ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



幸福の科学では、「自己責任」って、よく教えられるでしょ。でも、自分だけの責任じゃないことって、たくさんあると思うしさ、そんなこと言われても、なかなか腑に落ちる気がしないんだよね。どう理解したらいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向け書籍『子どもにとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、子供たちに対して、こう教えておられます。

 世の中には、ねうちのあるものがたくさんあるけれども、ねうちのあるもの同士が、たがいにぶつかることがある。そのときに、「どちらを先にして、どちらを後にするか。」「自分はどちらを選ぶか。」ということを決めるのに、ずいぶん苦しむことがあるんだ。(中略)
 大人が一人だけのときは、その人の意見に全部合わせることができるけれども、別の大人の人もいるときに、それぞれの人から、ちがうことを言われたら、「自分はどちらの意見を選び取るか。」ということで、子どものほうもためされるわけだね。
 大人同士の意見がちがうときは、どちらかの人がすべてまちがっているというわけではないんだ。いろいろな物事の中で、どの部分がより大切だと思うかによって、少し考え方がちがってくることもあるんだ。
 このときに、「自分は、これが正しいと思う。」と考えて選び取ったものに対しては、自分自身の責任(負わなければいけない務め)が生まれる。これを「自己責任」というんだ。
 そういうことを勉強していかなければいけないということだね。
 世の中には、「いいこと」というものはたくさんある。例えば、「遊びたい。」という気持ちもあるだろう。「勉強をしなければいけない。」という気持ちもあるだろう。それから、「家の手伝いもしなければいけない。」ということもあるだろう。
 それらの一つひとつは、いいことかもしれないけれども、いろいろなもの同士がぶつかり合うこともあるわけだね。その中から何を取るか、何を選んでいくかということに、自分の責任が出てくるんだ。
 そして、「自分が選んだことの結果は、どうなったか。」ということが、自分の経験となって、しだいにたまっていく。その中で、「自分はどういう人間なのか。」ということが、だんだん決まっていくんだ。(中略)
 何を取るかということは、むずかしいことだね。
 いろいろなものの中から選ぶときには、それぞれに比べてみて、「どれを先にして、どれを後にするか。」とか、「どれを一つだけ選ぶか。」とか考えなければいけない。こういうことを「優先順位をつける」というんだ。
 こういうことは、みんなの生活の中にもあるのではないかな。(中略)
 それぞれのことは、どれも、ねうちのあることなんだけれども、それらがぶつかり合ってしまい、両立しないことがある。そのときに、どちらを取るのがいいのかを考えるという、とてもむずかしい問題があるんだ。
 このときに、君がいいかっこうをしようとしても、全部はできないよね。「自分には、これはできるけれども、これはできない。」というふうに、何かを選んで、何かをすてなければいけなくなる。自分の人生にとって何が大事なものなのかを考え、それを選び取っていく努力が必要になるんだ。この中で智慧もみがかれていくんだよ。ここに、君という人間の成長もあるんだ。
(58~63ページ)

世の中では、ねうちのあるもの同士が、互いにぶつかることがある。

そのときに、どちらを選ぶかを、自分で考えて決めなくてはならない。その選択に対して生まれるのが、自己責任である。

自分が選んだことの結果がどうなったかは、経験となって蓄積されていく。自分の人生にとって何が大事かを考え、それを選び取っていく努力の中で、智慧もみがかれていくし、自分という人間の成長もある──。

ここでは人生修行の意味について、子どもでも分かるようにやさしく、でも、私たち大人にとってもとても勉強になる形で、教えを説いてくださっています。

こんなふうにやさしく、でもレベルを落とさずに教えるなんて、そうそう簡単にできることではありません。

人生の達人でもあられる仏だからこそではないかと私は思っているのです。


『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著

 

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オレって、こんなに仕事できるのに、会社じゃぜんぜん評価してくれないんだよね。それどころか、なんだか煙たがれてる感じでさ。こんな小さい会社って、やっぱオレのいる場所じゃないんだよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 優秀な人は、仕事を習い始めのころには、いかに自分ができるかを証明することに血道をあげるものです。これは、幸福の科学で教えている「与える愛」とは逆であり、まさしく「奪う愛」、称讚を求める愛であると思います。
 いかに自分が認められるかということに夢中になって、人の評価が低いと、「これでもか、これでもか」と、もっとがんばるわけですが、がんばればがんばるほど、周りの人は、なぜか知らないけれども、しらけた目で見はじめるのです。これがなかなかわかりません。みなさんも経験があるのではないかと思います。がんばればがんばるほど、なぜか知らないけれども、周りの評価は逆になってくるということがあるのです。
 それは、後のち考えてみると、結局は愛を奪っていたのだということに気づくでしょう。多くの人からのほめ言葉や称讚を得ようとしてがんばっていると、他の人から見てみれば、それを認めることによって、何か自分から持ち出しが出るような感じ、小遣いが減っていくような感じがするのです。いかにも認めてほしそうに動いている人を見ると、その人をほめたりすれば損をするような気がするのです。(中略)
 実際は、「人から認められよう、認められよう」と思ってがんばっているあいだというのは、他の人がよく見えることはありません。自分が認められることを中心に考えているときというのは、他の人がよく見えることはなく、他の人は自分を支えるための神輿(みこし)を担いでいる人だ、というような錯覚に陥っているのです。
 すなわち、自分が舞い上がることばかりを考えている人は、決して他の人を幸福にすることはできないのです。人というものは非常に敏感なものです。その人とつきあって、決して自分が幸福になれないのであれば、遠ざかっていきます。「そういう人とは、なんとか一線を画したい」と思いはじめます。(中略)
 ほんとうは、自分ひとりの力で仕事をしているのではなく、多くの人たちのチームワークによって、仕事が成り立っているのです。つまり、自分が自己発揮できる前提には、他の人びとの力があるのです。それを忘れてはいけません。
 したがって、この本を読んでいるさなかにおいて、挫折や逆境の真っただなかにいると思っている人がいたならば、どうか、過去の何年間、あるいは何十年間の自分の生き方を振り返ってみて、バランスを崩していなかったかどうか、また、自分の評価ばかりを考えて、他の人びとを評価することを忘れてきたのではないか、そうしたことを考えていただきたいと思います。
 こうした見方ができるようになるということは、非常に大きなことなのです。人間が成長していくためのきっかけは幾つかありますが、ほんとうに底光りをしてくる人を見ると、やはり何らかの試練は通り越してきているように思います。(中略)
 試練というものは、そう長く続くものではありませんから、要は、その間にどれだけのものを学べるかということが課題であって、学べるだけのものを学び尽くしてしまうということが大事だと思います。
(29~34ページ)

