
 母胎のなかにいるときだけでなく、天上界で親子の約束をし、母胎に宿る前に、生まれ変わるための準備をしているときにも、無事に生まれることができるかどうか心配です。
 特に、現代の日本のように、いわゆる堕胎(人工妊娠中絶)の多い国では、親子の約束があっても、母胎に宿ってみたら、親が子供を堕ろしたくなる場合もあるので、実際に生まれられるかどうかが、なかなか分かりません。
 お母さんが、「妊娠したけれども、私は仕事を持っているから堕ろしたい」と言い出したり、お父さんが、「子供は要らない」と言ったりして、堕ろされてしまうことがあるのです。子供の魂のほうは、「そんなばかな」と言っているのですが、聞いてはもらえません。
 日本には昔から間引きの習慣があるため、母親は胎児を自分の臓器の一部のように思っていることが多いのです。そのため、「胎児を捨てる」ということについて、それほど重大なこととは考えず、罪悪感もあまりないのでしょう。
 その意味では、少子化による人口減少も、ほとんど堕胎の問題であり、調整は可能だと思います。
 堕胎によって、そのあと人生の混乱が数多く起きているので、ほんとうに困っています。
 どうしてもしかたのない場合はあるでしょうが、愛し合っているカップルのあいだにできた子供であるならば、できるだけ生んで、育ててあげていただきたいと思います。
 いまは、「子供一人を育てるのに、最低でも一千万円から二千万円の費用がかかる」と言われていますが、それくらいは何とかできない額ではありません。愛し合っている者同士のあいだにできた子供であれば、なるべく生んでいただきたいし、生まれてくる子供のほうも、そういう気持ちでいるのです。
(23~25ページ)

子供のほうは、天上界で母胎に宿る前も、宿ってからも、実際に生まれられるかどうか非常に心配している。

母親のほうは堕胎にあまり罪悪感もないことが多いが、例外はあるにしても、愛し合っているカップルにできた子供であるならば、できるだけ生んで育ててあげていただきたい。

少子化による人口減少も、ほとんど堕胎の問題であり、調整は可能である──。

これはつまり、堕胎(人口妊娠中絶)がとても安易になされているが、これを思い止まる人が増えるだけで、少子化による人口減少の問題は解決する、という意味なんだと思います。

そのためには、政治家が活躍して、子供を何人か持っても生活ができるような社会にしていかなければならないというようなことが、別に考えられる必要はあるだろうと思います。

それはそれとして、今日は、霊天上界から、生まれて来る子供たちからの視点から、生まれて来る不安、堕胎の問題について説かれている一節を、ご紹介してみました。

こんな典型的に社会問題として扱われているような問題も、こんなふうに仏法真理に基づく霊的真実をしっかり押さえた上でないと、正しい政策の選択はできないことを、今日は学ぶことができた気が私はしているのです。

 

『霊界散歩』

 大川隆法著

 


↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




肉体には、霊体が入ってるんでしょ。その二つのうち、どっちが大事なの。当然、霊体の方が本体なんだから大事なんだよね? なーんて考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 さらに、中道(ちゅうどう)思想の実践として大事な考え方に入っていきたいと思います。それは「霊肉の調和」ということなのです。これが、実はいちばん大切なことでもあるのです。
 極端な思想として、「人間は肉体や物質だけの世界に住んでおり、自分自身もそこに属するものである」という考えがあります。「物質世界こそがすべてである」という唯物論の見解です。
 あるいは、「空」の思想や「無」の思想が行きすぎて、宗教的人格ではありながら、この世を捨てることのみに汲々として、結局、虚無主義、ニヒリズムに陥って、現世をいっさい否定しているような人もいます。
 そういう方が存在することは事実ですけれども、もし、すべての人間がそのようになったとしたら、この地上界は決して天国になることはありません。この地上界そのものが地獄になるはずです。すべての人が逃避のみを考えていくような世の中を考えてみたら、それもまた、ありうべき世の中ではありません。
 霊的な世界が現実にあるとしても、この世を完全に否定し去り、そして逃避のみを考える人間の山になっては、またいけないのです。霊的なものの見方と物質的なものの見方は、ともに極端な見方であり、私たちが地上に生きている限りは、この両方を完全に捨て去っては、生きていくことはできないのです。その霊肉をよく見据えながら、バランスをとって生きていくことが大事です。
 これを、「色心不二(しきしんふに)」という言葉でいうこともあります。「色(しき)」というのは肉体のことで、「肉体と精神は不二一体である。二つに完全に分離することはできない」という意味にとれます。
(189~191ページ)

「中道」というのは、「左右の両極端を去って、そこに現われる中(なか)なる道」のこと。

これを実践するとき、いちばん大切なのが、「霊肉を調和」なのだ。

霊体も肉体も、どちらも大切なのであって、そのバランスをとって生きていくことなのだ──。

では、そのためには、具体的にどう生きていけばいいんでしょうか。

この先に、そのさらに大事な内容が説かれているんですけれど、この続きは、また次の機会に! 


