ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



わたし、いま、ものすごく大きくって、抱えきれない問題を持ってるの。どうしたらいいの。どうやって解決して行ったらいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 結局、人生の達人と言われる人の生き方は、悩みの分断において優れていることが多いのです。いまの時点において、悩んで解決のつくことか、つかないことか、これを瞬時に決断していく人にとって、人生の重荷はそう多くはありません。そして、軽快かつ明瞭な人生観を持って生きていくことができるのです。
 みなさんは北陸地方の「屋根の雪下ろし」をご存じかもしれません。
 北陸地方では、屋根に積もった雪を放置しておくと、その雪の重みで、やがて家がつぶれてしまうところまで行くのです。そのような力を持った雪、家がつぶれるほどの重みを持った雪であるならば、それに対して、どう対策を立てればよいのかが重要な問題になるわけです。
 しかし、家をつぶすほどの何トンもある雪であっても、除雪する作業には、何トンもの重さのあるものを動かせる力が必要かといえば、そうではないのです。
 みなさんは、家の屋根から雪を下ろすのに、ブルドーザーを使っている人を見たことがあるでしょうか。実際は、そのようにはしないのです。どうするかといぅと、スコップで、「すくい「すくい、屋根から雪を下ろしているのです。
 すべてを集めれば、何百キロ、何千キロになるような雪であっても、スコップの一かきであるならば、子供でも下ろすことができます。そして、やがては、その屋根の雪はすべて片づいていくのです。
 悩みの解決というのは、実に、この屋根の雪下ろしと同じなのです。あまりに長く、そのまま放置しておくと、家がつぶれるほどの脅威となりますが、少しずつ少しずつスコップでそれを取り除いていくならば、それほど難しいことではないのです。
 この雪下ろしの作業が、実は、一日一生という枠において反省することであり、一日一生という枠のなかで行動するということに当たるのです。
 一生をどうするか、一生をどう最高度に輝かすか、そうしたことを考えると、途方もなく難しいことになりますが、一日一日をどう輝かしていくかということならば、そう難しいことではないのです。
(144~146ページ)

この「屋根の雪下ろしのたとえ」って、けっこうすごいお教えじゃないでしょうか。

いまの自分の悩みに置き換えて考えてみると、自分が何をしなくちゃいけないかが、具体的に見えてきますよね。

突如大きな仕事をしようとしなくてもいい。

まずは、今日一日、なにをするのか。

今日できることを、順番に淡々とやっていくこと。

そして、一日を終えたら反省して、また明日も淡々と頑張っていくこと。

そうやって一日一日を輝かせていくよう努力していけば、自分という家はつぶれることなく、屋根に積もった雪のように大きな悩みも片づいていく、ということだと私は思うのです。
 

『愛の原点』

大川隆法著


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幸福の科学では、いろんなことを教えてるけど、要するに、何を拝んだら救われるのかを教えてくれないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦が四十五年にわたって説いてきた教えというものは、人間の心のあり方を、いかにして鍛練し、素晴らしい境地にまで引き上げるかということであったのです。そのプロセス、あるいは教えの内容というものを、まったく取り去ってしまって、「とにかく、これだけをすれば救われる」というような安易な思想が、この世紀末の日本には跋扈(ばっこ)しています。まことにまことに情けないことであると私は思っております。
 そして、その結果、幸福の科学のような正しい団体が出てきて、人類救済の理想のもとに、人々の一人ひとりの機根に合わせた優れた教えを数多く出していっても、そのことの意味がわからない人がいるのです。そして、「そんなことを言っても、いったい何の教えかわからないから、何を拝んだら救われるのか、それを教えてくれ」──こういうことを言ってくるのです。
 「他の宗教では、たとえば阿弥陀様を拝むとか、観音様を拝むとか、これを唱えたら救われるとか、いろいろなことを言う。お線香をあげればいいとか、先祖に手を合わせて法華経をあげればいいとか、これをすればいいのだということがある。幸福の科学はいったい何をすればよいのか、それをひと言で言ってくれ」というようなことを言われます。そして、それに対して明確な答えがなければ、「これはおかしな宗教だ」「宗教になっていない」「教義がわからない」──このような批判をなさる方がいますが、「それは、そのように言うほうが間違っている」と私は思うのです。
 そもそも、釈迦の教え、仏陀の教えというものは、万人の一人ひとりにさまざまな機根があるということを前提として、いろいろな人にいろいろな教えを説いて、どんな方でも悟りに到れるように、豊富な教えを説いたものなのです。その結果が、弟子たちによってお経として編纂されて、八万四千ともいわれるような、経蔵、お経の蔵に入れるような豊富なお経、無尽蔵のお経になったわけです。
 お経の量だけをみますと、仏教はキリスト教の何百倍、何千倍、いや、それ以上の教えがあります。教えとしての厚みがまったく違うものなのです。そして、そのすべては、一つのこと、すなわち、「この地上に生きている、ありとしあらゆる人を、悟りの彼岸に渡したい」という念いから始まっているのです。
 ところが、(中略)現代人のなかには、心というものについて理解できない人間が数多くいるのです。心というものがどうしてもわからず、「心というのは神経作用の一種だ」というように思っている方もいます。あるいは、「脳が心なのだ。つまり、脳にある皺(しわ)、それから、いろいろな反応に対して現われる化学的、あるいは電気的な作用、これが心なのだ。要するに、人間というのは、コンピューターのような、反応する機械なのだ」と、人間を機械として捉えている方もいます。
 そうすると、心の教えを説いた仏陀の、その心の教えそのものが、抽象的な空理空論であって、霊的世界についての教えなども、単なるたとえ話や比喩と捉える方が出てくるわけです。心というものが、わからなくなってしまったら、そういうことになってしまいます。これが唯物論の結果でもありましょうし、あるいはカント以降の、あまりにもゆきすぎた理性主義の結末でもあるのかもしれません。
 やはり、私たちは原点に帰らなければならないと思います。仏陀が教えたことを、もう一度、謙虚に学び直すことです。
(53~57ページ)

