あーあ、どうしていいか分からないんだよね。あのとき、ああしてれば、こんなことにならなかったのにね。しがらみもいっぱいあって、ああだこうだ悩んでしまって、こうしようって、なかなか決められないんだ…。 なーんて悩みもってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
さて、次は一歩を踏み出すことです。やるぞと思い、そして工夫をこらして、そして現実に、問題とぶつかってゆくことです。現実に、新たな展開をしていくことです。現実に、何らかの形を作り出していくことです。これがだいじだと言えましょう。
「決然として立つ」瞬間は、どなたの人生においても、かならず一度はなければならない瞬間であると思います。もしみずからの過去をふり返って、決然として立つという、そういう機会がなかったとするならば、それはみじめな人生であったと言わざるを得ません。
決然として立つときに、そこに光がほとばしります。決然として立つときに、そこに勇気がほとばしります。決然として立つときに、あらゆる難問が解決されてゆくのです。
多くの人は悩みのなかに置かれているけれども、それは霊的な目で見たら、まるで小人の国につかまったガリバーの姿であるように、私には思えるのです。小人たちが、横たわっているガリバーに鎖をかけ、そしていろんなもので、杭を打ったりして、縄でしばっているわけですが、これなどはガリバーが本気になれば、チェーンであろうが、縄であろうが、あるいはその縄に縛りつけられている杭であろうが、このようなものを振りほどいて立ち上がることはできるはずです。決然としてガリバーが立ったときに、小人たちは逃げ惑うはずなのです。そうではないですか。
自分が巨人であることを忘れ、ちいさな小人たちに縛られていると錯覚している。そんなことであっていいはずはありません。いざ右手を上げ、左手を上げ、足を上げ、腰を上げて立ち上がることです。それがだいじです。みずからを縛りつけているチェーンを切ること、みずからを縛りつけている縄をほどくこと、そして決然として立ち上がること。それが人生のなかにおいて、大いなる問題を解決していくための鍵となるのです。
そのような事をしないで逃げ惑っていても、けっして道は開けないのです。とくに、私が言っておきたいことは、他人任せの人生というのは危ういということなのです。人の助けばかりを求めている人生は危ういのです。
決然として、立つべきときには立って、問題をみずから解決していこうとするカがなくて、どうしますか。砕氷船の如く、氷を割って進もうとしないでどうしますか。立ち往生しているうちに、船は氷で固められてゆきます。そんなことではいけない。決然として前に進んで、氷を砕いてゆきなさい。そうでなければ、いったいだれがあなたがたを、この世の悩みから脱出させることができるでしょうか。
決然として立ち上がり、行為をするときに、その人は後光につつまれ、天上界の天使たちも大いに喜んでいます。過去をふり返る心、過去に縛られる心、過去に執われる心、それを今、決然としてふり払って、新たな第一歩を踏み出していくことがだいじです。
(121~123ページ)
決然として立て。
決然と、立つべきときには立って、問題をみずから解決していこうと決意せよ。
一歩を踏み出せ。問題にぶつかってゆけ──。
光がほとばしる仏の言葉に、勇気が、出てきませんか?
今日は、この仏の言魂をしみじみと味わってみたいを私は思っているのです。
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『幸福への道標』
大川隆法著 |
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