ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



悪魔って言葉を聞くことがあるんだけど、そんなの、ほんとうにいるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 肉体生活に基づいて、心と肉体の調和が妨げられることによって、魔が立ち現れてくるような現象に見舞われることも真実ですが、いわゆる三次元世界を超えた霊界において、魔と言われる霊的存在がいることも事実なのです。この両方が、実際はほんとうにあるのです。
 主体性を持って生きている人間としての自分に原因があって、魔を引き込むという現象を、「己心の魔」といいます。己れの心のなかに住んでいる魔です。
 要するに、自分自身の心と肉体の不調和という、魔に同通する原因が己れ自身の心のなかにあることも真実ですが、それに呼応するかたちで、まるでカンテラに相照らすかのように、外部から、すなわち四次元の霊界(地獄界と言ってもよい)から、迷いを増幅させ、悟りを開こうとしている者を迷わせ、狂わせようとする現実の勢力があることも事実なのです。私はこれを発見しました。
 また、通常の人間であれば、心が迷ったり苦しんだりしたときに、不成仏の死者の霊、悪霊が取り憑いてきて、その人の身体をもっと悪くさせるとか、あるいは神社仏閣巡りをしていて、狐、狸等の動物霊に憑依されるというような現象はよくありますが、仏道修行をしている人、「悟りを開こう。宗教的指導者になろう」と心がけている者のところには、「悪魔」と言われる、それ相応のものが現われてくるという現象が現実にあります。
(237~240ページ)

人間としての自分に原因があって、魔を引き込む現象を、「己心の魔」という。

そして、それに呼応するかたちで、四次元霊界(地獄界)から、迷わせ、迷いを増幅させ、狂わせようとする勢力がいるのも事実である。

仏道修行をしている人、悟りを開き、宗教的指導者になろうと心がけている者のところには、「悪魔」と言われる、それ相応のものが現われてくる現象が現実にある──。

「悪魔」とは、「悪霊」よりも悪質で、積極的に悪をなそう、この世に悪を広げようとしている地獄霊のこと。

悪魔は、世界中のいろんな宗教で共通して語り継がれていますが、本当に実在するわけです。

そして、幸福の科学は、「仏」をいただいた真なる救世団体であるのだけれど、だからこそ悪魔がなんとか邪魔をしようと立ちはだかってくるので、常にこの勢力と戦い続けている。

これが、一部のネット世界で、幸福の科学に対して悪口雑言を書き並べているブログやXや動画などが流行っている、大きな理由の一つなんだと思います。

でも、世の常識あるみなさんに、理性的に中身を読み比べて検証していただければ、何が正しくて何が間違っているかを、最後は必ず分かってくださるものだ、と。

そう素朴に信じて、延々とこのブログを私は書き続けているのです。 

 

沈黙の仏陀ーザ・シークレット・ドクトリン (OR books) 『沈黙の仏陀』

   大川隆法著


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最近とってもイライラしてて、気にさわるとすぐ怒鳴っちゃうんだけど、もしかして、悪霊の影響って、受けてるのかなあ? なーんて悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、悪霊の影響の見極め方について、こう教えておられます。

 簡単なものとして、「鏡を見る」という方法があります。鏡で自分の顔を見れば、悪霊に憑依されている“悪霊顔”は、ある程度、分かるものです。
 正直なもので、精神生活が貧しいと、それが、だんだん顔に表れてきます。ほんとうに、尻尾や角、牙が生えても似合う顔になってくるのです。
 悪想念の種類は数多くありますが、それと波長の合う悪霊が必ずいます。そして、「波長同通の法則」によって、その悪想念を出した人のところへやってくるのです。
(194~195ページ)