釈迦(仏陀)が説いた教えは、人間の心のあり方を、いかにして鍛練し、素晴らしい境地にまで引き上げるかということだった。

あらゆる人を悟りの彼岸に渡したいという念いから、一人ひとりにさまざまな機根があることを前提に、どんな方でも悟りに到れるように豊富な教えを説いたものだった。

唯物論やゆきすぎた理性主義によって、心というものがどうしてもわからい人も現代には多いが、仏陀が教えたことを、もう一度、謙虚に学び直すことである──。

こういう考えのもと、大川隆法先生は、2500年前のインドの地でお釈迦さま(仏陀)が人びとに教えたことを、現代人にもわかる言葉でかみ砕いて、教えて下さっています。

現代日本語で学べるお釈迦さまの教えのありがたさ。

そして、その教えを超える、さらに高度な教えさえ、学んで行けることの凄さ。

改めてその幸福に私は思いを巡らせているのです。

 

『心の挑戦』

大川隆法著


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「スピリチュアル」って言葉、テレビでも雑誌でもネットでも、ものすごく身近になった感じがします。どうして、いまスピリチュアルなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、1992年に出版された『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本では、共産主義の代わりに、別な意味での一種の無神論的な唯物論が、数十年の間、知識人たちに信奉されていたのではないでしょうか。
 それに対して民衆の側には、「何かがおかしい」「そんなはずはないのではないか」という率直な気持ちがずっと滞(とどこお)っていた、あるいは伏流水のように流れていたのです。しかし、「知識人たちがそう言うなら、自分たちの考えはやはり迷信なのかな。古い時代の考えなのかな」というように、素朴な疑問を持ちつつも躊躇していたわけです。
 ところが、近年になって、「どうも知識人たちのほうが間違っていたのではないか」ということが次第しだいに明らかになってきました。そして、それにつれて、「では、自分たちが持っていた興味、関心というのは、いったい何だったのだろうか」「その問いに答えてくれるものはないのだろうか」という知的関心、欲求というものがでてきたわけです。それが今、新宗教ブームの背景にあるのではないでしょうか。
 こうした宗教的関心は、一時的なものではなく、人間性そのものに付随するものとして、人間が本来持っているものなのです。一部の人がそれを押さえつけようとしても、押さえつづけることはできないのです。
 なぜかは知らないけれども、お盆になれば郷里に帰って墓参りをしたくなる。周忌にはお坊さんを呼んで読経をしてもらいたくなる。また、お彼岸にも墓参りをしたくなる。お正月になれば神社に行きたくなる。
 ロでは「宗教は持っていない」とか「無神論者だ」と言いつつも、そういうことをするのが普通の人間です。
 このように矛盾した行動をとる理由は、根本的には信じているものがあるのに、それについて学校教育や世間では教えてくれなくなったので、それを説明する言葉が見つからないからなのです。それゆえに無意識のうちに本音と建前の使い分けがなされているのです。
 新宗教の最近の動きは、こうした本音に対して、言葉を与えてあげようとしているものなのです。
「あなた方が本当に思っていたこと、ずっと押さえられていて、伏流水のように流れていた思いとは、いったい何であったのか。それについて、知的に、他の人にわかるように、議論できるような言葉を与えてあげましょう」。
 それが新宗教のなかで流れている動きであり、そういった民衆の感情を代弁しているのが、新しい宗教の運動でもあるのです。
 しかも、そのなかの中核的存在である「幸福の科学」の役割というのは、たとえようもなく大きなものであると思います。今まで口を封じられていた民衆たちに、真実の意味を言葉として与えただけではありません。知識人として振舞っていた人たちに対し、その知識が偽物であったということを、理論的に、かつ、非常に知性的に論証しているのです。
(16~19ページ)