『心の挑戦』

 大川隆法著

 


↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




絶対あの人が悪いとかいう思いが出てくるの、止められないんだ。どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 物事をしつこく考える粘着型の性格の人は、こだわりすぎるきらいがあるので、反省に入る前に、もっとあっさりした性格になる必要があります。(中略)
 しつこくて恨みがましいタイプというのは、はっきり言えば、〝化けて出る〟タイプなのです。
 したがって、自分はそうした傾向が強いと思う人は、「もっとあっさりしよう。さばけた目でみよう」という努力をしてみてください。一年ぐらい努力すると、わりと簡単に、さばさばとしたものの見方ができるようになります。
 いつも同じことにこだわっている自分に気づいたときには、「これについては少し考えすぎだ。考える時間が長すぎる。これについて考えるのをいったんやめて、暇なときにでもまた考えよう」と思い、こだわっている事柄を少し脇に置いて、より積極的なことを考える訓練をしてみてください。
 そうすると、しだいにあっさりした性格になっていきます。
 あっさりしたものの考え方ができる人は、たとえ失敗などがあっても、立ち直りがわりと早いのです。立ち直れば、また歩きはじめることができます。(中略)
 こだわっている時間を短縮していけば、暗い人生を生きなくてもよくなると思います。自分が間違ったときには、さばさばとした気持ちで、「すみませんでした。私の間違いでした。以後、気をつけます。今後はこのようにします」と言ってしまえば、ほんの数秒で終わることなのです。
(91~94ページ)

物事にこだわっている自分に気づいたときには、もっとあっさりした性格、さっぱりした性格になるよう努力すること。

こだわっている事柄を少し脇に置いて、より積極的なことを考える訓練をすること。

自分が間違ったときには、さっさと率直に謝ってしまえばいいのだと考えること──。

あっさりした考え方ができるようになれば、失敗からの立ち直りも早くなる。

こだわっている時間を短縮していけば、暗い人生を生きなくてもよくなる。

今日もまた人生の達人に、幸せな生き方の大切なコツを教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著



↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




国ごとに違う霊系団が、人々を指導してるっていうんでしょ。どの神様が一番か、すぐに分からないものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教界にもいちおう覇権競争があり、「どの教えが多くの人に支持されるか。どの教えが多くの人を幸福にするか」ということについて、それぞれの神々には、「自分たちが最高だ」とうぬぼれているところがあります。そして、実際にどうなのかということは、実験してみないと分からないのです。
 しかも、その実験は、何百年も行わないと、なかなか結果が出ません。何百年もやってみて、その宗教を信じる人たちが、どのような運命をたどるかを見れば、だいたい分かってくるのですが、一世代ぐらいでは、なかなか分からないのです。
 たとえば、ユダヤの神は、「われこそは最高神だ」と言って、ユダヤ人に契約を結ばせましたが、ここ二千年間のユダヤ人の放浪の歴史を見れば、ユダヤの神がいちばん偉い神でないことは明らかです。いちばん偉い神がついている民族が、国を持てずに二千年も放浪するわけはないのです。
 ユダヤの神は間違いなく民族神であり、ナンバーワンの神ではありません。ほかに、もっと偉い神や強い神、メジャーな神がいたことは明らかです。それは歴史を見れば分かります。
 ある国を治めている神の意識と、その国民、民族のトータルの能力や意識とは非常に関係しており、国民のレベルが上がると神の格も上がるのですが、国が目茶苦茶になると神の格も下がるのです。
 最悪なのは、治めていた国が戦争等によって滅びた場合です。そのときには、その霊団そのものがなくなってしまうことがあります。国がないと、治めることも地上に生まれることもできません。そのため、そこで霊団をつくっていた神々は、しばらくすると、ほかの国に生まれはじめます。また新たな転生輪廻をして、違う道を選ばなければならないのです。
 こういうことは、過去、何度もありました。国が滅びると、そこを治めていた神々は、ほかの所に肉体を持って転生し、別のことを始めます。そして、別の霊系団ができてくるのです。
 かつては交通の便が悪かったので、一つの国、一つの民族のなかでの転生輪廻が数多く行われました。そのため、宗教と民族とがかかわって、その国の霊界、一つの霊界が非常にできやすく、オリンポスの山のような霊界が各地にいろいろあったのです。
 しかし、最近は交通の便がよく、国際的な行き来も多いため、この世だけでなく、あの世でも相互交流が始まっていて、「神々の世界で、どういう新たな価値秩序をつくるべきか」という大きな運動が起きています。
(104~107ページ)

同じ「神さま」という言葉で呼ばれてはいても、レベルの異なったさまざまな性格の神さまの集団(霊系団)が、霊界には存在している。

この神さまの世界にも覇権競争があって、どの霊系団の神さまの教えが優れているかを競っている。

昔は、それぞれの国の民族神(霊系団)が、いわば「お山の大将」のようにしていることができたけれど、この世が国際社会になってきたのに連動して、霊界でも相互交流が始まっている──。

そんな中、主エル・カンターレに導かれて新しく登場した幸福の科学は、あの世の世界で、新しい霊界秩序を作ろうとしている。

そして、霊界と連動しているこの世の世界においても、それだけのもの、つまりは新たな世界宗教を作ろうとしている。

そんな壮大な霊界観、宗教観がここでは説かれているのだと私は思っているのです。

 

