ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



状況はものすごく厳しかったんだけど、人生の一大事だったんだ。奇跡を信じて、自分の信仰にかけてあんなに祈ったのに、でも、奇跡は起きなかったんだ。仏に見捨てられちゃったのかなあ。どう受け止めればいいの? なーんて悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 この世に生きている人間は、自分の本来の使命と目的を、完全に悟りきることはできません。いかなる目的を持って、いかなる計画を持って、この世に生まれてきたかということは、この世を去ってあの世に還らなければ、百パーセントはわかりません。したがって、三次元において、「自分はこのようになったほうがよい」と思って祈っても、その祈りがかなえられる場合と、かなえられない場合とがあります。
 そして、かなえられた場合は、「この願いは、仏が願う方向と同じであったために、かなえられたのだ」と思い、一方、かなえられなかった場合は、「願いがかなえられなかったという事実が、信仰的事実として自分に下されたのだ」と思わなければならないのです。(中略)
 たとえば、中学生が試験の問題を解く時に、「仏よ、この間題の答えを教えてください」と祈るとします。そして、それに対して答えが下ってきて、それを解く、そういうことだけをくり返すことが、ほんとうに仏の心に適ったことかどうかは、想像すればわかると思います。
 仏のほんとうの願いからすれば、その子に対して、やはり、「優秀な子になってほしい。勉強のできる子になってほしい。いい学校にも進んでほしい」と思っているでしょう。しかし、そうした願いがあるからといって、答えをすぐに霊示によって下ろすようなことは、まずないであろうということは、みなさんも想像できると思います。
 そのとおりです。自分が出した答えが正解か不正解かは、やがて試験の成績が返ってきた時にわかります。その時に、自分の不充分なところを反省して、努力精進する子には道が開け、そうでない子、すなわち、仏に祈ったけれども答えが与えられなくて、「だから仏は信じない」と考える子には、残念ながら、ますます悪い結果が現われてくるであろう、ということが想像されるわけです。
 大切なことは、こういうことです。
 この世において、その立場において、「自分の願っていることが、ほんとうに仏の心に適(かな)っているかどうか」ということは、なかなか人間にはわからないことがあります。その願いが仏の心に適うものであるならば、奇蹟が目の前に開けてくることを祈ることはよいでしょう。
 しかし、もし、それが現われてこないものであるならば、現われてこないなかに、仏の御心があります。仏の念いがそこにあるのです。「あなたは、ここから何かを学びなさい」という教訓が、そこに現われているのです。そして、その教訓を得ることなくして、その人には、次の課題、次の関門が与えられないこともあります。(中略)
 ですから、一つひとつが、必ずしも最終的な成功ではないということです。いったんは失敗に見えたことであっても、実は、その人の考え方や人生を軌道修正するために、非常に大事な、示唆に富んだ現実であることも多いと言えます。
(55~59ページ)

自分としては人生の一大事であったとしても、あんなに祈ったのに願いがかなえられなかった、奇跡が起きなかった。そんなときは、仏からその信仰的事実が自分に下されたのだ、ということ。

そこに、自分の考え方や生き方を軌道修正するための学びが、教訓が、現われている──。

うーん、厳しい教えです。

でも思い返せば、「人生は一冊の問題集である」とも教えていただいているわけで。

この大事な教えの意味を、大川隆法先生は、こんなふうに、より具体的に解説して下さっていたのだと私は思うのです。

 

 

『宗教選択の時代』

大川隆法著

 

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なんだか、いやになっちゃった。誰とも会いたくないよ。人間ぎらいになったみたい。山にこもっちゃおうかな。・・・なーんて悩み抱えてる人、いませんか? 宗教的性格の人に多いパターンかもしれませんね。

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 確かに、人と接しなければ、心が波立つことは非常に少ないので、苦しみも少ないし、心も透明度が高いことは事実です。それを私は認めましょう。
 ただ、「山のなかで独りで修行しているのならば、あえてこの世に生まれてくる必要はなかったのではないか」という考えもあることを言っておきたいのです。(中略)
 そうした孤独のなかの幸福というものを、すべての人が求めはじめたならば、社会が成り立たないこともまた事実なのです。
 したがって、「辛くて苦しみの多い現世にありながら、いかにして、心を曇らせることなく、光ある生活をするか」ということに心を砕く努力をすることが、たとえようもない幸福につながっていくのだ、ということを知っていただきたいのです。
 この世では、いろいろな人と会うチャンスがあります。菩薩や如来の霊格を持った人が肉体を持って生活していることもありますし、非常に芸術的な魂を持った人が地上に降りていることもあります。
 あるいは、地獄界に心が通じており、地獄の魔王に支配されている人が生活していることもあります。
 このように、この世はいろいろな人と出会う場なのです。
 しかも、どのような人と出会うかを、そう簡単に選ぶことはできません。自分が会いたい人、自分が好きな人とは会うことができず、「こんな人とは会いたくない。顔を合わせたくない」というような人と、毎日、顔を合わせる──こうした苦しみも、職場などにおいてはあるだろうと思います。(中略)
 この世という、辛く苦しい世界のなかにあって、「いかにして自分の心を磨くか」ということを心掛けた人は、あの世に還ってみると、自分の周りは心の美しい人ばかりです。そうした光り輝いた人たちといっしょに生活ができるという幸福が待っているのです。
 それを知ったならば、「あと十年だな」「あと二十年だな」「あと三十年だな」などと思って、「なんとか我慢して生き抜いてみよう」と思うことができるのではないでしょうか。
(106~109ページ)