「人から認められよう」と思ってがんばるというのは、「与える愛」の逆、つまり典型的な「奪う愛」。

決して他の人を幸福にすることはできないから、敏感に人は自分から遠ざかっていく。

挫折や逆境の真っただなかにいる人は、原因がそこにないかを反省してみて、それを一つの学びとしていくこと──。

つまりは、「常勝思考」を身につけることができれば、挫折や逆境も、大事な魂の学びの糧になるんだってことなんだと私は理解しているのです。
 

『常勝思考』

 大川隆法著

 



 

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事業はじめたんだ。で、この事業が真に成功したっていえるのは、どういう状態なんだろう。ゴールのイメージが欲しいんだけどな。幸福の科学では、「発展・繁栄」とかいうでしょ。この繁栄というのに、なにかヒントがないのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は、真の繁栄と言えるためには四つの条件が備わらなければならないと考えます。
 一番目の条件は、「世間の人が、その人を成功したと認める」ということです。自分で、「自分は成功した。繁栄した」と言っているだけではなく、それが、客観的指標によって、多くの人たちにも認められる必要があると思います。人の目は正確です。多くの人たちに、「やはり、それだけのものである」と認められるようなものであってほしいのです。それが真の繁栄であると思います。(中略)
 真の繁栄の二番目の条件は、主観的な立場として、「その人に人格的な成長がある」ということです。繁栄をしつづけるということは、そこに、「人格的にも発展しつづけている」という前提があるということです。
 会社の規模だけは大きくなっても、社長が、いつまでたっても零細企業のような発想や考え方でやっているとしたら、やがて、その会社には、どこかで曲がり角が来るでしょう。経済規模の発展相応に、その中心にいる人たちが、人物としても大きくなっていくことが必要です。
 真の繁栄と言えるための三番目の条件は、「その人が社会的に影響力を持っている」ということだと思います。
 繁栄ということが、単に、「お金を大判小判として金庫のなかに蓄えている」ということだけであってはいけないのです。その富なり、あるいは社会的名声なり、業界の知名度なり、いろいろなものを生かして、世の人々に対する影響力を増していくということが、真の繁栄であると思います。(中略)
 真の繁栄と言えるための四番目の条件は、「それが、その人にとって、後悔のない人生の支えとなっている」ということです。
 いくら利潤を手にすることができたとしても、そのなかに真に生きがいを感じられないならば、それは真の繁栄とは言えないのではないかと思います。もし、人が気づかないような仕事を見いだして、そこに経済的飛躍のチャンスがあったとしても、残念ながら、その人の魂の傾向が、その方面に向いていないのであるならば、やがて、それは繁栄ではないものになっていくでしょう。
 たとえば、極度に精神的な価値を求めている人が、投機的な仕事のみにおいて利益を追求していくということは、やがて、その人の人生を虚しくしていくことになるでしょう。(中略)
 やはり、「自分の本来の持ち味に合った方向で成功する」ということが、後悔しない人生のための前提になると思います。(中略)積極的に魂の進化につながるような仕事であることが必要だと私は思います。
 もし、そうでなければ、やがて、自分に向いた方向に転換していく必要があると思います。経済的成功を基盤として、次なるステップを踏み出していくほうが賢明でしょう。
(182~187ページ)

幸福の科学で言うところの「繁栄」とは、売上高がいくらかとか、資本金の規模がいくらかというような話ではない。

真の繁栄とは、第一に、世間の人が、その人を成功したと認めること。第二に、その人に人格的な成長があること。第三に、その人が社会的に影響力を持っていること。

第四に、その人にとって、それが後悔のない人生の支えとなっていること。つまり、自分の本来の持ち味に合った方向での成功であり、積極的に魂の進化につながるような仕事であることである──。

なるほど、なるほどと感じます。

こんなふうに教えていただいたとき、今日のお教えは、自分で事業を始めていなかったとしても、いま携わっている私たちの仕事に、すべからくあてはまるお教えではないかと思い至ります。

そして、この人生で携わることになった大切な事業が、仕事が、本当の意味で、繁栄したものとなるように、全力で努力していきたいものだと、改めて私は感じ入っているのです。

 

『成功の法』

 大川隆法著

 

 

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独立して小さな会社をはじめたんだけど、資金足りないんだよね。資金繰りなんて言われても、勉強したことないしさ。お金関係は、経理担当がいるし、なんとかなるんじゃないの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 会社の社長のなかで数が多いのは、やはり技術者でしょう。技術者が会社を起こし、社長をやっている場合が多いのです。ところが、そういう人は、資金繰りについて、あまり分かっていません。学校では教わっていないし、社長になってからも、それについて、人に頭を下げて教えてもらったりはしていないのです。
 そういう人のなかには、「部下に経理担当者がいるから、それでよいだろう」と思っている人もいますが、経理で経営はできないのです。経理と経営は違います。経営は、全体を見なければならないので、社長自身がお金についての勉強をしないかぎり、上手にできるようにはならないのです。(中略)
 資金繰りについては、追い詰められる前に勉強しなくてはいけないのです。
 書店へ行くと、資金繰りに関する本はたくさん出ています。「大学で学んでいないから、読んでも、よく分からない」と思うかもしれませんが、難しい学問的な本でなくてよいのです。簡単なハウツーもので、二、三時間もあれば読めるような軽い本も多く出ているので、そういうものを五冊十冊と買って、一カ月ぐらいかけて読めば、多少は分かるようになります。(中略)
 そこに書いてあることは、私が前述したことと基本的には同じです。入るお金と出るお金についてです。そして、資金ショート(不足)を出さないことです。
 そういう本を勉強すれば、資金繰りのやり方が少しは分かるようになります。「苦手だ」と思って避けてきていた人は、これをやることです。
(28~30ページ)

