ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



悪霊の憑依って、何百体とか何千体も憑いてることがあるなんて聞いたことがあるんだけど、そんなことあるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 心の針が一点に止まって、地獄霊たちと同じ波長が続くようになったときには、彼らにそのまま五年も十年も二十年も居すわられることになります。それが、いわゆる憑依されているという状態です。憑依霊が憑いたわけです。
 憑依霊が憑くと、霊能者でなくても身体が重く感じてきます。首や肩が凝ったり、背中や腰が重くなったり、何となく重い感じがするのです。
 そして、そうした生活をしていると不機嫌になってくるので、どうしても人間関係がうまくいかなくなり、悪の循環が始まります。
 憑依霊が一体だけなら、まだましなのですが、このように悪い人格ができてくると、二体目、三体目と、次のものがやってくるのです。
 私は、四、五体の悪霊が憑いている状態の人と、近くで少し話をするだけで、空気が汚染されてくるのを感じます。そうした人の近くは空間が歪んでいるのです。一、二体ぐらいであれば、まだ呼吸ができますが、どのような顔の人なのかが分からなくなるほど、いろいろなものが憑いている人だと、地獄臭がして、空気まで毒されて感じられるのです。
 ただ、ある変な宗教団体が言っているように、「何百体も何千体も悪霊が憑く」ということは、ありえません。これまでに最も多いと思ったのは十体ぐらいです。そのくらいが限度です。
 人間の身体は小さいので、それほど数多くは憑けません。何体も憑くと、憑依霊どうしがケンカをしてしまい、負けたほうは憑いていられなくなるので、それほどたくさんは無理なのです。
 かなり重症の人は、四、五体ぐらいまでは持っていることがありますが、普通は、〝おなじみさん〟が一体か二体いることが多いということです。
(29~31ページ)

憑依霊がつくと、体調が悪くなり不機嫌になって、悪の循環がはじまり、次がやってくる。

しかし、人間の身体は小さいので、何体も憑くと、憑依霊どうしがケンカしてしまい、それほど数多くは憑けない。

かなり重症でも、四、五体ぐらいまで。普通は一体か二体いることが多い──。

いずれにしても、この悪霊の憑依というのは、人ごとではないわけで、“そうか、限度は4~5体なんだぁ”では話は終わりません。

こういう話題を機に、自分にも起こり得ることなんだってことを、しっかり意識することも大切ではないでしょうか。

そのときに、憑依とは、「波長同通の原則」によって、自分の心の傾向性がその悪霊と同様のものとなったときに、同通して居すわられてしまう現象なのだと知ること。

そして、もしかしたら? と踏みとどまって「反省」するのが、対策の第一歩ということでした。

正しい霊的知識を身につけ実践することが、「幸福への方法」なのだと改めて腑に落ちた気が私はしているのです。 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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悩みを解決するには、いろんな方法があるって教えてもらってきたと思うんだけど、究極の解決法ってないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悩みを解決する方法として、「細分化の原理」や「優先順位をつける」という話をしましたが、もっと単純にいえば、最後は結局、「何を捨てるか」という間題になります。
 人間は、「何を手に入れるか」という積極的な方向で頑張る傾向がありますが、仏教的にアプローチするならば、「何を捨てるか」ということになります。これは執着の問題です。捨てることによって、実は幸福になれるのです。(中略)
 苦しみが生まれるのは欲があるからです。いろいろなものを手に入れたいという欲があり、それが相反しているのです。大きな問題にぶつかって苦しんでいるときは、たいてい執着が大きくなっていて、「あれも欲しい。これも欲しい」と思い、それが互いに矛盾していることが多いのです。(中略)
 人生の持ち時間は限られているため、あれもこれもやろうとしすぎると、みな矛盾することになっているのです。(中略)
 捨てることは、できるものなのです。
 たとえば、台風で洪水が起こり、舟に家財道具を積み込んで逃げ出したところ、積み荷が重すぎて舟が沈みそうになったという場合には、やはり荷物を捨てざるをえないでしょう。そうしないと命を失うという場合には、命あっての物種なので、荷物を順番に捨てていくしかありません。(中略)
 その際に、「では、何から捨てるか」ということになりますが、「お金があれば、また買える」と思ったものは、どんどん捨てていきます。そして、「命があれば、お金だって、また稼げるだろう」と言って、お金さえも捨てていきます。(中略)
 「どれを取るか。どれを持っていくか」という選択をすることが、どうしても苦しくて難しい場合には、逆に、「何を捨てるか。何を捨てれば、いちばん楽になるか」ということを考えて、大胆に捨てることです。捨てれば、その分だけ執着が減って楽になり、苦しみが軽くなるのです。
 人は、地位や名誉、財産、健康、あるいは職業上のいろいろな便益など、実にさまざまなものを欲しがります。しかし、危機になれば、やはり捨てていかなければいけないのです。
 何を捨てるかは、わりあい簡単に自分で判断できます。「あなたは何を捨てていきますか」と言われれば、服を一枚一枚脱ぎ捨てていくような感じで、捨てるものを判断することができるのです。
 「何を捨てるか。何を捨てられるか」ということを考えれば、悩みは減っていくはずです。
(50~55ページ)

互いに矛盾する悩みが出てきて、あれもこれも大事で解決できないとき。

何をとるかではなく、何を捨てるかを、まず考えてみること。いらないものから捨てていく。何だったら捨てられるかを考えてみる。

そうすれば、悩みが減っていって、解決は目の前に見えてくる──。

これって、ほんとなんですから。

やってみれば分かります。

みなさんも、一度、試してみませんか? 

