ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



あーあ、どうしてうちのダンナは、優しくないんだろ。うちの姑は、どうしてあんなにいつもトゲのある言葉ばかりなんだろ。なんであの人は・・・・、って悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『運命の発見 説法自由自在②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は親切な人と会うと親切になるのです。ところが棘(とげ)がある人と会うと棘(とげ)が出てくるのです。これはひとつの法則です。
 したがって、まわりの人に優しくしてもらう方法は、自分が優しくなることです。これがいちばんの近道なのです。
 たとえば、こちらが「あいついやだなあ。」と思っていると、むこうもやっぱり「いやだなあ。」と思うわけです。いやだと思われることはいやなものですから、むこうもいやなわけです。同じです。こちらが「あの人いいなあ。」と思っていて、それでもいやだという人もなかにはおりますが、普通はそんなに悪い気はしないものです。
 結局、前述のたとえ話と同じで、その人が親切な人であれば、まわりも親切になってくるし、逆に人に厳しいと相手も厳しくなるということです。
 夫婦げんか、嫁、姑の問題、いろいろありますが、たまにこういう問題を相談してくる人がいます。相手がひどい、相手が悪いと言うけれど、その人自身もまた、だいたい似たような土俵に上がっていることが多いのです。その人がものすごい善人で、お姑さんだけが一方的に悪いということは普通はないわけです。やはりどんな人でも、すばらしい人に対しては多少の譲歩はするものです。「うちの嫁はやっぱりいいなあ。」と言いたくなるのです。それを言わないということは、やはり自分にも同じぐらい原因はあるということです。
 すべての人に好かれるような人は、そうはいないかもしれないけれども、自分のできる範囲で努力しなければなりません。そして、自分はたとえば初対面の人と会ったときに、どういう印象を与えるだろうかといった観点から、自分をもう一度見てみる必要があるのです。
 初対面の人と会って、みんなからあなたはすばらしい、ものすごくできた人だと言われる人が、御主人とだけ調和できないというならば御主人に問題があります。ただ、自分にそういう経験がなければ、やはり自分にも思いあたることは何かあるはずです。これを考えなくてはいけません。
 結局あなたが、ものすごくよくできた人になれば御主人も変わってきます。時間の差はありますが、変わってくるということなのです。
(32~34ページ)

この世界には、「心の法則」というのがあるわけです。

ですから、誰かの態度が変わってほしいと思うのならば、まずは自分が変わること。

やはり間違いなく、このお教えは、普遍の真理であったのだと改めて私は思っているのです。

 

 

『運命の発見 説法自由自在②』

 大川隆法著

 

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学校なんて、何で行かなきゃいけないの。数学とか物理なんて、社会に出たら必要ないでしょ。英語だって知らないから困るとは思えないよね。あーあ、生徒の好きにさせてくれればいいのに、なんで、こんな決まりだらけの学校で勉強しなくちゃいけないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 物事は何でも、結局のところ、基礎ができているかどうかが肝要です。これは、個人についても、会社などの組織についても言えることです。基礎がなければ、個人も会社も弱いものです。仕事でも同じです。人生には基礎というものが大事なのです。
 たとえば、学校教育は何のためにあるのかといえば、結局、人生の基礎をつくるためだと思います。
 学校教育について否定的な人びとは、「ああいうことは無駄である。好きなことを好きなだけ勉強させればよいのだ」というような論調の話をよくします。しかし、いろいろな学問をすることが、人生の基礎をつくるうえで役に立っているという点は否めないでしょう。
 人間はいろいろな物事に対して判断したり行動したりしますが、その根底には、その判断や行動の材料、原動力、基となるものが必要です。その意味では、何らかの蓄積がなければ、人間は判断や行動ができないのです。
 料理ひとつをとってもそうです。主婦が料理を毎日つくれるのは、それなりの基礎があるからです。料理に対する考え方を持ち、数十種類から百種類、二百種類もの料理を知っていることが基礎となって、毎日の料理を滞りなくつくっていけるのです。
 また、車を運転するためには、交通法規を知り、いろいろな事態に対処する方法を知っていることが必要です。「坂道ではどうすればよいか」「対向車があるときにはどうするのか」「雨の日や夜はどうするのか」などということを知っていると、それが判断の材料になります。
 しかし、交通法規を知らないと、対向車との関係も分からないし、右折や左折のときにどうすればよいかも分かりません。交通法規を知っていることによって、正しい行動がとれるのです。
 このように、人生においては、基礎というものが何にもまして大事です。基礎の部分が厚ければ厚いほど、あるいは重ければ重いほど、その人の判断と行動に重厚さが増してくるのです。
(11~13ページ)

基礎を作る時期って、とってもつまらなく感じるんだよね。

でも、その時期に手を抜かずにしっかりやった人だからこそ、その後の華々しい活躍がある。

そんな話を聞くことがあります。

いま大変な思いをしてるみなさん。

「人生の基礎をつくるための学校教育」という教えを心素直に受け止めて、しっかりと、でも楽しく、学校生活を送ってくださったらと私は思うのです。

 

『不動心』

大川隆法著

 