山のなかで独りで修行しているのならば、あえてこの世に生まれてくる必要はなかった。

この世はいろいろな人と出会う場である。

辛くて苦しみの多い現世で、いかにして心を曇らせることなく光ある生活をするかに努力をすることが、たとえようもない幸福につながっていく──。

このお教えを心素直に受け止めましょう。

そして、学校で嫌なことあっても、職場に会いたくない人がいたとしても、頑張ってみましょうよ。

もちろん、ときどきは、幸福の科学の精舎に行って、瞑想したり研修をしたりして、リフレッシュしながら、ね。 

 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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信仰持ってるって、ヘンなのかな、とか思ってる人、いませんか? 学校でも職場でも、信仰の話なんてできる雰囲気じゃないし、自分だけ人と違ってるのって、おかしいのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、仏法真理の話を聴いたときには 「なるほど」と思っても、家や職場に帰って周りの人たちの言葉を聞くと、自分が特殊な人間であるかのような気持ちになり、不思議な感慨に打たれることがあるでしょう。周りには、仏神や霊の存在を軽々しく否定し、享楽のみの人生を生きている人が、あまりにも多すぎるのです。
 しかし、周りの人たちが病気にかかっているからといって、みなさんも病気にかからねばならない理由はありません。周りの人たちが心の病にかかっているからといって、みなさんも心の病にかからねばならない必然性はないのです。
 現代においては、唯物主義という〝伝染病″が流行っています。これは心の病です。この病にかかると、永遠の生命に陰りができます。本来の自己の存在を否定するようなことになるからです。
 すなわち、霊的なる真実を言えば、「人間は仏の子であり、霊的存在である」ということを否定するのは、自殺行為以外の何ものでもないのです。
 みなさんは、自殺する人を「素晴らしい」と思うでしょうか。そういう人の仲間に加わりたいと思い、「君が自殺するなら、自分も自殺する」と言うでしょうか。そんなことはないでしょう。
 最も大切なものを捨て去り、己の真実の命を土くれか何かにしようとする思想に賛同する人たちの言葉に、迷ってはなりません。
 彼らの心は病んでいます。病んでいる人たちに正しき生き方を教え、「健康で健全な人間の魂のあり方とは、いかなるものであるか」ということを教えることこそ、病んでいない正常な人間の仕事ではないでしょうか。
 みなさんは、どちらが病んでいるかをはっきりと自覚し、自信を持たなくてはなりません。みずからが、考えにおいて健全であること、人間が自然に持つべき考えを持っていること、よき思想、よき心情を持っていることを、誇りに思わなくてはなりません。
(22~24ページ)

信仰を持ってることこそ、人間として健全なんだ、健康なんだってこと。

これに確信をもっていいのだ、ということですね!

力強い言霊で励ましていただいているありがたさ。

仏陀だからこそ、主エル・カンターレであるからこそ、この霊的真実の正しさを保障して下さるありがたさ。

その方とともに、同時進行で肉体を持って修行させていただいているありがたさ。

心から感謝するほかありません。

そして今日は、一日も早く、世間一般の間違った唯物主義の考え方を変えていきたいものだと、改めて私は決意したのであります。 

 

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著

 

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いやあ、就活って、ほんとに大変だよね。どうやったらうまく決まるのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『「天職」を発見する就活必勝の極意』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように述べておられます。

 高校時代や大学時代には、成績が良ければ、外見や性格の異端性が強くとも、「天才」扱いされることもある。
 しかし就職活動の時期に入ると、対人関係能力の低い人や、愛嬌のない人、うまく受け答えができない人、見てくれの悪い人たちは、バサバサと落とされていく。はっきり言えば経歴も良く、外見も良く、好感を持たれるタイプが一流企業では残りやすい。
 しかし、例外は何にでもある。異常な熱意を持った者、スポコン型人間(体力派)、他の人が持ってない経験や資格、才能を持っている者も好まれる。
 別の表現をしよう。企業や組織では、粘り強さ、やり抜く力、目標管理や時間管理ができる人、採算感覚のある人、チームワークを作る能力や夢を語る能力のある人、人を魅きつける能力のある人、説得力、交渉力、PR力のある人も探している。就活必勝のためには、こうした武器も磨いておきたいものだ。
(1~2ページ)