これはまさに新宗教がブームのまっただなかだった1992年のご論考です。

ところが、そのわずか3年後に、あのオウム教の地下鉄サリン事件が起きて、その結果、新しい宗教に対する否定的な世論が作られてしまいました。

それから25年の歳月を経て、「スピリチュアル」は、ブームとして盛り上がっただけじゃなく、もう普通のものとなっている感じがします。

その背景事情は、結局のところ、1992年当時と何もかわらないんじゃないかと思えます。

だとすると、ここで述べられている、「その素朴な感覚に説明する言葉を与える」という「幸福の科学」の役割は、25年前だけでなく今現在であっても、実はまったく変わっていないのだと私は思っているのです。

 

『宗教の挑戦』

大川隆法著


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会社で自分だけが出世していいのかな、給料が自分だけ上がったりしていいのかなあ。・・・なーんて疑問もってる人って、いますよね。宗教的な性格の方なんだと思うけど、あなたはどうですか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 まず言えることは、「人生は勝負の連続である」ということです。
 人生において、大きな転機というものは何回かしかないかもしれませんが、細かく見れば、やはり毎日毎日が勝負なのです。「きょう一日が勝利するかどうか」ということです。(中略)
 その毎日の連続体が人生であり、大勢の人々の人生が交錯しているのが、この実社会なのです。そういう見方が必要だと思います。
 そして、「勝負には相手があり、勝つ者と負ける者がある」 という考えも当然ありますが、各人が自分の人生に勝つことで、両者が共に勝って生きていくということもあるわけです。
 たとえば、会社のような組織体のなかで、ある人が勝つということは、単にライバルとの関係だけで見れば、その人が、他の人よりも出世が早かったり給料が上がったりすることかもしれません。しかし、会社のなかで、そういう人が増えていくということは、トータルでは、企業体として外部の会社に勝つことを意味するのです。
 「お互いに出し抜いてはいけない。他の人より、よい発明をしたり、よい仕事をしたりしてはいけない。みんなが同じでなければいけない」というように考えて、会社のなかで勝つ人が出ないようにするということはありえます。しかし、「勝ちもないが、負けもない」という状態は、ある意味では全員が負けているのかもしれません。
 そういう、全員が負けているような共同体をつくった場合には、外部との戦いでは敗れます。だれも不幸にならないようにしたつもりが、結果において、外との競争に敗れて会社がつぶれ、全員が敗北者になるということがあるのです。
 したがって、同僚や先輩から煙たがられるようであっても、優れた発明や発見をしたり、優れた提案をしたり、新しい仕事をつくり出したりする、優秀な人、傑出した人がいてくれたほうがよいのです。その結果、まわりの人が負けているように見えても、実は、企業体としての勝利になることがあります。その人が勝つことによって、ほかの人たちは、負けているかに見えて、実際には他社との競争における勝利の分配を一緒に受けているのです。
(106~108ページ)

「人生の勝負に勝つ」という考え方は、競争社会がなぜあるのか、そこで私たちはどう考え、行動していくのがいいのか、という根本的な問題に迫っていくものではないでしょうか。

そして、ここで大川隆法先生が教えられるのは、自分だけが勝てばいいとか、勝つことだけが大事だとかいうような偏った教えではありません。

・・・というあたりは、この『常勝の法』をひもとくことで、もっともっと腑に落ちる話であることが理解できると私は思っているのです。

『常勝の法』

大川隆法著


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「縁起の理法」というのがあると言うけれど、素晴らしい人が報われずに早死にしてしまったり、悪いことしてるのに大手を振って繁栄してる人がいるのはなぜなんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