『奇跡の法』

 大川隆法著


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社長になりたいよね。人に使われるのは嫌だしね。一国一城の主でカッコいいし、自分の考えで自由に仕事ができるんだからね。・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間はともすれば、実力が充分ではないのに、「他人より偉くなりたい」と思い、肩書や地位を求めます。それがなぜ悪とされるかといえば、実力の充分な蓄えがないのに人びとを指導することは、クレジットカードでボーナスの先食いをしているようなものだからです。
 すべての人が「自分は社長になりたい」と思っても、そうはいきません。なぜかといえば、実力の蓄えのある人が社長になると、多くの人に恩恵を与えることができますが、蓄えのない人が社長になると、その社長業はむなしくなり、人びとが苦しむからです。こうした面があるのです。
 人気先行型の俳優やスポーツ選手も同じでしょう。人間は実力相応の人気が出てくればよいのであって、人気が先行して実力が伴わないと、その人気はむなしいものなのです。
 やはり、実力あってこその名声、実力あってこその人気です。実力以上の人気を得ようとすると、足が宙に浮いてしまうような現象が現われてくるのです。
 したがって、人生に勝利していくためには、やはり蓄積が大事です。その蓄積が、今世において使われなくとも、今世において評価されなくとも、それは天の蔵に富を積むこととなっているのです。
 すなわち、人生において学んだことが、必ずしも仕事や家庭生活に生きなくとも、「学んだことは一切無駄にならない」という事実があるのです。
 みなさんは高校時代に、物理や化学、地理などを学んだでしょう。「これが将来、何の役に立つのか」と思ったかもしれません。しかし、それらを知っていることが、みなさんが認識力のバランスをとるための素材となっているのです。
 それは「無用の用」という言葉でも表わされます。
 どれほど大きな橋でも、一人の人間が歩くために必要な幅は、わずか二、三〇センチです。それだけの幅があれば、人間は橋の上を歩くことができます。
 それでは、橋の残りの部分は無駄かといえば、無駄ではありません。急流の上に幅三〇センチの丸木橋が架かっているだけでは、たいていの人は下の急流が気になり、恐怖で足がすくんで渡れないのです。(中略)
 このように、実際には使わない部分であっても、それがあることが、いろいろな危険から自分を守り、心の安定に役立っているのです。これを「無用の用」といいます。
 そして、この「無用の用」の部分、すなわち蓄積の部分をどれほど持っているかが、その人の実力だと考えてよいのです。
 蓄積が少ない人は、少々のことで心が動きます。一方、蓄積が多く、自分のなかに絶大なる自信がある人は、多少の不評や挫折ぐらいでは心が揺れません。したがって、それだけの蓄積を、氷山の水面下の部分をつくっていくことが大事なのです。
(53~57ページ)

実力あってこその名声、実力あってこその人気であって、そのためには蓄積していくことが大事である。

学んで蓄積したことが、目前の仕事や家庭生活に生きなくとも、それは、天の蔵に富を積むこととなっている。

のみならず、今世でも、「無用の用」の部分があることが、いろいろな危険から自分を守り、心の安定に役立ち、自分の実力をつくっている──。

大きな理想を描くことはとても大切だけれども、それも実力あってこそ。

目標に向かって地道に努力して蓄積をつくっていくこと。

それは、一見ムダなようでも、今世の実力を作るだけでなく、来世のためにもなるってことです。

このあたりが、幸福の科学の教えが、巷にあふれた〝念いで成功する″というだけの成功理論とは一味違う、いや決定的に違う部分ではないかと私は思っているのです。
 

『不動心』

大川隆法著


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悟りをひらくためには、やっぱし、山にこもって瞑想修行でしょ。昔から、覚者はみーんなやってるじゃない。ほかに何か方法とか条件みたいなのなんてあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 そして、悟りのために必要な最低条件を二つあげています。
 一番目は、仏法真理についての正しい知識を獲得することです。
 これは大事です。残念ながら、一人の人間が地上に何十年か生きて経験したことだけでは、悟りとしては不充分なのです。
 現代において悟るためには、これまでに集積された人類の叡智を学びつくす必要があります。それは自分ひとりでは発見できません。現にある教え、法というものを謙虚に学ぶことです。これが結局は、自分の進歩を、数年、数十年、早めることになります。
 まず真理知識の学習が必要なのです。そのために、幸福の科学ではさまざまなセミナーや研修を行なっています。それを一つの機会にして学んでいただきたいからです。合格・不合格という結果の出る行事もありますが、決して結果主義者になるのではなく、そうしたチャンスを活かして、真理知識を獲得してほしいと思います。
 真理知識を獲得せずにいて、悟るということはありません。かつては禅宗の修行のなかで、「悟った」という気分になった人もいたでしょうが、「そのようなものでは、現代では『悟った』とは認められない。悟ったうちに入らない」ということです。
 なぜなら、「何ゆえに自分がいまここにあるか。なぜこうした生き方をしているか」ということを看破できなければ、悟りとは言えないからです。
 現代という時代の意味や、現代に自分が生きていることの意味が見えなければ、悟ったとは言えません。「百年前や五百年前、あるいは一千年前の悟りと、現代の悟りが同じであってたまるか」ということです。少なくとも、現時点における最高のものをつかみとらなければならないのです。
 そのためには、人類の智慧として集積されたものを謙虚に学ぶことです。やりたいようにやるだけという人は、一万年前にも十万年前にもいましたが、そうしたあり方ではなく、「現時点で、何を考える材料として行動するか」ということが大事なのです。
 悟りのために必要な最低条件の二番目は、愛他・利他の実践です。
 これに気づいている人は、ほんとうに少ないのです。みなさんは会社や地域社会などで数多くの人と接しているでしょうが、愛他・利他の思いを持ち、人のために行動することをもって喜びとしている人、自然に手や身体が動き、言葉が出るという人が、いったい何割いるでしょうか。
 確かに、それらしくふるまう人たちはいます。しかし、そうした人たちのなかには、実際は自分のためにやっている人がかなり多いのです。そうではなく、「人を愛することが自分の仕事だから、それが自分の生まれつきの性質だから」というような人に、どれだけ会えるでしょうか。
 そうした人が出ることが仏の願いなのです。ならば、自分をそのように変えていかなければなりません。それしか道はないのです。
 ほんとうに他の人のことを考える人が地上に満ちたならば、それはユートピアそのものだということです。ぜひともそのようにしていきたいと考えます。
(69~73ページ)

悟りのために必要な最低条件の第一は、仏法真理の正しい知識を獲得すること。

百年前、千年前の悟りと同じではない現代の悟りのために、今という時代や今自分が生きていることの意味を知るためにも、これまでに集積された人類の叡智、そして仏法真理を謙虚に学びつくすこと。