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




あーあ、どうしていいか分からないんだよね。あのとき、ああしてれば、こんなことにならなかったのにね。しがらみもいっぱいあって、ああだこうだ悩んでしまって、こうしようって、なかなか決められないんだ…。 なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 さて、次は一歩を踏み出すことです。やるぞと思い、そして工夫をこらして、そして現実に、問題とぶつかってゆくことです。現実に、新たな展開をしていくことです。現実に、何らかの形を作り出していくことです。これがだいじだと言えましょう。
 「決然として立つ」瞬間は、どなたの人生においても、かならず一度はなければならない瞬間であると思います。もしみずからの過去をふり返って、決然として立つという、そういう機会がなかったとするならば、それはみじめな人生であったと言わざるを得ません。
 決然として立つときに、そこに光がほとばしります。決然として立つときに、そこに勇気がほとばしります。決然として立つときに、あらゆる難問が解決されてゆくのです。
 多くの人は悩みのなかに置かれているけれども、それは霊的な目で見たら、まるで小人の国につかまったガリバーの姿であるように、私には思えるのです。小人たちが、横たわっているガリバーに鎖をかけ、そしていろんなもので、杭を打ったりして、縄でしばっているわけですが、これなどはガリバーが本気になれば、チェーンであろうが、縄であろうが、あるいはその縄に縛りつけられている杭であろうが、このようなものを振りほどいて立ち上がることはできるはずです。決然としてガリバーが立ったときに、小人たちは逃げ惑うはずなのです。そうではないですか。
 自分が巨人であることを忘れ、ちいさな小人たちに縛られていると錯覚している。そんなことであっていいはずはありません。いざ右手を上げ、左手を上げ、足を上げ、腰を上げて立ち上がることです。それがだいじです。みずからを縛りつけているチェーンを切ること、みずからを縛りつけている縄をほどくこと、そして決然として立ち上がること。それが人生のなかにおいて、大いなる問題を解決していくための鍵となるのです。
 そのような事をしないで逃げ惑っていても、けっして道は開けないのです。とくに、私が言っておきたいことは、他人任せの人生というのは危ういということなのです。人の助けばかりを求めている人生は危ういのです。
 決然として、立つべきときには立って、問題をみずから解決していこうとするカがなくて、どうしますか。砕氷船の如く、氷を割って進もうとしないでどうしますか。立ち往生しているうちに、船は氷で固められてゆきます。そんなことではいけない。決然として前に進んで、氷を砕いてゆきなさい。そうでなければ、いったいだれがあなたがたを、この世の悩みから脱出させることができるでしょうか。
 決然として立ち上がり、行為をするときに、その人は後光につつまれ、天上界の天使たちも大いに喜んでいます。過去をふり返る心、過去に縛られる心、過去に執われる心、それを今、決然としてふり払って、新たな第一歩を踏み出していくことがだいじです。
(121~123ページ)

決然として立て。

決然と、立つべきときには立って、問題をみずから解決していこうと決意せよ。

一歩を踏み出せ。問題にぶつかってゆけ──。

光がほとばしる仏の言葉に、勇気が、出てきませんか?

今日は、この仏の言魂をしみじみと味わってみたいを私は思っているのです。 

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




仏教って、教えが多すぎて、よくわかんないよ。要するに、教えの核の部分を取り出したら、何が大事なの? なーんて要領のいい疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」という言葉があります。要するに、上に向かっては悟りを限りなく求め(上求菩提)、下に向かっては一人でも多くの人を救おう(教化しよう)とする(下化衆生)ということです。仏教の根本精神はここに尽きているわけです。
 このなかの「上求菩提」、悟りを求めていこうとするところに小乗仏教の中心概念があるわけです。悟りを求めていこうとしたら、どうしても世間に関わってはいられなくなり、結局は出家者として修行するしかないという流れがあります。
 それから「下化衆生」、人びとを救っていこうとしたら、もうそんな戒律だとか何とかと言ってはいられません。人びとと一緒になって救っていかなければいけなくなります。あるいは、一人でも多くの人に宗教心を起こさせなければいけなくなります。そうすると、釈迦がたとえ八万四千の教えを説いたとしても、「そんなことはどうでもいい。『南無阿弥陀仏』だけでもいい。『法華経』を持っているだけでもいい」と、そういう簡単なところにまで落としていってでも、人びとに法縁をつけなければいけない──「下化衆生」を極端に進めると、そこまでいくわけです。
 この両方を、過去の仏教は経験したわけです。そして今、かなり生命を失った状況まできていると思います。
 ですから、本来の趣旨に立ち返ってみると、私たちがしなければならないことは、はっきりしているのです。「上求菩提・下化衆生」なのです。
 人間は安易な方向に流れていきますから、どちらか一方に走りたがります。方向性が一定だと楽なのです。
 「上求菩提」というと、「ああ、そうか。悟りを求めたらいいのか。それでは、世間のことは、一切、断ち切って、山のなかに籠もって修行に打ち込もう」となります。これはある意味では楽なのですが、この世に対する責任を放棄しています。(中略)
 逆に、「下化衆生」も結構ですが、お坊さんが、一生懸命、商売に励んで俗化している姿が、あちらにもこちらにも見受けられます。本来の教えそのものを放棄して、教学もせず、修行もしない生臭坊主が横行していることも多いです。(中略)
 私たちがしなければいけないことは、結局、この矛盾する方向性を統一すべく精進するしかない、矛盾にひるまず、この統一性をあくまでも追求する姿勢を忘れてはいけない、ということです。
 すなわち、あくまでも悟りを求める集団でありながら、同時に人びとを一人でも多く救っていきたいと願う集団でなければいけないのです。これは根本の仏教のなかに、もともとあるものであって、どちらか一方でよいというものではないのです。
 そこで、どうすればよいかというと、修行者としては、やはり自分には厳しい態度が必要です。要するに、修行する心、悟りを求めていく態度において自分には厳しく、ということです。同時に、人を救うわけですから、他人に対して優しくあらねばなりません。「自分には厳しく、人には優しく寛容に」という態度が、「上求菩提・下化衆生」の態度だと思うのです。
(87~90ページ)

