ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



大事な人が重い病気なんだ。なんで人は、人生の大事な時期に、突然、病気になって死んだりするの? 神さまや仏さまがいて、そんなのって、おかしいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は、病気になっても、ならなくても、死ぬときには死にます。
 病気になると、闘病生活は苦しいでしょうし、職業を失ったり、仕事がうまくいかなくなったりと、いろいろなことがあると思いますが、生かされているかぎりは、「まだ、この世に使命があるのだ」と思って、自分がやれるだけのことをやり終えてください。それが大事です。(中略)
 「自分は、もう終わりだ」と思うかもしれませんが、そんなことはありません。まだまだ、やれることはあります。
 今世において最後に残るものは心の修行です。それしかないのです。
 闘病中であっても、心の修行は可能なはずです。病気をしていても、「自分は、どのような心境を維持し、獲得することができるか」という修行はあるはずなのです。(中略)
 ある人に病気が与えられたならば、それには、それなりの理由があります。
 もちろん、肉体的な欠陥による病気や遺伝性の病気もあるでしょうが、(中略)文明国における老壮年期の病気は、ほとんどが生活習慣病です。(中略)五十歳を過ぎてからの病気は、ガンであろうと、心臓病であろうと、脳出血や脳梗塞などの脳系統の病気であろうと、ほとんどは生活習慣に基づくものであり、ある意味で自業自得で起きているものです。
 早めに生活を改善し、健康生活に入らなければいけなかったのに、無理をしたか、運動をサボったか、そのどちらかのために、そうなったのです。
 避けられるものは避けるように努力したほうがよいと思いますが、最後は、どうしても病気をします。そのときには、避けられない運命として受け入れるしかありません。
 それも人生の修行課題なのです。あなたの人生の問題集の一章として、「肉体的な苦しみ」という課題が入っているのでしょう。「病気になり、肉体的な苦しみのなかで、どのように生きるか」という一章が、問題集のなかに入っているのでしょうから、その問題を頑張って解いてください。
 しかし、やがて死は訪れます。(中略)一つや二つの病気を克服しても、人は、やがて死にます。現代医学は、人間の寿命を少し延ばすことはできても、死から救うことはできないのです。(中略)この世の人生には必ず終わりが来るからです。諦めて受け入れてください。
 病気も、あなたの人生の一部なのです。
 したがって、悲しい最期になるのならば、その悲しい最期を迎えなければいけないのです。そのような人生のシナリオもあると言わざるをえないので、そのときは、「自分には、こういう課題が残っていたのだ」と考えてください。
 しかし、病気のときに人は信仰に目覚めることもあります。(中略)もし、信仰に入るチャンスとして病気になったならば、それもまた、ありがたいことだと思うべきです。
(97~103ページ)

病気には、それなりの理由がある。文明国における老壮年期の病気は、ほとんどが生活習慣病なので、避けるように努力したほうがよいが、どうしても避けられない場合には、自分の「人生の問題集」に病気という課題が入っているのだから、これを頑張って解く必要がある。

病気のときに人は信仰に目覚めることもあるので、それもまたありがたいことである。病気になっても、ならなくても、人は最後は必ず死ぬものだから、悲しい最期になるのならば、その人生のシナリオを受け入れること。

そして、病気になっても、生かされているかぎりは、どのような心境を維持し獲得できるかという「心の修行」は可能である──。

非常に厳しいお教えでもあると思います。

でも、病気もまた自分の人生の一部である、自分の「人生の問題集」の重要な問題の一つだと知ったとき、これをどう受け入れ対処していけばいいか、その展望が眼の前に開けていく感じがします。

つまりは、この世における人間の営為を、冷徹に、でも暖かく見つめて下さる仏の叡知が、この教えにはきらめいているのだと私たちは思っているのです。
 

『生命の法』

 大川隆法著

 

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友達は大事だよね。人生で、友達ほど大事なものって、ないんじゃないかと思うんだ。でも、その友達が、ちょっと悪いことしてるんだよね。どうすればいいんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『勇気の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 二千六百年前に釈迦は、「愚かな人を友とするな」「悪い友と交わってはならない」ということを繰り返し説いています。そして、「愚かな人、悪い友と一緒にいるぐらいなら、犀の角の如く、ただ独り歩め」「自分より優れた人を友とせよ。真理の道を歩む者を友とせよ。そのような友を得ることができなければ、犀の角の如く、ただ独り歩め」ということを、よく語っています。(中略)
 これは、「真理を求めて修行をしている人、優れたところのある人と交わっていきなさい。悪い人と交わるぐらいなら、むしろ人と交わらないほうがよい」という教えです。
 確かに、「朱に交われば赤くなる」という言葉もあるように、悪い友達と付き合っていると、自分もだんだん悪くなっていきます。悪い友達との付き合いから逃れられず、その仲間意識のために悪事に加担してしまうこともあります。(中略)
 今、中高生あたりでは、万引きをする子も多くなっていますが、どちらかといえば、一人でやるよりも何人かでチームを組んでやる場合が多いようです。
 品物を盗んでくる人のほかに、見張り役や、フェイント役、何かを買うふりをする役がいたりします。コンビニなどは店員が一人ぐらいしかいないことも多いので、何人かで組んでやれば容易に盗むことができます。(中略)
 ただ、友達が五人、六人、七人、八人という数になり、いったん、そういう人たちと交遊関係をつくってしまうと、万引きをするときだけ抜けることは、なかなかできません。抜けようとすると、「おまえは生意気なやつだ。仲間外れにするぞ」などと脅されるために、心ならずも参加してしまうことがあります。
 しかし、このような交遊関係は悪しきものであり、むしろ、友達であるならば、「そういうことをしてはいけない」と、きちんと言う関係をつくるべきです。
 これは、みなさんの友人関係でも同じことが言えます。もし、仲間が何か悪い行いをするのを止めようとしたことが原因で人間関係が壊れ、「おまえのような人間は仲間に入れない」と言われることがあったとしても、「それならそれでかまわない」と思うことです。
 前述したように、「犀の角の如く、ただ独り歩め」ということです。「そんなことまでして友達付き合いをしなければいけないのであれば、自分は独りで行きます。真理を求めて、独りで生きていきます。そのうちに、真理の友も現れてくるでしょうから、仲間に入れてくれなくてもかまいません」と言えばよいのです。
 友達が間違っていると思ったならば、友情として、「間違っている」ときちんと言うだけの勇気が必要です。言ってあげなければ、彼らが、犯罪者になったり、将来を駄目にしてしまったりするおそれもあります。
 万が一にも、そのようなことになってはいけないので、言うべきことは言わなくてはなりません。
(26~29ページ)