本書は、大川隆法先生と総裁補佐、それから、幸福の科学の学生担当部門の責任者と人事担当部門の責任者とでなされた対談が、書籍化されたものです。

就職活動(就活)の意味は何なのか。

どうやったら自分がつくべき職業(「天職」)を見つけることができるのか。

就職を見据えて、どんな学生時代を送るべきなのか。

就活のための武器を、どうやったら身につけられるのか、などなど。

このまえがきで、もう一部教えて下さっているわけですが、本書では分かりやすく「8つの極意」という形でポイントがまとめられていて、とても勉強になります。

これから就職を考えなくちゃならないみなさん。また、そんな若者たちのご両親の世代のみなさんにとっても、やはり必読の書籍ではないかと私は思うのです。

 

『「天職」を発見する就活必勝の極意』

大川隆法著



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死後の世界が、もし本当にあるんだとしたら、そして仏さまや神さまがいるのならば、それをこの世の人間に分かるようにしてないのは、おかしいんじゃないの? 実験で確かめることもできない世界なんて、信じられるはずないじゃないの。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 しかし、誰もが分かるようになっていないことには理由があるのです。その理由とは、「この世の世界そのもの、数十年の人生そのものが、ある意味で、一種の試験である」ということです。
 人間は、本来の世界である霊的世界から生まれてきて、肉体に宿り、物質世界のなかで生きています。そして、「この物質世界のなかで生きながら、どれだけ、霊的な人生観を手に入れることができるか。かつて仏神から学んだ教えを、どれだけ、実体験し、実践できるか」ということを、ある意味で試されています。人間は、人生において、さまざまな経験を積んでいきますが、それは試験でもあるのです。
 その試験が終わったとき、人生が終わったときには、霊的世界のことが分かるようになっています。試験が終わると、人生の総復習が行われて、「あなたの今回の人生は、こうでした」ということが明らかにされます。それまでの何十年かのあいだは蓋をされているのです。
 結局、「霊界がほんとうにあるならば、仏や神がほんとうにいるならば、人間に分かるようになっていなければ不親切だ」と主張することは、試験問題を配られて、それを解くときに、「答えが印刷されていないではないか」と文句を言うことと同じなのです。あるいは、「試験監督が何も教えてくれないのは、けしからん。冷たいではないか」「教科書を持ち込み可にしろ」「答えを教えろ」などと言う感じに近いのです。
 それに対する答えは、「一時間なり二時間なりの時間をかけて問題を解くのが、あなたの仕事です。試験が終わったあとには採点して返しますが、いまは答えを教えられません」ということになるわけです。
 ただ、ときどき、親切な人がいて、ヒントを与えてくれることはあります。
 幸福の科学の経典などがあることは、いわば「辞書持ち込み可」に当たるかもしれません。「答えは教えられませんが、辞書は持ち込んでも結構です。自分で辞書を引いて調べるぐらいは、かまいません」ということです。
 人生は一種の試験なので、答えを、全部、教えるわけにはいかないのです。しかし、ヒントは、人生の途中で、たくさん与えられるようになっています。さまざまな気づきの機会が用意されているのです。
(63~66ページ)

「人生そのものが一種の試験である」──。

このお教えは、架空の話じゃないんですよ、ほんとなんですよって。

そう思ってみてから、よくよく考えてみると、人生の謎って、ほんとに全部解けていくんですよね。

そして、幸福の科学の経典(書籍)というのは、たしかに自分の人生の問題集の解答そのものではない。

だけれども、解答するための大事な大事な参考書なんだってことだと私は思うのです。

 

『信仰のすすめ』

大川隆法著

 

