ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「心」って、体の中のどこにあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 脳死などの問題によって、肉体と魂の関係は大きな論点になっています。
 幸福の科学は、脳死者からの心臓移植について、あまり好ましくないとしています。なぜかというと、心臓という臓器には意識があるからです。ここは、魂のなかの「心」という領域と非常に密接な部分なのです。
 人間の肉体には等身大の魂が宿っています。そして、人間の姿をした魂のなかで、心というものは、頭の部分にあるのではなく、胸の部分にあるのです。心臓のあたりに心の中心部分があります。
 そのため、他人の心臓を移植されると、他人の心が入ってくるような面があります。一方、心臓の提供者のほうは、心を持たずにあの世へ旅立つような面を持つため、あの世で少し困るわけです。
 また、魂には、頭を中心としたところに、「精神」といわれる領域もあります。私は「愛」「知」「反省」「発展」の四正道を説いていますが、知と発展は、どちらかというと、頭を中心とする部分、精神に関係しています。一方、愛と反省は、胸の部分、心に最も関係があります。
 人間は、首から上の部分が発達している実務型の人と、首から下の部分が発達しているお坊さん型の人に分かれやすいものです。心のほうが発達している人は、お坊さん型で、愛や反省は得意なのですが、実務的な仕事は必ずしも得意ではありません。お坊さん型の人は胸の部分が豊かなのです。
 また、胸に近い部分には、「意志」といわれるものの領域もありますし、腎臓のあたりは「感情」にかなり関係しています。
 そして、深い根源的なエネルギーのようなものになると、おなかから下のあたりに中心部分があります。
 このように、肉体の各部には魂のいろいろな機能が分散しています。人間の魂は多重構造になっていて、外面をすっぽり覆う幽体のなかに、心の領域もあれば精神の領域もあり、ほかにも、いろいろな臓器に応じて、さまざまな機能の中心点があります。魂は複合的にできていて、それを人間はトータルでいろいろと動かしているわけです。
 現代医学は臓器移植を安易に行っていますが、ほんとうは臓器移植には危ない面があるのです。
(59~61ページ)

「肉体と魂」と一口にいうけど、実は人間の魂というのは、複合的な多重構造でできている。

臓器にはそれぞれ独立した意識があって、臓器ごとに心の領域や精神の領域を司っている。

そして、心の中心部分は、心臓のあたりにある──。

うーん、まさに不思議な霊的事実ですね。

昔から、心は胸にあると考えられていることが多いのは、実は当然のことだったのだと私は思っているのです。 


『感化力』

大川隆法著

 

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社会に出たんだけど、ぜんぜん評価してもらえないんだよね。自由に仕事やらしてくれないし、ガンガン発言してたら、生意気だなんて言われてさ。使命があるの信じてるんだから、ぜったい成功するんだし、こんなんじゃ、さっさと独立しちゃった方がいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

私はいつもあなたがたに、
執着を去れと教えてきたはずだ。
執着のなかでも、あなたがたを成功から遠ざける最たるものは、
時間における執着だ。
時間における執着とは、焦りのことをいう。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に苦しんでいる。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に迷っている。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に虜となっている。

人びとよ、まさしく焦りは人生の敵である。
静かにゆく者は遠くまでゆくのだ。
音少なくしてゆくものは、千里を駆ける。
騒がしく鉦(かね)や太鼓の音とともに歩む者は、
さほど遠くまで進むことはできない。
なぜならば、鉦を打ち、太鼓をたたく音を聞いて、
まわりからゾロゾロといろいろな人が集まってきて、
やがて話しこむうちに、
本来の旅の目的を忘れ去ってしまうからだ。

ゆえに、諸人よ、
先を急ごうとするならば、静かにゆけ。
目的が遥かに遠くにあるならば、すみやかにゆけ。
深く、静かにゆくがよい。
その際に、決して焦ってはならない。
決して急いではならない。
焦りの気持ちとは何であるか、考えたことがあるだろうか。
焦りの気持ちとは、いち早く結果を手に入れたいとする気持ちだ。
努力を惜しんで、努力の目的であるところのその成果を、
人より早く手に入れたいとすることだ。

ゆえに、諸人よ、よくよく心せよ。
もし、あなたがたの人生に迷いが生じてきたならば、
この迷いとは、実は焦りにはかならないのではないかと、
焦りこそが迷いを生み、迷いの根源が焦りではないのかと、
その時に、深く深呼吸をして、
何ゆえに焦るのかと、自問自答するがよい。
(202~205ページ)

焦っていませんか。

努力を惜しんで、成果だけを手に入れたいと考えていませんか。

騒がしく鉦(かね)や太鼓を鳴らして、歩いていませんか。

本来の旅の目的を忘れていませんか──。

今日は、この仏の言魂をしっかりと味わって、みずからの心を省みることで、また新たな気持ちで活躍して行きたいものだと私は思っているのです。

 

『仏陀再誕』

大川隆法著

 