よい原因をつくったにもかかわらず、
悪い結果が出ているように見えたり、
悪い原因をつくったにもかかわらず、
よい結果が現われているように見えたりすることを
「異熟(いじゅく)」といい、
その結果を「異熟果(いじゅくか)」といいます。
世の中の人には、
それはまことに奇怪なことのように思えるかもしれません。

しかし、よくよく観察していただきたいのです。
この世的には成功しているように見える人であっても、
その成功の原動力がその人の持つ欲望である場合、
その人は欲望の炎をさらに燃え立たせて、
大きな欲望へと変えています。
傍目には成功しているように見えても、
よくよく目を凝らしてみると、その人は燃えています。
眼も、鼻も、口も、からだも、心も、
炎に包まれ、燃えています。
煩悩の炎に包まれ、平安なる心を失って、
欲望のなかに、猜疑心や嫉妬心、恐怖心のなかに生きています。
したがって、結果を外面的な成功だけに求めてはなりません。
外面的な成功だけを求めた人は、
その姿をよくよく見るならば、苦しんでいるはずです。

一方、清く生きたにもかかわらず、
この世的には恵まれない最期を迎えた人もいることでしょう。
しかしながら、この世において努力したことは、
それが成就しなくとも、
その人の魂の糧として確実に残っているのです。

すなわち、「この世を去った世界が厳然としてある」ということが、
仏の、そして神の、公平な世界があるということの証明なのです。
仏神の心、その教えに則って生きた人が、
死後に苦しみを得ることはありません。
また、仏神の教えに反した人が、
死後、安らぎの世界に入ることもありません。
正しい心を持ち、正しく生きた人には、
正しい結果が必ず現われるのです。
それが仏の創った世界です。
それは実に単純明快な世界です。
報いられないということは、まったくありえない世界なのです。
みなさんはその世界を信じるべきです。

この世、すなわち現象世界においては、
原因と結果が必ずしも整合していないように見えます。
しかし、そうした論理的矛盾があるからこそ、
「世界はこの世だけではない」ということが明確に分かるのです。
この世以外の世界があってはじめて、論理が完結するのです。
これが原因・結果の法則、時間縁起といわれるものです。
(148~152ページ)

大宇宙を貫く「原因・結果の法則」(「縁起の理法」または「時間縁起」とも呼ばれる)は、この世では必ずしも成り立っていないように見える。

しかし、あの世があってはじめて、この法則は論理が完結することがわかる。

だからこそ、あの世は本当にあるのだ──。

論理的にものを考える人であればあるほど、これはとても合理的に理解できる話です。

純粋に神仏の教えを信じ切ることができるのは、とても尊いことです。

でも、ストレートに信じ切るのが難しい方もおいででしょう。

そんな方は、こういうちょっと違った切り口で、神仏がいかに公平な方なのかとか、「縁起の理法」の意味などを考えてみられたら、いかがでしょう。

それも「信仰」に入っていくための道の一つでもあるのだろうと私は思うのです。

 

『幸福の革命』

大川隆法著

 

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怒りはいけないって、教えられてますよね。じゃ、どんな怒りも、ぜったいにいけないのって思ってる人、いませんか? 似たテーマの記事もあって、重なるところもあるけど、今日は少し違う角度から。

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 「瞋(じん)」は、カーッとこみ上げてくる怒り、自分で統制できない怒りです。短気で、すぐカッとしてしまう人がよくいます。(中略)この怒りのところを抑えると、心は常に穏やかで、修行に適した状態になります。
 ただ、これにも例外があるので付け加えておきます。ここで言われる怒りというのは、いわゆる「私憤」です。私の怒り、憤りを戒めているのです。これに対して「公憤」というものがあります。公の怒り、憤りです。これは完全になくしてしまってはいけないことなのです。この公の怒りというものがなくなると、世の中を前進させる力がなくなるのです。
 たとえば、非常な圧政、封建体制が続いていて、農民たちももはやがまんがならないし、このままでは世の中が立ちいかないというときに、革命のために起ち上がる、明治維新の志士のような人たちがいます。これは怒りに走っているから間違いかといえば、そうではなく、これは公憤なのです。公の憤りというのは失ってはいけないものです。これは正義とも関わってくることです。
 ですから、私憤、すなわち自分の個人的、本能的、反応的な怒りではなく、公の怒り、すなわち理性を内に秘めたような怒りを、ある意味では持っていなければ、世の中は少しも変わりませんから、これは知っておいてください。
 宗教改革なども、多くはみな、この公の怒りを内蔵しているものです。現状の宗教では人は救えない、そこで起ち上がる──そのエネルギーは公の怒りです。これは「瞋(じん)」とは違いますので、間違わないでいただきたいと思います。
 それから、個人的な領域においても、「怒る」ということと「叱る」ということはまた別のことです。人が間違ったことをしているのに、それをそのまま為さしめる、許容するのがよいという意味では必ずしもありません。叱るということはまた別にあります。子供がいたずらをして言うことを聞かないときに、親としては叱らなくてはいけません。それを叱らないで甘やかしておくと、いざというときに自分でチェックができない子供ができあがってきます。このように、未熟なる者に対して強い指導を与える場合の叱るという行為は、また別の行為です。
 この二つの例外があるということは知っておいてください。
(81~85ページ)