悪霊の影響を受けていないか確認するためには、「鏡を見る」という方法がある──。

「知は力なり」と言われます。

今日の一節を知るだけで、お手洗いに行ったとき、お化粧するだけでなく、鏡でよく自分の顔を見てみようって思えます。

危ない顔だなあと思ったら、そんな自分にブレーキをかけて、違う思いを出さなきゃって、気がつくことができますね。

大川隆法先生のお教えを知ることは、人生を好転させるための秘訣であるのだと、改めて私は思っているのです。
 

霊界散歩―めくるめく新世界へ 『霊界散歩』

  大川隆法著


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守護霊ってほんとにいるの。そうだったら、そのアドバイスをガンガン受けたいんだけど、どうしたらいいのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 各人には、守護霊という存在が必ず付いています。さらに、職業が専門分化してくると、その職業にふさわしい、いちだんと格の高い指導霊が付くこともあります。天上界には数限りない指導霊たちがいて、地上の人が、それなりの立場に立つようになると、その人に合った霊人たちの指導が始まるのです。やはり、こうした指導を受けるべきです。そうすると、非常に素晴らしい結果が出てきます。
 これについては、努力していくと、「援助を受けている」ということが、ある程度、自覚的に分かるようになってきます。
 この守護・指導霊の力を受けるためには、いつも虚心坦懐でなければいけません。私心というものをなくし、謙虚に、「仏神の力をこの世において体現しよう」という気持ちを持っていれば、しだいに、あの世からの指導のパワーが倍加していきます。
(41~42ページ)

各人には守護霊が必ず付いているし、その職業にふさわしい、いちだんと格の高い指導霊が付くこともある。

この守護・指導霊の力を受けるためには、いつも虚心坦懐でなければいけない。

私心をなくし、謙虚に、仏神の力をこの世において体現しようという気持ちを持っていること──。

天上界って、要は「あの世」ですよね。

そんな世界が実際にあって、守護霊が必ず私たち一人ひとりに付いてくれてる。

場合によっては指導霊まで付いてくれて、アドバイスをくれたり、応援してくれてるって。

それがホントなんだとしたら。

どう考えてみても、死んだらすべて終わりなんて考え方よりも、絶対、そっちの方がいいと思うのが普通なんじゃないでしょうか。

そして、それは間違いなく真実の世界であるのだと、私は強く信じているのです。
 

常勝の法: 人生の勝負に勝つ成功法則 『常勝の法』

  大川隆法著


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神様がいるなら、どうして地獄なんかあるの。全知全能なんだから、地獄なんてなくしてしまえばいいんじゃないの。天国だけにしちゃえば、あの世で苦しむ人もなくなるじゃないの? なーんて考えたりしたこと、ありませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 地上の人びとにしっかりと知っておいてもらわなければいけないのは、「地獄は天国と二分されるものではない」ということです。これだけは、はっきりと言っておかねばなりません。
 地獄というところは、地上世界を三次元とするならば、四次元以降の世界、九次元、十次元、あるいは、それ以上の高次元もふくむ世界のなかの、ほんの一部なのです。すなわち、「地獄は、四次元といわれる部分のなかに巣くった、悪想念の巣窟にしかすぎず、天国と二分されるものではない」ということを、どうか頭に入れておいていただきたいのです。
 地上にはいろいろな人間がいますけれども、病人という種族はいません。病気をしている人が一定の割合でいて、そのために病院があるわけですが、それと同じように、あの世の霊のなかで心を病んだ人たちが、地獄というところで修行をし、リハビリテーションを受けているのです。
 どうか、そうした見方を大切にしていただきたいと思います。心、精神が病んでいる病人ではあるけれども、彼らは彼らなりに地獄で何かをつかもうとしているのです。
(35~37ページ)

地獄は天国と二分されるものではない。

地獄というところは、あの世(四次元以降の世界、九次元、十次元、それ以上の高次元もふくむ世界)のなかの、ほんの一部にすぎない。

あの世の霊のなかで心を病んだ人たちが、地獄というところで修行をし、リハビリテーションを受けている──。

なるほど、なるほど、地獄というのは、じつは「あの世の病院」だったわけです。

ちまたの霊能者が、地獄を天国とならぶ広大な世界のように言うのは、そう人たちには地獄の方はよくわかっても、広大な天国の方は、次元が高くてよくわからないからだと気がつきます。