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ムー大陸とか、アトランティス大陸って、マンガやSF小説なんかでよく見るんだけど、本当にあったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の原理』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 今から一万五千年あまりの昔です。現在の日本を真南に下ったところにジャカルタという島がありますが、このジャカルタという島は、実は今から一万五千年ほど昔に大きな大陸があった、その中心点であったのです。この大陸のことを「ムー大陸」と言います。そして、この大陸に栄えていた国のことを「ムー帝国」と言います。今から一万五千数百年前でしょうか、この大きな大陸が没していったわけであります。それは本書以外においても、神智学のような書物など、さまざまな文献を通して、そうした大陸があったということを、お聞きになった方がいらっしゃるはずです。
 この大陸に今から一万六千数百年前にラ・ムーという偉大な帝王が生まれました。(中略)
 その後、このラ・ムーの生命体は、今から一万二千数百年前、アトランティス帝国に生まれ変わりました。現在の大西洋、ヨーロッパと北米を結ぶ中間点にバミューダ海域というところがありますが、ここに、その当時偉大な帝国がありました。アトランティスというところはひじょうに科学文明の発達した国でありました。ある意味では、このアトランティス帝国の科学技術というのは現代の文明水準をも超えている部分があったのです。遅れている部分もありますが、超えている部分もあったのです。
 この当時、すでに飛行船が発明され空を飛んでおりました。『太陽の法』のなかにもサラッと書いてありますけれども、この飛行船は、長さが二十メートルから三十メートルぐらいの鯨型のものでありましたけれども、この飛行船の上に背ビレのように小型ピラミッドをつけていて、太陽エネルギーを変換して、それを動力として使い、後尾にプロペラを付けて、これをまわして飛んでいたのであります。(中略)
(70~72ページ)

ムー大陸やアトランティス大陸は、太古の昔(といっても1万数千年の昔です)、ほんとうに実在していた。
 
幸福の科学の信者にとっては、もはや常識になってる話ではあります。
 
映画『太陽の法』でも、実際にどんな世界だったかが、具体的に描かれていました。
 
その真実を、大川隆法先生は、淡々と語っておられたのだと、改めて私は思うのです。

 

『幸福の原理』

大川隆法著

 

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心が荒れていてどうしようもないって? どうすれば、安らいだ心を取り戻すことができるの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代社会は非常に忙しい世の中になっていますが、そのなかで、心の安らぎを取り戻すことがとても大切です。
 その方法としては、たとえば、独り静かに仏法真理の書籍をひもといてみることです。あるいは、坐禅、瞑想などの経験を経て、自分自身と対面してみることです。あるいは、反省によって、自分の心に刺さったとげを一つひとつ抜いていき、インクつぼを引っくり返したように真っ黒になってしまった心の染み抜き作業を、丹念に行っていくことです。
 また、どうしても自力によって心の平和を保つことができず、反省も瞑想も、とてもできないような状態であるならば、もはや祈りに頼るしかありません。
 特に、強力な悪霊である「悪霊」に取り憑かれたり、悪魔に惑わされたりしているようなときは、なかなか心の平静を取り戻すことができないのです。
 それは、「心が揺れて、考え事がまとまらない。いつも同じところに考えが行ってしまい、心を柔らかくしようとしてもできない。執着から離れようとしても離れられない。さらに、本来の自分とは正反対の思想が、どんどん頭のなかに入り込んできて、考え方が逆になっていく」という状態です。
 このように、強力な悪魔などに憑かれているときは、残念ながら、反省や瞑想に入れる状態ではありません。その場合には、強い祈りに頼るしかないので、幸福の科学の支援霊団に対して祈ってみてください。
 祈れば必ず助けがやってきます。それは確実です。幸福の科学の信者の場合は、「主への祈り」や「エル・カンターレへの祈り」などで、私に対して祈れば、幸福の科学霊系団のだれかが必ず助けに来て、光を入れてくれます。そういう祈りに頼らなければいけないときもあるのです。
(256~257ページ)

幸福の科学の書籍をまず開いてみること。

瞑想。反省。そして、祈り、ということですね。

自分ではどうしようもない段階だなあと思った方は、幸福の科学の支部精舎にまず連絡してみたらいいのではと私は思うのです。
 


『大悟の法』

大川隆法著



なお、この『大悟の法』という本は、「悟り」というものについて、とてもやさしく、でもものすごく深遠に説かれてるんだけど、その内容のエッセンスを、オリジナルストーリーで、さらに分かりやすく理解させてくれるのが、マンガ『大悟の法』です。すごくよく考えられたストーリーは感動もの。アニメ映画で見たいものだと、ほんとうに思いました。
 