社会改革のための公的な怒り(「公憤」)と、教育のために愛をもって「叱る」こと。

この二つは、「怒ってはならない」という教えの例外にあたる。

もちろん、安易にこの例外に逃げ込んで、荒れ狂う心の炎を誤魔化してはならないだろうと思います。

でも、今日のお教えは、「怒り」というものについて、とっても大事なポイントを簡潔に教えて下さっていたのだと改めて私は思っているのです。

 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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夫の両親と同居してるんだけど、姑(しゅうとめ)が口うるさくって、嫌で嫌でしょうがないの。どうしたらいいの? なーんて不満を抱えた人って、多いんじゃないかな?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あなたが南海の孤島で生きるのならばともかく、人間社会のなかで生きる以上は、なんらかの縁というものは無視できないのです。これはやや運命論的になるかもしれませんが、あなたの結婚相手が前世において定めた〝運命の人〟であるならば、あなたはその人の家族とも、魂的にはなんらかの関わりがあると考えなければなりません。
 前世、前々世、さらにその前の前世において、かならずや、どこかであなたとも縁のあった人たちであることは、たしかなのです。どこかで友人であったり、親であったり、兄弟であったり、親戚であったり、あるいは職場の同僚であったり、いろいろな親密な縁があったことだけは間違いがありません。
 また、嫁と姑の軋轢(あつれき)というものは、よく言われることですけれども、魂的に見たならば、嫁と姑というものは、ひじょうに縁が探いものなのです。魂的には、切っても切れないほどの深い縁があることが多いのです。
 というのは、自分の実の母親というものは、生まれてから二十数年間、自分を育ててくれた、いわば教育者であったわけですけれども、嫁入り先の姑というのは、嫁に行ってからのあなたを、また何十年か教育してくれる方であるのです。ですから、あなたには、ふたりの偉大な教育者が生まれつき待っていたと考えなくてはなりません。
 実の母は、生まれてから成長するまでのあいだ、すなわち、あなたが自分の意志でどうにもできない段階での教育者でありましたが、夫の母というものは、あなたが大人になって、一人前の判断力を備えた後、あなたを教育すべく現われてくる人でありますから、これはあなたが自主的に選んで入る師弟関係にも似ていると言ってよいかもしれません。
 ここで感情的な反発が起きるのは、よく知られていることですが、たいていの場合、あなたの姑になる方が、あなたよりもはるかに人生経験も多く、いろいろなことを知っているがために、あなたのやっていることが危なっかしくて見ていられないということが多いように思うのです。そういうときにあれこれと注意をしたくなるわけで、注意をされたほうは新入社員のようなものですから、一つひとつがひじょうにこたえる、こういうことが魂の葛藤になっているように思います。(中略)
 さまざまに窮屈な思いをすることもありましょうが、それはあなたが実社会で訓練されるのと同じような魂の訓練をしているのだと思わなければなりません。ですから、いろいろな環境が出てきても、すべてをみずからの向上のために役立てようと思うことです。
 それと、舅、姑、あるいは小姑と、いろいろ出てくるでしょうけれども、どの人にもそれぞれよいところはあるものです。ですから、「長所とつき合えば悪人はいない」と言われるように、それぞれの人の持っているよいところを学ぼうという心で接していますと、自然自然に、あなたにとっては勉強になりますし、また、先生役になっている人たちも、勉強されていると思えば、あなたにはなかなか健気なところがあると感心してくれるものなのです。どうか知恵を磨いてください。
(93~96ページ)