仏教精神を核にした幸福の科学の教えを信じる人には、「上求菩提・下化衆生」の精神が必要である。

あくまでも悟りを求める集団でありながら、同時に人びとを一人でも多く救っていきたいと願う集団の一人であること。

「自分には厳しく、人には優しく寛容に」という態度が常に求められている──。

仏教の教えの核心といっても、仏教の教えはあまりに広大すぎて、どの角度からどう迫るかでとらえ方も異なってしまうんだと思います。

しかし、大川隆法先生は、小乗仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)の流れなどを詳細に解説された上で、2500年続いてきた「仏教の根本精神」がどこにあるのかを、こんな形で、とてもわかりやすく私たちに説いて下さっています。

これはとてもありがたく尊いことではないでしょうか。

再誕の仏陀(生まれ変わった釈尊)であるからこその教えであるのだと、改めて深く私は感じているのです。
 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




なんだかんだ言ったって、不況だよね。銀行の利子なんて、つかないも同然だけど、株価も下がってるし、証券投資もねえ。今の時代、たんす預金にしとくしかないのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 今後、失業者が増えてくると、それとの兼ね合いで、転職の速度がもう少し速くなっていくでしょう。(中略)
 転職のスピードが非常に速くなってくると、人の値段というものが明確化してきます。人の値段がどの程度のものかということは、これまでは業種によって違っていましたが、それが業種を超えてはっきりしてきます。「どういう技能を持っていると、どういう値段が付くのか」ということがはっきりしてくるのです。(中略)
 今後、そうした厳しい時代にはなりますが、ある意味では、個人個人の能力の測定、そして、その能力に基づく人の値段、仕事に対する値段の測定というものが、非常に明確になる時代がやってくるのです。
 その意味で、自己投資、自分に対する投資というものが本格化する時代、自分の能力を磨くということに対して、非常に高い価値を得られる時代が、これからやってくるであろうと思います。
 現在は不況で、「銀行にお金を預けても、利子が非常に少ないので、全然もうからない。証券会社も危ないので、証券にも投資できない」ということも多いでしょうし、「銀行がつぶれるといけないので、〝たんす預金〟をしようか」と考える人もかなりいることでしょう。
 こういう不況の時代において、最も効果的な投資は何かというと、やはり人的投資なのです。自己投資がいちばん効果を生むのです。
 やがて景気はよくなっていくでしょうから、そのときに利子を生むようなものに投資をしておかなければいけません。
 いま、銀行に預金しても、利息はスズメの涙ほどしかなく、零コンマ何パーセントというような低いものにしかなりません。しかし、自己投資の場合はどうでしょうか。
 たとえば、自己啓発のために百万円を投資したとします。それが将来的に、新しい職業への道を開いたり、昇進速度を速めたり、もっと給料のよい会社への転職を可能にしたりする自己資本になった場合には、この百万円の価値は何倍にもなっていきます。
 そのように、自己投資は、銀行の預金利息よりもはるかに大きな値打ちを生むわけです。
 したがって、不況のときに消費を起こすのであれば、教育、学習関連など、自分の啓発用に使うのがよいと思います。(中略)
 自己啓発以外には、自分に家族があり、子供がいる場合であれば、子供の教育等に費用をかけるのも、投資効果としては非常に高いものがあります。
 いずれにしても、不況と思われる時期は、そう短くはなく、もうしばらく続いていくと思います。その間、働く気が起きなくなったり、あるいは、何とも言えない、うらぶれた感じが街にあふれたりするかもしれませんが、その期間を強く耐え抜いて生きた人のみが、次の時代のスターになっていくのです。
(226~230ページ)

こういう不況の時代で、最も効果的な投資は何かというと、やはり人的投資。

自己啓発のための投資や、子供の教育への投資が、いちばん効果を生む──。

この『常勝の法』は、2002年に刊行された書籍です。

それからなんと18年の月日がたっていますが、このお教えは、古くなるどころか、ますます輝きを増している気がします。

仏法真理が真理であることの凄さというのは、時間がたてばたつほど際立つものであることを、改めて思い知った気が私はしているのです。

 