2006年に公開されて大ヒットした映画『永遠の法』では、地獄の世界はもちろん、広大でまばゆく光に満ちた天国の世界が、とてもリアルに描かれてました。

その原作では、地獄の意味が、こんなふうに分かりやすく、説明されてたんだと改めて気がついた気が私はしているのです。
 

永遠の法―エル・カンターレの世界観 (OR books) 『永遠の法』

  大川隆法著


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憑依なんて言って、やっぱり精神病の一種なんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 西洋医学では、「憑依といわれる現象がある」ということは分かっているのですが、「なぜ、そういうことが起きるのか」という問いに答えられないのです。それについては、どうしても分からず、科学的に説明ができません。そう呼ばれる現象があることは分かっていても、それを医学的には説明できないわけです。
 医学というものは、肉体としての人間を研究しているので、どうしても根本に唯物論的な考えがあります。それはそれで使命としてはよいのですが、憑依現象についても、「脳に何か関係がなければいけない」と考えて、「脳の作用、あるいは脳の構造上の問題である」と捉えがちです。憑依現象を精神科の案件とした場合にも、だいたい、「脳における何らかの障害である」と考えるのです。
 また、心というものについても、「脳の作用に付随して発生するものだ」と考えます。そして、「心は、脳の一種の機能として、精神作用としてあるのであって、脳のほうが、何か具合が悪くなると、精神作用のほうも歪んでくる。それによって、『霊が見える』『霊の声が聞こえる』などと言い出したり、『自分は○○の霊だ』などと語りはじめたりする患者が出てくる」というような扱いをしています。
 それで精神病院に入れられている人は多いのですが、精神病院に入れられても、基本的には治りません。なぜなら、医学そのものが憑依現象について理解できていないので、治す方法はないからです。「薬を飲ませて、おとなしくさせる」「隔離して、一般の人との摩擦、一般社会との摩擦を避ける」ということぐらいしか方法はないのです。(中略)
 もちろん、ほんとうに、身体の構造上、何か障害があって、錯乱状態になる人もいるとは思います。“機械”のほうが故障している場合もあるでしょう。しかし、そうでない場合もあります。要するに、心のほうの問題が原因で、いろいろなものが見えたり聞こえたりすることがあるのです。
 「いろいろな霊がやってくる」「○○の霊が、いま来ていた」などと言うと、それがおかしく聞こえるようになってきているのが現代ですが、おかしく聞こえるほうが、ほんとうは、真実の世界から見たら、おかしいのです。
(88~92ページ)

西洋医学では、憑依現象がなぜ起きるのかが説明できない。

脳における何らかの障害だとして、精神病院に入れられる人は多いが、医学では治す方法はない。

しかし、霊がやって来たというのがおかしく聞こえるほうが、真実の世界から見たらおかしい──。

大川隆法先生は、あの世とこの世があるという真実を前提に、「波長同通の法則」に基づく憑依の原因とその対処法について、さまざまな角度から教え続けておられます。

この大川隆法先生のお教えは、理性に照らして、とても合理的に理解できる、理路整然としたものです。

そしてそれは、霊界と神秘世界に関する巨大なお教えの中でも、まだ初歩的分野ではないでしょうか。

それを現代医学はまったく理解することなく、いまだに憑依現象への対処方法としては、薬でおとなしくさせるだけだったり、一般社会から隔離するだけだったりというのも、残念な話ではあります。

あの世(つまり霊的世界)があること、そこに霊存在がいることを認めさえすれば、簡単に理解し解決できる問題もたくさんあるわけです。

医学や医療に携わっているみなさんには、ぜひともこの大川隆法先生のお教えに触れていただきたいものだと、とても切実に私は願っているのです。
 

『神秘の法』

  大川隆法著


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悪霊に憑依されてるんじゃないかって思うんだ。もうどうしようもないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『地獄の方程式』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 悪霊に憑依されている人の特徴は、たいていは暗い表情をして、いつも取り越し苦労、持ち越し苦労で頭を痛めている人たちだと言うことができます。
 まず笑うことです。笑顔も顔施といって、仏教では大切な布施の一つとされています。笑顔は会う人の心を明るくし、自分の心も明るくします。努力して明るく笑うことです。そのとき、仏の光が入ってくるのです。
 また取り越し苦労や持ち越し苦労をして幸せになった人など一人もいないのだから、よいことが必ず来ると信じて、希望を持って生きてゆくことです。
 そして他人に心を向けて、他人の幸せを祝福する心を、念を持つことです。悪霊に悩まされている人というのは、結局のところ、自分のことしか考えていない人たちなのです。努力して他人を祝福することです。その善念は必ずや自分にも返ってくるはずです。
(168~169ページ)