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仏教っていうのは、この世での生活を否定して、あの世で極楽に行くことを求めてたんじゃないの。それは今の時代も維持されるべき教えなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 二千五百年前の釈迦仏教は、「この世への執着を去り、この世に還ってこなくなることが幸福だ」ということを説いたと捉えられます。しかし、この世が発展し、環境がよくなったため、この世に生まれ変わってくる人が増えています。時代は釈尊の教説とは反対の方向に動いているようです。
 この部分については思想的な戦いの決着がついていません。むしろ、インドでは、仏教が滅びて、現世肯定的なヒンズー教が広がり、人口が増えているので、釈尊の教えの反対になっているように見えなくもないのです。
 このように、「宗教的思想は現代において検証し直されているのではないか」と思います。
 ここで、私が基本的な立場として言っておかなければならないと思うことは、「新しい宗教としては、これからも日進月歩するであろう科学技術文明そのものを否定するかたちの宗教にはしたくない。世の中が便利になるのは結構なことである」ということです。
 かつては東海道を徒歩で移動していましたが、やがて、移動手段が、馬になり、鉄道になり、飛行機になり、リニアモーターカーになっていくこと自体は、それはそれでよいでしょう。それだけ密度の高い人生経験を積めるようになるので、それを宗教的に否定しようとは思いません。
 また、魂としてでなければ宇宙空間に行くことはできなかったのに、スペースシャトルなどの宇宙船によって、肉体を持ったままで宇宙に行ける時代が来たことも、宗教的に否定しようとは思いません。
 ただ、その高度な科学技術文明に釣り合うだけの霊性、霊的なバランス感覚は必要であると思います。「この世が進歩し、住みやすくなるにつれて、あの世的なもの、霊的なものを忘れていく」ということであるならば、この世に生まれ変わった人の多くが地獄人口へと転化していく可能性は、極めて高いと言わざるをえません。
 そういう時代であるからこそ、霊的な思想を信じる人々の裾野を広げていかなければならないのです。「霊的な思想は、決して古代だけのものではなく、現代にも必要なものなのだ」ということを伝えていく使命が、幸福の科学に課せられているのです。
(293~296ページ)

この世が科学技術の力で進歩して、便利になっていくのは、とてもけっこうなことです。

その便利な環境を求めて多くの魂が生まれ変わってきていることは、むしろ好ましいということになります。

つまり、大川隆法先生は、はっきりと述べておられませんが、その意味では、2500年前にお釈迦さまが説かれた仏教の教えは、現代においては適合しなくなってきている部分もあるってことだと思います。

そして、そこで大事なのは、この高度な科学技術文明に釣り合うだけの霊性も必要だということ。

それを抜きにして、単純にあの世的なものや霊的なものの否定に行くのであれば、あの世に還ったときに、天国ではなく地獄へと行ってしまうことになる。

だからこそ、「霊的思想は現代にも必要である」と、広く述べ伝えていかなくてはならない、と。

これを確信をもって伝えることができる、幸福の科学の使命は、それこそ限りなく大きなものだと私は改めて思っているのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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オレって、同期の中では、ダントツに優秀なんだけどなあ。でも、成功できないって、なんでなんだろ。おかしいよな? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 優秀だと思える人──自分もそう思っていますし、傍目(はため)から見てもこの人は優秀だと思える人が成功しない理由というのは、突き詰めていくと、たいてい、この一点になることが多いのです。それは、要するに自分より優れている者、強い者に負けたくないという気持ちがあって、成功した人の、その成功にケチをつける心が必ずあるということです。こういう心のある人が、残念ながら、優秀だけれども成功しないのです。やがて失敗していきます。(中略)
「あいつはたまたま運がよかったんだ」、あるいは、「あいつは要領がよかっただけなんだ」という言葉を使うことがよくありますが、こういう言葉は、これから幸福になっていこう、成功していこうと思う気持ちがある人は、絶対に使ってはなりません。
 他の人が成功したことを、その人の努力以外のそうしたものに帰してしまおうとする心、そして自分とは関係ないとする気持ち、これは無くさなければなりません。こういう気持ちがあると、成功した人のいいところを学ぶことができないのです。ケチをつける卑怯な心があると、学ぶことができないのです。
 成功者といえども、完全な人格ではないでしょう。自分のほうが勝っているところもあるかもしれません。しかし現に成功した人がいたなら、成功者は成功者として認めて、そのなかから参考になるところを学んでいく。これが自分も成功していくための方法なのです。その人にケチをつけ、批判をしたところで、一時的な気休めにはなるかもしれないけれども、自分が幸福になることもなければ、成功することもありえないのです。断じてこれを排除せねばなりません。嫉妬心はいちばん危険です。これが多くの人が成功していけない理由なのです。(中略)
 弱い者、失敗する者を愛する気持ち。これは、正義の観点からみて正しいこともあるけれども、幸福理論からいくと、そうした失敗する人ばかりをかわいがる気持ちがいつもあると、自分もいつしか不幸を愛していくようになり、決して成功できなくなっていきます。
 弱き者、失敗した者に対する慈しみ、同情というのは大事なことです。しかし、それが自分自身の心の傾向性になってはなりません。そうであっては、真に向上することはできないのです。やはり、成功していく者、強き者、立派な者から学んでいくという気持ちが大事なのです。(中略)
 自分は失敗して、人はうまくいったとき、まず、その人の悪口を言うことだけはやめる。いや、それだけではまだ足りない。やはり、その人を褒めなければいけません。その人を褒める、祝福する。そして、「立派な姿を見せていただいて、ありがたかった」という感謝の言葉を述べる。そうであってこそ初めて、自己の学びになり、自分の進歩になっていきます。
 自分がそのようになりたいならば、そのイメージというものを肯定することです。それによって、自分はそういうふうになっていけるのです。
(103~107ページ)