『常勝の法』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「人を生かす」って、頭では分かるんだけど、でもどうやればできるようになるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人を生かすというのは難しいことです。これには究極がなかなかありません。一対一で他の人を導くこと、その人にやさしくすることは、努力すればある程度は可能ですが、多くの人を導く場合には、指導力に上限はありません。
 いくら力があっても、なかなかすべての人を導いていくことはできないというのが、人間の真実の姿だと思います。
 他の人びとを生かしていくために必要なものは二つあります。
 一つは知力、あるいは知識です。頭がよいというか、いろいろなことを考えられるということです。
 「どうすれば、その人がよくなっていくか」を考えるためには、それだけの材料が必要です。そして、「その材料をどう使えば、どのようになるのか」という原因・結果が見えなければいけないのです。
 「こうすれば、その人はこうなる」「こうした教えを説けば、このような反応がある」「こうした努力をすると、このような結果になる」などという原因・結果のプロセスが見えないと、人を正しく導くことは難しいのです。
 それゆえに、幸福の科学で説いている「知」は、実は「原因・結果のプロセスを見抜く力」と言ってもよいでしょう。「こうした種をまけば、こうした実ができる」という関係を知ることが大事なのです。
 これは、書物を読んだり、いろいろなものを見聞することによって得られますが、こうした知識以外に、もう一つ大切なのは経験です。経験によっても、人間は知ることがあるのです。
 もちろん、経験は試行錯誤的になることがよくあります。最初は失敗が多く、「このやり方ではうまくいかない」ということを確認するにすぎない場合もあります。
 しかし、人間の考えることや行なうことには、ある程度のパターンがあり、その数は限られているため、いろいろなことを経験することによって、「こうした状況に置かれると、人間はこのようなことをする」ということが分かるようになります。経験を積むことで、他の人を導けるようになるのです。(中略)
 これ以外に方法があるとすれば、知識や経験を持っている人を、自分のアドバイザーとすることです。これが三番目の道です。自分には知識も経験もないならば、そうしたものを持っている人の力を借りるのです。
 それには、まず、知識や経験を持った人が援助してくれるような人間にならなければなりません。その原点は、素直な気持ち、謙虚な気持ち、他の人びとから教えを受けるという気持ちです。
(55ページ)

他の人びとを生かしていくために必要なものは、一つは知力や知識、二つめには、経験。

自分にそれがなくとも、知識や経験を持っている人をアドバイザーとすればよい。

そのためには、素直で謙虚に教えを受ける気持ちを持っていることが大切である──。

自分の手一本というやり方もあるんだろうとは思いますが、やっぱり人を生かすことができなければ、社会に出て成功するのはおぼつかない気がします。

ここでは、自分だけでできない場合への対処法まで、懇切丁寧に教えていただいているわけで、とてもとてもありがたいことだと思います。

いつもながら思うのですが、今日もまた、人生の達人の凄さに私は感じ入っているのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「無我」について、一度、記事があったけど、なんでお釈迦さまがそんなこと説いたのか、やっぱりよくわかんないなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦が無我を説かなければならなかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」というところです。執着とは、何かに執われることです。この執着のもとにあるものが「我」なのです。我欲。あるいは「我あり」と思う心。あるいは我見──我でもって見る、自我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏りのある目で見る。こうした我に基づく見方や欲望によって、人生の苦しみはすべてできているのです。ほとんどそうです。
 そして、それが最も出ているところは、四苦八苦のなかの「求不得苦」ぐふとっく(求めても得られない苦しみ)です。みんなこれは持っています。この求めても得られない苦しみというのは、もともとは「我」のところからきているのです。「我あり」と思う心からきているのです。「我あり」と思う心から「我がもの」という心も出てきているのです。これはおわかりでしょう。
 「我なし」ならば「我がもの」もないのです。「我あり」と思うから「我がもの」があるのです。(中略)
 まず「我」があって、「私のもの」というのが出てきます。これが執着の原因です。この「私のもの」というのがあって、そこに執着が生まれてきます。
 ですから、この執着を断つためには、まず「私のもの」というのを切る必要があります。「私の私の」「我の我の」というのを、やめることです。
 本来のあなたの存在というのは、いったい何でしょう。それは、大宇宙の根本の神仏が、光として人間を存在あらしめようとして出したのです。それが本来の姿でしょう。それを忘れてはいけません。その本来の姿を想い起こしたときに、人間は神仏と一体になれるのです。
 この無我の教えは、二つの面から、もう一度点検されなければなりません。無我とは、物理的物体としての「我」が無いということを言っているわけではありません。無我なるものの本質の一つには、「あなたは神仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。己れを空しうしなければ、神仏と一体にはなれません。「自分が自分が」と思う心が強ければ、神の光も射してきません。
 神仏と一体になるためには、仏教的に言えば、もちろん反省、瞑想がありますし、キリスト教的に言えば、神への祈りもあるでしょう。ひとりで神に一生懸命祈るのもそうでしょう。「神仏と一体となる」、これが一つです。
 無我になる方法として、もう一つは、「利他、愛他」があります。(中略)
 要するに、神仏と一体になるのも、他人と一体になるのも、両方、無我の教えなのです。「これが結局あなた方を生かしていく道なのだ」ということを教えているわけです。
(161~165ページ)

お釈迦さまが、「無我」の教えを説いた理由の一つは、人生の苦しみのほとんどは執着に原因があって、その執着を取り去るために、「我」を取り去る教えが必要だったから、ということ。

そして、この無我というのは、「我」がないと言ってるわけではなくて、一つには、反省・瞑想・祈りによって神仏と一体になること。

もう一つには、利他・愛他で他人と一体になること、を教えていること──。

サラッと書かれてますけれども、これは、仏教の根本のもっとも深い部分を、現代日本の言葉で、しかも分かりやすく教えて下さっているところに、その凄さがあるわけです。

長年、たくさんの仏教学者がよってたかって研究してもよく分からなかった仏教の核心部分を、こんな形で説くことができる方は一体全体、誰であるのか。

それこそが実は、「仏陀」であり、大川隆法先生であるのだと、私は確信しているのです。
 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著