結婚相手が〝運命の人〟であるならば、姑(しゅうとめ)も魂的には、切っても切れないほどの深い縁があることが多い。

窮屈な思いをすることがあるのは、実社会で訓練されるのと同じような魂の訓練をしているのだと思わなければならない

「長所とつき合えば悪人はいない」のであって、よいところを学ぼうという心で接して、すべてをみずからの向上のために役立てようと思うことである──。

大川隆法先生は、要は、魂の縁生という霊的観点を踏まえて、魂修行だと思ってのぞむことだというアドバイスをしてくださっているのだと私は思うのです。

 

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著



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信仰って何なの? 何を信じるの。それはほんとに信じられるものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

信仰については、いろんな角度からの説明の仕方があるけれど、幸福の科学の大川隆法先生は、たとえば『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 何を信ずるか。言うまでもありません。いちばん簡単なことです。「この世を創られ、私たちを見守っておられる大宇宙の神がいらっしゃる」ということ、「私たち人間は、神が創られた子供である」ということ、この単純な事実から出発いたします。(中略)
 しかし、考えてもみてください。人間が偶然にできあがり、そして偶然にできあがるのみならず、ちょうどゼンマイ仕掛けの人形か何かのように、魂なく動いているだけの存在であるという考えを前提とするならば、そこに、どうして愛が生まれてくるでしょうか。(中略)
 愛だけではありません。もっと素晴らしい、人間的な多くの高貴な感情は、すべて魂の属性なのです。美しきを見て感動する心、誠実さを見てよろこぶ心、素直さを見て尊いと思う心、そして自らの命をも厭わずに、神のために生きてゆく人たちを見たときのその感動は、唯物的なものの見方からは決して出てこないのです。(中略)
 そうして、神が宇宙を創られ、人間たちを創られて、今もなお見ておられると信ずることが、私たちの生き方をどれほどまでに素晴らしいものへと変えてゆくでしょうか。その神の目があるからこそ、大いなるものが見つづけていると考えるからこそ、熱いまなざしを送りつづけているという確かな手応えがあるからこそ、私たちは日々自らを律し、素晴らしき人間となってゆくために、自己改革に励むのではないでしょうか。(中略)この事実を受け入れたところで、何ひとつ私たちが困ることはないのです。
 その事実を受け入れて困る人間は、生きている間に、さんざん自分のやりたい放題のことをし、他の人びとに迷惑をかけている人びとだけであるはずです。彼らは恐れるに足るでしょう。死んで何もかもなくなると思えばこそ、そのような生き方ができるのでしょう。もし、死んで後に生命があるとするならば、たいへんなことであります。(中略)
 けれども、人間としての存在が是とされ、また他の人びとにも、「こういう人といっしょに生きていてよかった」と言われるような人であるならば、この「信仰」ということを当然のことと受けとめて、何ら恥じることはないはずです。そして、それは素晴らしいことです。
 今、自分がどのような姿として現われていたとしても、「本来神の子として創られた存在であるならば、無限の可能性があるのだ」「まだまだ自分は磨いてゆけば光ってゆくのだ」と思えるからこそ、個人としても素晴らしくなり、社会としても素晴らしくなってゆくのです。
 これは、どうしても飛び越えねばならない最初の関門です。神を信ずる者にとっては、すべては輝きに満ちて見えます。世界は宝の山に見えます。しかし、神を信じない者にとっては、ああ、世界はどのように見えることでしょうか。その、たったひとつの心境の違いだけで、見える世界までが違ってくるのです。
 同じく数十年の人生を生きるのであるならば、損得で考えても、素晴らしい人生を生きるほうをとってゆくことが得であり、人間として当然の義務であると、私は思うのです。
(77~82ページ)

神を信じることは、どうしても飛び越えねばならない最初の関門である。

しかし、信仰を持って素晴らしい人生を生きることは、人間として当然の義務でもある──。

ごくごく分かりやすい話ではないでしょうか。

もちろん、幸福の科学には、信仰についての深い教えとして、「三宝帰依」という教えもありますし、30年あまり説き続けられたご説法の中で、その先のもっともっと深い教えも説かれています。

今日は、1990年というもっとも初期に説かれたお教えをご紹介してみました。

ちなみに、いよいよ明日は、大川隆法先生が2017年を締めくくる御法話「愛を広げる力」を説かれます。本会場は幕張メッセで、全世界3500箇所に同時衛星中継されるそうです。

どんなお教えになるんでしょうか。とっても楽しみです。

 