悪霊に憑依されている人と思う人は、まず、努力して明るく笑うこと。そのとき、仏の光が入ってくる。

よいことが必ず来ると信じて、希望を持って生きてゆくこと。

そして、他人の幸せを祝福すること。その善念は必ずや自分にも返ってくる──。

なるほど、なるほど、です。

光を天上界からいただくことができれば、憑依してる悪霊は、はがれていくはずです。

で、努力してニコッと笑う。それは会った人への「与える愛」。

そしてそのとき、仏から光が与えられる。

憑依された状態というのは、心が暗く、すぐ絶望したりするので、心して、希望を持って生きていくよう努力すること。

また、他の人の幸せに嫉妬したりせず、おめでとう! と言ってあげる。

それは他の人への「与える愛」だから、やはり仏から光が与えられる・・・。

今日のお教えは、仏法真理の基本に照らすことで、とっても深く腑に落ちる気がします。

悪霊がやってきたりして悩んでる方、まずはちょっと試してみましょうよと私は思っているのです。
 

『地獄の方程式』

 大川隆法著


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ね、如来とか菩薩とか、高級霊っておられるんでしょ。となると低級霊ってのもいるの? でもそれって、差別じゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 一方に高級霊がおりながら、他方に低級霊がなぜいるのかという問いに対しては、仏の世界観は、「平等」と「公平」という二つの観点からなりたっているということから答えていかなくてはなりません。
 すべての人間、すべての動物、すべての植物、すべての鉱物に仏性が宿っているという事実、たとえ現象としてはどのようにあらわれていようとも、万象万物は、すべて仏の意志の発露であるという真実、これは、動かしがたい仏法真理なのです。
 言葉をかえていうならば、生きとし生けるもの、万象万物はすべて、仏の叡智という名のダイヤモンドでできているということです。(中略)これが、仏教でいう万物に宿る仏性であり、人間を仏の子として捉える思想なのです。したがって、高級霊であれ、低級霊であれ、仏の生命を体現しているということに関しては、すべて平等なのです。平等でないというのは、「高級」「低級」という言葉の響きに迷わされているだけにすぎません。
 要は、高度に進化した霊と、進化途中の霊、そして、未発達の霊があるだけなのです。すべて同じ道筋を歩いている者なのですが、つまりは、先を歩いている者と、後方を歩いている者とのちがいがあるということなのです。
 高度に進化した光の指導霊というのは、魂としてつくられたのが古いために、目的地である仏の境涯に近い先の方を歩いているのです。一方、未発達の霊というのは、そのほとんどの場合、魂がつくられたのが新しい。新しいがゆえに、後方を歩いているだけなのです。はたして、これを不平等だといえるでしょうか。自らの歩いたぶんを、その距離を距離として評価すること自体が不平等だといえるでしょうか。
 それは、平等、不平等ではなく、公平の観点から評価されるべきことなのです。
(81~83ページ)

仏の世界観は、「平等」と「公平」という二つの観点からなりたっている。

すべての人間、動物、植物、鉱物には仏性が宿っているのであって、これは人間を仏の子として捉える思想であるから、高級霊であれ低級霊であれ、仏の生命を体現しているゆえにすべて「平等」である。

要は、高度に進化した霊と、進化途中の霊や未発達の霊があるだけであって、同じ道筋を歩いていても、先を歩いているか後方を歩いているかのちがいがあるだけであり、これは「公平」の観点から評価されるべきである──。

何かというと、すぐに“差別”だと言って主張する人がおられると思います。

でも、何かに差をつけて評価するのがすべていけないかのように考えてしまうと、どんなに努力しても意味がないことになりますから、すべてにおいて進歩がなくなってしまいます。

努力した結果と努力していない結果に対して異なった評価がなされるのは、“不平等”なのではなく、「公平」に評価してもらえるということであって、そのことには感謝すべきなんだろうと思います。

そして、このように考えていくことこそが、「平等」と「公平」という二つの観点から成り立っている「仏の世界観」であることを、大川隆法先生は教えておられるわけです。

さてさて、新しい年、2024年。

本年は、幸福の科学の教えの基本書であり、大川隆法先生の教えの根本が説かれた最重要の書籍の一つである『太陽の法』から、ご紹介をはじめてみました。

大川隆法先生のお教えの素晴らしさを、書店で誰もが入手できるご著書を用いて少しずつお伝えしようと、2006年から延々と書き続けてきたこのブログですが、マンネリをものともせず、もうしばらく努力を続けたいと思っています。

本年も、よろしくお願い申し上げます!