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宗教の修行って、やっぱ座禅だよね。でも、あれって、どういう意味があるの。足が痛そうだしさ、坐るだけで、なんで悟れるのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 禅を修行している人は、無我というものを求めているわけですが、「ただ坐れ」という「只管打坐(しかんたざ)」を唱えた道元禅師(どうげんぜんじ)であっても、やはり過去世・現世・来世という三世(さんぜ)をしっかりと認めていた、ということを忘れてはなりません。それを「三時業(さんじごう)」といいます。三つの時の業ということで、「過去・現在・未来という三つの世界、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法というのは昧(くら)ますことができない。これが仏法の中心的考えである」ということを、道元は明確に語っていました。それを知ったうえでの禅定なのです。それを知ったうえでの只管打坐なのです(中略)。
 では、なぜ坐るか。坐禅して、いったい何があるのか。過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、その時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、神仏の心と一体の自己に目覚めようとする、その悟りを求めたものが禅定(ぜんじょう)なのです。もし、そのような世界がまったく存在しないならば、それは単に脚の訓練以外の何ものでもありません。(中略)
 仏陀は、それと訣別することによって悟りを得たのですが、肉体を苦しめることによって悟りが得られるという考えを持つ人も、いまだにいます。それは、逆説的なる意味において、また肉体に囚われているのです。この肉体なるものは悪なるもの、罪をつくるものと見て、これを滅却すれば悟れると思っています。しかし、単なる否定においては、悟りは現われないのです。
 いま肉体を持って生きているのであるならば、肉体を持っているなかにおいて、悟りを求めるべきです。悟りとは、それを否定して得られるものではありません。肉体のなかにおりながら、肉体感覚を超越した、超脱した自己というものを知らなくてはならないのです。それが悟りなのです。
(38~41ページ)

ちょっと漢字が多くて難しかったかなあ。

でも、座禅(禅定)の極意ともいうべき重要な教えが、この書籍では展開されています。

「過去・現在・未来と流れていく時間の流れ」(「諸行無常」)と、空間的観点から考えても、一切のものは実在でないこの世界のなかで(「諸法無我」)、大宇宙、神仏の心と一体である本来の自己に目覚めようとすること。これが、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の悟りなのだ・・・。

うーん。頭のなかで考えてるだけでは、わかるはずもありません。

そこで、ここで説かれた世界を実修し実感して、自分のものにするために、幸福の科学では、「精舎(しょうじゃ)」という修行施設がつくられ、そこで研修が行なわれているのだと私は思うのです。

 

『沈黙の仏陀』

大川隆法著

 

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人に言えない過去があるんだよね。だから、これまで失敗の人生だったんだ。過去を見なければいいのかもしれないんだけど、でも苦しいよ。どうしたらいいの? なんて悩みを抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

おまえたちのなかで、
環境に打ちひしがれ、
失敗を積み重ね、
苦しい生き方をしてきた者があるであろう。
そして、その苦しみのなかで、真理を悟り、
なんとかして、
よき人生を切り開かんとしている者もあるであろう。
しかし、そのような者であっても、
過去、数多くの失敗を重ねてきた者は、
何らかの虚飾でもって、自分を飾ろうとする傾向があるものだ。
その惨めな過去を、うそという虚飾で飾ってみたり、
惨めな過去を、取り立てて誇大表示することによって、
他の人の同情を引いてみたりしがちであるのだ。

しかし、私はおまえたちに言っておこう。
過去というものは、
充分に反省に値するものであり、
これからの人生を生きるにあたって、
充分に参考にすべきものではあるが、
過去そのものを、あまりにも長く引きずり、
それを自分自身のように思い込んではならない。
おまえたちの人生は、日々の出発であるのだ。
日々、新しい人生を生きているのだ。
そのことを忘れて、
過去そのものを引きずってはならないのだ。

正直に生きている人であっても、
過去の傷口にふれると、
とたんに口を閉ざし、
あるいは、饒舌となり、
己の傷口を隠すように隠すようにふるまう人がいる。
ただ、私は思うのだ。
過去の傷口をいたずらに隠すよりも、
その傷口そのものを癒(いや)してしまうことのほうが大事であるのだ。
それを人に知られまいとするな。
それをまた、うまく喧伝(けんでん)し、人に上手に知られようともするな。
その傷口そのものを癒してしまうことこそが大事であるのだ。
この、過去の傷口を癒す方法は、
己の人生を充分に愛することなのだ。
己の人生を充分に愛し、
そのなかから、見事な果実を実らせることであるのだ。
これが大事なことなのだ。
(82~86ページ)

自分の人生を充分に愛すること。

日々、新しい人生を生きているのだ。

だから、今日を新たな出発点として、その大切な人生の日々で、見事な果実を実らせるよう、努力を重ねていくこと。

──今日は、仏の慈愛に満ちた言魂に、ひたってみたのでした!