友達が間違っていると思ったならば、友情として、「間違っている」ときちんと言うだけの勇気が必要である。

その結果として、人間関係が壊れても、「それならそれでかまわない」と思うこと。

悪い人と交わるぐらいなら、むしろ人と交わらないほうがよい。愚かな人、悪い友と一緒にいるぐらいなら、犀の角の如く、ただ独り歩め──。

悪い友達に関する大川隆法先生の教えは、とても明確です。

一見、冷たく感じる人もいるかもしれないけれども、でも、よくよく味わってみると、これは人生の達人の深遠な叡知であると私は思っているのです。
 

『勇気の法』

 大川隆法著


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現代社会って、クレジットカードでものが買えるんだし、ボーナス一括払いなんて普通のことだよね。おやじたちの世代みたいに、貯金がどうなんて、考えなくっていいんじゃないのかな。21世紀の経済は、発想の転換が必要だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 経済的に富もうとするならば、まず貯蓄に励まなければなりません。
 ところが、現代の生活を見てみると、現代人たちは消費のほうを先行する傾向にあります。将来に入ってくるお金をめあてにして、先に物を買ってしまいます。これは、おそらく欲望のほうが理性に勝っている状況だと思います。ボーナスを見込んで先に物を手に入れようとするのは、地獄型経済と言ってもよいでしょう。
 また、世のセールスマンや商売人たちは、その地獄型経済をよしとして、「ボーナス払いでいいですから、お買いになりませんか」「分割払いでいいですから、お買いになりませんか」と言って勧めてきます。そして、借金先行型の経済が進んでいきます。
 しかし、経済というものは、やはり収入の範囲内で生活するのが原則なのです。いや、収入の範囲から一定部分を貯蓄、蓄財に回すのが天国的生活なのです。
 時代が変わっても、この原則は変わりません。現在どのような経済機構が進んでいても、やはり変わらないのです。それは、貯蓄をしていく、将来のためにあらかじめ資金を残していくという活動自体が、実は精神的な余裕を生み出すからなのです。
 借金が先行していくと、それが経済的にはいかに便利であるかを他の人から説明されたとしても、あるいは、節税に効果があるというような話を聞いたとしても、現実にはマイナスのお金がそこにあるのであり、自分は将来の労働というものを担保にとられていることになるわけです。将来働くことを担保にして、お金を借りているかたちになります。
 すると、将来に対する不安というものがつのってきます。将来の自分の健康や仕事能力への不安がつのってきます。その結果、常に追い立てられるように働くことになります。世の中には、借金をテコにしないと働けないという人もいることはいますが、そうした考え方では決して大成はできないのです。
 したがって、主婦だけではなく、ご主人にも言っておきたいのです。収入の範囲内で生活をし、また、収入のなかの一部を貯蓄に回すことです。将来のために先取りをして、現在を慎み節約していくという考えのなかに、実は大きな発展があるのです。
 蓄財をしないで大金持ちになった人はいません。蓄財という考えのない人は、いくら収入があっても、それをすべて使ってしまいます。そのため、結局、手元に残ることはないのです。
(234~237ページ)

やはり収入の範囲内で生活するのが原則である。

収入の範囲から一定部分を貯蓄に回すのが、天国的生活なのである──。

つまりは、経済的に富もうとするとき、クレジットカードに頼ったり、安易にボーナス一括払いに走るような借金先行型ではなく、日頃から貯蓄を心がけた生活態度こそが、とてもとても大切なのだと私は思っているのです。
 

『仕事と愛』

 大川隆法著


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反省の教えってのがあるのは聞いてるけど、会社経営って、やっぱり発展しなきゃだよね。とりあえず個人の反省はしてもらっても、経営そのものにはあんまし関係ないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 経営をしていると、失敗はたくさんあるでしょう。それらの失敗を、一個一個、反省しなければ駄目です。
 経営者であろうと、そうでない人であろうと同じなのですが、駄目な人は、すべて人のせいにします。「政府が悪い」「この業界が悪い」「外国の、どこそこが悪い」「新しくライバルとして出た、ここが悪い」などと、すべて人のせいにするのです。
 個人でも、こういう人は潰れるのですが、企業としても潰れます。
 潰れるところは、人のせいにしたり、環境のせいにしたりします。デフレになったらデフレのせいにし、インフレになったらインフレのせいにし、インフレもデフレも起きない横這いの状態だったら、そのせいにし、自分の責任など何もないことにするのです。
 しかし、同じような状況にあっても、あるところは繁栄し、別なところは衰退しているのですから、何か理由があるはずです。
 したがって、反省がない企業には発展の可能性はないのです。(中略)
 どの会社にも欠点は絶対にあります。欠点のない企業などありません。その欠点を埋め合わせる長所の部分があるから、もっているのです。欠点と長所が〝トントン″であるか、あるいは長所のほうが多いから、もっているわけです。
 しかし、もう一段、伸びていきたければ、やはり、欠点を反省しなければいけません。
 「自社の欠点は何であるか」ということを、自分の目で観ます。それから、自分のところの社員が、智慧を尽くして観ます。さらに、お客さんの目でもって観ます。「お客さんは、どう判定しているのか」ということを観るのです。
 自分のところのものが売れなくなったとき、「デフレで、お客さんの収入が減ったからだろう」と思うかもしれません。ただ、同業者も全国一律に売り上げが減っているかといえば、そんなことはないでしょう。
 収入が減っても、人々は、必要なものを買いつづけます。買わないわけはありません。家だって必要ですし、食べ物だって必要ですし、着る物だって必要です。必要なものは買いつづけるのです。
 しかし、収入が減れば、人々は、選別する目を厳しくします。そのため、よくないものや値打ちのないものは買うのをやめます。値打ちのあるものを売っているところへ買いに行き、少しでも得なものを買います。それだけのことです。人のせいにするのであれば、同業種が全部潰れてからにするべきなのです。(中略)
 これを知ることは厳しいことです。いままで、自分の会社を愛していたし、うぬぼれていたし、天狗になっていたでしょう。それで経営者は気分がよかったはずです。そのため、自分のところについて、「悪い」「欠点がある」「失敗した」などということを認めるのは辛いことです。
 しかし、それをしないかぎり、生きていくことはできません。座して死を待つのみです。
 したがって、反省の教えというものは、特に経営においても非常に大事なのです。
(82~86ページ)