失敗者への慈しみや同情の気持ちは大切にしつつも、成功者から学んでいくという気持ちを自らの心の傾向性とするように努力すること。

成功者から学ぶためには、ケチをつける卑怯な心を持たないようにすること。

さらに進んで、成功者を褒める努力をすることで、成功のイメージを肯定すること──。

心の中によき種をまき、育てていくことで、成功はつかんでいくことができると教えていただいています。

大川隆法先生は、その一つの応用例を、ここで説いておられるのだと私は思っているのです。

 

『人生の王道を語る』

 大川隆法著

 


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大川隆法先生は、お釈迦さまの生まれ変わりなんだって? お釈迦さまの時代だって、霊界があって、宇宙があって、他の星があって、というのは同じはずなのに、お釈迦さまの説いてた話って、いま大川隆法先生が説いてるのと、だいぶ違わないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 実在界に対する釈迦の認識はかなり進んだものであって、九次元宇宙界の本質まで悟っており、「九次元世界は地球だけで完結するものではなく、地球以外の惑星にも広がっている。他の惑星にも素晴らしい霊人たちが数多くいて、修行をしている」という事実もつかんでいました。
 また、「宇宙即我(うちゅうそくわれ)」という自己拡大の経験をしたときには、地球という惑星が非常に小さな点となり、みずからの内臓の細胞の一つになっていくのを実体験していたので、宇宙というものの感覚もつかんでいました。
 しかし、それらを当時の弟子たちに説くのは非常に困難だったため、さまざまなたとえ話で語るにとどめていました。当時の人びとは、宇宙の構造を聞くまでには、魂の勉強が進んでいなかったのです。
 現在、私は実在界の姿を解明していますが、そうした世界について、今から二千五百年前のインド社会という限界のなかではありますが、釈迦はすでに知っていたのです。
 ただ、釈迦に足らざるところがあったとすれば、地上にいるときの世界観が、まだいくぶんインドを中心としたものだったために、幽体離脱をして実在界に行っても、会っている霊人たちが、主としてインドを霊域とした人たちだったということです。違った霊域の人びとと会うには非常に難しい面があったと言えます。
 また、実在界には、いろいろなスタイルで生きている人が数多くいて、釈迦が彼らを非常に珍しい眼で見ていたことも事実ですが、「彼らの存在がいかなるところからきているのか。彼らはどのような生活をしているのか」ということを、深く追究しないままに終わったところがあります。
 しかし、釈迦が幽体離脱によって実在界を実体験したことは、生と死の意味、人生の目的、転生輪廻を説く際に、大きな力となったことは事実です。実在世界の発見によって、彼の思想はいっそうの高まりや深み、真実感を得たのです。
(154~157ページ)

釈迦(釈尊)は、九次元宇宙界の本質や、宇宙人たちの存在、宇宙の感覚をもつかんでいたが、当時の人々がこれらを聞くまでに魂の勉強が進んでおらず、さまざまなたとえ話で語るにとどめていた。

また、インドを中心とした世界観だったために、実在界でも主としてインド霊域の霊人たちと会っており、他について深く追究しないまま終わったところがあった。

しかし、釈迦が幽体離脱で実在界を実体験したことは、その思想に高まりや深みを与え、生と死の意味、人生の目的、転生輪廻などを説く際に、大きな力となっていた──。

2500年前のお釈迦さま(釈尊)の時代には、本当の悟りをつかんでおられても、時代の制約や弟子たちの理解力の限界があって、全世界の人々のことや、宇宙人を含む大宇宙の真実についてまで、十分に説くことができなかったわけです。

でも、現代日本で悟りを開かれた大川隆法先生は、そのような時代の制約からはかなり自由に、広大無辺な悟りの世界を、書籍で、講演で、惜しみなく開陳してくださっています。
 
あとは、そのお教えを受ける私たちの理解力の限界が、このお教えの限界にならないように、しっかりと心を開いて虚心に学び続ける努力が求められているのではないかと私は感じているのです。
 
 
『釈迦の本心』

 大川隆法著



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死後の世界があるって話、やっぱり信じられないなあ。目に見えない世界の話だし、やっぱ荒唐無稽だよね。実験で確かめられないじゃないの。迷信じゃないの? なーんて疑問、まだもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 しかし、すべての疑問や疑惑、憶測を超えて、事実は事実として厳然としてあります。死後の世界はあります。魂はあります。
 そのために、きょうも全世界で、さまざまなものが活動しているのです。地域や国を超えて、また時代を超えて、宗教があります。すでに崩壊しましたが、唯物論の国だった旧ソ連であっても、地下では宗教活動が連綿と行なわれていました。
 どれほど抑圧をしても、人間の心の奥底にある「信仰心」そのものを消し去ることはできません。それは真実だからです。すべての人が、霊的なる感覚を、魂の記憶を、持っているのです。表面意識といわれる、目が覚めているときに働いている意識が、さまざまな知識や経験によって眩まされることによって、見えなくなっているようであっても、実際、心の奥底には、それを持っているのです。
 しかし、現代においては、さまざまな宗教があって、評判の悪いものも数多くあります。(中略)確かに、宗教家である私自身が見ても、そのような、とても信ずるに足りないと思われる宗教が、数多くあることも事実です。旧い宗教のなかには、時代適合性がなくなって、現代では笑止千万な教義を立てているところもあります。現代に起きてきた宗教のなかでは、単なる霊能力礼讃になって、その霊能力が善なるものか悪なるものか、わからないものも数多くあります。むしろ、霊能力信仰をしている団体のなかには、奇々怪々、ほんとうに常識では考えられないようなことをやっている団体が数多くあります。そういう団体が宗教界の評判を下げていることも事実です。
 しかし、彼らが宗教の評判を下げているからといって、それを根拠として、正しい宗教がその活動を抑えることが、はたして正義に適ったことでしょうか。仏の心に適ったことでしょうか。宗教全体の評判が悪ければこそ、正しい宗教は、不退転の気持ちでもって、本来の仕事にとりかからねばならないのではないでしょうか。
 真実は一つです。人間は霊的存在です。その人体とそっくりの、魂という霊エネルギーを内に宿しているのです。また、肉体を脱ぎ捨てたのちの来世にも、生命はあります。あの世でも魂経験を積み、一定の周期を経て、また地上に生まれ変わってきます。
 そして、みなさんが地上で生きているあいだは、「魂の兄弟」といわれる、みなさんとは魂的に非常につながった霊存在が、守護霊として、日々、あの世からみなさんを守護しています。さらに、大きな使命を持った人に対しては、指導霊という、いちだんと霊格の高い霊が、さまざまな指導をしています。これが世界のほんとうの姿なのです。
 たとえ、地上に生きているみなさんが、どんなに孤独な思いのままに生きていようとも、真実の目で見るならば、みなさんは孤独ではありません。みなさんを実在界から応援している、数多くの霊存在があります。そうした霊存在が、いろいろなところで、みなさんの危機を救っています。また、人生の大きな岐路においては、みなさんにさまざまなインスピレーションを与えて、進むべき道を教えています。みなさんは、そういう大きな愛に育まれて、いま生きているのです。
(25~28ページ)