第二に、仏の願いである愛他・利他の実践ができるように自分を変えていくこと──。

少しでも悟りに近づいて、ほんとうに他の人のことを考えることができる、愛他・利他を実践できる自分になっていくこと。

地に満ちるそういう人々の一人に、確実に自分がなっていくことこそが、ユートピアをほんとうにつくっていくための大切な第一歩なのだと、改めて私は理解できた気がしているのです。
 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著


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この不況の時代、クリエイティブな人間でありたいよね。どうすればいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、1989年に発刊された書籍『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は、みなさんが独創的になっていくために、どうしても必要な条件を伝授しておきたいと思います。
 それは、まず第一に、「かならずや世の中にとって、有用な人間、有益な人間になりたい。」という願いをもつことです。この願いなくして、独創性は生まれることはありません。
 独創性が子供の遊びとちがう点、幼児の砂遊びとちがう点はここにあります。世の中のためになる、役に立つことをしてみたい、そういう強い願いです。この願いが強い人ほど、本来的に魂の格が高いのだと言うことができます。強い願いをもっている人は幸いなるかな、と言えるのです。
 第二に、ぜひとも言っておきたいことは、どうか現在ただ今における自己実現というような、そんな小さな考えは持たないことだということです。自分に後れてくる人たち、後世の青年たち、多くの人びとに何らかのプレゼントをしたいという、そういう気持ちをもっていただきたいということです。
 自分の努力によって、自分が報いられるだけであるならば、それはごく平凡な行為だと私は思います。しかし、自分の努力が自分に返ってこないで、次なる人、さらにその次なる人へとわたっていくということは、これはそれ自体で崇高な思いであると思うのです。この世にいて、この世ならざる思いであると思うのです。
 どうか、汗は自分で流して、その結果を多くの人びとの幸福になるように、とくに後に来る人びとのためになるように考えていただきたいと思うのです。
 第三番目にあげておきたいこと、それは鉛が変じて黄金になるためには、どうしても高貴なる沈黙の時間が必要である、ということなのです。ほんとうに、独創的な瞬間、人びとは寡黙であります。ほんとうに、人類の知恵を生み出す瞬間、人びとは寡黙であります。高貴なる沈黙の時間のなかにおいて、知恵という名の子供が生み出されるということを知ってください。
 したがって、独創的たらんと欲する人は、努力して沈黙の時間をとることです。そのなかに、みなさんの魂が変化していく瞬間があるのです。
す。
(205~206ページ)

独創的(クリエイティブ)になっていくための条件は、第一に、かならずや世の中にとって、有用な人間、有益な人間になりたいという願いをもつこと。

第二に、後れて来る青年たちに、何らかのプレゼントをしたいという気持ちをもつこと。

第三に、努力して沈黙の時間をとること──。

これからの時代に、とても大切なことを教えて下さっていたのではないかと改めて思います。


特に、三番めは、自宅でむずかしければ、幸福の科学の精舎や支部精舎など足を運んで、「瞑想」するのがよいのではないかと私は思っているのです。

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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私って、仏法真理をよく勉強してるし、ときどき精舎に行って研修受けるようにしてるんだから、忙しい毎日は、特に反省なんてしなくていいよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 雑巾は、白いタオルなどを縫ってつくるわけですが、床を何度も拭いたりしているうちに黒くなってきます。これが、だいたい、何十年か生きてきた人間の状態なのです。二十代、三十代、四十代、五十代、六十代……と進むにつれて、色がだんだん深く染まってきます。雑巾も、長く使っていると、洗濯機で洗ったぐらいでは、汚れがなかなか抜けなくなるでしょう。それと同じように、だんだん自分に色が染み込んでいくのです。しかし、もともとは真っ白なものなのです。(中略)
 真っ白い雑巾であればこそ、それで拭くと、机やテーブルがきれいになるのです。ところが、汚れた雑巾で拭かれると困るでしょう。拭くと逆に汚くなるのであれば、御飯が食べられないでしょう。それと同じようなことなのです。
 雑巾の話であればわかるでしょうが、毎日の日常生活でも同じようなことがあるのです。たとえば、いつも不平不満に満ち満ちていて、ご主人の顔を見れば悪口を言う奥さんがいたとすると、ご主人にしてみれば、それは、毎日、帰ってきて夜の食卓を囲むたびに、雑巾で顔を拭かれているのとまったく同じ状態なのです。(中略)
 人間として生きている以上、みなさんは毎日毎日、誰かと必ず関わり合いを持って生きているのです。したがって、ある意味においては、日々、まわりの人を汚染している可能性だってあります。もし、みなさんが発信しているものが悪ければ、まわりの人を汚染しているのです。その考え方、その思いによって、その言葉、その行動によって、まわりの人びとを汚していることも現実にはあるのです。
 そうすると、他の人との関わり合いにおいて、まず大事なことは何でしょうか。それは自分自身をきれいにすることです。ここから入らなければいけません。まず雑巾をきれいにしなければ、「人のためを思って、私は一生懸命に廊下を拭きました」といくら言っても、廊下はきれいになっていません。汚れた雑巾で、食事前にテーブルを一生懸命に拭いたところで、実はきれいになっていないのです。それと同じです。(中略)
 このように、世の中をよくしていこう、あるいは他の人をよくしていこうという思い自体は尊いものであっても、他の人びととの関わり合いの出発点である自分自身が、もし非常に濁ったものであったならば、他の人びとにも悪い影響を与えることが当然あるのです。そうしてみると、毎日毎日、掃除や洗濯が必要なように、自分自身の心の洗濯が必要なのです。
 それは、秋になると、毎日毎日、庭に木の葉が落ちてくるのと同じです。「まとめて落ちてくれ。そうしたら、月に一回、掃除するから」と思っても、そうはいきません。毎日毎日、パラパラ、パラパラと庭に落ちてきます。それと同じように、毎日毎日、心に積もるものを掃除していく必要があるのです。
(154~157ページ)

心に積もるちりやほこりは、言ってみると、庭に落ちる落ち葉と同じ。

昨日、掃除しても、今日はもうパラパラと落ちている。こちらの都合でまとめて掃除したくとも、そうはいかない。

この落ち葉を掃除する「反省行」をしないで、世の中をよくしていこう、他の人をよくしていこうと活動していっても、じつはそれは、汚れた雑巾で一生懸命掃除しているのと同じことになる──。