経営者であろうと、そうでない人であろうと、駄目な人はすべて人のせいにする。

反省がない企業には発展の可能性はない。

反省の教えは、経営においても非常に大事である──。

厳しい教えです。

でも、発展しないだけであればまだいいわけですが、人と違って企業であれば、景気の循環で必ずやってくる不況期に、あえなくつぶれてしまう可能性がある、ということになります。

いくらつらくとも、その事実をしっかりと厳しく、認識しておかなくてはならないのだと私は思っているのです。 

『リーダーに贈る「必勝の戦略」』

 大川隆法著


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結婚って、最初はよくても、すぐマンネリだよね。ぶつかりあってるだけだし、なんだか疲れるんだよなあ。うまくいってる夫婦って、どうやって家庭生活やってるんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 家庭愛において大事なことは、言葉による愛です。新鮮で感動的だった出会いのころは、素晴らしい言葉を語ることは簡単だったでしょう。しかし、毎日の生活を経ながら、なおかつ新鮮で素晴らしい言葉を出しつづけることは、難しいことなのです。
 それは、太陽が、毎日、地表を照らしてくれることに対して、人々が、ともすれば感謝を忘れがちであることと似ているかもしれません。太陽は、毎日、東の空から昇ってくれるからこそ、ありがたいのであって、太陽に感謝する気持ちがあるならば、毎朝、感謝しなくてはならないでしょう。
 夫婦も、太陽に感謝するのと同じく、毎日、お互いに楽しく暮らしていけることを感謝し合わなくてはなりません。感謝をし、その感謝を口に出し、言葉としていくことを常としなければなりません。それが大事です。
 また、家庭愛のなかに子供への愛を含めるならば、「決して子供を言い訳にはしない」と二人で誓うことが大事です。
 子供を、家庭が発展していくための素晴らしいエネルギーとし、挺子(てこ)としていくことはよいのです。そうせずに、子供を、仕事ができず、生活が不規則になり、疲れることの言い訳にすることだけは、決して、してはなりません。
 かつては自分たちにも子供の時代があり、親の愛を受けて育った自分たちなのですから、子供を育てることは聖なる義務だと思うことです。
 子供が自分たちに迷惑をかけるならば、それは自分たちから仏への恩返しになると思わなくてはなりません。「両親に恩返しをする代わりに、人類の未来に対して、また、大きくは仏の栄光と繁栄に対して、恩返しをしているのだ」という気持ちを忘れないでいただきたいのです。
 決して子供を言い訳に使ってはなりません。すべてにおいて発展的に生きていくことが、家庭愛の素晴らしさなのです。
 みなさんが新鮮な感動を忘れてしまったならば、どうか、初心に返ってください。朝、目が覚めたときに、「きょう、命が与えられた」と思って、「夫婦で共に素晴らしい言葉を出し、お互いに愛し合う」という努力を忘れないようにしていただきたいと思います。
(94~96ページ)

家庭愛において大事なことは、言葉による愛。たとえば、お天道さま(太陽)に感謝するのと同じように、夫婦も毎日、お互いに楽しく暮らしていけることを感謝し合うこと。感謝を口に出し、言葉としていくこと。

子供がいる家庭では、「決して子供を言い訳にはしない」と二人で誓うこと。子育てがいくら大変でも、それは「両親に恩返しをする代わりに、人類の未来に対して、また、大きくは仏の栄光と繁栄に対して、恩返しをしているのだ」という気持ちを忘れないこと。