マンガ『大悟の法』

幸福の科学出版



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なんで人は、病気になったりするんだろ? 仕事も家庭でも絶好調のときに限って、風邪ひいてダウンしちゃったり。あんないい人が、なぜ今、あんな重い病気になったりするの、ってこともあるよね。人間が仏さまや神さまに作られたのが本当なんだったら、そんなに不完全な作り方しなくってもいいじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人は、自分の思ったことがズバズバと的中し、道が拓けることをもって、よしと思うかもしれませんが、ほんとうは、いろいろな上がり下がりがあるなかにこそ、学ぶことは多いのです。
 たとえば健康面をとってみると、いつもパワフルで健康な方もいるでしょう。そうした方は、健康のことを考えるという時間がないかもしれません。ただ、この健康の反対である病気というものは単なる不幸かと考えたときに、「いや、そうでもない。そんな消極的なものではないのではないか」という感じがします。
 なぜ、あるときに人間は病気になるのでしょうか。病気になるには、その前段階が必ずあります。助走期間のようなものがあります。体のどこかが痛んだり、調子が悪くなったりして、通常どおりの働きができなくなってきます。これは、ある意味で、自然が人間に休養を命じているときでもあるのです。何ゆえに、自然が人間に休養を命じているかというと、健康を当然と思っている人たちは、ほんとうに、病気にでもならないかぎり、休むことを知らないということがあるからです。
 したがって、ある人がオーバーヒートしたときには、その人の寿命、あるいは天命をまっとうさせるために、自然はその人に一時的に病気を与えて休ませることがあります。その病気にかかることによって、実は寿命を長らえているのです。そうならない場合は、オーバーヒートして、どこかでそのままあの世に還ってしまうことになるのです。その前に何らかの体調の不全を起こして休ませ、強制的に休養期間をつくります。
(19~21ページ)

えー、そうだったんだあ、ですよね。

風邪だって、重い病気だって、意味があるのだ。

それを前向きに受け止めて、魂の糧にしていくこと──。

人生で成功していくための重要なヒントの一つを、今日はまた改めて学んだ気が私はするのです。

 

『常勝思考』

大川隆法著

 

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あの世って、マンガとか、ドラマとか、小説とかでよく出てくるけど、昔の時代のままで止まってるみたいに思えるんだけど、ほんとにそうなのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あの世もまた、この世と同時に変化しています。現代の人が亡くなれば、その人が生きていたときと同じような生活様式があの世にも現れています。現代において、あの世の世界を見てきた人は、数百年前、あるいは千数百年前の臨死体験の報告にあるような、古代の世界を見たわけではありません。いまは、極めて現代的なあの世というものができています。天国も地獄も変わってきています。都会も現れています。
 この世にあるものはほとんどすべて、似たようなかたちで、想念の世界において現実化してきています。多くの人々が「それがあってほしい」と思うと、そのようなものが出てくるのです。それが、あの世の世界です。
 多くの人々が「乗り物が欲しい」と思えば、それがあるかのように現れてきます。電車も飛行機も現れてきます。あの世に現実に金属があるわけではないのですが、そのように現れてくるのです。「地上の楽園」のようなものを望めば、現代における最高のテーマパークのようなものや美しい公園のようなものが現れてきます。それは古代の様相ではありません。現代の地上にあるものと極めてよく似たものが出てきます。
 「臨死体験では、必ず古代返りをして、大昔の世界ばかりが出てくるから、あの世は信じられない」と言う人がいますが、そんなことはないのです。すでに、現代的なあの世が始まっています。時代はほとんどずれていません。
 古代のままで時間が止まっている人々の世界もありますが、現代の人々に対しては、現代の人々に分かるようなかたちで、あの世での指導が行われています。方便として、そういう現代的な生活も展開されているのです。
 あの世には学校も病院もあります。この世にあるように存在します。そういう所で仕事をしている人も数多くいます。その内容も日進月歩で、次々と変わっています。昔であれば、霊界の学校に外国人はいなかったでしょうが、いまの霊界の学校には、外国の人たちも数多く学びに来ています。
 そのように、あの世は地上と同じように変化しているのです。
(296~298ページ)

あの世も、この世と同時に変化していく──。

新鮮な話に感じた人もいるかなあ。

臨死体験の報告というのも、昔の書物を読むだけじゃなくて、いま現在の報告も知らなきゃいけないんだと私は思うのです。

 


『幸福の法』

大川隆法著

 