死後の世界はある。魂は、あの世とこの世との間で、転生輪廻を繰り返している。

それが真実だからこそ、どれほど抑圧しても、人間の心の奥底にある「信仰心」そのものを消し去ることはできず、唯物論の国・旧ソ連でも、地下では宗教活動が連綿と行なわれていた。

どんなに孤独な思いであっても、私たちをあの世から応援している数多くの霊存在があり、私たちは、そういう大きな愛に育まれて、いま生きている──。

この真実を知ってしまった以上は、この世界の真相を、少しでも多くの人に知ってもらう努力をしなくてはならない。

心の底から私はそのように思っているのです。

 

『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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どうやったら、子供たちは成功できるんだろう。親として、どういうふうに考えて、接してあげればいいんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向けの書籍『子供にとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生で成功するかどうかということは大きなことだね。
 ただ、多くの人を見ていると、成功するか失敗するかは二つのタイプにしか分かれないと思うんだ。
 どんな人が成功するかというと、しょうらいの成功のための種まきをし、その種を育てる努力をする人なんだ。
 しょうらい、大きなことや、りっぱなことをなしとげたり、人からみとめられたりするためには、それまでの間に努力が必要だということを知っていて、その種まきをし、育てる努力のできる人が成功者になるんだ。
 しょうらいの成功を勝ち取るために、長い期間でものを考える人が成功者になっている。多くの人を見ていると、その通りだよ。
 秋にイネの実りをかり入れるためには、春から、ちゃんと田を耕し、水を入れ、なえを植え、雑草を取りのぞいていく努力をしなければならない。秋にだけ実りをかり入れようとしても、そうはいかない。
 ところが、失敗するタイプの人は、まず秋にたわわに実った黄金のイネをほしがるんだ。それだけをほしがるのだけれど、春から夏にはあまり関心がない。秋のかり入れのころになったら、「ちょっともらえないか。」という考えだ。それではスズメたちとほとんど変わらないね。
 こういうふうに、かり入れのときだけ少しもらえないかと思う人は多いんだ。結果が出るまで、成功を手に入れるまで、長い間、努力したりがまんしたりすることができない。がまんできずに、すぐに「あれがほしい。」と何でもほしがるんだ。
 欲に弱く、よく考えないで動き、すぐに結果をほしがり、結果がすぐ出なければあきらめやすい。これが失敗する人のタイプなんだ。
 みんなは笑うかもしれないけれど、九割以上の人は失敗するタイプのほうなんだよ。すぐに結果が得られなければ、がまんできないんだ。しょうらいのために、ぐっとがまんして努力していくのはむずかしいことなので、たいていは、「今すぐほしい。今すぐほしい。」と思ってしまうんだ。
 長い間、努力するということは、それだけでもりっぱなことで、自分をきたえなければできないね。
 「しょうらい、きちんと職業につき、働いてお給料をもらい、それから、けっこんして、家庭をつくって、いろいろと世の中のお役に立てるような仕事をしたい。」と考えることができる人は、平凡(あまりすぐれていない、よくある程度のもの)なようで平凡ではない。それだけでもりっぱなことなんだね。
 だから、欲に流されて変なことをしないで、きちんと努力をしていくことが大事だよ。(154~158ページ)

成功する人は、将来の成功のための種まきをし、その種を育てる努力をする人である。

失敗する人は、欲に弱く、よく考えないで動き、すぐに結果をほしがり、結果がすぐ出なければあきらめやすい。

だから、欲に流されず、きちんと努力をしていくことが大事である──。

子供にも分かるようにやさしく語り口ですが、でも説かれている内容は、子供だけでなく大人にもあてはまる、とっても普遍的なお教えだと思います。

要は、地道に努力を続けるという一見平凡なことが、実は非凡なことなんだってこと。

親になった方は、この普遍の真理を子供たちにしっかりと教えること。

そして、自分自身ができているかどうかを省みることもまた、とても大切だと私は思っているのです。

 

『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著

 