すべてにおいて発展的に生きていくこと──。

毎日、お互いに、「愛してるよ」「好きよ」「かわいいね」「すてきよ」と口に出して言うことができたならば、夫婦生活がうまくいくのは間違いないわけです。

それがむずかしかったとしても、毎日、お互いに、「いつもいてくれて、ありがとう」と口にすることはできるはず。感謝し合うことは、できるはず。

毎朝、今日も与えられた命に感謝して、つれ合いを愛そう、子供たちを愛そう。

そんな決意を確認して、相手に要求するのではなく、まずは自分から、感謝の言葉を出すことを実践していくこと。

そうすれば、必ずや、幸福な夫婦生活を送ることができるのだと私は確信しているのです。
 

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著


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オレって、失敗ばっかりしてるんだよね。見栄え悪いしさ。頭よくなくて、学歴もないしさ。性格も、ちょっとねって、自分で思うし、経験もないしさ。結婚できなくて独身ってのも、社会人として不利だしね。なんだか不幸だよね? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私が見て感じるのは、不幸な人というのは、自己像──自分が見ている自分自身の姿が不幸な人が多いということです。
 不幸な人というのは、自己像がみすぼらしいのです。自己像が非常に否定的、悲観的です。自分について悪いことばかりを肯定する考え方を持っているのです。
 たとえば、容姿が悪いということをずっと苦にしていたり、頭がよくないということを気にしていたり、性格がよくないと思っていたりなど、いろいろあります。
 若い人は、若すぎることを悩み、歳をとれば、歳をとったということを悩み──というように、きりがありません。このように、人間は否定的に考えがちなのです。
 二十代のときというのは、「若さがいっぱいで情熱もあり、これから何でも可能であって、前途洋々だ」という考え方もあるのですが、「自分は若いので何もできない」「経験や知識が足りないから成功できない」「独身だからできない」という考え方をする人がいます。
 そして三十過ぎで結婚すると、今度は、「結婚したから成功できないのだ」「独身であれば自由にやれたのだが、結婚したために自由がなくなって、できなくなった」ということを言いはじめるのです。
 その次には、「子供ができたために、仕事や勉強ができなくなった」と言います。やがて子供が独立したときに、「いよいよ仕事ができますか」と訊くと、「歳をとったので、もう仕事ができなくなった」と言うのです。まさに言い訳の人生です。
 悲観的にものを考える人から見ると、あれもこれもが、成功できない理由になります。すべてが悪いニュース、悪い情報になってしまうのです。
 各人の心は一種のアンテナのようなものであって、どのような情報をキャッチするかによって、結ぶ映像が違ってくるということに、気をつけていただきたいのです。そのアンテナが、悪いことに対してあまりにも敏感すぎると、自分自身がいつも傷ついている状態になります。(中略)
 考え方ひとつなのです。受け止め方ひとつでどれほど物事が変わるかを考えなくてはいけません。自分にとっては否定的な材料であっても、考え方を変えれば変わっていくのです。
 人生には失敗がつきものです。いつも成功しかないような人生を、すべての人に保証するのは難しいことです。それぞれの人が毎日、成功したり失敗したり、いろいろなことをくり返しているはずです。
 もちろん、成功は喜んで受け取らなければいけませんが、大事なのは、失敗したときに、それが自分のすべてを失わせるような考え方をしないことです。
 そうではなく、「失敗のなかから、いかなる教訓をつかみ出すか。そして、次の人生にどう役立てるか」に専念することです。これが、失敗から得られる最高のものです。
(58~63ページ)

不幸な人は、自己像がみすぼらしく、自分について悪いことばかりを肯定する考え方を持っている。

要は、考え方、受け止め方ひとつで、一見、自分にとっては否定的な事柄も、考え方を変えればその姿は変わっていく。

たとえば、人生には失敗がつきものであって、大事なのは、失敗で自分自身をすべて否定したりせず、「失敗から、どんな教訓をつかみ出すか。次の人生にどう役立てるか」に専念することである──。

不幸からの脱出法は、以外に簡単であって、要は、考え方、受け止め方ひとつ。

物事の明るい面を常に見つつ、自分の長所を大事にして、失敗からは大事な教訓をつかみだし、次につなげていくように努力すること。

この「常勝思考」を身につけていくことができれば、不幸なんか吹っ飛ばして、「人生は勝利するしかない」のだと私は確信しているのです。 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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不況だ不況だとか言われていて、ずいぶん長いよね。日本って、ほんとに未来がない国なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)のまえがきで、こう教えておられます。

 「世界同時不況」だとか、「世界恐慌」だとか、「百年に一度の津波」だとか、ああ、言葉が一人歩きして、どうもマスコミはうるさすぎる。本当は危機に陥っているのはマスコミの方なのである。インターネットや携帯電話の機能向上、フリーペーパーの広がりと、本物の経営危機はマスコミに忍び寄っている。「大事件」や「大悪人」が見つからなければ、それを創造しない限り食っていけないのである。賃下げやリストラを最も怖れているのも、給料水準の高いマスコミ人である。世間の人々は、この、裏の仕組みをよく知っておいた方がよい。「不況」をメシの種にしている人たちがいるのだ。
 私は、インターネットや携帯が登場して、マスコミがもてはやしていた時、「自分たちが、やがて失業するのがわからないのだろうか。」と素朴な疑問を投げかけていた一人である。
 私たちは扇動されたり、洗脳されてはならない。軽佻浮薄(けいちょうふはく)な論調に流されてはならない。
 こういう時こそ、良書をじっくりと読み込み、自分自身の生き方を振り返り、人類の未来を正しく見つめるべきだ。
 いまさら、マルクスの亡霊などに取りすがってどうするのだ。時代の川は流れ下って、一路、大海原へと向かっている。未来は明るい。確実に明るい。日本の繁栄は、絶対に揺るがない。これがあなた方への答えである。
(1~3ページ)

未来は明るい。

確実に明るい。

日本の繁栄は、絶対に揺るがない──。

いやあ、力強い言魂です。

透徹した未来の見取り図の提示です。

私たち日本人は、マスコミに踊らされることなく、未来を切り拓くために、勇気をもって、元気に毎日、着実に進んでいきたいもの。

2009年に刊行された書籍ですが、それから10年たっても古くならない。

真の未来を知りたい方には、2019年の今であっても超オススメの書籍だと私は思っているのです。

 

『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』

 大川隆法著

 

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大局観って言葉を聞いたことがあるけど、それって何なの。どういうふうに考えればいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生において、単なる「勝ち負け」という考え方だけではなく、もう一段、踏み込むと、「どうすれば負けにならないか」という考え方があります。
 たとえば、「現在、敗色が濃い。失敗が続いている」というときに、「何を押さえたら負けにならないか」ということを中心に考えてみるわけです。「『負けない』とは、どういうことなのか。『ほかのところで敗れても、これを押さえれば負けにならない』とは、どういうことなのか」という、守り型の考え方があるのです。
 もう一つには、積極的な考え方として、「このポイントを押さえれば勝ちと言える」という考え方があります。「たとえ、ほかの小さな戦闘において幾つか敗れても、ここを押さえれば勝ちと言える。あとは無視してもかまわない」という見方があるのです。(中略)
 「全部、勝つか。それとも、全部、負けるか」と考えるのではなく、「何かで負けることを織り込んででも、全体での勝ちを取る」と考える、そういう考え方があります。「このあたりを捨てても、全体で勝つ。それには、どうするか」という考え方です。逆に言えば、「ここは負けても、これを押さえれば、全体では負けにならない」という戦い方もあるわけです。
 このように、「全体での勝敗とは、どういうものなのか」ということを、もう少し大きな目で見るやり方があるのです。(中略)
 大局観を持つことは実に難しいことです。しかし、人生において、大きな成功を収めたり、多くの人々を導くリーダーになったりしていくためには、どうしても、この大局観というものを磨かなければいけません。
 部下から、「あれを失敗しました」「これを失敗しました」という報告をいくら聞いても、リーダーが、「大局において、これは、まだ負けになっていない」という気持ちを持っていると、部下も、あまり動揺しないのです。
 リーダーが、「このあたりでは負けていても、全体では負けではない」と思い、「ここさえ押さえておけば大丈夫だ」というところを、がっちりと握っていれば、部下は動揺しません。
 そうすると、一つひとつの勝ち負けに二善一憂して大騒ぎしている人たちも治まってきます。部下たちは、「勝ちなのか、負けなのか」 ということが分からないので右往左往することが多いのです。
 そういうときに、大局観を持って、「大局的な勝ち負けは何によって決まるか」ということを、じっと見つめている人がいると、小さなことで右往左往し一喜一憂している人たちも治まるわけです。
 彼らは、むしろ安心してリーダーの判断を待つことになります。「リーダーが『負けではない』と言うなら負けではないし、『勝ちだ』と言うなら勝ちだろう」と考え、大きな勝ち負けの判断をリーダーに任せて、自分の仕事に専念できるようになるのです。
(71~74ページ)