(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




宗教には興味あるんだけど、政治とか経済にはまったく興味もてないんだよね。でも、これから現代社会で生き抜いていくためには、そんなのもぜんぜん分からないというんじゃダメだよね。どうすればいいのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ある分野に対する苦手意識を克服するには、その分野に関心を持つことが必要です。
 関心を持てば、いろいろなかたちで情報が入ってきます。テレビ、ラジオ、新聞など、情報源は数多くあります。まず関心を持つことです。そうすれば、必要な情報は集まってくるのです。(中略)
 しかし、自分なりの一定の視点を得るためには、関心を持つだけでは駄目です。ある程度、知識の蓄積がなくてはいけません。すなわち、勉強が必要なのです。
 知識の蓄積があれば、人の意見に振り回されずに物事を見ることができます。
 そのためには、どのくらいの蓄積が必要でしょうか。これは、なかなか難しい問題ですが、できれば、その分野の本を千冊ぐらい読むことが必要だと思います。そのあたりが一般的なラインでしょう。
 政治・経済などの一般的な教養書を千冊ぐらい読んでいると、新聞記事や、テレビで発言しているジャーナリストおよびキャスターたちの嘘や間違いが、だいたい分かるのです。もっと数多く読めば、さらによく分かります。
 ただ、現代人は忙しいため、「本を千冊も読むのは大変だ」という人も多いでしょう。その場合は、それより少ない冊数でもかまわないので、大事だと思う分野を重点的に勉強するとよいでしょう。
 八割の労力で自分の専門分野を勉強したならば、残りの二割の労力で、自分が苦手な分野について、コツコツと情報を集め、知識を蓄積していけばよいと思います。
 ある分野に関する本を百冊ほど読んでいると、マスコミの嘘が分かるレベルまでは行けなくても、その分野について多少の専門的な話ができるぐらいまでは行けます。
 すぐに百冊は読めなくても、年に十冊読めば十年で百冊まで行けます。年に二十冊読めば五年で行けます。そのくらいの数なら、読めないことはないでしょう。(中略)
 小さな分野であれば、やはり百冊ぐらいが一つの目安だと思います。現代人は忙しいから大変でしょうが、仕事などの合間に少しずつ努力することが大切です。そうすれば道は開けるのです。(中略)
 なお、幸福の科学からは、仏法真理の本がすでに何百冊も出ていますが、さまざまな教養を網羅しているので、幸福の科学の本の百冊は他の教養書の一万冊分ぐらいに相当すると言えます。(中略)
 さらには、「友人を活用する」という方法もあります。賢い友人を持ち、その人に、「これは、どういうことか」「何が正しいのか」などと訊けば、教えてくれるでしょう。自分で勉強すれば十年かかることが、耳学問だと、一、二分で済みます。一言で終わりなのです。
 賢い友人を持つためには、あなたが「よい人」にならなくてはいけません。要するに、賢い人が「付き合ってもよい」と思える人になることです。
(53~57ページ)

理想は、千冊。そこで、まずは百冊を目指して、克服したい分野の本を、計画的にコツコツと読み進めること。

それと同時に、自分がよい人になることで、賢い友人をたくさん持って耳学問することができれば、極めて短時間で智恵を得ることができること。

そして、どんな本から読んだらいいか分からないのであれば、政治や経済をはじめ、さまざまな教養を網羅している幸福の科学の本から読むこと。

そうすれば、仏のフィルターを通した叡知が凝縮されているので、とても効率的に学びを得ることができるってことなんだと私は思っているのです。

 

『感化力』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




米朝首脳会談って、なんだか大丈夫だったのかな。トランプ大統領、金正恩に押し込まれてたんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『北朝鮮の実質ナンバー2 金与正の実像 守護霊インタビュー』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 本書のまえがきを書いている三日前の六月十二日、世界には確かに激震が走った。トランプ大統領と金正恩委員長が、シンガポールのホテルで友人であるかのようにふるまっているのを見て、去年までの原爆・水爆開発と、ICBMで相互に撃ち合うかもしれないという、恐怖のシナリオは一体どうなったのかと、世界のマスコミが懐疑的になっているのは当然だろう。
 また、平和的繁栄をうたいながら、米国側からは、北朝鮮の体制保証を与え、北朝鮮が非核化を確約するといった結論には、「トランプ外交敗れたか。」と思った人も多かろう。
 本書では、米朝会談の舞台裏を、北朝鮮の実質ナンバー2と思われる、正恩氏の実妹、金与正氏が守護霊インタビューで率直に語ったものである。今後の世界の方向性がはっきりと見てとれることだろう。
(3~4ページ)

いやあ、なんとも驚くべき霊言集が刊行されたものです。

金与正(キムヨジョン)は、北朝鮮の指導者・金正恩(キムジョンウン)の妹で、まだ肩書は高くないのに、最近、突如としてマスコミの前に登場するようになって、実質ナンバー2になったとささやかれている人物です。