『太陽の法』

  大川隆法著


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仏の光は七色なんでしょ。それって、どういうことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「仏の光は七色である」と言われますが、実際、そのとおりです。そして、九次元世界においては、仏の光を七色に分けており、この七色の光が、八次元以降で、さまざまな如来を通じて、十数種類、あるいは二十数種類の光に分光されているのです。
 この七色の光を受け持っている九次元大如来たちの名前をあげてみましょう。
 中心光線である黄色い光線、黄金色の光線を受け持っているのは、ゴータマ・シッダールタ、釈迦牟尼仏です。仏陀の黄色い光線は、法の色、あるいは慈悲の色です。
 白色光線を受け持っているのはイエス・キリストです。イエスの白い光線は、愛としての光です。医療系の霊団はイエスの白色光線を引いています。医者や看護婦が白衣を着ているのは、偶然の一致かどうかは分かりませんが、彼らが白色光線の系列に属していることを暗示しているかのようです。
 赤い色の光線はモーセが担当しています。モーセの赤色光線は、要するに指導者の光線であって、政治的指導者など、世の中を律していく指導者を導いている光線です。また、赤色光線は、別名、奇蹟の光線とも呼ばれています。さまざまな現象、奇蹟を起こす場合、赤色の光線が働きかけるのです。
 次に、青色の光線があります。青色というのは、ひと言でいえば、哲学、思想関連の光線です。青色光線を担当している方は、一人ではなく二人います。
 一人は、かつてギリシャに出たゼウスです。ゼウスとして出たときには、主として文学や芸術を司っていました。芸術の光線は緑色光線にも入っていますが、その一部分は青色にも属しているのです。
 もう一人はマヌです。インドでは人類の始祖とも伝えられている人で、バラモンの日常生活の規範などを定めたマヌの法典の思想的源流に位置する人です。この方も九次元霊であり、思想系統を担当していますが、それ以外にも、さまざまな特命事項で活躍しています。現在は、人種問題など、地域を超えた、思想、信条の統合を役割として持っています。
 これ以外に、銀色の光線があります。これは科学の光線であり、文明の近代化の光線でもあります。この光線を分光している九次元如来としては、ニュートンがいます。
 ニュートンの生命体は、かつてギリシャにアルキメデスとして出たこともあります。このように、彼は常に科学者として地上に出ているわけですが、九次元如来として、三次元や他の次元の人たちの科学的進歩のために、一つの光線を分担しているのです。(中略)
 次に、緑色の光線があります。これは主として調和を司っている光線です。緑色は老荘思想の色であり、大自然の色、調和の色です。この緑色を担当しているのは、先ほども出てきたマヌと、かつて善悪二元論の拝火教を説いたゾロアスター(ツァラツストラ)という中近東の神です。彼らは、大自然のあり方、宇宙の構造、宇宙の調和、こうしたものを中心として教えを説いています。
 さらに、紫色の光線があります。紫色の光線は、中国に出た孔子の光線であって、道徳の道、学問的なものの考え方、礼節、秩序、こうしたものを主として司っています。つまり、上下関係、上下の統制といったものを司るために、孔子が紫色の光を分光しているのです。
 また、この流れのなかに日本神道があることも真実です。
(267~271ページ)

九次元世界においては、仏の光を七色に分けており、この七色の光が、八次元以降で、さまざまな如来を通じて、十数種類、あるいは二十数種類の光に分光されている。

たとえば、黄色い光線、黄金色の光線を受け持っている九次元大如来は、ゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏)であり、その色は、法の色、あるいは慈悲の色である。

紫色の光線は、中国に出た孔子の光線であって、道徳の道、学問的なものの考え方、礼節、秩序を主として司っており、この流れのなかに日本神道がある――。

大いなる天上界の秘密が明かされたお教えの部分を、今日はご紹介してみました。

虹の七色は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫だったと思いますので、仏の七色光線とまったく同じではないわけです。

ただ、ここで「黄色、白、赤、緑などという色も、地上的に分かるように語っているだけ」だと説いておられることも、以前、ご紹介したことがありました。

まさに神秘のベールの向こう側の救世主の世界。その続きは、またの機会に!
 