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「転生輪廻」って、生まれ変わりだよね。人間は人間にしか生まれ変わらないって、教えられてるんだと思うけど、でも、人間が動物に生まれ変わった話って、いっぱいあるじゃない。あれって、ぜんぶ作り話なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 これはあまり大きな声では言えないんですが、私が実際につぶさに調べたところ、あるようですね。原則、人間は人間なのですが、どうも動物霊にしてはあまりにも人間らしすぎる動物霊がいるんです。
 たとえば、よく宗教では、憑依霊のなかに狐(きつね)だとか蛇だとかがいると言うでしょう。これは現実にいるんですけれども、狐霊と言われるもののなかに、話をしても言葉はほとんど喋れない狐霊というのがいます。これはほんとうに動物霊であって、感情は持っていますし、ある程度の反応はできるけれど、言葉自体はたいして喋れない。
 ところが、これ以外に、雄弁に喋れる狐の霊というのがいるんですよ。これはおかしいなと思って調べてみると、やはりもとは人間霊なんですね。人間であった人が、死後、畜生道というところに堕ちるんです。そして、そこに二、三百年いて、もう人間としては浮上してこられない場合に、要するに魂修行をさせられるために、ワン・クッションですが、いったん動物に生まれ変わる道があるんですね。
 これはもちろん、諸天善神(しょてんぜんじん)のなかに、稲荷大明神とか、そういう動物を司っている神様がいるのですが、その許可があればのことです。「では、人間のありがたさを知るために、人間として生きることがどれほどありがたいかをわかるために、おまえは一回動物をやってみなさい」ということで、動物に生まれ変わるんですね。
 そして動物をやると、「人間はうらやましい」と言うんです。人間を見ると、あんなに本も読めるし、レストランで食事もできるし、うらやましいなということを、つくづく感じるわけです。人間として生まれることへの感謝を教えるために、もうどうしようもないあたりになると、教育のためにそういうこともあります。
 そういう人は、あの世に還ったら、しばらくは動物霊みたいな姿をしているんですが、改心すると、また人間霊の姿に戻ってくるんです。何回かそういう例を見てきましたので、あることはあります。ただ、可能性は少ない。(中略)
 私も、「何に生まれるかわからない」という、仏教の昔の転生輪廻説は、「だから、動物を大事にしなさい。生き物を殺してはいけないよ」という意味の方便だと思っていたんですが、実際に調査してみると、やはり元人間霊などがいるので、これはたいへんだなと思いました。
 たとえば、番犬をやらされている犬のなかにも、元人間がいるんですね。犬でも、人間の言葉がものすごくわかるような犬というか、やたらと人間的感情を持っている犬がいるでしょう。これなども、過去世を調べてみると、やはり、強盗殺人とか、そういうことをやった人が、今度は逆の立場で、一回だけカルマの刈り取りのようなことをやらされていることが、たまにあるのです。
 これは恐怖につながるので、あまり言わないことにしていて、「ごく一部だけそういうこともあるよ」と言っているのです。
(187~190ページ)

仏教の転生輪廻説は、動物を大事にさせるための方便だけでなく、数は少ないが例外がある。

たとえば、雄弁に喋る狐の霊がいたりするのは、死後、畜生道に堕ちて浮上できない人間に、人間として生まれることへの感謝を教えるため、いったん動物に生まれ変わる魂修行をさせられたものである。

またたとえば、犬の中にも、やたらと人間的感情を持っている犬がいるが、強盗殺人とかをやった人が、一回だけカルマの刈り取りのようなことをさせらされていることがある──。

転生輪廻の仕組みをすべて理解するというのは、そうそう簡単な話ではないわけです。

人間は原則として人間にしか生まれ変わらないんだけど、でも例外も一部ある。

こんな話を聞くと、だからこそ、人間として生まれ、生きていることのありがたさを、私たちは知らなくてはならないのだと、改めて私は感じているのです。 

『フランクリー・スピーキング』

 大川隆法著

 

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オレって絶対に正しいと思うんだ。新しいことはすぐに批判されるけど、世間が理解できないだけ。ガンガンやってやるんだ。これって間違ってないよね? なーんて前向きな悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現実の人生では、ある程度、自分なりの論理、考え方を立てて、「家庭や仕事の問題を解決していこう」と思わなければいけません。
 ただ、「自分の考え方は正しいかどうか」ということについては検討の余地があります。周りの人からの反作用があまりに多かったり、世間の非難が大きかったりする場合は、自分の考え方に間違いがあることもあるので、一度、「自分の考え方は正しいかどうか」ということを検証する必要があるのです。
 世間には保守的なところがあり、世間にとって初めてのこと、受け入れの準備をしていないことに対しては、抵抗や反発をする傾向があります。最終的によいことであっても、すぐには受け入れない場合があるのです。(中略)短い年月のあいだでは、世間は間違うことがあります。それは、いまのマスコミや国民の意識を見てもそうでしょう。
 しかし、「長いあいだで見たら、世間は正しい結論を出してくる」ということを、ある程度、信頼したほうがよいのです。
 歴史上、「民意が間違っていた」という実例は幾らでもあります。
 たとえば、百年以上前のアメリカの大統領であるリンカンは、大統領になる前に何回も選挙で落ちています。選挙でリンカンを落とした人々は、その時点では、リンカンが将来あれほど尊敬される大統領になることが分からなかったわけです。
 リンカンは、「選挙で落ちる」という辛酸に耐え、最後には大統領になり、南北統一や奴隷解放を成し遂げ、きちんと使命を果たしました。
 そして、「最初、民意が間違っていた」ということに対しては、その後、「尊敬」というかたちで埋め合わせがなされています。
 新しい考え方や新しい人など、新しいものがいろいろと出るときには、反対されることもありますが、「長い目で見て、世間が間違いつづけることはない」と考え、世間を信頼することが大切なのです。
 反対されて、被害意識を持ったり、あまりにも反社会的になったりすることは、よくありません。
 うまくいかない場合には、まず、自分なりに点検したり反省したりすることが必要ですが、「これは、新しい考え方、新しいやり方だが、どうしても、やらなければいけないことである」という強い信念があるならば、押し通さなければいけません。そのときは、「抵抗や反発などは受けて立つ」という覚悟で行うことです。
(32~34ページ)