『悟りの極致とは何か』

 大川隆法著


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なんで裏切られなきゃいけないんだろう。自分はあの人に、あんなに手取り足取り教えてあげたのに。あの恩知らず、どうしてくれよう。・・・なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 こうしたとき、人間はどうしても、「裏切られた。あいつにしてやられた」という思いを持ちます。
 そうした感情がなぜ起きるのかといえば、「ギブ・アンド:アイク」という考え方が忍び込んできていることが原因です。「与えたら、与え返してくれるものだ」という期待感や、「自分がほめた人は、自分になついてくれるものだ」という考えを、無意識のうちに持っているのです。
 したがって、与えきりの気持ちを出していくことが必要です。すなわち、「人に好意を与えるときには、見返りを求めない。一方的に与え、しかも、与えたことを忘れてしまう」ということです。
 「自分が相手に与えたことは忘れずにいて、相手が自分に与えてくれたことは忘れる」というところから、人生の不幸が始まります。「私はこれだけしてやったのに、相手は何もしてくれなかった」という思いが、不幸の出発点なのです。
 「私はこれだけしてやったのに、愛してやったのに、よくしてやったのに、相手からのお返しがない。私の恩が分かっていない」
 たいていはこのように考えるものですが、この「してやった」という気持ちのなかには、一種の人格的未熱さがあることに気づかなくてはなりません。あげるときには、〝ただ″であげることが大切なのです。
 特に心の問題はそうです。優しさや気遣いなど、人への愛は与えきりであり、一方通行だと思ってください。もし愛が返ってきたならば、「得をした」と思えばよいのです。
 お返しをもらおうと考えてはいけません。とにかく与えきり、人にしてあげたことはすぐに忘れることです。しかし、人からしてもらったことは、いつまでも覚えていて、感謝をしていくことです。
 世の中に恩知らずの数は尽きないのです。その恩知らずのなかには、ほかならぬ自分自身も入っていることを忘れてはいけません。
 「私は自分の力で道を切り開いてきた」と思っても、その途中においては、さまざまな人の恩恵に浴していることも事実でしょう。自分の受けた恩を、両親、先生、友人、会社の上司や同僚などの温かい愛を、忘れているのです。
 そして、「人は私に何もしてくれなかった」「あれだけしてあげたのに、飼い犬に手をかまれた」などという発言になってきます。
 「他人にしてあげたことを覚えている人ほど、自分が他人からしてもらったことを忘れやすい」という現実があるのです。
(215~217ページ)

恩知らずなんていうけど、実は自分もその一人なんじゃないのかな。

自分はどれだけ、他の人の恩を覚えているだろうか。

むしろ忘れてる方が多いんじゃないのかな。

だとしたら、自分がしてあげたことを忘れてる人を非難するのはやめなくちゃ。

誰かに何かをしてあげるときは、ただであげること。

してあげたことはさっさと忘れること。

逆に、誰かにしてもらったことは、できるだけ覚えておいて、感謝していくこと。

それが幸福な人生を生き抜いていくための大事なコツであることを、今日は教えていただいたのだと私は思うのです。

 

『不動心』

大川隆法著



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幸福の科学には、人類の未来に関する予言を書いた経典がいくつもあったけど、あたったのもあたってないのもあったでしょ。予言って、どう考えればいいの? なーんて疑問もってる人、多いんじゃないかなあ。

幸福の科学の大川隆法先生は、『運命の発見 説法自由自在②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ノストラダムスであるとかエリヤであるとか、黙示録のヨハネであるとか何人かの予言を収録していますが、内容に多少ずれがあります。大筋においては変わらないのですが、ずれはあります。しかしそのずれを、私はずれのままで出すつもりでいます。この部分が、じつは認識力の違いなのです。認識力の違いの部分がずれになるのです。
 では、結果に責任が持てるかどうかですが、これは難しくて、そのときになってみないとわかりません。(中略)彼らの予想が人類の前途にある厳しい環境を予想しているので、それを世に問うことに対する悩みは深いのですが、ただ警告の書としてそういうものがひとつはあってもいいかもしれません。
 しかし、狼が来るぞ、こんな事が起きるぞ、と言ってまわるのが私たちの仕事ではありません。そういう環境が、環境としてもしあったとしても、そのなかでどういう心を持って生きていくか、そのように「この世とあの世を貫く幸福」を探究しているのが私たちであって、この世だけにこだわってもいけないという考え、このへんを大事にしたいと思っています。
 運命あるいは予言についての考え方自体も、ひとつの霊的な現象であることは事実なので、これも多少は出さざるをえないだろうと思います。ただそのときの問題点は、時間的な確定がひじょうに難しいということです。ある程度まではわかりますが、どうしてもずれが出ます。これはどうしようもありません。
 未来というものをどう見るか、これも認識の問題ですが、私の認識では、可変的な部分がだいぶあるように思います。変えられる部分がだいぶ残っているように思うのです。しかしノストラダムスの予言などを見ると、「運命はもう変えられない。だれも逃れることはできないのだ。」というふうに書いてありますね。彼の考えだから、それは変えられないのでしょう。高級霊であっても、ああいう予言専門でやっている人は「変えられない。」と言います(中略)。
 ただ救いとして、「自分は八次元領域にいるが、自分より高次の者が手直しをするときには、私の予言ははずれる。高次の者がこれを変えようとした場合にははずれるが、私の段階で認識するかぎり、未来は確定しており、動かない。」とはっきり言っています。(中略)
 結局、予言については、未来に関する見取り図があることは知っていてもいいでしょうが、ただ、まだまだ変えていける余地はあるのではないかと、私自身は感じています。
(214~216ページ)