経理で経営はできない。

社長自身が資金繰りについて勉強しないかぎり、上手にできるようにはならない。

簡単なハウツーものの軽い本でよいので、五冊十冊と読んでみるだけでも、多少は分かるようになるので、そこからやってみること──。

この世的な知識が多少あるだけで、避けられる困難やトラブルというのは、いくらでもある。

その知識を入れる方法の基本は、やはり書物である。

それも、1冊だけでなく、5冊、10冊と読んでみることで、一つの分野に関する必要最低限の知識というのは、なんとか入れることができるものだってことだと思います。

つまりは、幸福の科学で教えられている「知の原理」というのは、こういう風に実践するものでもあるのだと私は理解しているのです。

『幸福へのヒント』

 大川隆法著

 

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「スピリチュアリズム」(心霊主義)については、これまで二度にわたってお伝えしてきました。この天上界の計画は、当初、唯物論運動に対するものとして始められたという話でしたけど、でも天上界の意図はそれだけだったんでしょうか? 今日はその第三弾になります。

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 特に、科学万能主義と唯物主義という敵もありましたが、もう一つ、宗教のなかにも敵があったのです。それは、キリスト教のなかの、「イエスの時代で、もう霊現象というものは止まっている」という考えです。
 その背景には、「教会の歴代の代表者たちが霊能力を持っていなかった」ということがあることは事実です。彼らは霊能力を持っていなかったので、しかたがなかった面もありますが、教会においては、「二千年前のイエスの時代で、もう霊現象は止まっている」と考え、「その後に起きた霊現象については、原則、否定する」というスタイルなのです。
 キリスト教のなかにも、霊現象を使う宗派も出てきましたが、ほとんど、「異端」ということで弾圧されています。
 近代になり、スピリチュアリズム(心霊主義)が出てきたときも、それに対して真っ向から反対し、敵視したのがキリスト教会なのです。(中略)宗教の内部に「内なる敵」が出てきたため、それで、かなり苦労しています。
 いまも、教会は、心霊主義をほんとうは認めていないのかもしれません。「うすうすは認めているけれども、認めたくない」というのが、ほんとうのところでしょう。
 そこには同業者としての嫉妬もあるかと思います。スピリチュアリズムは、日本で言えば新宗教のようなものでしょうから、「流行っているものに対する、旧いものの防衛」という意味もあるのかもしれません。
 キリスト教の『聖書』自体から、霊現象的な部分がかなりカットされていることも、大きく影響していると思います。『聖書』に明確に書かれていれば、受け入れられたはずなのに、霊現象的な部分が、『聖書』の編集の過程でかなり削られてしまったために、後世の人たちは霊的なことが分からなくなったのです。
 それから、仏教のなかにも、やはり唯物主義は流れています。その流れは、釈尊の没後数百年たったインドにおいて、すでに始まっていました。
 インドは、もともと哲学的な国なのですが、仏教が哲学になってしまったのです。宗教であれば、霊的なものは当然あることなのにもかかわらず、それが分からない人たちの時代になると、哲学的に解釈するようになったのです。(中略)
 現代の日本では、仏教の大学にも、「仏教は霊魂を認めない」などと言うプロが数多くいて、ほんとうに困ります。仏教が霊魂を認めなかったら、大変なことです。(中略)肉体を去ったあとの精神エネルギーが残らないとしたら、仏教は、もう、ただの抜け殻にしかすぎません。(中略)
 したがって、数々の心霊現象を起こしてきた過程には、「科学や唯物論との戦い」と同時に、「宗教のなかにおける形骸化や化石化、姿かたちにとらわれて内容がなくなってきたものとの戦い」もあったのです。
(180~184ページ)

スピリチュアリズム(心霊主義)の敵は、科学万能主義と唯物主義だけでなく、宗教のなかにもあった。

近代にスピリチュアリズムが出てきたとき、真っ向から反対し敵視したのは、霊現象を否定するキリスト教会だった。

仏教にも唯物主義は流れており、スピリチュアリズムには、形骸化し化石化し、姿かたちにとらわれて内容がなくなってきた宗教との戦いもあったのである──。

この150年にわたるスピリチュアリズムの運動によって、人々の霊的なものに対する精神的土壌が耕されてきました。

そして、その土壌に芽吹いたものこそが、現代日本における幸福の科学の運動であるわけです。

大川隆法先生は、その意味を、「天上界の計画」という大きな観点から、どのように説明されるんでしょうか?

興味は尽きませんが、それはまた、次の機会にご紹介したいと思います! 

  

『神秘の法』

 大川隆法著

 