 

『永遠の仏陀』

大川隆法著

 

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科学の観点からは、実証できないものが信じられるわけないよねー。死後の世界とか、あの世とか霊とか言われても、目に見えないのが、どうして信じられるわけ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 死後の世界、霊界の話を信じない、科学的思考の人、科学者や唯物論者などと話をすると、彼らは、まるで、三十センチの物差しを持ち、「この物差しで測れるものでなければ信じない」と言っているような感じなのです。(中略)
 科学的思考の立場から「死後の世界は信じられない」と言う人は、ちょうど、そんな感じであり、何とも名状し難い虚しさがあります。
 あるいは、そういう人は、「いつも陸地を両足で歩いているから、海の向こうにあるものの存在についても、そこまで歩いていけなければ、信じられない」と言っている感じに近いでしょう。
 たとえば、「日本から海の上を南に下っていくと、オーストラリアという大陸があります」と言われて、「海を歩いて渡っていけなければ、信じられない」と言っている感じに近いのです。(中略)
 船に乗って海の上を行く行為、飛行機に乗って空を飛んでいく行為に当たるものが、実は、信仰といわれるものなのです。
 初めて船に乗る人は、「この船に乗ればオーストラリアに着きますよ」と言われても、なかなか信じられないかもしれません。いくら、写真でオーストラリアの景色をいろいろと見せられたり、地図を見せられたりして、「船の速度は××ノットだから、これだけの時間があれば着きます」と言われても、「ほんとうに着くのかな」と疑問に感じるかもしれません。(中略)
 「飛行機に乗って、数時間、飛べば、着きますよ」と言われても、初めて飛行機に乗る人にとっては、あのような金属の乗り物に乗って飛んでいくことは、ほとんど“信仰” の世界でしょう。
 「飛行機に乗っていけば海外へ行ける」ということを信じられない人は、「そもそも金属が空を飛ぶのか」という疑問から始まって、「実際に飛んでいるではないか」と言われても、「いや、あれは金属ではないかもしれない」と言い、「飛んでいる姿がテレビに映っているではないか」と言われても、「あれは、つくりものかもしれない」と言い、「実際に飛行機で海外へ行って帰ってきた人がいるではないか」と言われても、「それは嘘かもしれない」と言うわけです。
 そのように、どこまでも疑ってかかると、「『飛行機に乗っていけば海外へ行ける』ということは、嘘かもしれない」という感じがするでしょう。(中略)
 「何度も繰り返してできるものでなければ真実とは思えない」「万人がやって同じ結果が出るものでなければ信じられない」などと言って、それを科学的な態度、実証的な研究態度であると思っている人は、ちょうど、「物差しで測れないものは信じられない」「この足で歩ける所でなければ信じられない」などと言っているような感じなのです。
(56~60ページ)

この海外旅行のたとえは、とっても分かりやすい話です。

にもかかわらず、海外の話なら、自分では実体験してなくても信じてるというのに、あの世の話、死後の世界の話、霊界の話はなんで信じないんだろう?

それはおそらく、信じるに足る情報が少なすぎるから。

だからこそ、大川隆法先生は、真実の霊界情報を、霊言集をはじめとする大量の書籍で、数多くの講演会で、そして目に見える形の映画でと、続々と出し続けているのだと私は思うのです。

 

 

『信仰のすすめ』

大川隆法著

 

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自分は、どんな相手と結婚したらいいのか、という問題は、適齢期の人にとってはとても大事な問題なんで、このブログでも何度か取り上げてきました。で、今日は改めて、どんな相手がベストなの? って疑問もってる人に。

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 結婚を決める際にいちばん大事な条件は、「相手を理解できること」です。いろいろな条件があるでしょうが、これが最優先なのです。
 美貌もあるでしょう。顔がいいとか悪いとか、背が高いとか低いとか、太目だとか痩せているとか、持参金があるとかないとか、学歴があるとかないとか、いろいろなことが条件としては出てくるでしょう。
 したがって、多くの人は、結婚の条件として、どれにウエイトを置いたらいいか、おそらくわからなくなっていると思います。「頭がいいが金がない」「二枚目だが背が低い」「美人だが頭は空っぽだ」など、いろいろあり、人に相談すれば相談するほど、わからなくなるのです。
 Aさんに訊けば「顔がよければいいんだ」と言うし、Bさんに訊けば「顔がいいのは危ない。気立てがいちばんだ」と言うし、Cさんに訊けば「賢いのがいちばんだ」と言うし、Dさんに訊けば「家柄のいいのがいちばんだ」と言うし、何が何だかわかりません。
 全部の条件をすべて満たしているような人は、残念ながら自分の相手にはならないのです。やはり、一つ二つ欠けている人を選ばなければいけないわけですから、どれをとるかで決めなければいけません。
 そうすると、一般的な話として言っておきたいのですが、「相手を理解できる」ということは大きなことだと思います。いくら持参金を持ってきても、使えばなくなります。また、顔がいいと思っても、毎日見ていれば、だんだん飽きてくると思います。性格がいいと思って結婚しても、気がついてみると、いろいろ粗(あら)が出てくるものです。
 最後に残るものは何かというと、深いところでお互いが理解できるということだと思います。お互いが理解できる場合には、二十年、三十年、四十年と続いていきますが、外見などの客観的な条件ばかりを目的としていた場合には、結婚の時点ではつりあっていても、やがてそのつりあいが崩れたときに、夫婦の仲はおかしくなっていきます。(中略)
 結局、判断の基準はいろいろあるでしょうが、一つだけ選ぼうと思ったときには、女性であれば、「私はこの男性を深いところで理解できるだろうか。この人の人生観が理解できるだろうか。この人についていけるだろうか」というところで、カチンと底に当たるところまでいけば、かなり確度は高いのです。
 男性であれば、「この女性は、仕事や人生というものについて、おれの考えていることを、どこまで理解してくれるだろうか。浅いところまでしか理解できないか、それとも深いところまでわかってくれるか」と考えて、「わかってくれる」という気持ちが強ければ、結婚に踏み切っても成功することは多いと思います。
(159~163ページ)