ここに紹介したのは、1988年の講演会での質疑応答です。

ノストラダムスとかエリヤとか、黙示録のヨハネとか、この直後に霊言集として出版された有名な霊人の予言について、どう考えればよいかが、要領よく解説されています。

まず、予言者ごとに予言内容のずれがあるのは、霊人の認識力の違いであること。

また、その性質上、予言にはどうしても時間的ずれが出ること。

予言が存在するのは事実なので多少は出版せざるを得ないが、この世だけにこだわってもいけないと考えておられること。

しかも、ノストラダムスの予言にもかかわらず、大川隆法先生は、未来は変えられると考えておられること。

・・・そして、幸福の科学の熱心な救世運動によって、20世紀末、ノストラダムスの予言は、見事に変えられることとなったのだと改めて私は思っているのです。

『運命の発見 説法自由自在②』

 大川隆法著



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悪いことをしたら地獄へ堕ちるとか、来世のために功徳を積めなんて、作り話でしょ。今を楽しまなきゃ、一度きりの人生、どうするのなんて、友だちに言われるんだ。将来のために努力するって、ほんとにやるべきことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代人の多くは、「悪いことをしたら地獄へ堕ちる」という話を、「そんなことは子供騙しの嘘話(うそばなし)だ」と受け取るでしょう。また、「来世のために功徳を積む」という話についても、「これは騙しているのだ。やはり、いまを楽しまなければいけない」と言ったりします。(中略)
 「何十年も先のことについては、想像できないし、それがほんとうかどうかも分からないではないか。実際に死んだあと、あの世がなかったら、どうするのだ。あの世の話は信用できない」と言う人は数多くいます。
 「あの世の話を聞くこともあるが、あの世がなかったとしたら、あと何年か何十年かで自分の人生は終わりではないか」と思うと、「現在ただいまを楽しまなくてどうする」という考え方が出てきます。
 また、「『あの世がある』と言うが、それは嘘かもしれないではないか。『悪いことをしたら地獄に堕ちる』という話は、嘘かもしれないではないか。悪いことをしている人はたくさんいるので、そういう人がみな地獄に堕ちるとしたら大変なことになる。だから、そんなことはないのではないか」と考える人もいるでしょう。
 光の天使たちが言うことは非常に先の長い話である場合が多いし、彼らは、一見、本人にとって不利益になるようなことや、本人が聞くと、耳が痛かったり、欲求不満で怒ったりするようなことを言う場合も多いのです。(中略)
 「これは、将来、役に立つ」と言われても、役に立つか立たないかは、そのときになってみないと分からないので、「そんな不確かなもののために、きょうの一日を犠牲にしたくない」という気持ちになることは、分からなくもありません。
 しかし、「将来のために何かを蓄える。将来のために努力する」という考え方は、やはり、霊的な考え方の第一歩なのです。これができるかどうかが分かれ目です。
(190~193ページ)

今は実感としてわからなくとも。

自分の将来のため、未来のため、来世のために、いま努力して功徳を積むこと。

そう考えることができるというのは、じつは「霊的な考え方」の第一歩である──。

ここで「霊的」というのは、肉体に振り回されるだけの動物的考え方よりも進化していて、高度だということ。

そして、仏や神に近い、人間としてあるべき方向であることを教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『青春の原点』

大川隆法著


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