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住んでるのが田舎だからかな、まわりには手本になりそうな立派な人なんて、誰もいないんだよね。都会に出れば、素晴らしい人がたくさんいるのかな。環境変えなきゃダメなのかな? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『運命の発見 説法自由自在②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は光ってくると、人は放っておかないという事実があるのです。その人の人格に光沢が出てきたときに、3年以上埋もれているということは少ないことです。現実に、あなたがそういうすばらしい人と出会いたければ、あなた自身がそういう人たちをひきつけるような人にならないといけないということです。そうでなければ、そういうすばらしい人はあなたの前を素通りしていくでしょう。あなた自身が光を出さなければいけません。(中略)
 成功者は成功者を呼び寄せるのであって、失敗者や、成功したいけれど自分は現在失敗しているという人とは肌が合わないのです。そういう人が寄って来ると、遠ざかるのです。なにか貧乏神が来たような気がして、逃げていくのですね。
 雰囲気が人を寄せる、というのはこういうことをいいます。成功している人は、その成功の雰囲気が出ています。ですから、その人の近くに行くと成功しそうな気がするわけです。そういうところに来るのは、精神的に貧乏な人ではなくて、やはり成功をめざしていて、成功しそうな人です。これは、その人の波長が呼び寄せるからです。
 自分には何もないけれど、成功者のところに行けば、自分も成功者になれるのではないか、すばらしい人のところに行けば、自分もすばらしくなれるのではないかと思っても、じつはそうではないのです。その前に、自分がそこに至るまでの修行をしなければいけません。あなたのなかにキラリと光る何かがなければ、そういう人がもし立ち現われたとしても、あなたに何も残さずに立ち去るかもしれない。自分とは違う世界の人だと、一見して思えば、通り過ぎてしまうかもしれません。(中略)
 ですから、あなたは自分のまわりが未熟な人ばかりで自分も未熟だと思い、だれか立派な人といっしょに仕事をしてみたいと思うかもしれないけれども、まず、みずからが光ることです。光っていると、どこかで必ず人をひきつけるのです。必ずあなたが求めているような人が現われて来て、自然にそうなるでしょう。(中略)
 まず、現在の環境のなかで学びうる最大のことを学んでみる、実践してみる。その環境には、そういう未熟な人ばかりいるかもしれない。しかし、ちょうど霊界と同様で、魂の境涯が上がって光が強まれば、次の階に浮き上がっていくように、その現在の環境のなかに、あなたがいられないような雰囲気になったときに、この世でも同じように次の段階に移ってゆくのです。
(187~192ページ)

光っている人を、人は放っておかない。

すばらしい人と出会いたければ、あなた自身がそういう人たちをひきつけるような人にならないといけない。

だからまず、現在の環境のなかで学びうる最大のことを学び、実践し、みずからが光ることである──。

もちろん、どうしても環境を変えた方がよい場合はあるでしょう。

でも、まずは現在の環境の中で、自らが光り輝くように最大限の努力をすること。

光り輝く人を引きつけることができる自分になること。

そう決意し、実行してみるのが成功するための出発点だ、ということなんだと思います。

地味だけれども、少し時間がかかるかもしれないけれども、その結果として今の環境の中で光り輝いてきたとき、自然と次の段階がやってくるって。

ほんとに、勇気が出てくるお教えだと私は思うのです。 

 

『運命の発見 説法自由自在②』

 大川隆法著

 

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彼とは結婚を前提に付き合ってたはずなのに、別の彼女ができちゃったなんて言うんだ。どうしたらいいの? なーんて人、いませんか。いわゆる三角関係ってやつですね。

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 残念ながら、「自分はこの人」と思っていた人に新しい恋人ができる、新しい愛人ができるということは、切ないことではありますが、あなたが完全な女性ではないということを意味しています。
 いや少なくとも、彼の目から見てあなたが完全ではないということを意味しています。あなたは、この冷厳な事実と対決しなくてはなりません。百点満点ではないことを教えられてしまったのです。その事実を知ったときには、おそらく頭の上に落雷でもあったかのようなショックをお受けになったでしょう。しかし、これが人生の冷厳な現実でもあるのです。
 この現実と、あなたは闘わねばなりません。そのなかで、あなた自身の考え、人間観、あるいは価値観、趣味というものを、もう一度ふり返ってみなければいけないのです。いや、それを固めなければならないのです。
 あなたは、いったい彼のどういうところに魅かれましたか。それをよく自分自身に問うてみてください。(中略)
 あなたは彼のどこが好きだったのか、もう一度点検して、そういう彼ではあるけれども、それでもまだやっていけるのかどうかを決意しなければなりません。
 その結論は、時の流れがかならず出してくれることになるでしょう。新しい彼女ができて、そしてその新しい彼女と彼がいっしょになるのか、それともあなたのところへ戻ってくるのか。その結論は、おそらくはあなたがその事実を知ったときから半年以内には出ます。
 半年以内に結論が出なかった場合には、すなわち、彼が言葉を濁して、「いや、君も好きなんだよ。しかし相手の人とも別れられないんだ」ということで、ズルズルとその状態が続くようであったならば、あなたはやはり半年以内にはその結論を出すべく、心を決めなければなりません。彼に「私をとるのか、もうひとりの人をとるのか、結論を出してほしい」ということを、やはり半年以内には迫らなければなりません。(中略)
 そして、そのあいだで結論を出せないような男であるならば、あなたは潔くその男のもとを去るべきであると、私は思います。
 その半年間、十分に苦しみなさい。そして、自分自身というものをもう一度見つめ直しなさい。
 しかし、結論が出た場合には、運命には潔く従いなさい。
 世の中は、捨てる神あれば拾う神ありです。そのときには自分にとって失敗だと思えたことでも、あとになってみれば、さらによい人生が開けるための前ぶれであったということはあります。
 最後には、神様というものを信じていることです。
(38~45ページ)