どうすれば負けにならないか、このポイントを押さえれば勝ちと言えるのはどこか。

つまり、大きな目で見て、全体での勝敗とは、どういうものなのか──。

「大局観」に関する、さまざまな場面で適用できる、大切なお教えだと思います。

私たちは、たとえば、学校で、職場で、所属する団体の運営でと、さまざまな戦いをしています。

その自分の置かれた環境の中で、このお教えによって、どのように大局観を持ち、対処していけばよいのかのヒントが必ずや見つかると私は確信しているのです。
 

『リーダーに贈る「必勝の戦略」』

 大川隆法著


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いろんな人と付き合いはしてみたし、相手を紹介してくれる人もいるんだけど、なかなか合う感じがしないんだよね。あーあ、私はどんな人と結婚したら、幸せになれるのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ここで思いきって考え方を転換してみたらいかがでしょうか。(中略)つまり、「どの人だったら自分は幸福にできるだろうか」という観点から考えてみるのです。(中略)
 幸福は、待っていれば向こうからくるというものではありません。
 また、幸福の青い鳥は、世界中を探しても見つかるものではありません。(中略)あなた自身の心のなかに、青い鳥を探すべきです。(中略)それは、あなたが結婚してその人を幸福にでき、その人とつくる家庭を幸福にできると思う人を探すことです。(中略)
 では、どういう人ならあなたは幸福にできますか。
 まず、相手を偉くできそうな人、相手を出世させられると思うような人はどんな人ですか。それにはあなたが相手を理解できるということ、これが大事ですね。そして、決して男性には覚(さと)らせてはならないことですが、相手を知らず知らずのうちに操縦できることがポイントです。
 女性の最高の幸福は、なんといっても夫を自由に操縦して、そして偉くさせてしまうこと。これほど幸福なことはありません。それも、夫に気づかれないうちに夫を操縦して、自分の掌中で成功をおさめていく。また夫とのあいだにもうけた子供をも、次つぎとすばらしい大人に育てあげ、社会に愛を還元していく。そして真なる意味において自己拡大をする。これほど幸福なことはないのです。
 すなわち、あなたは相手が理解しきれるか、そして相手の器が見えるか、また、相手を成功させるにはどうしたらいいかわかるか、どういう妻を演じたら相手が幸福になるか、そして出世していけるか、あるいは大きな仕事ができるか、それがわかるかどうか、これにかかっているのです。
 つまり相手から理解されようとか、相手から幸福にしてもらおうとか、またお金をもらおうとか、家をもらおうとか、こんなことを考えてはいけません。それは物乞いと同じ姿勢です。
 やはり真の意味において自立した女性であるならば、いかに相手に尽くせるか、いかに相手を大きく羽ばたかせることができるかというところに、女冥利を、妻冥利を感じることこそ大事だと、私は思うのです。(中略)
 つまり、どんな人と結婚したら幸福になれるかは、あなたにその人が真に理解できるか、そして、その人がどういう将来をたどってゆくかが見えるか、その将来に対して自分がなんらかの参画ができるか、要するに助力はできるか、その人の世界観についていけるか、仕事の手伝いができるか、支えられるかを考えることです。
 そして、自分にはそれができると思ったならば、その人との結婚は幸福になるでしょう。なぜならば、その男性が探している女性が、まさしくあなたのような方であるからです。(中略)
 こういう関係において成立した結婚に、決して失敗はありません。どうか私の語る言葉を、よくよく味わってみてください。
(57~61ページ)

幸福の青い鳥は、世界中を探しても見つかるものではない。

あなた自身の心のなかに、青い鳥を探すべきである。

そしてそれは、誰が自分を幸福にしてくれるかを考えるのではなく、あなたのほうが、自分が幸福にできるのは誰だろうかと考え、その人とつくる家庭を幸福にできると思える人を探すことなのだ──。

やさしい言葉で、とても具体的に語ってくださっています。

でも、よくよく味わって考えてみると、要するに、結婚を決断するという人生の重要場面においても、〝奪う愛″ではなく「与える愛」こそが、成功のための大事な大事なキーワードであるのだと改めて私は理解できた気がしているのです。
 