自分は、相手をどれだけ理解できるか。

相手は、自分をどれだけ理解してくれるのか。

相互に理解できる相手と、二人で努力して築いていく家庭は、今世の限りない幸福を約束してくれる──。

考えてみたら当然のことではあるんだけれど、でも、一つだけに絞り込んで明快に呈示してくださることこそ、まさに「仏の智慧」であるのだと私は思うのです。

 

『常勝思考』

大川隆法著

 

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歳をとってきたら、なんで体が不自由になるかなあと思っている方は多いと思います。歯が悪くなったり、老眼になったり、腰が痛み出したり、更年期障害だったりと、若さが失われてくるにしたがって、自分の体のことが日々の問題になってくる。なんで神さまは、もっと人間の体を長持ちするように作ってくれなかったんだろう? 死ぬ直前まで、若いままの体で元気でいれれば、その方がいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 年を取ると、幼児化していき、自分の体が思うようになりませんが、「体が不自由だ」ということは、魂が肉体を脱ぎ捨てるために必要なことなのです。体があまりにも自由自在だと、あの世に行きたくなくなります。体が不自由になり、「嫌だな。もう死にたいな」と思えるような予兆現象が出てこないと、心の準備ができないのです。
 あの世に行くことは、赤ちゃん、新生児になって生まれ変わるようなものです。年を取って体が不自由になることは、あの世への移行においては、しかたがないことというより、むしろ、ありがたいことなのです。
 年を取ったならば、誰であろうと、死ななくてはなりません。お年寄りが死ぬことによって、新しい生命が生まれてきます。次の生命、魂が、赤ちゃんになって、次々と生まれてくるのです。「赤ちゃんが生まれてくる」「孫が生まれてくる」ということは、「お年寄りが死んでいく」ということであり、入れ替わりなのです。そう思わなくてはいけません。
 人間は、死んで、あの世に還り、また、この世に生まれ変わってきます。
 「赤ちゃんが生まれてくる」ということと、「お年寄りは、あの世に還らなくてはいけない」ということを、「これは宇宙の理法なのだ」と思って、受け入れなければいけません。
(146~147ページ)

なるほど、なるほど、ですね。

あの世に還るための心の準備として、体が不自由になっていくのは、必要なことだったんですね。

老齢期をどういう心構えで乗り切って行くか。

そのための大事な大事な「智慧」をいただいた気が改めて私はしているのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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どんな職業がこれから有望なの? どんな職業につくことを考えて勉強していけばいいの? って疑問もってる若い人、多いんじゃないかなあ。

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 製造業、メーカーなどの技術系統で考えると、安全性を高めるような技術に関連するところは、まだまだ伸びるのではないかと思います。
 たとえば自動車を考えてみると、日本だけで毎年一万人もの人が交通事故で死ぬというのは、異常な事態です。これは戦争状態に近いのです。これにそのまま満足して、自動車という商品を買っている現代という時代は、もう少しあとの時代からは、(中略)「毎年一万人も死ぬような恐ろしいものに乗っていたとは、不思議な時代だった」といわれると思うのです。(中略)
 同じことは、飛行機、電車、船、宇宙船その他の乗物に関してもいえます。このように、今後は、安全性を高める技術の研究が進んでいくし、その方面が伸びると思います。
 それから、世界的に見ると、あちこちで食糧問題がかなり危機的な状況にあるので、バイオ(生物工学)の系統で研究がそうとう進んでいます。未来においては、狭い空間から大量の作物が穫(と)れるスタイルの農業技術は、まだまだ広がると思います。これは可能性が高いし、現在も研究が進んでいるでしょう。(中略)
 それ以外では、(中略)情報・知識を扱う領域の仕事、目に見えない情報等を中心に仕事を推し進めていくものは、教育産業であれ、メディア系統であれ、ニーズ(需要)があって、二十一世紀にはまだまだ発展します。これはほぼ間違いありません。宗教も、情報産業に分類されるべきなのかもしれません。教育であれ、他の一般的なニュース(情報)を扱う会社であれ、さまざまな情報系統のものは発展すると思います。
 それ以外で外れがないものとしては、高度な判断力、高度な交渉力を要する職業です。それは、どこにでも常にありつづけることなので、なくなることは、まずありません。(中略)
 全体的には、来世紀以降、いったい何が最大の資源かという問題があります。(中略)最大の資源は時間です。一日は二十四時間、人生は数十年であって、個人あたりの時間の有限性がかなり高いので、時間の値打ちが上がると思うのです。
 その意味では、時間を短縮する方向で努力しているものは発展します。(中略)「どうやって時間を縮めるか」「どうやってプロセスを縮めるか」ということに関わるものは、どの系統のものであれ発展すると見て、まず間違いありません。
 交通手段系統で時間を縮めるものがあれば、発展するのはほぼ確実です。マスコミも、より短い時間で、よりコンパクトに集約された情報を出すことができれば、そこが勝つのはほぼ間違いありません。
 ただ、第1章でも述べたように、来世紀はおそらく、「プロの伝道師」というような職業がいちばん尊敬される時代になるでしょう。それが望むべき方向でもあると思うので、ある程度、トレンドとして知っておいてもよいかもしれません。
(79~84ページ)