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商売を広げていくには、店舗の仕事を標準化していかなきゃね。そのためには、まずはマニュアルの整備だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『経営入門』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 マニュアル主義で、どんな場合でも社内マニュアルに書いてあるとおりのことを、従業員が繰り返す会社は、感動を伝えることはできません。
 例えば、喫茶店であれば、夏に、客が汗を拭きながら入ってきて飲み物を注文しょうとしたとき、マニュアルどおりに、「ホットにいたしましょうか。アイスにいたしましょうか。ホットは、コーヒーと紅茶とこれとこれがございます」などという説明を店員がしたならば、客のほうは、あきれてしまいます。
 そういう場合は、客の気持ちを考え、「冷たいお飲み物はこちらです」と勧めるべきでしょう。
 マニュアルどおりの対応は、「当社の都合」でしかなく、感動はまず与えられません。(中略)
 マニュアルを超えて一歩を踏み出せば、パートで雇われている人であっても、人に感動を与えることはできます。感動を与える方法は、相手の気持ちや考えていることを察し、「相手にとって、今、必要なものは何か」ということを読むことです。
 そこにかけるエネルギーや智慧、あるいは言葉を惜しんではいけないのです。(中略)
 マニュアルというのは、標準的な人をつくるためのものであり、実際に、マニュアル主義で仕事をすることも多いのですが、それだけでは、もう一歩を踏み出し、顧客に感動を与えるサービスは出てきません。もう一歩を踏み出したサービスは、やはり、個人の心から出てくるものなのです。
 たった一言でも、ちょっとした態度でもよいので、もう一歩を踏み出し、相手に感動を与える仕事をすることが大事です。とにかく、「お客様のことを考えているのだ」という気持ちを、言葉や態度で伝えることです。そうすれば、どんな業種の会社であっても伸びていくはずです。
 その点に気をつけないと、顧客から離れて単なる合理主義的な考え方をしたり、業績の数字だけを見て考えたりしがちになります。こういう間違いは、どんな会社でも起きることであり、会社の規模が十人ぐらいになるあたりから起きてきます。
 「自分たちは、このように考え、このように行動している。業績はこうであった」と、会社の内部の人間だけで、自分たちの仕事を評価し、完結することが多いわけです。そのように内部だけの論理が働いて、顧客や現場など、外のことが分からなくなることがあるのです。
 基本的には、最初に組織を立ち上げたり、小さな会社を大きくしたりするためには、ものの考え方や道理をつくり、マニュアルにして社員に勉強させることが大事ではありますが、それだけでは、やはり仕事やサービスが標準レベルを超えることができず、同業他社が多数ある場合には勝ち残れません。「感動を与える」というところまで、踏み込まなければいけないのです。その感動は、やはり、個人の気持ちから出てくるものです。
(20~24、28~30ページ)

マニュアルどおりの対応は、「当社の都合」でしかなく、感動はまず与えられない。

もう一歩を踏み出したサービスは、個人の心から出てくるものであって、相手の気持ちや考えていることを察し、「相手にとって、今、必要なものは何か」を読むことである。

そんな相手に感動を与える仕事をすれば、どんな業種の会社であっても伸びていく──。

もちろん、全体の仕事の最低限の部分を底上げすることが基本ではあっても、それだけでは厳しい競争に勝ち残れないわけです。

勝ち残るためには、顧客へ感動を与えることがとても大切であることを前提にして、大川隆法先生は、マニュアル主義の弊害をも説かれているのだと私は理解しているのです。

『経営入門』

 大川隆法著

 

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カトリックなんかでは、天国と地獄の間に、「煉獄」というのがあるって教えられてると思うんだけど、ほんとなの。どう考えたらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の魂は永遠不滅の命を持っています。「それが、いったい、どれほどの意味を持つか」ということを、人間は、実体験を通して、さまざまに悟っていくことになるのです。
 光に満ちた人生を生きた人は、この世を去った世界においても、また光に満ちた人生となり、長い幸福が続いていくことになります。
 他方、生命を有限のものと思い、この世で、仏の子、神の子として、充分な使命を果たさずに亡くなった人にとっては、死後の生命が永遠であること自体が、一つの大きな厳しい罰でもあるのです。
 仏教では地獄という世界について説かれていますが、仏教の地獄は、「いずれ、時期が来たら救われて、天上界に還れる」という意味合いを持った世界です。
 ところが、キリスト教における地獄は、「永遠に救われない世界」という描かれ方をしていて、「地獄に堕ちたならば、もう最後である」という世界です。
 そのため、「それでは、あまりにも厳しすぎる」ということで、キリスト教では、天国と地獄の中間に、煉獄という世界を考えるようになりました。煉獄とは、「地獄のような所ではあるが、子孫が、キリスト教を信じたり、いろいろと善行を積んだりしたならば、天国に上がれる」という、条件付きで救われる可能性のある世界です。そういう中間地帯の思想が、のちほど、できてきたのです。
 仏教の地獄は、キリスト教で言う煉獄に相当し、仏教にはキリスト教的な意味での地獄はありません。ただ、それに近いものがあるとすれば、無間地獄という、とても出られそうにないような底なしの地獄が、それに当たるかもしれません。あるいは、悪魔という、成仏しそうもない存在は、キリスト教的な意味での地獄に堕ちていると言ってよいかもしれません。
 思想的には、そういう違いがあり、仏教の地獄思想が、「すべての魂たちを、やがては救うのだ」という思想に裏打ちされていることは、非常に希望に満ちたものであると言ってよいでしょう。
 キリスト教的に、「善か悪かでスパッと分け、それで終わり」ということではなく、「不合格になっても、まだ“追試”がある。救われる機会は何度もある」という考えです。そのように、「死後の世界においても、まだまだ救いの活動は続いている」という思想があるのです。
 したがって、仏教はキリスト教より霊界事情に詳しいと考えてよいでしょう。
(282~285ページ)

仏教はキリスト教より、地獄や天国などの霊界事情に詳しい。

仏教にはキリスト教的な意味での地獄はなく、仏教の地獄は、キリスト教で言う煉獄に相当する。

仏教の地獄思想は、「すべての魂たちを、やがては救うのだ」という、非常に希望に満ちた思想である──。

つまり、幸福の科学の霊界思想というのは、悪霊はもちろん悪魔であっても、仏は救おうとしておられる、と考えている点で、旧来の仏教思想と根本的な視点は同じだってこと。

でも、まったく同じかというとそうではない。

日本人なら誰もがわかる現代日本語によって、魂は永遠の転生輪廻を繰り返しているという霊的真実を基本として、霊界の多層構造をとてもクリアに説き明かす、もの凄い教えである。

そんな確信をみなさんに私はお伝えしているのです。

 

『復活の法』

 大川隆法著

 