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著


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人生、さわやかに生きたいな、と思うんだ。でも、どうやったら、さわやかに生きていけるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私はさわやかに生きていると言えるためには、やはり三つほどの条件があると思えるのです。
 第一の条件は、潔さというべきものだと思います。(中略)
 この潔さとは何か。この潔さに伴う清涼感とはいったい何だろうか。(中略)それは大いなる目的のために、情熱的に生きて、そしてその結果が、よいものとして現われても、また悪いものとして現われても、自分の責任として素直に受け止める態度、これではないかと思います。
 言いかえてみれば、言いわけをしないという姿勢ではないでしょうか。大いなる目的のために全力を捧げ、全力で生き切って、そしてその結果に対して淡白であれるということ。これも、さわやかさの一つの条件だと思います。こういう人を見ると、私たちは拍手喝采をせざるをえないのではないでしょうか。
 さわやかに生きている指標として、第二番目に言っておきたいこと、それは歓びを自分の内に溜め込むのではなく、多くの人たちに分け与えて、そしてみかえりを求めない態度だと思います。
 まるで山のようにパンを持ったパン屋さんが、手にかごを下げた人たちと会って、そのかごのなかにポイポイと焼きたてのパンを放り込んでいくような、そうした姿が私の目には浮かんできます。こんな生き方ができたら、さぞさわやかだろうなと思うのです。
 そして、このさわやかさも、やはり風のようなものでありたいと思います。多くの人たちがピクニックに行く途中で、気持ちよく手さげのかごを持って歩いているときに、後ろから風のように追いかけてきて、みんなのかごのなかに焼きたてのパンをポンポンと入れて歩き、そして気がつかれないうちに、サーッと通り過ぎていく。すばらしいことではありませんか。(中略)
 さわやかに生きていると言えるための三番目。それは、ある意味で自分の生命というものを有限なものとして、また別な意味では無限なものとして悟っていることだと思います。(中略)
 残された寿命が五年であるか、十年であるか、二十年であるかは、人それぞれでしょう。しかし、残された時間が有限であるということを、やはり一つの事実として認め、そして十年なら十年、二十年なら二十年を、さあどういうふうにして最大限に生きるか、これを決めればよいのではないですか。そのように思うと、ひじょうに気分が楽になってきませんか。
 そしてもう一つは、〝無限の生命がある″という観点です。どんなふうに結果が出たとしても、自分に無限の生命があるならば、また別の機会でやり直しはきくのではないか。そういうふうにも考えることができると、私は思います。
 さわやかに生き切るために、有限という観点と無限という観点を、両方とも知って使い分けていくこと、これがきわめてだいじなことのように思います。
(184~187ページ)

さわやかに生きるための条件は、第一に、潔さ、言いわけをしないという姿勢。

第二に、歓びを多くの人たちに分け与えて、みかえりを求めない、風のような態度。

第三に、自分の生命というものを、有限なものと認めつつも、無限の生命の一部として認識しておくこと──。

うーん、私なりに言い換えを試みてみると、第一に、名誉心とか虚栄心とかがない、執着のない心であること。

第二に、与える愛を実践した人生を送ること。

第三に、永遠の生命を信じつつ、今世を全力で生き切ること、ということでしょうか。

つまり、さわやかさというのは、ある意味で、悟りを実践した境地であらわれてくるものじゃないかと私は思うのです。

みなさんはどうお考えですか? 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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愛って、もちろん男女の愛もあるんだろうけど、大事なのは、貧しい人やかわいそうな人に対する思いやりだよね。それ以外の愛なんてあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いまから四千年あまり前、ギリシャの地に「ヘルメス」という光の大指導霊が出たことがあります。このヘルメスは、『ギリシャ神話』ではゼウスの子供とされていますが、実は、ゼウスより数百年も前にギリシャの地に降り、法を説いた実在の人物だったのです(『愛は風の如く』〔全4巻、幸福の科学出版刊〕参照)。
 ヘルメスが説いたのは主として「愛」でした。(中略)
 私の記憶の底には、かつてギリシャに生きた記憶があります。その時に説いた教えの記憶もあります。かつて説いた教えを、こうしたかたちで、現代の日本において復活させることができることを、とてもうれしく思います。
 したがって、本書で説かれる愛は、決してキリスト教的なる愛ではありません。それはギリシャ的なる愛なのです。四千年以上の昔から、ゼウスの時代を経て流れてきたギリシャ的愛の精神──。それほどのようなものかを、私はお伝えしたいのです。
 ギリシャ的愛の精神とは、単に人を愛するということのみではなく、愛のなかに美があり、愛のなかに知があるというものでした。現在、愛を美や知と一緒に考える人はいないだろうと思いますが、ギリシャ的な意識や教え、光のなかでは、愛はすなわち美であり、また、愛はすなわち知でもあったのです。
 知ることは愛することであり、美しいことは同時に愛でもある。愛のなかには、すべてのよきものがふくまれる。それがギリシャ的なる愛の精神だったのです。
 こうした愛の精神が、ゼウスの時代には明朗なる人間性の解放へとつながり、それはアポロンに受け継がれました。また、時代が下り、ソクラテス、プラトン、アリストテレスが出たときにも、知を愛するという意味での「愛知者」が数多く出たのです。
 ギリシャの精神とは、ひと言でいうと、「愛のなかに美と知がある」「愛のなかに美と知が内包されている」ということです。「美しさのない愛、また、知的側面のない愛は、ほんとうの愛とは言えない」というのが、ギリシャ的愛の精神なのです。
 もちろん、単なる男女の愛を、ギリシャ的愛のなかにふくむこともあります。しかしながら、美しさという基準で見た時、男女の衝動的な愛は許されないものとなるでしょう。また、知という側面から見た時には、智慧のない愛、盲愛や溺愛は許されないでしょう。
 ゆえに、真の愛の精神とは善そのものでもあり、すべての世界をよきものとしていかんとする力でもあるのです。
 「愛は叡智の別名でもある」ということを知っていただきたいと思います。
(13~15ページ)