この御法話(質疑応答)は、1994年に説かれたもの。

それから23年の歳月を経て、21世紀がかなり進展した今であっても、ますます輝きを増している仏法真理だなあ、と改めて思えます。

なお、「第1章」というのは、本書のタイトルとなった御法話「青春に贈る」です。

まだ読んでいない方は、青春期にある方も、すでに通りすぎて久しい方も、ぜひ一度目を通されることを、強くお勧めしたいと私は思うのです。

 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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寝たきりの病人の看病だけで毎日がすぎて、肉体的にも精神的にも、もう限界。って人いませんか? どう考えたらいいんでしょう。また、そういう悩みを抱えた方に、どうアドバイスしてあげたらいいんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私には、看病して疲れておられるご家族のかたに、あえてムチ打つ気持ちはありません。しかし、家族に病人が出たという厳しい環境のなかで、いかに朗らかに、いかに明るく、いかに希望に燃えて生きられるかということが、あなた方の魂を光らせるための試練になっているのです。
 考えてみれば、ヤスリをかけられるときには、その金属は痛くて悲鳴をあげているように思われるかもしれませんが、その後にはピカピカに光るものです。また、サンドペーパーをかけられてピカピカに光っていく木もあります。木目は、ザラザラしたもので何度も何度も擦られるとき、もし人間のような気持ちがあるとすれば痛いのでしょうが、それでも、その時期を通り越してみると、みごとにピカピカに輝く、美しい素材になっていくことがあります。
 人生もこれと同じなのです。あらゆる苦しみや悲しみも、魂を光らせるためのヤスリだと思ったときには、どんなものでも耐えていけるのです。
 むしろ、そうした悲しみのときにこそ、宗教的な飛躍というものが訪れることがあります。そうしたときにこそ、人間は救いを求め、魂の領域において一段と飛躍をすることができるのです。
 ですから、病人が出たからといって、それを自分の不幸の言い訳にすることなく、そうした病人が出たことによって、自分が魂の修行の機会を与えられたことに感謝をし、そして、そのなかで己れの心の修行をすることです。
 そしてまた、病人が家庭に出たということで、与える愛、尽くす愛、奉仕とはなにかということを考えさせられもするのですから、これはまさに、他人に対する献身の心を学ぶ機会ではないかと思います。
 愛というものは、その基礎に忍耐と寛容を伴っているものなのです。調子のいいときだけ相手を愛する。たとえば、夫が調子がいいときだけ夫を愛する、妻が美しいときだけ妻を愛するのは簡単ですが、夫が仕事上で失敗したり、妻の美貌が衰えてきたときに、なおも愛するということはなかなか難しいことでしょう。しかし、それでも愛していこうとするその忍耐と寛容の心が、やはり愛というものを裏打ちするものだと思うのです。
 病人も同じです。家族として仲よくやってきた者のなかに不幸が起きたなら、それを辛抱強く見守ってやることが大事です。(中略)
 すべての運命を恨むことなく、すべてを自分の魂の糧として選びとっていくなかに、真なる幸福というものは光ってくると思うのです。
(118~121ページ)

うーん、厳しくも温かい、仏のアドバイスですね。


やっぱり、こういう問題にぶちあたったときの考え方の基本は、「人生は一冊の問題集である」という観点なのだ、ということなのだと私は思うのです。

 

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著

 

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ムー大陸の話って出てきたけど、じゃ、アトランティス大陸は? あったとしたら、それはいつ頃、どこになの? なーんて疑問もってる人、いませんか

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 現在の大西洋のなかほど、バミューダ海域と呼ばれるところを中心に、アトランティスという大陸がありました。(中略)
 アトランティス大陸に大きな変化があらわれるのは、一万五千三百年前にムー大陸が沈み、その末裔が、アトランティスに落ちのびてきたときです。彼らのなかには、科学者もおりました。科学者たちは、ムー文明のビラミッド・パワーを、アトランティス人にさずけたのです。(中略)このピラミッド・パワーは、やがて航空技術、航海技術にも取り入れられていきます。
  そして、アトランティス文明は、いまから一万二千年ほど前には、全知全能の主・トスという大導師、大指導者を得て最盛期を迎えました。トスは、宗教家、政治家、哲学者、科学者、芸術家を一人で兼ね備えていた超天才でした。この大指導者は、アトランティスに総合文化とでもいうものを創り出しました。科学的見識は特に優れ、やがてアトランティスは、ムー文明になかったような科学文明を築いてゆきました。(中略)
 アトランティスは、大導師、トスのあとをうけて、科学万能の時代に入ってきておりました。しかし、トスの本物の「万能」をうけつぐ人が出なかったので、科学偏重に傾いてゆきました。(中略)アトランティスが沈没しはじめたのはこのころで、いまから一万一千年ほど前です。まず最初に、大陸の東の三分の一が海中に没しました。さらに、一万七百年ほど前になると、西の三分の一が沈みました。(中略)
 そして、いまから一万四百年ぐらい前、紀元前の八千四百数十年に、この地に、アガシャーという方が生まれます。(中略)アガシャー大王は、ラ・ムー同様、政治家兼宗教家でした。(中略)
 やがて、理神論派は反乱を起こし、アガシャーをはじめとする王族たちをとらえ、広場で、生き埋めにするという暴挙に出ました。このころは、ちょうど二十世紀末の現代同様、真理が説かれると同時に、魔が競い立っていたのです。
 こうした暴挙のなかで、ただひとり、理神論派の追撃の手を逃れ、飛行船で王宮から飛び立った者がおりました。アガシャーの長男・アモン二世です。このアモン二世は、エジプトに逃れ、アモン・ラー伝説の起源となります。この地で、太陽信仰をはじめることになるのです。エジプトのピラミッドの原型は、アモン二世が伝えた知識にその源を発するものです。
 反乱軍の暴挙によって、地上に肉をもっていた数多くの光の天使たちは処刑され、アトランティスでは、悪魔が勝利を得たかに見えました。しかし、彼らがつくり出した暗い想念のくもりが、全アトランティスをおおったため、地球意識に反作用が起こり、全アトランティス帝国が、一昼夜にして、海底に陥没するという信じられない現象が眼前に生じたのです。(中略)
 しかし、一部の人々は、やはり飛行船によって逃れ、アフリカ、スペイン、南米のアンデスの方面へと逃れ、それぞれの地で、新しい文明の種をまいていったのです。
(269~280ページ)