最も苦しい時期というのは、半年以上は続かない」というのは、別のところでも教えていただいたと思います。

ここでも、節目の期間は半年、ということですね。

女性のための「幸福のつかみ方」。

じっくりと味わい、人生をよりよく生きるための参考にしたいものです。

 

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著



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神さまや仏さまがいるんだったら、なんで生きてて、悩みだらけなんだろう。神仏は、人間の悩みをすぐになくして下さればいいのに。宗教に入って、神仏にすがれば救われるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学原論①』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 とくに、宗教的真理を求めている人たちは、何かにすがれば救われるという考えを持ちやすいのです。いまだにそういう人があとを断たないわけですが、しかし考えてみるならば、何のためにこの世に生まれてきたのか、どうして生きているのかと考えてみると、救われるために生きているわけではないのです。ここを考え違いしがちです。
 現在の苦しさから逃れたい一心で、救われるということのために生きているような錯覚に陥ることがありますが、そうではなくて、この世に生まれてくるということは、もっと積極的な意味があるのではないかと思われます。ひとつには己れの魂修行という目的であり、もうひとつはもっと大きなユートピアづくり、幸福感の増幅のために生きているのではないかということです。
 このような観点から考えてみると、単に救われたいということだけで生きているということは、人間としては情けないことではないのか。自分の人生の悩みは何のためにあるのかよく考えてみよ。人それぞれ、その人に合った問題集が与えられているのではないかということです。
 そういわれてみるとたしかにそのとおりで、その人にぴったりの問題集なのです。神様であるなら、本当はもう全部幸福にしてくれて、悩みもみんなとってくれるはずなのに、こんなに苦しいのはおかしいと考えがちですが、よくよく考えてみると、各人に固有の問題集があり、各人に悩みがあるということは、現にその人がどのような修行の課題を持っているかを明確に表わしているのです。その修行を卒業した人には、そういう問題集は与えられないわけですが、その間題をまだ卒業していない人には与えられます。
 ですから、最大の悩みこそ最大のカルマであるといえます。「何でこんな不幸のなかにいるのだ」と思うかもしれませんが、そこにこそ、まさしく今世の意味もあるということです。今世、肉体を持った意味はまさしくそこにあり、そこに何らかの勉強の糧があるのだ、材料があるのだと教えられているのです。
(46~48ページ)

大川隆法先生が、「人生は一冊の問題集である」という大切な言葉の解説をされた部分を、今日は改めて、ご紹介してみました。

友だちの人生相談などに乗ったりしてみると、ああ、ほんとに各人の問題集は違うんだなあって思うことがあります。

だからこそ、人生の悩みには、前向きに立ち向かっていかなきゃって、勇気と希望がわいてくる。

そう私は思ったりするんですが、みなさんはどう思われますか?

 

幸福の科学原論〈1〉 『幸福の科学原論①』

 大川隆法著

 

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人生って、厳しいことが多いんだから、人に対してはやっぱし厳しく接しなきゃね。なーんて人、いたりしますけど、ほんとにそうなんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私の願いはいつも同じです。「人に対して常に優しくありたい。優しい人でありたい」と思っています。
 ときに勇気ある言葉を吐き、ときに勇気ある行動をし、ときに力強い決断をしなければならないこともあります。それもこれも、その底には優しさというものが流れています。より多くの人々に幸福になっていただくために、より多くの人々に幸せになっていただくために、そうした強い言葉も、勇気の言葉も、力強い行動も起きてきます。優しき人とならんとしているがゆえに、そうした気持ちもわいてきます。
 ただ、私はみなさんに、そう難しいことをお願いしようとは思いません。私がみなさんに、かくあってほしいと思うことは、「常に優しき人となれ」ということです。仕事のなかに埋没しているときにも、家庭のなかで苦しんでいるときにも、私はみなさんに、この言葉を思い起こしてほしいのです。「常に優しき人となれ」という言葉を──。
 人間は、ともすれば、当然という気持ちで、自分だけが豊かな暮らしをしたり、自分だけが人々にほめられたり、そうした自分だけが満足のいくような人生に、あぐらをかきがちです。しかし、その途中において、倣慢になったり、他人に対して厳しくなりすぎたりしている自分というものがあるのではないでしょうか。(中略)
 人間がいちばんうれしい瞬間は、人から優しくされた瞬間ではないでしょうか。優しくしてもらった瞬間ではないでしょうか。
 さすれば、自分もまた、常に優しき人となろうではありませんか。自分が人にそうされたいが如く、自分もまた人に接しようではありませんか。常に優しき人として、生きていこうではありませんか。
(209~213ページ)

「愛」の一側面を、やさしい言葉で説いてくださった一節ですね。

そういえば、明日は、ホワイトデー。

1ヶ月前には、「義理チョコ」なんて言葉が飛び交ったのかもしれません。

だけども、人間関係の潤滑油としてのちょっとした心遣い、優しさも、やっぱり「愛」なんですよ、ね! 