愛には、キリスト教的な愛以外にも、ギリシャ的な愛がある。

ギリシャ的愛とは、愛のなかに美があり、愛のなかに知があるというものである──。

幸福の科学は、「知」と「反省」を中心とする仏陀の教えと、「愛」と「発展」を中心とするヘルメスの教えが両輪で説かれています。

そのヘルメスの「愛」は、キリスト教的なるものではなく、ギリシャ的な美と知を含んだ愛の教えであることを、今日は改めて押さえておきたいと思っているのです。 

『愛から祈りへ』

 大川隆法著



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うちの子って、アトピー性皮膚炎がひどいんだ。医者に行ったり、食べ物に気をつけたり、あらゆることを試したんだけど、治らないんだよね。どう考えたらいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 皮膚炎の原因を考えるにあたっては、「皮膚が象徴している、心のあり方は、いったい何か。心のどこに問題があると皮膚が冒されるか」という点を考えてみることも大切です。
 皮膚は、体の内と外を遮っている部分、仕切っている部分です。したがって、皮膚の異常は「内と外の断絶」を暗示しています。
 この「内と外」とは、「本人の自我、魂」と「他人との関係」のことですね。また、子供の場合には、「家庭の内と外の関係」でもあります。
 つまり、皮膚というものは、「自分と他人」「家庭の内と外」の両方について暗示していて、それぞれ、その境界線のところに問題があると、皮膚炎になるのです。
 それは外界に対する一つの拒絶感です。
 なぜ外界を拒絶するかというと、「他から害される」という思いがあるからです。そのため、それに対する強烈な反応が起こるわけです。
 そして、家族のなかに、そういう気持ちを持った人がいると、それが子供の皮膚炎になって表れてくることもあるのです。(中略)
 おそらく、あなたの家庭のなかに何か原因があると思います。それを考えてみてください。
 あなたか、ご主人か、他の家族か、いずれかのなかに、外部に対する強烈なアレルギーを起こすような人、そういう問題を持っている人がいるはずです。
 対人関係において、他の人を寄せ付けない部分、他の人に対するアレルギーがあるはずです。その部分を解消することが大切です。
 意外に思うかもしれませんが、家族のそのようなものが、全部、子供に表れてきます。子供は、そういうものに、とても敏感に反応するのですね。
 皮膚が象徴しているのは、そのようなものです。
 したがって、どうか、瞑想を行い、そのなかで、対人関係の調和を願ってください。あなたに原因がない場合は、家族で実践してみてください。
 もちろん、ほかにも個別的な処方はありますが、一般論としては、そういうことが言えます。
(132~135ページ)

皮膚は、「自分と他人」「家庭の内と外」の両方について暗示していて、それぞれ、その境界線のところに問題があると、皮膚炎になる。

家族のなかに、「他から害される」という強い思い、他の人に対するアレルギーを持った人がいると、外界を拒絶する強烈な反応として、それが子供の皮膚炎になって表れてくることがある。

したがって、瞑想を行うなかで、対人関係の調和を願うことで、その部分を解消する必要がある──。

要は、皮膚炎は、本人や家族の心の問題として捉えたときに、治癒のための手がかりが得られる可能性が強いってこと。

具体的にどうしたらいいか分からない方は、お近くの幸福の科学の支部や精舎に連絡して、相談してみることをお勧めします! 

 

『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

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 お勉強は、学生のときに、一生分、試験も受けたし、もういいよ。社会人は、仕事に生きなきゃだし、夜は夜で、社会勉強で忙しいしさ・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 基礎づくりは子供の時代にだけすればよいのではありません。成人してからも、うまずたゆまず基礎の部分をつくっていくことが大事です。
 木は根から水分と養分を吸い上げる努力をしつづけていますが、それでこそ大木になっていけるのです。また、たとえ大木であったとしても、水分と養分を吸い上げることを一週間やめたならば、枯れてしまうはずです。
 何百年もの樹齢を保っている木は、うまずたゆまず根から水分と養分を吸い上げつづけてきているのです。
 人間の場合も同じです。「自分は〝大きな木″になってきたから、きょうは水分も養分もいらない」というわけにはいきません。日々に水分や養分を摂取し、基礎の部分をつくっていくことが大事なのです。
 人間はともすれば発散のほうに重点を置きがちです。しかし、吸収を忘れた発散は、やがて疲労を招くことになります。
 これは仕事をしている人にも言えます。たとえば薬剤師ならば、新しい薬についての知識を絶えず吸収している人と、大学卒業後、新しい知識をほとんど得ていない人とでは、大きな差があるでしょう。
 サラリーマンの場合でも、与えられた仕事をただやっているだけの人と、新しい経済情報を常に入手し、勉強しつづけている人とでは、やがて雲泥の差がつくでしょう。
 技術者などではそれが特に顕著だと思います。毎日、実験を積み重ねていくなかに、常に向上を目指している姿勢があれば、やがて素晴らしい技術を開発することができるでしょう。
 医者も同じです。さまざまなことを勉強して、人びとの悩みを理解できるようになれば、名医と言われるようになっていきます。
 したがって、「いったん基礎をつくれば、それで終わり」と考えるのではなく、「日々に人生の基礎をつくっていく」という姿勢が大切です。現時点ではすぐに生きてこなくても、三年後、五年後、十年後に生きてくるような基礎づくりが、何にもまして大事なのです。
(14~16ページ)

いったん基礎をつくれば、それで終わりではなく、日々に人生の基礎をつくっていく姿勢が大切である。

人はともすれば発散のほうに重点を置きがちであるが、吸収を忘れた発散は、やがて疲労を招くことになる。

現時点ですぐに生きてこなくても、三年後、五年後、十年後に生きてくるような基礎づくりが、何にもまして大事である──。

幸福の科学では、初級セミナーから始まる各種セミナーや、仏法真理学検定試験などが毎年毎年行なわれていて、学びのカルチャーが定着しているように思います。

これは、私たちが仏法真理をしっかりと学び、自分のものとするために用意されているわけで、この大川隆法先生のお教えに照らせば、まさに当然の仕組みであったのだと、改めて確認できた気が私はしているのです。
 

『不動心』

大川隆法著

 