短期的にみると、世間が間違っていて、自分が正しいことはたくさんある。

でも、だからといって単に反社会的な姿勢で突っ走ればよいというものでもない。

「長い目で見て、世間は間違わない」という考え方も持っておく必要がある──。

世間では、あの世があることを信じず、仏神を信じない人が多いようにも思えます。

でも、よく考えてみると、そんな考え方をする人が多数派に見えてきたのは、戦後のことです。

わずか70年やそこらの時間というのは、長い長い人類の歴史の中では、むしろとても短い期間にすぎないんじゃないでしょうか。

「長い目で見て、世間は間違わない」との教えをいつも念頭において、日々、自らをかえりみて反省しつつ、それでもこれをやるべきだという信念が揺るがない。

そのときは頑張って断行していくしかないのだと、改めて私は確信できた気がしているのです。


 

『生命の法』

 大川隆法著

 

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「霊」とか「霊魂」とか、あるっていうんでしょ。でも、そんなもの、目に見えるわけじゃないし、信じらんないよ。ほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 この世のものは、すべて時々刻々に変化をしており、まったく同じ状態であることは不可能だということです。たとえば、私たちの肉体細胞をとってみても、昨日の自分と、今日の自分とを比較するならば、まったく同じ状態ではないのです。
 しかし、日々変化する肉体細胞によって構成されているわけですが、その人の姓名で称されている実体があるのです。その肉体細胞を統一している実在があるということです。
 すなわち、時間の流れのなかで流転する存在の背後には、永遠に変化しないなにかがあるのです。人間にして然り、動物にして然り、植物にして然りです。
 たとえば、植物を一本の花たらしめているものは、まったく偶然に集合した植物細胞ではありません。もし偶然に集積した植物細胞が、今日という日の一本の花を形づくっているならば、日々流転し、変転するという法則のもとでは、その花は、やがて花以外のなにか別のものにかわってゆくのがほんとうです。
 しかし、やはり花は、花にしかすぎません。昨日も花、今日も花、明日も花。花としてのあり方が変化するだけで、花が花以外のもの、たとえば、動物とか、人間とかにはなりえないのです。
 また、菊の花が途中でチューリップになることもなければ、チューリップが突然コスモスになることもありません。チューリップは、あくまでチューリップの花としてその一生をおえていくのです。
 そこには、変化のなかにあって変化しないなにか、流転のなかにあって流転しないなにかがあるのです。そして、このなにかこそが、あるときは実在といわれ、あるときは理念といわれ、また、あるときはイデアといわれるものなのです。
  「色即是空  空即是色」という、仏教の有名な言葉があります。この言葉も、私が述べてきた、変化の背景にある不変なるものの実在、普遍的なる存在が投映されて、流転するこの世的存在となっていることを道破した真理の言葉なのです。
 私たち人間は、時々刻々に変化する、たよりない肉体細胞の集合体をもって「人間」と称しているのではありません。人間の本質は、時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなくて、永遠に不変の実在なのです。この不変の実在こそ、生命であり、魂であり、霊であります。
  私は、「霊」という言葉でもって、摩訶不思議な特異現象をさしているのではありません。それは、人間の本質であり、不変の実在であり、生命のイデアなのです。
 肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体。これらが、人間の本質なのですから、霊という言葉に対して、世人がいかなる印象を、もとうがもつまいが、真実はひとつなのです。
(25~28ページ)

現実に霊というのは実在していて、それが肉体に宿ることで人間はこの世で生きている──。

これは、霊能力がある方からすれば、議論の余地がないほど明らかな事実なんだと思います。

でも、霊能力がないと分からないような摩訶不思議な話ではない。

自分の頭でよくよく考えてみさえすれば、霊が存在するという以外に真実はあり得ないことが、誰であっても分かるだろうと私は思っているのです。

 

『太陽の法』

 大川隆法著

 

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欲望って、いけないものだよね。聖なるものから遠ざかるし、堕落するし。どうやったら、欲望をなくすことができるのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間である以上、地上では肉体を去った生活はできません。いくら断食をして食欲を断とうとしたところで、死んでしまえば、肉体を持つ人間としての修行は、それで終わってしまいます。過去には、異性に惑わされないように眼をえぐり取った修行者もいますが、そんなことをしたところで、煩悩そのものがおさまるわけではありません。
 生きている人間であるかぎり、どのようなことをしても、その生命に付随して、欲望というものが必ず出てきます。生きていこう、伸びていこうとする思いに付随して、欲望は出てきます。
 しかし、欲望というものは、氾濫する川にも似て、田や畑を水浸しにしてしまうものなのです。したがって、川の水そのものをなくしてしまうことはできませんが、堤、堤防をつくって、川の水を氾濫させないで流していくことが大事なのです。川の水を氾濫させてはいけないのです。
 川の水そのものを消し去ることができないのと同じように、生きていく人間の生命の意欲そのものを消すことはできません。したがって、川の水のように、欲望を氾濫させないことです。よくそれを防ぐことです。そして、まっすぐに流してこそ、人のためとなり、世のためとなっていきます。まっすぐに流した川であってこそ、人びとのためになり、世の中の役に立っていくのです。
 そのように、「己を調える」ということが、限りなく大切なことなのです。
 反省とは、結局、そうしたことなのです。
(122~123ページ)