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知り合いの子なんだけど、生まれてすぐに病気して、障害を持っちゃったんだ。なんでそんな不幸なことが起こるの。これも人生計画だって考えなきゃいけないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 一般論としては次のようなことが言えます。
 そういう小さな子供は家庭の状態を反映しています。いちばん近いのは両親なので、両親の心が、そのまま子供に影響します。子供の場合、本人に「自分」という自覚ができて、自己確立がなされるまでのあいだは、両親の影響がかなり大きいのです。
 したがって、心の問題が問われるのは両親のほうです。子供に何か病気が起きるのは、おそらく、両親の心のなかに何かの問題があります。両親の心の状態が子供の肉体に現れてくることがあるのですね。(中略)
 ただ、個別の問題として考えたときには、必ずしも両親などの問題だとは言えないこともあります。
 なぜなら、ヘレン・ケラーなどの例があるからです。
 ヘレン・ケラーは、幼少時の病気が原因で、目が見えず、耳が聞こえなくなりました。しかし、(中略)あれだけのハンディを克服してきた彼女だからこそ、「多くの障害者たちに希望の光を投げ掛けた」というところがあるわけですね。
 五体満足の人間から、「目が見えなくても、耳が聞こえなくても、足ることを知って生きなくてはなりません」と言われると、反発する人は、たくさんいます。ところが、自分の実際の経験を通して、光り輝いてきた人の言葉には、強いものがあるのです。(中略)
 たとえば、心臓が悪くても、「これで私は不幸になりました」と言って一生を終わるのではなく、そういうハンディを持っていながら、人並み以上のことをいろいろと行うと、それが他の人々にとって救いの光になることもあります。そのため、優れた人が何らかの障害を持って生きることもあるのです。
 そういう手本を見せるために、あえて重度の障害を持って生まれてきたりするわけです。(中略)
 昭和の時代にも、知的障害のある天才画家として、貼り絵で有名な山下清という画伯がいました。彼は高級霊で、菩薩界の人です。光の天使が、障害のある人に勇気を与えるために、ああいうかたちで出たのです。
 あの世の人たちから見ると、「光の天使が、あんな知的障害になってしまって、かわいそうに」とも思えるのですが、それは、もっと大きなことのためなのです。それは地上の人間には分からないのですが、「障害を背負いながら一生懸命に生きて、他の人の模範となる」ということです。
 結局、あなたの質問に対する答えは、「人生は一冊の問題集」という言葉に還っていくでしょう。(中略)
 偉い人であっても、そういう病気になることがあります。それは、人々にいろいろな生き方を見せるために、やっていることなのです。
 したがって、何らかのハンディがある人は、「自分も、そういう使命を持っている」と考えて、頑張っていただければと思います。
(144~150ページ)

小さい子供に何か病気が起きるのは、一般論としては、両親の心のなかに何か問題があることが多い。

しかし、それとは別に、何らかの使命があって、人生計画として病気になったり障害をもって生まれてくることもある。

何らかのハンディがある人は、「自分にも、他の人々の救いの光になるという使命がある」と前向きに考えて、人生修行を尽くしていってほしい──。

うーん、とっても暖かい、仏の御言葉ですよね。

人生は一冊の問題集」。

そこに書かれている問題には、必ずなんらかの意味がある。

その問題に一生懸命、立ち向かっていくことで、自らの力でその意味をつかんでいけるのが、この人生であるのだと私は思っているのです。 

心と体のほんとうの関係。―スピリチュアル健康生活 (OR books) 『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

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毎晩、仕事が遅くなるんだよね。寝るの遅いんだから、早く起きるなんて、不可能な話だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

また、あなたがたは、
朝の静寂の素晴らしさを忘れてはいまいか。
夜が明けるときの、あの素晴らしさを忘れてはいまいか。
暗闇のなかから、
東に太陽が昇りきたって、次第しだいに地平から照らす、
あの情景を見ることがなくなって久しいのではないだろうか。
幼いときに見た記憶はあるであろう。
しかし、成人してよりのち、
そうした情景を見ることもなく過ごしているのではないか。

新たな発見をしたいと思うのであるならば、
さあ、一度、目を覚ませ、
朝の静寂のうちに。
朝日が当たる前に日を覚ませ。
きょうの一日が始まる、その瞬間を眺めてみよ。
庭に出でよ。
道路に出でよ。
公園に出でよ。
田畑に出でよ。
そこに、生命たちが目を覚ましてゆく姿が見えるであろう。
そこに、田園の交響楽を感じることがあるであろう。
そこに、
あなたがたが創られたことの意味と、
あなたがたの生命の意味とを、
見いだすことができるであろう。
それは、忘れて久しかったものであるのだ。
(197~199ページ)

この力強い言魂に触れたとき、そうだ、朝の静寂の素晴らしさを忘れていたと、改めて気がつきました。

さっそく明日から、夜明けの情景の中に新たな発見ができるよう、努力してみたいと思います。

みなさんは、いかがですか?

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著

 


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なんで「与える愛」なんて教えられるのかなあ。人生やっぱり、自分が認められなくっちゃって思うんだけど、自分があげてるだけじゃ、人に認めてもらえないじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間が幸福を感じるのは、自分の存在感が非常に強いときです。別の言葉でいえば、自己が拡大していると感じるとき、自分というものの存在感が大きくなっていくときです。
 自分が認められたいという気持ちは、実は自己拡大の思いでしょう。しかし、自己拡大の思いは、他から奪うことでは達成できないのです。それは、自分のえぐれている部分を埋めようとする努力にすぎないからです。
 ほんとうの意味の自己拡大とは、自分自身の魂の一部を、精神、心の一部を、他の人びとのなかに種まきしていくことです。自分の生き方や考え方によって、他の人びとに影響を与えていくことが大事なのです。
 普通は「与えれば損をし、もらえば得をする」と思うものですが、心の世界においては、与えれば与えるほど、自己が拡大していくのです。
 たとえば、何万人もの人の前で講演ができることは、私にとって一つの自己拡大だと思います。それは、その人たち一人ひとりの考え方に影響を与え、その人生に何かをつけ足すことができるということであり、私が自分自身の人生に何かをつけ足す場合よりも、はるかに大きな自己をつくっていることになるのです。
 したがって、真に自分を生かす方法は、自分の保身を図ることのなかにはありません。そうしたことで得られる満足は、実に小さなものにしかすぎないのです。
 ほんとうの意味での幸福が、自分を無限に有用で役に立つもの、真に素晴らしいものだと感じ、自己の拡大感、発展感を味わうことだとすれば、多くの人の役に立つ人間になっていくことのなかにこそ、幸福感があって当然なのです。
 それこそが、よい意味でのエゴイストです。それなのに、たいていの人は小さな自分に満足しすぎています。「真に自分のことを考えるならば、観を転回し、ものの見方を変えていかなければならない」ということに、私は気がついたのです。
(30~32ページ)