ムー文明とアトランティス文明の関係、エジプトのピラミッドの秘密などが、このお教えによって、よく分かります。

この時代に説かれた、トス神やアガシャー大王などの大指導霊の教えについては、引用できませんでした。

興味を持った方は、ぜひ『太陽の法』を手にとっていただければと私は思うのです。 

 

『太陽の法』

大川隆法著

 

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見返りを求めていては本当の愛ではない、っていうような記事が以前にありました。でも、なんで、見返りを求めちゃいけないの? って思ってる人、いませんか? ここは大事なところだと思うんで、少し重なるかもしれないけど、もう少し書いてみます。

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学の本には、「与える愛とは無償の愛の別名である。ただ与えることに意味がある。見返りを求めたときに愛は死ぬ」とよく書いてあります。
 この「見返りを求めたときに愛は死ぬ」という言葉は、詩的な言葉というか、言葉自体の響きのために語られているものではありません。これは真実なのです。何かよいことをしたとしても、同じだけの結果、あるいは、それ以上の結果を期待してなされたときには、その行為は必ず帳消しになるのです。
 そして、なぜ「見返りを求めるな」と言っているかといえば、与えた愛はその人のものになるからです。これが人間の心を貫く偉大な法則です。生きているうちに、このことだけでも知っておくことが大事です。「与えた愛は、与えた人のものになる」──これが目に見えない世界の法則なのです。
 みなさんは偉大な人物についての話を数多く読んでいるでしょう。そうした人びとがなぜ偉大なのかといえば、見返りを求めずに多くのものを与えたからです。その結果、与えたものがその人のものになったのです。
 これは、仏光物理学という霊界の物理法則にもとづいて述べると、光がそれだけ増えるということです。
 「あの人のために」という純粋な思いや行為においては、その思いや行為を発した瞬間、霊的に見ると、その人の頭に後光(オーラ)がパッとさしています。その後光は、与えられたもの、天上界から投げかけられたものです。自分の目には見えないかもしれませんが、霊的には確かに光が出ているのです。
 その証拠に、心から他の人を喜ばせることをしたときには、身体が熱くなるでしょう。相手ばかりでなく自分も温かくなります。真冬であってもポッと温かい気持ちになります。それが実は光が出ていることの証明なのです。
 霊視ができると、鏡を見てもその光がはっきり見えます。よいことを思えば、頭のうしろに後光がパッと出ます。他の人びとへの愛の思いに満ちたならば、与えることを考えているのに、むしろ与えられているのです。
 これは、仏がなぜ人間を創ったかということと、きわめて深く関係しています。
 当会では「人間は仏の子である」と説いていますが、それは仏と同じ本質を内在しているということです。同じ本質とは何でしょうか。仏にはいろいろな要素がありますが、いちばんの要素は「与える愛」です。
 したがって、仏の子である人間が、その本来の姿に最も近いのは、愛を与えんとしているときなのです。そのとき、人間は自分を真に仏の子として認識することができ、また、「あなたがたは仏の子なのだ」ということを証明するかのごとく、光が与えられ、パッと輝くのです。
(38~40ページ)

「与えた愛は、与えた人のものになる」──。

でも、これは結果なのであって、これを目的に愛を与えようとするというのは、結局、見返りを求めたことになって、その愛は死んでしまうんですね。

頭だけで考えようとするとむずかしいんだけど、映画『永遠の法』に、五次元善人界の住人に、次々にポッと後光が射しているシーンがありました。

たとえば誰かのためにプレゼントを選んでるときというのは、ポッと身体が熱くなって温かくなって、とても幸福な気持ちになる。

これはやってみれば、ほんとに実感ですよね。

幸福の科学の人が、熱心にボランティアをしたり、伝道したりするのは、この有無を言わせない「実感」が、ほんとにあるからなんだと私は思うのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著



