幸福実現党は、公立学校の民営化を政策として出してるんでしょ。それって、どうなのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『福沢諭吉霊言による「新・学問のすすめ」』(幸福の科学出版)で、慶応義塾の創立者・福沢諭吉の霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。
会社として見たら倒産しているようなものは、やはり、何とかして片づけなければいけないだろう。(中略)
あと、もう一つよろしくないのは、才能教育が十分にできていないところだろうか。突出した才能を持っている子たちを育てることが十分にできておらず、全員を同じようにしていき、「才能のある人は、才能を潰されて、才能のないところを持ち上げられる」というようなかたちかな?
そして、用意されていることの全体について、均等に、ある程度できるような人が、評価されていく傾向があるのだけれども、そういう人がいちばん向いているのは役所なんだよね。役所のようなところには向いているんだ。
しかし、一般の社会においては、やはり、みな“一芸”で生きているんだよ。何か一つの才能で生きている人が多いので、何か突出したものがあれば、それで十分に生きていけるんだ。
このへんについて、「将来設計は将来において行えばよい」ということで先延ばしにしているのだけれども、「やはり、才能型の教育においては、もう少し取り扱いを自由にしないといけないのではないか」という感じはするね。
それから、学校では、子供が不良化したり、いじめが流行ったり、暴力が蔓延したりしている。次に、警察沙汰が増え、麻薬や覚醒剤、その他、いろいろとあって、犯罪の巣窟のようになっていくのであれば、学校には、もう行かなくてもいいと私は思う。
私塾の時代に戻してもいいと思うね。
標準的な勉強をしたい人は学校に行って、特色のある勉強をしたい人は、私塾を選んで行ったほうが、よろしいのではないだろうか。
また、学歴社会型の、ものの見方について、多少、変えたほうがよいかもしれないね。(中略)偏差値的な秀才としては、統計学的に「優秀」という判断が下されるのだろうけれども、「ある仕事をさせたら優秀かどうか」ということは分からないわけだ。
やはり、実社会において、ある程度、活躍されたような方が、有志となって、どんどん私塾を開いていかれてもいいのではないかと思われるね。
私は、そういうものがもう少し出てもいいのではないかと思う。
勉強する気が本当にある人が、教えてくれる人を求めて行く学校がないと、やはり、世の中は良くならないのではないかな。それは何か特色のあるものでよろしいと思うんだ。(中略)
例えば、数学なら数学で天才を出したいのに、全教科において満遍なく勉強をずっとさせていたら、そんな天才など出ないんだよ。数学の才能があると思ったら、やはり、そちらのほうにたっぷりと時間をかけて勉強させてやるような、そういう自由性がないと、現実には難しいんだよ。(中略)語学でもそうだ。(中略)何かに集中しないと、人間は一流まで行かないんだ。そのへんが、分かっていないところだね。
基礎教養として必要なものはあるんだけれども、これがもう少し分かれてもいいかなという感じかね。時代的には、これは体系的に廃棄しなければいけない時期が来たのではないかと思うよ。
(128~133ページ)
会社として見たら倒産しているようなものは、やはり何とかして片づけなければいけない。
学校がよろしくないのは、突出した才能を持っている子たちを育てることが十分にできていないこと。
私塾の時代に戻してもいいと思う。標準的な勉強をしたい人は学校に行って、特色のある勉強をしたい人は、私塾を選んで行ったほうが、よろしいのではないか。時代的には、体系的廃棄をしなければいけない時期が来たのではないかと思う──。
慶応義塾というのは、今は小学校・中学校・高等学校・大学と、巨大な学校群を形作っているんだと思いますが、もともとは私塾でした。
で、福沢諭吉先生は、また私塾の時代に戻れ、というわけですが、幸福実現党は、塾を学校として認めよ、という政策も掲げていたと思います。
とにかく、今の教育の仕組みは、どう考えてみても、「体系的廃棄」(イノベーション)すべき時期が来てるんじゃないでしょうか?
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『福沢諭吉霊言による「新・学問のすすめ」』
大川隆法著
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