ほんとうの意味で人が幸福を感じるのは、自分の存在感が非常に強いときであり、それは自己が拡大していると感じるときでもある。

そしてその自己拡大は、他から奪い、自己保身を図ることのなかにはなく、自分自身の魂や精神、心の一部を、他の人びとのなかに種まきしていくとき、自分の生き方や考え方によって他の人びとに影響を与えていくときに、じつは達成できる。

つまり、心の世界においては、与えれば与えるほど、自己が拡大し、幸福感が増していく──。

「与える愛」のお教えについては、このブログでも、何度何度も話題にしてきました。

今日は、そのなかでも、「自己拡大」という視点から説かれたお教えの部分を、お伝えしてみました! 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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人間って、不幸を求めたっていいじゃない。不幸、何が悪いのよ。それを幸福の科学って、人間は幸福になるべきだっていうんでしょ。おせっかいじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 個人が幸福になりたいと思う理由の一つとして、「魂のうずき」があります。つまり、魂自身のなかに、あるときは安らぎを求め、あるときは進化を求める要素があるのです。
 それは、魂自体が、その出自に対して郷愁を感じているからです。人間の魂は、はるか昔の記憶を、かすかに持っているのです。かつて、根本仏の生命体から、個性を持つものとして分かれてきたときの記憶を──。
 それは、何億年前、何十億年前という、はるかなる昔の記憶です。銀河のある場所で、根本仏の意識の一部が、人類の魂を創るために、個性ある光として散乱したことがあるのです。これが、「人間の本質は仏の子、光の子である」と言われている理由です。
 その本質において、仏と同じものを人間は持っているのです。「その本質において、仏と同じであり、その形態において、仏から分かれてきた仏の子である」というのが、人間の魂に関する真実なのです。
 したがって、仏が目的としているのと同じことを、人間の魂も目的としています。「進歩」と「調和」という、根本仏が宇宙を創造したときの二大目的を、人間の魂は内部理想として持っているわけです。
 それゆえ、人間には、「進歩」、すなわち向上・発展を求める心と、「調和」、すなわち安らぎと美を求める心とが、内なるうずきとしてあります。
 つまり、幸福という名を冠された、「安らぎと向上」「調和と発展」を人間が求めるのは、人間が仏の子であるという事実に根拠を持つのです。人間が個人としての幸福を求めるのは、人間が仏の子であることの証明にほかなりません。
 言葉を換えるならば、人間とは単なる物体ではなく、聖なる使命を帯びた生命体だということです。その生命の根源には、偉大な目的意識が潜んでいます。仏の光が宿っているのです。
(15~17ページ)

人間は、誰もが持っている「魂のうずき」によって、みな必ず幸福になりたいと思うもの。

その理由は、人間の魂は、はるか昔に根本仏から分かれてきたときの記憶を、根本仏が宇宙を創造した二大目的、「進歩」と「調和」という理想の記憶を、かすかに持っているからである。

だからこそ、人間は、向上・発展を求める心と、安らぎと美を求める心とを、内なるうずきとして持っているのである──。

「不幸、何が悪い」っていうのは、偽悪的な態度にすぎない。

人間は、自分の心に素直になれば、誰もが自然に幸福を求めるものである。

結局、人間が幸福を求めるのは、人間が仏の子であることの証明であるのだと私は理解しているのです。

 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著

 

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オレって、ぜったいに最優秀のセールスマンだからね。営業力で、オレの右に出るやつなんか、社内にいないんだからね。この線で、出世街道ばく進だよね。なにも間違ってないよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 個人としては非常に優秀であっても、結果的に成功を収めることができない人は、他の人を通じて仕事をすることができない人であることが多いのです。セールスマンのような仕事をさせれば、人目を驚かすような結果を出す人でも、部下を使えばうまくいかないことは、いくらでもあります。
 それは、自分ひとりでできる仕事というのは、その人がいかに器用であるかを証明しているかもしれないけれども、手先の器用さは人使いの器用さには通じないということなのです。
 たとえ日曜大工としてよい腕を持っている人でも、巨大なビルディングを建てることができるわけではありません。日曜大工で犬小屋を作ったり、あるいは、ペンキを塗ったり、屋根を修理したりすることができる人でも、それほど器用な人だから大ビルディングが建てられるかといえば、建てられません。
 大ビルディングを建てるためには、チームを組み、設計図を作り、計画をし、資金を集め、そして大勢の人を使わなければなりません。そうすると、人を使える能力が必要になってきます。
 つまり、出世の条件として三番目に明確に言えるのは、自分ひとりでできる能力と、他の人を使う能力の二つの能力を知って、それを使い分けるということです。そして、自分個人でできるという能力から、他の人を使ってできるという能力に、次第しだいに比重を移していくことが大事なのです。
 大ナポレオンがいかに優れた人であったとしても、彼が軍刀を持って百人の兵士と戦ったならば、おそらく負けるでしょう。十人の兵士と戦っても負けるでしょう。彼ひとりの力で戦うには、相手が一人か二人、あるいは三人ぐらいでなければ無理です。それ以上では勝てません。ところが、彼が一万の兵、あるいは十万の兵を率いたならば、無敵の大将軍になることができるのです。
 この違いが分からない人は、出世には緑の遠い人だと思わなければなりません。こうした違いが分からずに、手先の器用さがすべてだと思う人は、専門職にとどまって、職人かたぎの人生を送ることになります。(中略)
 すなわち、真に出世をしていこうとするならば、スタートラインでは自分個人の力量に依存することが多いけれども、個人の能力でやっているあいだに、次第しだいに人心の掌握力を増していき、どうすれば人を使って仕事ができるかということを考えていく必要があるのです。これを管理能力といいます。
 管理能力の基礎は人が見えるということです。それは、その人の長所と短所が見えるということです。また、その人を適材適所として使っていくためには、どういうところに配置すれば能力を発揮し、どういうところに配置すれば能力が発揮できないかということを知ることです。当の本人が分からないことを、本人の素質を見抜いて、いち早く判断することです。この能力が不可欠です。
(91~94ページ)