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愛が欲しい。もっと愛が欲しいのに、誰も自分を愛してくれない・・・。そんな悩みを抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 一九八一年当時、二十四歳のころの私はまったく逆でした。「愛されたい。生かされたい。許されたい」──そうした私だったのです。(中略)
 しかし、「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という言葉に接して、「私が追い求めていた幸福は、真の幸福ではないのではないか」ということに目覚めたのです。
 それまでは、「他の人から与えられることが幸福だ」と思っていました。「他の人から称賛され、ほめられれば幸福。また、ほめられることが自分でも納得できれば幸福」という気持ちでした。ところが、「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という言葉には、そうした方向性がまったくないのです。
 そこで、自分の過去を振り返って、「私は他の人を愛したことがあるだろうか。あるいは、それ以前に、愛そうと思ったことがあるだろうか」と考えてみたところ、あまり思い浮かばないのです。
 逆に、考えれば考えるほど、さまざまな人からしてもらったことが思い出されました。もちろん、父や母の恩が最初に出てきますが、それ以外にも、友人や先生など、さまざまな人からしてもらったことが、次から次へと出てきたのです。
 自分がしたと思えるのは、そうした人たちの協力に支えられ、あるいは、そうした人たちが環境を提供してくれたことに支えられ、まじめに勉強したということでしたが、それも、自分自身に評価が返ってくることを求める気持ち、自分が偉くなったらうれしいという気持ちが強かったのです。
 そこで私は、「愛を与えた部分と、愛を与えられた部分とを、書き分けてみたらどうなるか」と思い、心のなかで並べてみました (これを幸福の科学では「愛の貸借対照表」と呼んでいます)。
 すると、与えた部分は思い出すのが難しく、「あの人に喜んでもらうために、こういうことをした」というのは、あまり出てきません。しかし、してもらったことは、考えれば考えるほど、山のように出てきたのです。
 自分がしてあげたことは、確かによいことをしたのであれば、プラスでしょう。逆に、他の人からしてもらったことは、どちらかといえば借金にあたるので、マイナスでしょう。プラスとマイナスを書き分けてみたとき、私は「このままでは死ねない」と思ったのです。
 それまでは、こうした考え方をしたことはありません。たとえば勉強ならば、よい成績をとって、人から「すごいな」と言われれば、それで偉くなったような気持ちになっていたのです。人から注目されるような自分になれば、それだけで人生が完成したような気持ちになっていました。
 ところが、考え方が変わってみると、「これはまことに恐ろしい人生だ」と感じたのです。
(18~25ページ)

過去の人生で、愛を与えたことと、愛を与えられたこととを、1枚の紙の左右に書き並べて、「愛の貸借対照表」を作ってみる。

そうすれば、自分のこれまで与えられてきた愛を具体的につかむことができる──。

「愛の貸借対照表」を実際に作ってみたら、驚きです。

誰もが、自分がしてあげたことよりも、してもらってきたことの方が圧倒的に多いことに気がつきます。

つまりは、自分の人生が、いかに多くの人に与えられ、支えられて成り立ってきたかを、実感として理解することができます。

誰も自分を愛してくれないなんてことはなくって、じつは自分は、愛に包まれてここまで生きてきたことが、しっかりとつかめてくる。

そのとき、自分がこれからやっていかなければならないことは何かが、わかってくるのだと私は思っているのです。
 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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死後の世界ってホントにあるんでしょ。じゃ、そろそろあることが証明されてもいいんじゃないの。なんで証明されないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 死後の世界は、そう簡単に信じてもらえるものではありませんし、仕組みとして、完全には証明ができないように創られていることも事実です。
 もし、あの世の世界が目に見えたならば、誰もが「あの世の存在を信じる」と言うでしょうが、「あの世の世界が、この世の世界と共存していて、生きている人間と同じように、この世を霊がたくさん歩いている」というようなかたちで、この世の人と霊とが一緒に生活できるかというと、なかなかできないだろうと思います。
 たとえば、「あの世の霊が話しかけてくる。何か疑問を持ったら、すぐ、あの世の霊から答えが返ってくる。あの世の霊が、『ああしろ、こうしろ』と言う」という世界だと、けっこう大変でしょう。
 私は、実際に、そういう世界を生きているのですが、これで普通でいられるというのは大変なことなのです。通常は、普通ではいられません。「変なことを言う」ということで、たいていの場合は隔離されてしまいます。
 そういう世界を見ながら普通に生きるには大変な力が要(い)ります。そうとう研ぎ澄まされた理性・知性を持っていないと、通常は、おかしくなるのです。毎日毎日、霊体験が重なってくると、どうしても行動も考えもおかしくなってきます。これに耐えられる人は、やはり少ないのです。
 霊的な世界が開かれた場合、よいものに導かれればよいのですが、そうでないものも入ってきやすいわけです。悪霊などが、いろいろ取り憑いてきたりして、それを直接に感じるようになり、声が聞こえはじめると、事実上、人間としての生存が不可能になり、ほとんど人生は終わりになります。(中略)
 たとえば、みなさんの死んだ祖父や祖母、父や母が、みなさんの部屋で、いつもみなさんを見ていたり、夜、寝ているときに来たりするような状態では、みなさんは生活できないでしょう。やはり、霊の声が聞こえず、霊の姿が見えないほうがよいのです。
 私は、霊の姿が見え、霊の声が聞こえるのですから、大変です。そういうものを、「関係がない」と言ってバシッと切る冷たさがないと、とうてい生きていけません。自分に関係のある霊以外のコンタクトはピシャリと拒絶するだけの意志力、それだけの霊威というか、権威がないと、霊に幾らでも入ってこられます。
 向こうの人は、この世の人と話をしたくてしかたがないのですが、この世の人にとっては、霊の声が聞こえないから都合がよい面があるのです。
 しかし、同じ原理はマイナスのほうにも働いています。それは、「守護霊が、『この世の人を導きたい』と思っても、ストレートには導くことができない」ということです。「この世の人の人生の大事な局面において、何か、ふとしたときに、思いつきのようなかたちでインスピレーションを降ろす」というようなやり方でしか導くことができず、「常時、疑問に答える」というかたちにはならないのです。
(38~42ページ)

死後の世界は、その仕組みとして、この世では完全には証明ができないように創られている。

この世の人と霊とは、普通は一緒に生活できるものではなく、日常的に霊が話しかけてくるのをおかしくならずに生活するには、そうとう研ぎ澄まされた理性・知性が必要である。

この世の人にとっては、霊が見えず、その声が聞こえないから都合がよい面があり、逆に、守護霊の指導もストレートに受けられないことになっている──。

守護霊の指導をもっと簡単に受けられないのかなあ、インスピレーションだけじゃなくて、もっとストレートに教えてくれたらいいのに、とか思いますよね。

でも、考えてみたら、逆にそうなったときの大変さを考えると、今の状況というのは、けっこうよくできた仕組みなのかもしれないと私は思っているのです。
 

『復活の法』

 大川隆法著

 

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