6月12日の米朝首脳会談のテレビ報道でも、金正恩委員長にぴたりと付き添っていたように見えましたが、どんな人柄で何を考えているのか等、信頼できる情報がほとんど報道されていないようです。

その金与正の守護霊が、公式発表だけではどんな会談だったのかまったく分からない、米朝首脳会談のほんとうのところを、まさに赤裸々に語ったのが本書です。

帯には、「世界のメディアが伝えない「米朝会談」、衝撃の舞台裏! それは金正恩の敗北と、北朝鮮「無血開城」への第一歩だった。」という大きな文字が踊っています。

「拉致問題」に対する北朝鮮側の本音も明かされています。

6月13日に緊急収録されたとのことですが、もう都内書店では入手できるのも、いつもながら驚きのスピードです。

なにはともあれ、拉致問題や核ミサイル問題に興味関心を持った方はもちろんのこと、米朝首脳会談の真相を知りたい方すべてにとって、間違いなく最重要の必読文献であることと私は確信しているのです。

『金与正の実像 守護霊インタビュー』

  大川隆法著

 

更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マルクスの共産主義思想を掲げた国は、次々に崩壊して、率直にいえば間違った思想だったことが、年ごとにハッキリしてきたと思うんだけど、でもそういう思想を発表したカール・マルクスって、天使の世界には関係ない人だったの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 カール・マルクス(一八一八年-一八八三年)は、実証主義のオーギュスト・コント(一七九八年-一八五七年)らと同じく、現実的社会改革のために、天上界から送り込んだ高級霊でした。天上界では、まず、トマス・モアらのユートピア思想家を出して、理想郷を地上人に提示。さらに、カント、へーゲルらの観念論派によって、近・現代社会とも合致する知的な真理観を構築。ついでは、両者を止揚する形で、哲学をその心として、現実社会のユートピア化を進めるため、マルクス、エンゲルス(一八二年-一八九五年)、コント、ハーバート・スペンサー(一八二年-一九三年)などを出して、一挙に理想的近代社会の実現を急いだのです。
 ここで、カール・マルクスの過去世についても触れておきましょう。マルクスの前世は、サモスの島に生まれたアテナイ移民の子、エピクロス(紀元前三四一年-同二七〇年頃)です。ギリシャのいわゆるエピクロス学派の創始者であり、「エピキュリアン」という言葉の語源ともなった人です。このとき、エピクロスが説いた教えは、万物は原子からなるというデモクリトス流の唯物論でした。プラトンが『パイドン』のなかで力説した、霊魂不滅の考えに対抗して、エピクロスは、原子の分解をもって、人間そのものは亡びてしまうのであり、これによって、人間はもっとも不愉快な死という災いを乗り越えられるのだとしたのです。また、プラトンの哲人王による理想国家論に対しても、賢人は政治にたずさわらないし、支配者であることも欲しない、と主張しました。(中略)
 しかし、運命とは皮肉なものです。かつて、ギリシャにおいて、プラトンの批判者として現われた快楽説のエピクロスは、プラトンの転生した姿であるへーゲルを、今度はカール・マルクスとして、唯物史観でもって批判します。歴史は繰り返すといいますが、まさに、転生における人間関係も繰り返すということです。しかしながら、ギリシャにおいて、プラトンがエピクロスよりも偉大であったごとく、近代においても、やはり、へ-ゲルのほうが、マルクスよりも偉大です。これは、今後の歴史がはっきりと証明してくれるでしょう。(中略)
 エピクロスはその唯物論的思考の誤りの反作用により、死後二百年、地獄の無意識界(自分が死んだことすら分からず、魂が漂っている状態)に堕ち、苦しみました。マルクスも同様に、一八八三年の死から、現在に至るまでの百年あまりにわたり、その意識は、地獄の無意識界で彷徨っております。そして、ここ数十年のうちに起こる、「ソビエトの共産主義体制の崩壊」、中国の自由主義革命による路線の変更が終了するまで、天上界に昇ってくることはないようです。
 マルクスの哲学は、結局、社会が人間を疎外するという被害妄想の哲学であり、その底には、エピクロス時代から続く、へーゲル(プラトン)に対する深い嫉妬がありました。しかし、人間マルクスとしての欠点はあったにせよ、この地上社会を理想社会にしようとする、彼の根底にある考えは、彼が本来、高級霊(菩薩)であることを証明しているのです。
(116~119ページ)

1986年に書かれたこの『黄金の法』の予言は、刊行の時点ではまさかと思われたものでしたが、1991年のソ連の崩壊であっさり的中しました。

本書の記述はとても簡潔なものですが、マルクスは、この地上を理想社会にしようとする理想を持った、菩薩界出身の高級霊だったけれども、その唯物論的思考の誤りの反作用で、天上界に帰れていないと説かれています。
 
その後、2010年に刊行された霊言集『マルクス・毛沢東のスピリチュアルメッセージ』によって、死後のマルクスの様子は、とても詳しく具体的に明かされました。
 
というわけで、もう一つの共産主義大国・中国は、いまは超大国アメリカと覇権を争っているように見えるんだけれども、大きな流れとしては、自由主義革命による路線変更が行なわれていく、というのが、本書の予言であるわけです。
 
アメリカにはトランプ大統領が出てきて、中国と貿易戦争をはじめている昨今ですが、1986年の時点で「ここ数十年のうちに起こる」ということは、そろそろ中国で何かが起きる時期が迫っているのではないでしょうか。
 