自分ひとりでできる能力と、他の人を使う能力の二つの能力を知って、使い分けること。

そして、最初は、自分ひとりでできるという能力からスタートしても、しだいに、他の人を使う能力のほうに、比重を移していくこと。

それが、出世の条件である──。

人を使って仕事ができる能力こそが、管理能力。

そのためには、人が見える必要がある。

では、その能力をどうやって身につけていけばいいのでしょうか? 

というわけで、なかなか一度に紹介しきれない貴重な教えです。

この続きは、また次の機会に! 

『仕事と愛』

 大川隆法著

 

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地獄って、とっても広大な世界なんだって聞いたことあるよ。天国もあるんだろうけど、やっぱり地獄も、それと拮抗するような広い広い世界なんだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 こうしてみると、この三次元はもちろんのこと、四次元以降の多次元世界、高次元世界をもつらぬいて流れる愛とは、一体なんでしょうか。それは、ひとつの生命の奔流であり、滔々と流れ出してつきない、生命の水であるともいえます。実際に、霊的な目で、霊眼でもって、九次元から三次元までを眺めると、はるかなる高次元に源を発した愛の大河が、巨大なるエネルギーの河となって、九次元→八次元→七次元→六次元→五次元→四次元→三次元へと流れくるさまは、まさしく壮大な景観、一大パノラマです。
 愛というのは、すなわち、このようにひとつの光線なのだといえます。それは、上流から下流へと流れ出して、とどまることを知らないひとつの力であり、あらがいがたい生命の勢いなのです。愛に敵なし。実際に、この霊的な愛の大河のパノラマを見てしまうと、愛に敵するいかなるものもありえないことが、はっきりとわかります。みなさんは、地獄というのは、天国つまり、神(仏)の世界と拮抗するだけの勢力だとお考えでしょうか。また、天国・地獄と大別されるような、一大世界だとお思いでしょうか。そうではないのです。神(仏)から発した愛という名の大河は、はるかなる上流に端を発して、強烈なる勢いですべてを押し流しているのです。地獄がある四次元世界というのは、はるかなる下流、河口のほうであり、物質万能とか、欲望とか、迷いとか、悪という名の塩の入った海水が、いかに河の水を塩化させようとしても、滔々と流れきたり、押し寄せてくる愛の大河の力には、あらがいがたいのです。
 愛は光です。光に勝てる闇がないように、愛に勝てる悪も、愛の大河を最後までふせぎきれる地獄もないのです。地獄は、天国に抵抗できるような勢力ではありません。それは、神(仏)のつくられた世界の一部に巣くうガン細胞であり、真水の河のなかに忍び込もうとする海水にしかほかならないのです。
 むかしから、地獄というのは、天国と同じような大きさで、天使と悪魔が対立しているように思われてきておりますが、実際はそんなものではないのです。天国──天上界というのは、四次元の幽界をスタートとして、はるかなる高次元にまでおよぶものです。それにひきくらべ、地獄界というのは、四次元のなかのよどみ、光のあたらないかげの部分にしかすぎません。
 もちろん、そのよどみも相当大きく、何十億人もの地獄界人口を擁していることは確かです。太陽の光が照射されて、解けない氷がないように、いつかは必ずなくなることになっているのです。地獄界の影響力が、過大評価されているのは、その基盤となっている霊域が、非常に地上界に近く、相互に容易に波動を受けやすくなっているからです。
(175~178ページ)

地獄というのは、天国と同じような大きさであるように思われているが、実際はそうではない。

天国(天上界)は、四次元の幽界からはるかなる高次元にまでおよぶが、地獄界は、四次元のなかの光のあたらないかげの部分にすぎない。

太陽の光で解けない氷がないように、地獄もいつかは必ずなくなることになっている──。

はるかなる高次元に源を発した愛の大河が、九次元から八次元、七次元、六次元、五次元、四次元、そして三次元へと流れくる。

その霊的な大パノラマの姿を私たちに説いてくださるのは、いったい誰であるのか。

その方こそが、九次元世界からこの世に下生された「主エル・カンターレ」であるのだと、改めて確認できた気が私はしているのです。
  

『太陽の法』

 大川隆法著

 