自分は仏法真理を勉強したと思っている人ほど、意外に反省行をさぼりがちなのかもしれません。

しかし、いくら面倒であっても、地道に毎日少しずつ、その日ごとの反省をして自分自身の心をきれいにしていくことが大切だってこと。

そうであってこそ、世の中をよくしていこう、他の人をよくしていこうという思いや活動が、本当に効果的なものになっていくってことなんだと改めて理解できた気が私はしているのです。
 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著


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民主主義って、みんなで自由に話し合って、投票して、多数の意見が通る仕組みでしょ。神とか仏がこう言ってるというのが至高の価値だっていう宗教とは、そもそも相いれないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 民主主義の大国であり、その発祥の地とも言われ、その最大の繁栄を誇ったアメリカであっても、その民主主義の源流はどこにあるかと言うと、それは、メイフラワー号によってイギリスから渡った清教徒(ピューリタン)たちの考えから始まっているのです。彼らは神の子としての使命に燃えて、理想的な新世界をアメリカに創ろうとして、自助努力の精神を忘れずに建国しました。そして、丸太小屋のなかから出てきたリンカーンのような指導者でも是(よ)しとするような、素晴らしい国家が生まれてきたわけです。
 もちろん、アメリカがいま退廃期に向かっていることは周知の事実ですが、民主主義には、その発祥の地において、その発祥の時において、道徳的基盤、精神的基盤、倫理的基盤というものが確固としてあったということを忘れてはなりません。
 さらに、二千数百年の昔にさかのぼってみるならば、ギリシャの時代に是しとされた民主主義はどうだったでしょうか。当時の民主主義社会においては、神を否定する者など一人もいませんでした。当時は、デルフィーの神殿があった時代です。神と民主主義が共存していた時代だったのです。
 では、神と民主主義が何ゆえに共存できたのでしょうか。民主主義というものは、一人ひとりの持っている才能やエネルギーといったものを最大限に開花させるという、素晴らしい面を持っているわけです。最大限に開花する繁栄主義とも言い換えることができるこの民主主義は、その方向性がひじょうに大事なのです。
 その方向性とは、いったい何でしょうか。その方向性こそ究極の理想であり、それは「神の理想」です。神の理想を地上に実現し、神の国を建設するという目的のもとに、民主主義は最大の開花を迎えるのだという歴史的事実を、忘れ去ってはなりません。
 戦後四十数年間、日本人はそのことを忘れてきました。民主主義とは投票型民主主義のことであって、多数の意見が通るというだけの形式的民主主義だと思いがちです。神も仏も否定し、政治の崇高さも否定し、ただ数の原理を求めてきたということは、ギリシャの時代の末期に起きた衆愚政への転化が、すでに始まっているということです。
 民主政が衆愚政に転化する契機は何でしょうか。理想を失って、個人が自分の欲得や利益のために奔走しはじめるときに、それは衆愚政という最も醜いものへと転化するのです。その危険がすでにアメリカには出ています。日本にも出はじめてきました。このようなものは本当の民主主義から離れているのです。
 民主主義というものは、優れた人びとが、理想実現のもとに力を合わせてがんばってこそ、起業家精神や倫理的精神を持って理想社会を築かんとするときにこそ、最大の成果を上げることができます。しかし、各人が自分の欲得のために走っているときに、その多数の意見が全体の意見になるならば、まさしくこれは、独裁者に支配される全体主義の前兆とも言うべき大衆支配制の始まりとなるのです。民主主義体制をつくっている一人ひとりは、目覚め、理想に燃えた人たちでなくてはならないのです。(中略)
 根本の精神というものを、道徳的基盤というものを、倫理的精神というものを持った人たちが、努力し、競争し、そして発展してこその民主主義社会であるということを、もう一度、振り返らなければなりません。
(260~263ページ)

「民主政」と似て非なるものに「衆愚政」がある。

神の理想を地上に実現し、神の国を建設するという目的のもとに、民主主義が最大の開花を迎えたのが民主政。人々が理想を失って、個人が自分の欲得や利益のために奔走しはじめたときに、衆愚政に陥る。

民主主義の発祥の地である古代ギリシャはもちろん、民主主義の大国であるアメリカ合衆国も、じつは宗教を背景にして繁栄・発展した国であることが見逃されてはならない──。

大衆へ人気取りの政策をばらまいて、数の力だけで政権を奪う争いをしているというのは、もはや日本は衆愚政へと転落しているのではないでしょうか。

明日は、統一地方選の投票日ですが、地方議員をすでに20名以上も擁する「幸福実現党」という政党が、今回の選挙でも全国で数多くの候補者を擁立して選挙戦を戦ってきました。

現代日本の政治の頽廃を救い、この国を支える根本精神、道徳的基盤を持った人たちによって政治の世界を変えていくために、すでに幸福の科学は、10年にわたって活動し続けていること、そしてその考え抜かれた政策を、一人でも多くの方に知っていただけたらと私は思っているのです。

 

『人生の王道を語る』

 大川隆法著

 