 

『愛の原点』

大川隆法著



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幸福の科学って、1990年代の前半には、大々的に終末予言の本を出してたと思うんだけど、いまはどうして、そういう本は出さなくなったの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 一九九〇年や九一年ごろ、私は、霊界の霊人たちの、いろいろな意見を、わりと広く聞き入れていました。当時は、イスラム教にかかわりのある霊人たちの意見もかなり聴いていましたし、また、どちらかというと霊界の裏側の存在になりますが、予言者系統の霊人たちの意見も聴いていたのです。
 しかし、その後、一九九四年から、私は、仏教系の教えを中心に、幸福の科学の教義をまとめ直し、それと合わないものは整理しはじめました。
 したがって、現在の私自身の考えには、一九九〇年、九一年前後とは少し変わってきている部分があります。
 全体的に見て、予言者系統の霊人は「崇り神」的な傾向を持っているように思います。一人や二人ではなく、いろいろな人を見て、そのように感じるのです。また、裏側の人ほど、予言的なことを言いたがるようです。(中略)
 予言者系統の霊人たちの予言には、やはり、不幸の予言のほうが多いのです。
 予言は、当たることもあれば、当たらないこともあります。当たらないことがあるのは、不幸の予言が当たらないように努力している人たちもいるからです。
 しかし、不幸の予言をすると、予言をした人自身が、その不幸を望んでいるように思われてしまいます。
 そこで、私は、「あまり、そういうことを言わないほうがよい」と考えて、一九九〇年代の終わりごろから、そういう予言は撤回して、いまは言わなくなっています。
 天上界には、いろいろな意見がありますが、幸福の科学としては、採用した意見についての責任が生じるので、責任が取れる意見にまとめていくほうがよいのです。
(147~150ページ)

ここで大川隆法先生が、「不幸の予言が当たらないように努力している人たち」とさりげなく言っておられるのが、まさに幸福の科学だったと思います。

ですから、1990年代の幸福の科学の活動は、不幸の予言をあたらないようにする活動でもあったのだろうと思います。

そして、こういう理由があったために、アラーとかノストラダムスとかの予言書が、今は出されてないってこと、なんですね! 
 

感化力

大川隆法著

 

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「運命」って、そもそもあるのかなあ。そして、自分の運命が不幸そのものなときって、その運命を超えて、幸福な運命に変えていくなんて、できたりしないのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は、長年、宗教家として経験を積んできた者として、「人生に運命があるかどうか」と訊かれたら、「あるでしょう」と答えます。
 ただ、その「あるでしょう」という答えは、「決まった筋書きがある」という意味ではありません。「人には、それぞれの魂の傾向性というものがあるので、その傾向性を見れば、その人の人生は、だいたい予想がつく」ということです。その意味において、やはり、「運命はある」と言わざるをえないのです。
 その人の魂の傾向性を見れば、「この人は、今後、どういうことで成功し、どういうことで失敗するか」ということは、ある程度、予想がつきます。五年後、十年後、二十年後、あるいは晩年に起きることであっても、魂の傾向性を見れば、「たぶん、こうなるだろう」という予想がつくのです。そういう意味で、運命はあります。
 しかし、その運命を超える方法もあります。すなわち、研究心を持って、自分を観察し、他人を観察し、その魂の癖や傾向性、長所・短所を緻密に分析しながら、「自分を変えていこう。いまの自分を脱ぎ捨てていこう」と思っている人は、運命が変わっていくのです。
 自分の運命が、もし、呪われた運命であり、悪しき運命、避けたい運命であるならば、そこから逃れる方法は一つです。それは、自分の魂の傾向性をはっきりとつかむことです。それをつかめば、運命の先が見えます。先が見えれば、どうしたらよいかが分かります。「この先、自分はこのようになる」ということが分かるので、それを避けていけばよいのです。
 そのように、危ないところは避けていき、さらに、自分が持っていない能力を開発することです。自分の欠点のなかから長所を開発し、長所のなかから次の失敗の種を発見することです。それによって、長く続く成功をつくり出していく必要があります。
 運命はあるけれども、それを発見し、改善することも、また可能なのです。
(64~66ページ)

今日ご紹介したところは、「運命」についてのエッセンスが説かれたお教えの一つだと思います。

自分の運命は、自分の努力で、力で、変えていくことができる。

この事実ひとつを知っているだけで、この人生を歩んでいく勇気が出てきます。

大川隆法先生の説かれる仏法真理の凄みを、今日は、改めて知った気が私はしているのです。

 

『幸福の法』

大川隆法著



 

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