高級霊マルクスが一日も早く本来の世界に帰ることをお祈りしつつ、中国の動向をしっかりと見続けていきたいと私は思っているのです。
 
 
『黄金の法』

 大川隆法著

 

更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




子供が家庭内暴力で暴れたり、長期の登校拒否になって悩んでいる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 子供の家庭内暴力や長期の登校拒否が起きるときには、家庭のなかに悪霊が入ってきていると考えて、まず間違いありません。
 しかも、小さな子供がそうなる場合は、必ず親にも原因があります。親は、「この子を何とか直したい」と一生懸命に思っていても、たいていは、子供に影響しているものと同種類のものが親にも影響していて、霊的な格闘のような状態になっているはずです。
 したがって、子供が小さい場合には、まず親のほうが「自分の人生を立て直そう」と心掛けないかぎり、問題を解決するのは無理だと思います。
 こういう問題は、意外と、親が社会的には、そこそこ評価されていたり、精力的に仕事をしていたりする家庭で起こります。親が何か無理をしていると、そのゆがみが子供のほうに来ることも多いのです。
 悪霊は、家族のなかで最も弱い人のところに来て、問題を起こさせます。たとえば、親を直接には攻撃しにくい場合、子供を攻撃してきます。悪霊は、いちばん弱いところを攻めてくるのです。
 対策としては、光を強くすることに専念する以外にありません。親の光が強くなってくると、子供への霊的な悪影響は弱まり、子供はどんどん直っていきます。
 そのためには、親が仏法真理を勉強するのが最も効果的です。そして、「家族全員が力を合わせて、何とかやっていこう」とすることです。
 特に大事なのは、当会が掲げている「正しき心の探究」です。心のあり方が間違っているのですから、家族全員で正しき心の探究を実践していくことが必要なのです。
(127~128ページ)

子供の家庭内暴力や長期の登校拒否は、家庭のなかに悪霊が入ってきている。

悪霊は、家族のいちばん弱いところを攻めてくるのであって、その場合は、必ず親にも原因がある。

したがって、光を強くすることに専念すること。親が仏法真理を勉強して、「正しき心の探究」を実践していくことである──。

子供が悪いと考えてるだけでは、その問題は解決できない。

こんな場合は、まずは親自身に問題がないか、と考えてみる必要があるわけです。

そして、その「問題」は、親自身が、自分の努力で解決することはできる。

自分の心のあり方はどうなんだろうかって、ふり返るところから始めてみる。

やさしい大川隆法先生の本を手にとって、読んでみるところから始めてみる。

いろんなやり方があると思います。

でも、そんなふうに考えてみるだけで、問題解決のヒントを見つけていく勇気が湧いてくる気が私はしているのです。

 

『幸福へのヒント』

 大川隆法著

 

更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




理解できないやつ、世間には多いけど、そんなのに合わせてたら疲れるし、キライなんだよね。オレはオレなんだから、自分の個性、大事にして生きていけばいいんだよね? ・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そこで大事なことは、目と他を隔てないということです。
 霊天上界においても、さまざまな個性はあります。さまざまな高級霊の個性があり、教えの多様性があります。
 しかし、それはあくまでも多様性であって、個性の変化する姿ではあるけれども、お互いに排斥し合うものではないということを知らねばなりません。多様な個性というものは、共に合流して大いなる光の芸術をつくるためにあるのであって、お互いに他を批判したり、他と排斥し合うためにあるのではないのです。
 さすれば、愛の実践において、愛の行為において、愛の行軍において、自と他を超えるということが大事です。
 自と他の壁をどのように超えていける自分であるか、これを考えていただきたいと思います。
 一日のうちに心のなかに去来した思いを点検するとき、「『自分が、自分が』という気持ちが強くなかったか。『自分は不幸であった』『自分はきょうはよかった』『自分はこうなりたい』など、『自分が、自分が』という言葉、『私は、私は』という言葉が、心のなかで一日中くり返されていなかったか」、こういうことを振り返っていただきたいのです。
 仏の経綸(けいりん)というものは、何の引っかかりもなく全宇宙を貫いています。全宇宙を循環しています。何の引っかかりもなく、白も他もなく、そのなかを、仏のエネルギー、愛のエネルギーが循環しているのです。
 したがって、「自分が、自分が」「あいつは、あいつは」「あなたは、あなたは」というような気持ちが強い人は、もう一度、そういう自分というものを振り返ってみる必要があります。
 ほんとうに優れた心境の人には、自分ということを、私ということを考えないでも、一日一日が素晴らしく過ぎていくような時というものがあるのです。そういう流れていくような時、透明感あふれる時というものを大事にしていただきたいと私は思います。
(107~109ページ)

多様な個性は、共に合流して大いなる光の芸術をつくるためにある。

互いに批判したり、排斥したりし合うためにあるのではない──。

自分が自分が、オレがオレが、っていう思いがいつも出てくるのは、要は「我が強い」ってことなんでしょうね。

自分の「我」を少し引っ込めて、自と他の壁をどうやって超えていくのか。

それは、心の修行で最初に出てくる課題の一つではないでしょうか。

今日のお教えは、そのヒントとなるのではないかと私は思っているのです。

 

『幸福の原点』

大川隆法著

 

更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