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悟りって、個人的なものだから、独りでやってればいいんじゃないの。先生についたり、教団に入ったりする必要なんてないし、悟りを広げなきゃいけないって話に、なんでなるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悟りについては、「山のなか、洞窟のなかで、独りで修行して悟る」というかたちは確かにありえます。これは、仏教的には「辟支仏(びゃくしぶつ)」「独覚(どっかく)」といわれるもので、「独り悟り」です。先生に就いたり、仲間と修行したりせず、独りで、山林のなかで修行して悟るタイプです。
 こういう人のなかにも、仙人として立派な人はいるでしょう。ただ、そういう人は、あくまでも独り悟りで終わっており、社会に対する影響力はありません。
 「独り悟って、独り死ぬ」ということで、悟ったかもしれないし、悟らなかったかもしれないのです。ほかの人の目はまったく介していないので、個人の満足のレベルです。なかには、非常に高い悟りを持った人もいるかもしれませんが、いかんせん、他の人には分かりません。「山のなかの洞窟で悟った」と言っても、それを見た人も聞いた人もいないわけです。影響力もありません。
 他の人の目や耳を通さずに、「自分は悟った」と称する人は、自分では高い悟りを得たつもりでも、往々にして独り悟りであり、唯我独尊的になっています。「唯我独尊」は、本来、仏教的にはよい意味で使われる言葉ですが、この場合は、この世的な意味における唯我独尊です。「我のみ尊し」で、実際はまったく役に立たないことをしていることもよくあるのです。この辺は充分に戒めなければいけません。
 釈尊自身も、独りで修行をした時期は六年近くあるわけですが、ただ、大悟して以後は、「悟りを弘める」ということに対して非常に熱意を持っていました。その熱意を実現するために釈尊が教団を組織したということは、厳然たる事実として遣っています。
 出家者の数については、さまざまな説がありますが、少なくとも千人以上の出家者がいたことは確実であると言ってよいでしょう。
 経典には、よく千二百五十人という数が出ています。これは一定の数え方によってそうなっているわけですが、実際には、いろいろなかたちの出家者がいたでしょうし、出家に近い在家の人もいたでしょうから、明確には数えられません。しかし、少なくとも、布施で生活しているプロの出家者が千人以上いたことは確実だと思います(拙著『太陽の法』〔幸福の科学出版刊〕第4章では、晩年、五千人を超えるとする)。
 そして、千人が一カ所にいたのでは生活が少し厳しいので、何カ所かに拠点を分け、そこで修行し、伝道していました。マガダ国とコーサラ国に、それぞれ竹林精舎と祇園精舎という二大拠点を持ち、それ以外にも、幾つかの拠点を持っていました。そこを根城にして、修行をしつつ、伝道をしていたのです。(中略)
 仏教の本師である釈尊の行動パターンを見るかぎり、独りで悟りを追求する面はあくまでもありますが、ただ、組織を介して多くの人々に法を弘めようとしたことは、厳然たる歴史的事実であって、「一生、山のなかの洞窟で暮らすだけでよい」という考え方ではなかったことは間違いありません。
(144~147ページ)

2500年前にインドの地で仏教を創始して世界に広めた釈尊(仏陀)は、6年間、独りだけで悟りを追求して悟りを開いた。

けれども、それ以降、教団を組織して出家者を何千人も受け入れ、伝道活動を行なっていたというのは、現代まで伝わる仏典に書き残された、歴史的な事実である──。

先日の記事でも出てきた話ですが、自分を磨きながら熱意をもって他の人々をも導いていくというのが、歴史的にみた仏教教団のあり方でした。

そしてそれは、現代日本における幸福の科学においても、まったく同様であり、それこそが真実の宗教のあり方なのだと私は思っているのです。
 

『大悟の法』

 大川隆法著

 

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死ぬのって怖いよね。死んだら、焼き場で焼かれて、なにもなくなっちゃうんじゃないの。もしかして、あの世があっても、地獄なんてのに堕ちたら、どうなるの。怖くて怖くて、考えただけでも、夜、眠れなくなるよね。どうしたらいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 死後の世界を恐れる場合には、主として二種類あると思います。
 第一は、「自分が死後にどうなるのか分からない」という恐怖です。第二は、あの世があることは知っていても、「地獄に堕ちるのではないか」「自分がどのような世界へ行くのか分からない」という恐怖です。
 第二のタイプについては、死後の世界の見取り図をしっかりと知っておくこと、知識的に詰めておくことが大事だと思います。
 一方、第一の「自分が死後にどうなるのか分からない」というタイプの人、あるいは、「死ねば何もかもおしまいになる」と考えている人に対しては、「あの世があると考えた場合と、あの世はないと考えた場合と、どちらがあなたにとって幸福ですか」と私は言いたいのです。
 仮に、あなたがいま四十歳で、平均寿命まで、あと三十五年あるとしましょう。「これから三十五年間いろいろなことをして、七十五歳で死ぬと、火葬場で焼かれて、ひとにぎりの骨と二酸化炭素だけになり、自分が生きた証拠は何もなくなってしまう」という思想が、それほど幸福な考え方でしょうか。
 そうではなく、「特定の名前を持って生きた人間の魂が、そのエネルギーが、死後も永遠に生きつづける」と考えるほうが幸福ではないでしょうか。
 もし人間は死ねば何もかも終わりになるのならば、この世の道徳も哲学も宗教も、すべて不毛なものとなってしまうでしょう。あなたは何のために、己の人格を磨いたのでしょうか。何のために勉強し、汗を流して働き、努力して良好な人間関係をつくったのでしょうか。何のために、一生懸命に生きてきたのでしょうか。
 死によって何もかもなくなってしまうのならば、人生はまったく虚しいものにすぎないではありませんか。人格を磨くことなど意味がなく、努力して一生懸命に勉強し、人格の向上を目指す必要などありません。(中略)
 どちらの考え方が、ほんとうの幸福につながるでしょうか。「この世で努力して身につけたものは、死後の世界に持っていくことができる。死後の世界において、自分の人格が生きつづける」と思えばこそ、努力することに意味があり、その努力が素晴らしく思えるのではないでしょうか。
 「死ねば何もかもなくなってしまう」と考えるか、「死後も人格は残る。一生懸命に努力していれば、死後も素晴らしい活躍が続けられる」と考えるか──。
 あなたはどちらに賭けますか。どちらに賭けたほうが、あなたは幸福になれると思いますか。
 死後の世界があることについて、私ははっきりとした証拠を持っています。死後の世界があることに賭けたほうが、あなたにとって幸福な人生となることは間違いありません。
 自分にとって、どちらの考え方に幸福があるかをよく考え、受け入れるべきものは受け入れ、冷静に知識的な学びを行なっていくことが大事だと思います。
(274~278ページ)

死後の世界は、あるかないかのどちらかである。

大川隆法先生は、あると断言し、これを信じることの幸福を保証して下さっています。

このお言葉を信じるのが幸福か、信じないで、死ねば何もかもなくなってしまうと思っているのが幸福か。

答えは明らかですよね?