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強く思えば実現するんでしょ。でも、足ることを知るのも大事だって、教えられてるんじゃないかと思うんだ。じゃ、どの辺までなら願ってもいいけど、どの辺から過ぎた欲望になるのかってあたり、どう考えていけばいいの? なーんて鋭い疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「自分は欲が過ぎていないか」ということを点検するためには、まず、自分の健康状態を見てください。健康面で、いろいろと問題が出るようであれば、仕事など、自己実現において、欲が過ぎている可能性は高いのです。
 体調は、表面意識ではない部分、すなわち潜在意識が管理している面もあり、度を超すと肉体の調子が悪くなります。
 最初は風邪あたりから始まるでしょうが、(中略)それは、「少し休みなさい」という信号なのです。生命の、もっと根源的なところから、「あなたの肉体は、休みを取らないと、もちませんよ」という信号が出ているわけです。
 このように、風邪をひいて体調が悪くなることには、「休んで肉体の調整をする」という面があります。それは、車で言えば修理をしているようなものでしょう。病気には、そのような面もあるのです。
 したがって、体調に異変が生じたときには、やはり、自己反省をしていただきたいと思います。(中略)
 それから、「仕事でクレームが増えていないか」という点を点検することも大切です。営業などの仕事で、目標が高く、無理をしている場合には、外部からクレームがたくさん来るはずです。仕事において、間違ったり、やりすぎたりしていると、クレームが増えてくるのです。
 クレームの処理は非常に大事なことです。クレームに対して聴く耳を持たない会社は潰れます。クレームの処理は、丁寧に行わなくてはなりません。
 よくない商品を、よい商品のように言って押しつけても、結局、クレームが来ます。その後始末をしているうちに商品は売れなくなってきます。それは、仕事において中道を超えたことに原因があるのです。(中略)
 また、仕事で度が過ぎていると、家族が病気になるなど、家庭がおかしくなってきます。その状況を感知できなければ、次は離婚問題が起きてきます。その結果、仕事のほうに、もっと大きなダメージが来ることもあります。(中略)
 会社など外では成功していても、家庭でつまずくことがあるので、問題が起こる前に、いち早く兆候に気づくことが大事です。自己中心的であると、それが分からないので、人の気持ちなどを、まめに観察することです。(中略)
 そういうときには、奥さんが苦情を言うなど、兆候は必ず出てくるので、それを見る目があれば、あるいは聴く耳があれば、反省が働きます。
 幸福の科学では「発展の原理」が説かれていますが、それは、「たくさん突っ走ったら、それでよいのだ」ということではありません。
 幸福の科学の教えには「反省の原理」も入っていて、「調子が悪くなってきたと思ったときには、きちんと反省をしていくことが大事である」と説かれています。そういう、バランスの取れた考え方になっているのです。
(181~190ページ)

過ぎた欲望のチェックポイントは、第一に、自分の健康状態である。

第二に、仕事でのクレームの増加であり、第三に、家族の病気など、家庭の異変である。

幸福の科学では、「発展の原理」とともに、「反省の原理」も説かれていて、バランスの取れた考え方のもとで人生を生きていくことが勧められている──。

幸福の科学では、発展・繁栄(「発展の原理」)と、それが行き過ぎたときの調整(「反省の原理」)というように、構造自体がとてもバランスがとれた教えになっている。

その調整のチェックポイントまでが、こんなにクリアに説かれている。

これほど救済力に満ちた教えが、現代日本で説き続けられていること。

その驚きと、まさに奇跡と言うべき神秘さを、一人でも多くの人と共有したいものだと、改めて今日は考えてしまいました。

みなさんは、どう思われますか?

『感化力』

大川隆法著

 

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信じよって言われても、どうして信じれるのって思うんだ。何か確実なものがあるわけじゃなし、そんなことできないでしょ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

あなたがたのまわりに、
いや、あなたがた自身に、
今、もし悪しき現象が現われ、
悩みが現われ、
苦しみが現われ、
悲しみが現われているとしても、
それは因果の理法に基づいて生じたものなのだ。
人間のこの世の修行においては、
すべて原因があって結果がある。
(ま)いた種があって実りがあるのだ。
この因果の理法を信ずることこそ、
正見(しょうけん)への道であるということを知らねばならない。

あなたがたは、正見という言葉を、
かつて釈迦(釈尊)の説いた八正道(はっしょうどう)のなかの
一番目の言葉として記憶していることであろう。
なるほど、正見とは、
正しく見ること、
正しい見解を持つことという意味であるが、
仏法真理の初心者においては、
正見とは、「正信(しょうしん)」にほかならない。
正しい信仰である。

そこで、私はあなたがたに、
悟りに到る第一の法門を示すとしよう。
それは「信解脱(しんげだつ)」の道である。
信解脱とは、信じて解脱することである。
正しい信仰心を持つことによって、
六大煩悩から逃れ、
本来の実相世界にいたときの
あなたがたの姿に還るということなのだ。

信仰とは、単なるお題目ではない。
仏法真理を信ずることができるということは、
すでに悟りの第一段階に入ったということなのだ。
信ずるということは、すでに、
悟りの一部を、わが手にしたということなのだ。
あなたがたが日ごろ接する人びとのなかには、
宗教を信ずることはできない、
と言う人もあるであろう。
もちろん、この世の中には、
数限りない邪教があるから、
私は、宗教すべてを信ぜよと言っているわけではない。
しかしながら、
あなたがたが仏の子である以上、
あなたがたの親である仏は、
必ず、あなたがたを導くための手を差し伸べている。
仏法真理はいつの時代にも説かれている、
ということを知らなくてはならない。
その仏法真理を受け入れ、
つかみとり、
そして跳入して、
目に見えぬ世界をわがものと感得することこそ、
第一段階の悟りであるのだ。
(61~66ページ)

悟りに到るためには、まず正しい信仰を持つこと。信じることによって「解脱(げだつ)」することである。

初学者においては、「すべてには原因があって結果がある、播いた種があって実りがある」という「因果の理法」を信ずることが、その出発点である。これによって、人を悟りから遠ざけてしまう「煩悩」から逃れ、光り輝く仏の子としての本来の姿に還ることができる。

この仏法真理を信ずることができるということは、すでに悟りの第一段階に入ったということである。これが、「信解脱(しんげだつ)」である──。

「法門」というのは仏の教えのことです。

お釈迦さまは、八万四千の法門を説いたと聞きますが、再誕の仏陀・大川隆法総裁先生は、それを超えるペースで、1986年の立宗以来、さまざまな角度から、さまざまなレベルの教えを、途切れることなく延々と説き続けておられます。

そこで今日は、仏教用語が満載で、ちょっと難しい御法話ですが、1992年に東京ドームで、5万人の人々を前に大川隆法総裁先生が説かれたお教えの一部を、ご紹介してみました!

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

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