欲望は、人間の生命に付随して出てくるのだから、生きている限りなくすことはできない。

だからこそ、欲望を氾濫させないこと。

そのためには、己れを調えることである──。

そのためにこそ、「反省」という方法が人間には与えられていると、大川隆法先生は教えられます。

反省行というと、むつかしそうに感じてしまいますが、そうではなく、誰もがもっともっと意識して行うことで、人生を充実した有意義なものにできるのではないかと私は思っているのです。

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

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仏法真理って素晴らしいなあ、大川隆法先生の教えって素晴らしいなあって、思ったんだ。でもねえ、なんだかいろいろ言う人もいるし、そもそも霊界なんてあるのかね、なんて思ってしまって、考え込んでるんだよね? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いったん発心を起こすことは簡単だと思うのです。神仏の道を求めようとする。信仰は素晴らしいと思う。信仰は美しいと思う。そして、そのようにありたいという思い、それは人間の一生のうちに何度か訪れることかもしれません。(中略)そのときに、いま述べたたとえどおりの困難が、必ず現われてきます。
 他の人びとの罵声、悪口、非難。そうした火の河が現われてくることもあれば、この世的な欲望を断ち切ることができないということもあるでしょう。(中略)
 さらには、自分の肉体生活に基づいたいろいろな煩悩が出てきます。いったん書物で読んで、「ああ、本物だ」と思っても、実際にその世界に踏み込もうとすると、「霊の世界というものを見たことがある人は、本当にいるのだろうか。(中略)そんな疑いが出てきます。そこに六根煩悩が出てくる(中略)
 しかし、そのときに肚をくくることです。(中略)心を決めることです。
 一度、西の方向に向かって歩んでゆこうと思ったのだから、そのほうに向かって、たとえ火の河、水の河があろうとも、たとえその道は狭く細いものであろうとも、そして足元を何度も炎がかすめ、水が逆まいたとしても、まず発心したことを大事にして、一筋に歩いてゆこうと決意することです。
 そのときに、あなたを助ける声が聞こえてくる。それは何であるか。一つは仏法真理の書籍です。現代でも「幸福の科学」からは素晴らしい書籍が数多く出ております。また、過去の書物、たとえば仏教の書物、キリスト教の書物、プラトンをはじめとするギリシャ哲学の書物、中国の古典、そうしたもののなかにも信仰の素晴らしさを教えたものが数多くあります。(中略)
「あの世はないと言う人がいるが、そんなことはない。あの世はあるのだ。お前はこの世かぎりの人生を送ってはいけない。あの世があると信じて、ひたすらに精進するのだ」、そういう声が後ろから聞こえてくるわけです。(中略)
 そして、力強く歩もうとすると、前からも声が聞こえてきます。(中略)あなたが発心をなして、修行の道を歩むときに、必ず霊天上界からあなたを導く声が聞こえてくるのです。「そうだ。この道を歩くのだ。私たちも、お前が見事に今世の修行を終えて、天国に還ってくるのを待っているのだよ。お前がその気で修行をするなら、私たちも声援を惜しまないよ。信じて釆なさい。地上の人間は、あなたのことを悪く言うかもしれない、批判するかもしれないが、ただ天上界にいる私たちを信じてついてきなさい」という声が聞こえてくるはずです。
 そして、その声を信じて、まっすぐに二河白道(にがびゃくどう)を歩いてゆくと、やがて火も水も消えて、素晴らしい世界に出て、あなたの本来の仲間たちと会うことができます。あなたは天国にいる光の天使たちと会うことができるのです。これが信仰の姿です。
(108~113ページ)

人は信仰の道に入ろうとしたときに、必ず、いろんな困難が立ち現れてくる。

他の人びとの罵声、悪口、非難(「火の河」)。

肉体生活に基づいたいろいろな煩悩(「水の河」)。

その火と水とに挟まれたわずかな細い白い道を歩いていくのは、とてもむずかしい。

でも、その道を一筋に歩いていくと決意するならば、後ろからは、仏法真理の書籍が励ましてくれるし、前からは、守護・指導霊が導いてくれる、と。

これは、浄土真宗などで有名な、「二河白道(にがびゃくどう)」のたとえを、大川隆法先生が解説された部分です。

信仰の細き白き道を、ただひたすらに、まっしぐらに進んでいけ──。

この仏の言葉を、その素晴らしさを信じて、日々歩んでいきたいものだと改めて私は思っているのです。

 

『宗教の挑戦』

  大川隆法著

 

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悲しくて涙が流れるの。言葉にできないくらいなの。どうすればいいの? なーんて悩みを抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

悲しみの時にこそ、
自己と対面せよ。
真実の自己の姿を知れ。
自分の本心を知れ。
自分の仮面をはいで、真実の姿をさらけ出せ。
泣きたい時には泣け。涙を流せ。
涙を流したその時に、
自分がいかに偽りの多い人生を生きていたかを
知ることもあるであろう。
そのような時に、
あなたがたの魂は、確実に一歩前進しているのだ。