そうそう、死ぬのが怖い第二のタイプ、あの世があるとは思っていても、地獄が怖いなどと思ってる方に対して、大川隆法先生は続いて、こうも説いておられます。

 ほんとうの世界を知り、「どのような生き方をすれば、どのような世界へ行くのか」ということを知っていれば、死後の世界を恐れる必要はまったくありません。死後を恐れる必要があるのは、罪深い生き方をし、反省や悔悟の意味を知らなかった人だけです。そうした人の仲間に入らないように、立派な生き方をしていただきたいと思います。
(278ページ)

だからこそ幸福の科学は熱心に、「どのような生き方をすれば、どのような世界へ行くのか」を教えている。

そして、反省の意味を教え、仏神の喜ばれる「愛を与える」生き方の意味を教えている。

その理由が、改めてしっかりと腑に落ちてきた気が私はしているのです。

 

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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一生の不覚だよね。毎日毎日、虐げられ続けてて、結婚相手を間違ったんじゃないかと思うんだ。今まで我慢してきたけど、もう我慢も限界で、いっそ離婚しちゃおうかと思うんだけど、どう考えたらいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そして、生まれ変わりのシステムをつぶさに研究すると、どうやら人間は、この世に生まれ変わってくる前に、今世の魂修行の課題ともいうべきものを明確に決めてきているらしい、ということがわかってきました。
 過去の何回かの地上経験を経て生きてきた時に、その方が卒業できなかったこと、そのままでは合格ではなかったと言われるところを、同じような環境においてもう一度試されることもあれば、まったく逆の環境において試されることもあります。
 そして、魂は、通常、男性霊は男性霊として生まれ変わり、女性霊は女性霊として生まれ変わりますが、時折、男女が入れ替わって生まれ変わることが事実としてあることも、私は突きとめています。
 たとえば、女性の方であれば、今世で、夫、あるいはそれ以外の男性から、「なぜ、こんなに虐げられる生き方をしなければいけないか」というような、ほんとうにつらい一生を送られることがあります。そういう仕打ちをした男性は、カルマという、その人の魂が背負っている宿題を持ってあの世に還ることになりますが、その男性がそのカルマを刈り取るのには、二通りの方法があります。
 一つは、もう一度、同じような魂の方と、夫婦なら夫婦、友人なら友人、知り合いなら知り合いになって、似たような環境で過ごすということがあります。前回と同じように、たとえば、その女性をいじめる人生を生きるか、それとも、今度は心を入れ換えて、見事に調和された夫婦生活、あるいは友人関係を持つか、それを試される場合です。
 もう一つ、まったく逆のケースとして、そうした男性が、今度は女性として生まれ変わってくるということもあります。そして今度は、逆に男性に意地悪をされるような立場を経験することもあります。(中略)
 人間は、ある時には王様に生まれ、ある時には乞食に生まれるようなこともあります。今世の人生において、たとえどのような環境下に置かれようとも、すべて魂修行の一環であるという観点を忘れてはならないのです。(中略)
 その時に、あの世で自分が、そういう計画をして生まれてきたことを忘れて、今世のみの幸・不幸を捉えて、親を恨んだり、友人や先生を恨んだり、あるいは環境を恨んだり国を恨んだりする人がいますが、これは間違いなのです。
(93~102ページ)

人間は、この世に生まれ変わってくる前に、今世の魂修行の課題を明確に決めてきている。

たとえば、女性を虐げた生き方をした男性は、そのカルマを刈り取るために、今度は女性として生まれ変わって、逆に男性に意地悪をされる立場を経験することもる。

今世、どのような環境下に置かれようとも、それはすべて魂修行の一環であるという観点を忘れてはならない──。

過去の転生がどういうものだったかは、私たちには分かりません。

しかし、幸福の科学では、「人生は一冊の問題集である」と教えられています。

今の自分の置かれた環境は、すべて魂修行の一環なのだ、自分に与えられた今回の人生の大切な問題なのだという視点で捉えてみたとき、いま直面している課題の真の意味が見えてくることがあるのだと思います。

そして、むずかしい問題を解こうとするときはつらいものですけれども、仏法真理を学ぶことで、この問題に真正面から取り組んでみたとき、必ずや回答は与えられるものだと思います。

幸福の科学の布教誌には、毎号、数多くの信者が、仏法真理を学ぶことでどうやってこの問題集の回答を得たかが紹介されており、これを、公式ホームページで検索して読むことができます(たとえば、「家庭内暴力」で検索してみると、いくつかの体験談が学べます)。

オススメです! 



『宗教選択の時代』

大川隆法著

 

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とってもむつかしい学校に合格して、入学できたんだ。親もものすごく喜んでくれてるし、これで、これからの人生、大成功まちがいなしだよね? なーんて考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 さらには、「若い時期にあまり成功しすぎると、むしろ慢心する危険も大きい」ということを知っておいてほしいと思います。
 若いころにあまり成功すると、それで天下を取ったような気になるのですが、何十年か経って振り返ってみると、「井のなかの蛙であった」ということがわかります。若いころというのは狭い範囲での競争であって、そのなかにおける勝者か敗者かであったのです。
 しかし、もっと大きな範囲に出ると、全然違った基準が出てきます。若いころは、これがわからないのです。
 むしろ、若いころに「失敗した」と思い、心を入れ替えて努力している人は、道が開けます。若いときに「勝利者だ」と思っていた人のほうが、実はあとが怖いという感じがします。そうしたことを知っておいてください。
(41~42ページ)