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なんだか、やることもなくって退屈なんだよね。時間だけはあるんだけど、お金はないし、いったい何やったらいいんだろう、なーんて悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分の時間を自分だけのものだと思わないことです。これは、神から預かっている大切な時間であると考えるべきなのです。(中略)
 一日の時間はこれは与えられているのです。あるいは与えてくださっているのです。24時間という時間が毎日与えられて、そしてその24時間で何をしたか、ということを私たちはつねづね問われているのです。
 この発想の観点をまず変えていただきたい。時間は自分のものではない。それは預かっているものです。与えられているものです。そう思った時に、どうしなければいけないか。これがわかるのではないでしょうか。
 銀行というところでは、一般の顧客から預金を預かっています。そして人びとは銀行に預金さえ預けていれば利子が付くものと考えがちでしょう。しかしながら、銀行の立場に立って見れば預金として預かっているだけで、そしてみずからの金庫のなかにお金が眠っているならば、これに利子を付けて、人びとにお返しすることはできないのです。預かったお金を、よりすばらしいものに投資することによって、さらなる利益を上げ、その一部を預金された方にお返しするというのが銀行業務であろうと思います。
 これは一つの例でありますが、私たちにもまた、似たようなところがあるわけです。神より与えられた24時間を使って、じつは人間一人の24時間以上の仕事をしなければいけないのです。
 そうしないと、金庫のなかに顧客のお金を保管していただけの銀行と同じで、利子を払っていけば、破産していくことになります。私たちが神から、24時間を与えられたということは、これは神からそれだけのお金を預かっているのと同じです。時間という名のお金を預かっているのと同じなのです。そして、そういうお金を預かるという以上、私たちは利子を払わなければならないことになっているのです。
 この利子とは何かというと、少しでも世の中のためになることをせねばならないということなのです。この世の中のためにするというのは、何であるかというと、これが愛の行為です。利他の行為です。すなわち、私たちが愛を実践せねばならないという場合の愛とは、じつはこれは神に返していくべき利子に当たるのです。利息に当たるのです。そう考えるべきなのです。(中略)
 ですから、私たちは与えられた時間を大切にして、愛という名の利息を払っていく気持ちがだいじだということです。
 そして、その利息を払っていくためには、自分の時間を単にあるがままに生きるのではなく、よりすばらしいもののなかに投資していく必要があるのです。よりすばらしいもののなかに投資していくことによって、よりすばらしい成果が現われてくるのです。
(102~104ページ)

時間は神からの預かりもの。

だから、愛という名の利息を払っていくための投資をしていかなくては──。

これは、ほんとに根本的な発想の転換ですね。

「人生は結局、神仏からの預かりものだったのだ」と考えてみたときに、人生のほんとうの意味が、スッと腑に落ちたりすることに、今日、改めて私は気づいたのでありました。 

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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幸福の科学って、仏教精神を基礎にした教えだというけど、仏教っていうのは、我慢して戦ったりしない宗教なんじゃないの? 幸福の科学の考え方って、それに反しないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀(ぶっだ)の証明』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏陀も、「非難すべきは非難すべし」と、きっちり言っています。「非難すべきものを褒めて、褒めるべきものを非難するというのは間違いだ」ということを、仏陀も言っているのです。非難すべきもの、間違っているものに対しては、「間違っている」と言わなければなりません。
 ですから、仏教においては、「忍辱(にんにく)の姿勢」ということがよく言われますが、これをどうも悪用されているようです。あるいは、何もしないことの隠れ蓑にしているところが少しあります。
 善悪を言えないような宗教というのは、宗教としての使命を果たしていないのです。間違っているものについては「間違っている」と教えなければ、人は救えません。
「悪でもよいのです」という姿勢で、どうしますか。正しいものが、「悪い」「間違っている」などと言われても、「いや、そうした考えもあるでしょう」「それも一つの考えです」などというようなことで済ませていて、世の中がよくなるはずはありません。
 私たちは、「暴力をふるってでも、なんとか人に言うことをきかせよう」とか、どこかの国の政治体制のように、「言うことをきかない人たちは、殺してしまう」とか、そのようなことをする気は全然ありません。あくまでも思想戦です。言葉で、思想で、戦うのです。「言葉で戦い、行動でもって教化する」という戦いですから、非常に平和的ではありますが、「正は正、邪は邪」として、やはり、言うべきものはきちっと言うという戦いです。これは、やらなければいけません。
 これまで、私は仏教の錆(さび)落としをずいぶんやってきていますが、この「忍辱」の考え方のところにも錆があります。仏教が忍辱を説いているのは、仏教教団が小さな段階から次第に大きくなっていく過程で、既成のいくつかの大きな団体からの攻撃があったために、「彼らの悪口や罵倒に対して耐え忍べ」ということを、仏陀が言ったということであって、「悪魔を許容せよ」「悪に屈従せよ」などということを教えているのではないはずです。まだ勢力が小さいうちは、世間からのそうした攻撃に対して、耐えなければいけない時期があるということです。「そうした攻撃に耐えなさい」と言っているのであって、「悪を許容せよ」と言っているのでは断じてないのです。
(340~343ページ)

お釈迦様(仏陀)も、単純に「耐え忍びなさい」と言ったのではない。

悪に屈従せよなどとは言っていない、ということ。

また、ここでいう「戦い」というのは、あくまでも思想戦であること。

仏陀が、そして大川隆法先生が教えておられるのは、「言葉で戦い、行動でもって教化する」という、非常に平和的なものであることは、ぜひ注意したいところだと私は思うのです。