悲しみの時には、真実の自己を発見せよ。
悲しみの時には、自分の本心を発見せよ。
悲しみの時には、大いに嘆くがよい。悲しむがよい。
その時に、自分の偽我を涙でもって洗い流せ。
その涙が晴れた時に、
清新なる自己というものが、よみがえってくるであろう。
その新しい気持ちを忘れるな。
涙でもって、自分の塵や垢を洗い流せ。
そして、新たな気持ちでもって、
ふたたび人生を歩みはじめよ。
そこに、次なる飛躍台があるのだ。
次なる道への最短距離があるのだ。
(75~78ページ)

悲しみの時にこそ、真実の自己の姿を知れ。

その涙が晴れた時に、清新なる自己がよみがえってくる。

そして、新たな気持ちで、ふたたび人生を歩みはじめよ──。

悲しみのさなかではなかなか分からないかもしれません。

でも、通りすぎて振り返ってみると、たしかにこれが叡知の言葉だと分かってくると思います。

この仏の言葉をかみしめて、悲しみのときを乗り切っていきたいものだと改めて私は思っているのです。

 

『愛から祈りへ』

 大川隆法著

 

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人間って、仏の子だし、神の子なんだよね。仏とか神に創られた存在なんだよね。だったらなんで、人は犯罪を犯して、死んだら地獄に堕ちたりするの。悪なんて犯せないようにすればいいじゃない。地獄なんてのも、なくしてくれればいいじゃないの? なーんて、突き詰めた疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『理想国家日本の条件』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

人生の途上において、
あなた方一人びとりに巡りきたるところの選択は、
あなた方一人びとりが
己れの決定でもって下したということなのだ。
これが、魂の自由である。
この魂の自由こそが、
あなた方のなかに宿されたる最大の幸福でもあるのだ。(中略)

悲しみもあることを知って、喜びを得た者は、
最大の幸福を手にしたのだ。
苦しみがあることを知りながら、
その苦しみを突き抜けて、栄光を手にした者には、
不幸は忍び寄る隙がない。
そう、あなた方は、
ほんとうの意味における自由ということが、
己れの魂の主人公であるという名の自由が、
いかばかりの幸福であるかということを知りなさい。

さすれば、
あなた方が忌み嫌う地獄という世界であっても、
その地獄の底を支えたる
神の愛の手があることを
知るであろう。
支えているのだ。
数十億の人が苦しんでいる、その地獄の底をも、
神は支えているのだ。
抱きとめているのだ。
その事実を知らなければならない。
その苦しみが最大の幸福となる日を夢見て、
抱きかかえている存在があるということを
忘れてはならない。
(24~28ページ)

人間が、選択の自由を行使することで得られる最大幸福のために、神仏は、人間に、魂の自由を与えられた。

そして、神仏は、いわばその副作用として出現した地獄の底をも支え、抱きとめてくださっている。

そこでの修行は、長く苦しいものかもしれないけれども、それを突き抜けてまた天上界に帰ったときには、最大の幸福がやってくる──。

神の愛は、仏の愛は、私たち人間には想像もできないほど、広く、深く、そしてとても忍耐強いものなのだと私は思っているのです。

 

『理想国家日本の条件』

 大川隆法著

 

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あのテロ犯だったオウムの麻原彰晃の死刑って、ついにというか、ようやくというか、執行されたよね。でも、精神異常になってて裁判を受ける能力がなかったって意見も強かったんでしょ。ほんとのところ、どうだったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『麻原彰晃の霊言──オウム事件の「本当の動機」と「宗教的けじめ」』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 オウム真理教の元・教祖、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚は、二〇一八年七月六日午前に死刑を執行された。他の幹部六名も同様だった。
 麻原は、死刑執行当日、昼前には霊として、幸福の科学総裁の私のところに現れた。誤解されないように言うとすれば、迷って往く処(ゆくところ)がわからず、旧敵に救いを求めに来たのである。この人にはずいぶん迷惑をかけられたので、私の方は何の義理もないのだが、事件の時には、悪霊や悪魔の霊言もたまにはするので、その同じ流れで本書を刊行することになった。
 法律的には、これだけしっかり話せる意識があったのだから、判断や行為に当然「責任能力」があり、生前気がふれたふりをしていても、死刑判決は当然であり、死刑の執行も妥当である。
 ただ、新聞に「物言わぬ教祖」と書かれた男の心の深層に迫り、宗教的けじめをつけ、被害者の遺族や、まだ彼を信じる者たちを救いたいと思う。
(3~4ページ)

帯に書かれた「7/6死刑執行直後に緊急収録」という文字が目をひきます。

死刑執行当日、わずか数時間後に公開収録された霊言が、例によって活字起こしされ、霊言集として刊行されたものです。

唯物論の人にとっては、まさか、という話だとは思います。

しかし、大川隆法先生が数多く発表しておられる「霊言」が「本物」である以上、まさに出るべくして出された霊言集、なのかもしれません。

このまえがきで、大川隆法先生が簡潔に結論を出されているように、その死刑執行の是非が世間ではまだ議論されているようですが、本書の刊行によってもう議論の余地がなくなったのではないでしょうか。

いずれにしても、1995年に起きた地下鉄サリン事件の真相や、宗教と称していたオウム真理教というのはなぜ生まれてしまったのか等々、オウム関連について知りたい方すべてに強くお勧めしたい、必読文献であると私は確信しているのです。


『麻原彰晃の霊言』

  大川隆法著

 

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