「若い時期にあまり成功しすぎると、むしろ慢心する危険も大きい」──。

入試のシーズンも終わり、入学式で新学期がはじまりましたが、今日は受験で大成功できた若者に対する、大川隆法先生のちょっと厳しめのメッセージです。

もちろん、これまでの地道でものすごい努力があったからこそ、受験に成功できた。

それはそうで、その努力は讃えられるべきではあるんだけれども、でもその成功は、慢心の危険と裏腹の関係にある。

ここでの成功は、まだ天下をとったというわけじゃなくって、これからのさらなる努力の出発点なんだってこと。

そう思い至って、また新たな環境で地道に努力を重ねて行ける人こそが、真に人生の成功者になれるのだと私は理解しているのです。 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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寝てるときに、よく金縛りにあうんだ。どうしてこんなことあるんだろう。どうやったら、そのとき逃れられるの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 うなされるほどの悪夢を見る場合では、悪霊がやってきていることが多いと思います。また、金縛りにあって、寝ていて体が動かなくなったり、胸を押しつけられたりするような感じがするときにも、現実に、悪霊が、いろいろ、ちょっかいを出しに来ていることがあります。
 夜中に金縛りにあったときに、それから逃れる方法について述べましょう。(中略)
 まず、これは祈りの領域になるでしょうが、幸福の科学の会員の場合の定石は、心のなかで、「真理の言葉『正心法語』」「主への祈り」「悪霊撃退の祈り」「守護・指導霊への祈り」(幸福の科学会員限定経典)などを唱え、私や当会の支援霊団、みずからの守護霊に助けを求めることです。
 それから、いちばんよいのは、もし手が動けば、電灯を点け、点けたまま寝ることです。室内が暗いと悪霊が采やすいので、電灯を点けてみるのです。
 あとは、私の法話のCDやカセットテープなどをかけてみてください。そうすると、悪霊は、ものすごく嫌がり、逃げ出します。普段から悪霊に憑依されている場合には、これで、よく眠れますし、その夜、たまたま悪霊が襲ってきている場合でも効果があります。そういう方法もあるでしょう。(中略)
 それから、呼吸法も一つの手です。体が動かず、どうしようもないときには、自分の精神を取り戻すために、とりあえず、息をしてみる、呼吸をしてみることです。
 寝たままでよいので、丹田(へその下あたりの下腹部)を使っての呼吸を行い、とにかく新鮮な酸素を体内に送り込みます。息をしてみて、この丹田呼吸が何回かできたら、不思議ですが、悪霊は離れるのですね。
 これは呼吸法の秘訣の一つなのですが、呼吸をするとき、同時に光が入るのです。そうすると、悪霊が浮いて、体から離れます。あるいは、悪霊が締めている手が離れるのです。この瞬間に自由になれます。
 このように、「呼吸法で逃れる」という方法もあります。
(96~98ページ)

金縛りは、悪霊が来ていることが原因であることも多い。

金縛りで体が動かなくなった場合には、まずこれから逃れるために、幸福の科学の会員がいただいている経文を唱えて、主エル・カンターレや支援霊団、そして自分の守護霊に助けを求める。経文がなくとも、呼吸法を行なって、体に天上界の光を入れる。

体が動くようになったら、電灯をつけて、寝室を明るくしたままやすむ。その際、大川隆法先生の御法話をCDやカセットで流して、寝室の波動を調える──。

電灯をつけるというのは、幸福の科学の信者でない方も知っておいて損はない方法ですが、ほかにもいくつか、信者でない方も試せる方法が、本書には紹介されています。

〝金縛りは脳の作用だ″とか書いたりしている有名人もいるようですが、それでは具体的な対策などたてようもありません。

実は、ほんとうに霊的世界があることを前提にして対策をたてれば、こんな不思議な現象であってもぜんぜん怖くないことを私は確信しているのです。 

心と体のほんとうの関係。―スピリチュアル健康生活 (OR books) 『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

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オレって、勉強できたし、いい学校出たのになあ。なーんでこんなに出世してないんだろ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生の経験、人生の勝敗に関することについては、ほとんどの人が素人です。それについて研究し尽くしている人など、あまりいないものです。研究し尽くしている人は失敗もしないでしょうが、普通、九十何パーセントの人は素人なのです。そのため、各人が、それぞれの初めての体験でつまずくのです。
 したがって、そういう場合、まず知っているということは大事なことなのです。
 知るためには、どうしたらよいでしょうか。一つには、活字で読むという方法もあります。もちろん、テレビなどを観て情報を得るという方法もあります。あるいは、映画を観たり、小説を読んで勉強したり、人の話を聴いたりというように、いろいろな方法があります。
 まずは、自分の迷っている事柄に対する判断を与える根拠、それを判断するための材料が要ります。知っていれば失敗しないのです。
 特に、学校の勉強などがよくできても人生に成功していない人を見ていると、そのほとんどは、人生の悪についての知識が足りません。
 そういうことについては、文部科学省の指導要領に、まったく載っていないため、正当な学問をやっただけでは、「世の中では、こういうことをしたら失敗する」「世の中には、こういうことを考えている人がいて、その人によって、あなたは失敗させられる」「あなたは罠にはめられることがある」というような、人生の悪、あるいは苦しみ、挫折、迷いなどについての知識は、実は入らないのです。
 運よく、そういう危険に遭わずに、よいルートに乗って、スーッと上がることができれば楽ですが、そうでなかった場合には、そのような、人生における悪との対決があります。
 これに対しては、「知っている」ということが徹底的に強いのです。「こういう場合に、こういう人は、こういうことをする」「こういう場合に、人間は、こういうことをする」というようなことを知っていることが大事です。(中略)
 これについては、活字で読むだけでは無理かもしれません。やはり、他の人の人生体験や経験を、いろいろ聴いておかないとだめです。そういう、人生の悪についても知らなくてはいけないのです。
 善をなそうとする人は、悪についても知ることが必要です。悪に対して戦う力を持っている人は、やはり、善においても強いのです。
(180~184ページ)

あなたは、学校では教えてくれない人生の悪について、知識を入れたか。

いろいろな人生模様の小説を読んだり、テレビや映画を見たり、他の人の人生体験をいろいろ聴いたりして、学校の成績に関係はない勉強をしたか。

善をなそうとする人は、悪についても知ることが必要である──。

善をなそうとするよき性格の人で、悪を自分から見たいという人は少ないでしょう。

でも、その人も、あえて悪の実態を知ることで、悪と戦う力を持つことになり、よりよく善をなしていくことができると、大川隆法先生はここで教えておられるのだと思います。

要は、実社会で成功したい人は、学校の勉強は当然の前提として、いわゆる「社会勉強」も必要であって、それも人生における大切な「勉強」であるのだと、改めて私は理解できた気がしているのです。 

『幸福の法』

 大川隆法著

 