 

『仏陀の証明』

 大川隆法著

 

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日本って国は、教育の制度がおかしいんじゃないの? 文部科学省が教育政策を間違ったから、教育が歪んでしまって、だから信じられないような犯罪を犯したりする子供が出るんじゃないの? うちの子も、おかげでちゃんと育ってないじゃないの。なーんて疑問というか、不満もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本という国は、非常に〝空気″に支配されやすい国であり、何か一つ象徴的なことが起こると、それにかかわる人たちがすべて同じ方向に動いていく傾向があります。日本人は、まだ、ほんとうの意味での個人主義的な考え方ができないのだと思います。
 事件を起こした生徒と個人的な関係のある人が反省するのは分かりますが、そうでない人たちまでが一緒になって総懺悔したり、個人に責任を帰するのではなく、受験戦争などのシステムや制度のせいにしたりするのは、まことに滑稽です。
 原点として、責められるべきは個人であり、家族なのです。(中略)
 宗教においては個人責任が根本であり、集団で責任をとるという考え方はありません。「すべては各人の問題であり、個人の考えや行動の責任は個人に帰する」という考え方なのです。
 たとえば、同じく仏教徒であっても、極楽に行く人もいれば地獄に行く人もいます。それは当然のことです。
 この二千数百年のあいだに仏教徒がどのくらいいたかは分かりませんが、「仏教徒のなかのだれかが地獄に堕ちたら、それは仏陀の責任であり、仏陀も地獄で反省しなければいけない」と考える人がいたならば、その考え方は間違いです。
 仏教には、「仏陀は満月を指し示すが、その満月を見るのは各人である」というたとえがあります。これを「指月(しがつ)のたとえ」といいます。
 教えは説かれていますが、それをどのように学び、実践するかは、あくまでも個人の問題であり、仏の責任とは考えられていないのです。(中略)
 日本では、「制度やシステムの責任」「役所や業界の責任」というようなとらえ方をすることがあまりにも多すぎます。これは戦前からの日本の特徴ですが、物事を集団的にしかとらえられないのは、要するに頭が悪いのです。
 スローガンや空気でしか人びとが動かないというのは、集合霊や軍隊アリのような動き方であり、各人が判断責任を持っていない証拠です。これは人びとの知性がきわめて弱いことと、全体の流れに対して、「いや、私はこう考える」とは言えないような精神的土壌があることを意味しています。
 しかし、個人の責任において判断し、意見を言い、その結果については甘んじて受ける勇気、気概が必要なのです。
(20~23ページ)

勇気、気概をもって、日本の国に真の意味での個人主義を──。

ちょっと厳しいけど、でも、今の日本人の一般的なあり方に、ビシッと喝(かつ)を入れられる教えですね。

厳しさこそが愛であることもある。

その典型が、この教えに見て取れるように思うのですが、みなさんはいかがお考えですか?

 

『繁栄の法』

大川隆法著

 

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わがままな人にも、そのいうことをしっかり聞いてあげて、してあげるようにするのが、人に優しくするってことだし、愛を与えるってことだよね? ・・・なーんて考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ほんとうの優しさと、意志の弱さによる優柔不断、この両者は外見上は非常に似ていますが、実際においては、かなりの違いがあるのです。
 みなさんはいま、「優しさ」という言葉で、あるいは「慈悲深い」という言葉で表わされている考え方を、もう一度、点検してみる必要があると思います。たとえば、まわりの人が言うことを「はいはい」と言って聞くことが、真実の優しさにつながるかどうか、それがほんとうの優しさなのかどうかという検討です。(中略)
 みなさんは、たとえ一時期、他人に対して厳しい面をのぞかせるようなことがあったとしても、たとえば、他人の悪いところを見いだし、それをしかるということでもって、厳しい面を見せることがあったとしても、それが長い目でみて愛である場合もあるということを知らねばなりません。(中略)その人が、いまここで立ち直らなければ、どうしようもないというような状況であるならば、厳しい一言を加えること、厳しい姿勢をとることも、大いなる愛であることを知らねばならないのです。(中略)
 これが、「怒る」ということと、「しかる」ということとの違いでもあると言えましょう。怒るということは、仏法真理に反したことだとよく言われています。だからといって、いつもにこにこしているだけであっては、世の中はうまくいかない場合もあります。これを「しかる」という言葉で表現するのです。(中略)
 ほんとうの意味において人びとを救うためには、彼らを立ち上がらせるためには、言うべきことは言い、また、修正させるべきことは修正させることも必要です。単に冷たく突き放すことだけであってはいけませんが、「言うべき時には言い、行動すべき時には行動する」という、割り切った考え方も大事であるということを知らなければなりません。
(163~168ページ)

大川隆法先生は、愛ゆえに厳しい姿勢を見せるべき場面では、慈悲が転化した仮の姿として、「勇気」が現われているのだ、と説かれます。

勇気あってこそ、愛をほんとうに示すことができることもある、と考えることができるのかもしれません。

愛っていうのは、ほんとに、一面的に理解するだけではいけない、奥深いものであるのだと改めて私は感じているのです。

 

『幸福の原点』

大川隆法著

 

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