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大災害だって、経済恐慌だって、あるじゃない。いくら自分だけ心清く正しく生きていても、どうしようもない出来事に巻き込まれることってあるでしょ。それもぜんぶ自己責任だっていうのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 もちろん、業(ごう)においては個人責任は当然の問題ですけれども、社会全体、人類全体というような、大勢の人々の共通の運命のようなものもあります。大きな戦争のときには、個人個人は正しく生きていても、そこから逃れることはできない、というような運命があります。これを「共業(ぐうごう)」といいます。これに反して、個人の業のことを「不共業(ふぐうごう)」といいます。
 「環境や社会や時代のせいではないと言いつつも、実際には共業というのがあるではないか」「自分は人を殺したくなくても、戦争が起きたではないか。どうしてくれる」「自分は、一生懸命、事業をしているのに、経済不況が来たではないか」──そういう考えもあるでしょう。
 ただ、これも結局は、人間というのは個人独りだけでは生きられるものではないということです。ロビンソン・クルーソーのように、孤島に独りで生きるわけではないし、みんなで共同生活をしているわけです。それぞれの人が「重重無尽(じゅうじゅうむじん)」の縁起のなかで、お互いにつながって生きているのだ、ということを考えなければいけません。
 そう考えると、社会が悪いとしても、その一端を担っているのは自分でもあるわけです。ですから、自分自身の個人修行はあくまでも大切にしていくわけですけれども、自分がかたちづくっている共同体、その社会や国家自体が悪い場合には、その一員として世の中をよくしていくために、「自分も何かをしなければいけない」という気持ちを、常に持つことが大事です。
 ですから、共業そのものの悪い傾向を解消するためには、やはり光の仲間を増やしていくことこそが正道であるわけです。
 そのためには、どうしたらよいか。それは仏法真理を一人でも多くの人に伝えることです。それも、真心を込めて、熱意を込めて、一人ひとりに仏法真理を伝えていくことです。
 それが、やはり、多くの人々の共通の運命としての共業が、不幸な方向に向かっていくのを救うことであると思います。(中略)
 個人個人が自分の心を正すことは大事なことです。しかし、「個人個人が自分の心を正していって、その流れが全体に広がったときに、全体の運命をも変えていけるのだ」ということを教えることもまた、大切な大切な修行であると思うのです。
 ですから、「利自即利他(りじそくりた)」──自分を磨きながら他の人々をも導いていく──それこそが真実の宗教のあり方なのだということを、どうか深く悟っていただきたいと思います。
(258~261ページ)

「業」(カルマ)」というものを考えると、自分の運命は、自分自身に責任があることが多い。

でも、一緒に同時代に生まれてきた人々の共通の運命のようなものがあって(「共業」)、それは単純に個人の責任だというわけにはいかない。

この共業をよい方向にもっていくためには、仏法真理を一人でも多くの人に伝えて、光の仲間を増やしていくこと。

「個人個人が自分の心を正し、その流れが全体に広がったときに、全体の運命をも変えていける」という福音を伝えること──。

自分を磨きながら他の人々をも導いていくというのが、幸福の科学でよく教えられる「利自即利他」の意味でもあって、それこそが真実の宗教のあり方なのだと、改めて私は感じいっているのです。

 

『心の挑戦』

 大川隆法著

 

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「タイムベース・マネジメント」って言葉を聞いたことがあるんだけど、時間が経営にどう関係があるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 時間は有限の資源です。誰にとっても二日は二十四時間であり、組織で働いている人たちの時間を総計しても、人数分以上に増えるものではありません。
 しかし、発展性の高いものは、どれもみな、常に、「どのようにして時間を縮めるか」というところに視点があります。時間を縮めることによって発展するのです。
 たとえば、新幹線ができたことによって、日本のGDP(国内総生産)がそうとう膨大なものになったのは事実です。それは、一日にできる仕事の範囲が非常に広がったことを意味しています。東海道を寝台車で下らなければならなかった時代、あるいは、歩いていかなければならなかった時代に比べて、GDPが増大した理由は、移動の時間が縮まったことにあるのです。
 また、季節商品というものがありますが、「夏のもの、夏の商品は、夏になったらつくる」ということだけならば、一年のうち、あとの季節は手が空いている状況になります。「一年のうち、夏にしか生産活動や販売活動を行わない」という考えもあるかと思いますが、夏のものであっても、冬のあいだにつくることのできるものもあります。
 たとえば、「アイスクリームは夏につくるもの」と考えているかもしれませんが、冬につくって、それを保存しておいてもよいわけです。こういうこともありえます。
 時間の観点で行うと、いろいろなことが変化してきます。
 「どのようにして時間を縮めていくか。どのようにして仕事速度を速めていくか。成果を出すまでの時間を、どのようにして速くするか」ということは、主として、次の成果を生むためのプロセスになります。一つのことが解決しないと、なかなか次のことには取りかかれないものですが、時間の部分を縮めると、それだけ早く次の仕事に取りかかれるのです。
 究極の「タイムベース・マネジメント」は、「一日の苦労は一日にて足れり」ということです。「一目一生」という言葉がありますが、「その日のうちにできることは、その日のうちに全部やってしまう」ということです。
 これは大事なことであり、「時期が来なければ働かない」「ほかの事情があってできないので、きょうはしない」などということは、「タイムベース・マネジメント」から外れていることなのです。
 「いかにして時間を縮めていくか。いかにして、やり方を短縮していくか」ということが大事です。時間を縮めることは、同時に、時間を生み出すことになります。たとえば、ある場所へ行くのに、新幹線なら三時間かかるけれども、飛行機なら一時間で着くとすれば、二時間分を余分に働けるようになるわけであり、その分の時間が生み出されたことになるのです。
(56~59ページ)

時間は有限の資源である。

どのようにして時間を縮めていくか、どのようにして仕事速度を速めていくか、どのようにして成果を出すまでの時間を速くするか。

これが、いかなる組織の仕事においても大切である──。

「タイムベース・マネジメント」なんて聞くと、なかなか難しくて頭に入って来ない気もします。

でも、「一日一生」、「一日の苦労は一日にて足れり」と説かれると、宗教を学ぶ者としては、逆によく分かる気もします。

要するに、「いかにして時間を縮めていくか。いかにして、やり方を短縮していくか」ということを常に考えていくことが大切ということだと私は理解しているのです。

 

『リーダーに贈る「必勝の戦略」』

 大川隆法著

 

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