『永遠の法』

  大川隆法著


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死んでも、地獄になんか行きたくないよね。地獄に行っちゃった人の特徴なんて、あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『死んでから困らない生き方』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 死んであの世に還ると、不思議な現象がいろいろと起きるので、「この世の生活とはかなり違う」ということはよく分かります。
 例えば、人とぶつかって、「あっ、失礼」と言おうと思ったら、自分の体が相手の体を通り抜けてしまったというようなことが起きます。(中略)あるいは、壁をスッと通り抜けるようなこともあり、最初のうちは非常に驚きます。それから、遠くでホタルのようなものがポッと明るく光ったように見え、「何だろうか」と思った瞬間、それがヒューッと目の前に現れたりもします。
 そういう現象がたくさん起きるので、最初は、非常に摩訶不思議な世界に入ったような感じを受けるのですが、しばらくすると慣れてきます。そして、「自分は、何かの間違いで別の世界に来てしまったけれども、こちらが本来の世界なのだろう」と考え、「自分はまだ生きている」と思って生活しているのです。
 そのように、地獄の低位霊界といわれるあたりには、あの世に還っているということに、まだ気がついていない人がたくさんいますし、実際に、この世の生活とほぼ同じようなものがあります。
 例えば、この世にあるような店なども、一通りあります。ただ、不思議なことに、店から食べ物を盗んだりして食べたつもりでいても、しばらくすると、食べた物が元の店に戻っているのです。
 そういう不思議なことが起きるのですが、ただ、本人は、自分がまだ生きていると思っている場合がほとんどなので、「あなたは死んだのだ」と説得しようとしても、かなり難しいのです。(中略)
 地獄霊の本質を一言で言えば、“自己中”です。みな、自己中心の考え方をしていて、自分の立場を一生懸命に説得することには非常に長けているのですが、本当に相手の立場に立って、その人の幸福を考えるということは、非常に少ないのです。「自分が犠牲になってでも、人のために尽くそう」と思うような人は、この世界にはまず見当たりません。(中略)
 事故死が多発する場所や、自殺の多発する駅、あるいは、自殺の名所と言われる岸壁などでは、すでに死んでいる者たちが、他の人を引きずり込もうとしています。また、何度も遭難が起きるような場所でも、同じように、生きている人を引っ張り込んでいます。
 そうすることによって、さらに罪を重くしていくわけですが、地獄にいる人の特徴は、自らが反省をするよりも、仲間を増やそうとすることにあります。自分と同じような境遇の人を増やし、仲間を増やせば、自分の苦しみが薄れるような気がするのです。たとえて言えば、「自分だけが貧乏なのはつらいけれども、ほかの人も貧乏になれば、気持ちがすっきりする」というような考え方です。
 確かに、「平等の思想」のなかには、よいものも当然ありますが、そのなかに、もし、「みなが不幸になれば、平等でよい」という考えが入っていたならば、それも一種の地獄的な考え方であるので、気をつけたほうがよいと思います。
(92~98ページ)

霊界では不思議なことがたくさん起きるが、本人は、自分がまだ生きていると思っていることがほとんどなので、死んだことを説得しようとしても難しいことが多い。

地獄にいる人の特徴は、自らが反省をするよりも、不幸な境遇の仲間を増やそうとするところにある。

地獄霊の本質を一言で言えば、“自己中”であって、他の人の幸福を考えることは非常に少ない――。

死後の世界、つまり霊界の実在を信じていない人は、まだまだ多いと思いますが、そんな方が、死んでしまっても自分が死んだことを信じられないのは、当然のことなのかもしれません。

そして、不幸な境遇の仲間を増やそうとする傾向性を持った人や、他の人の幸福を考えない“自己中”の人も、まだまだ少なくない気がします。

地獄にいる人の特徴を生前から備えているそんな人たちが、死んだあとに行く先は、やはり地獄になる可能性がとても高いのは、あまり説明がいらない話ではないでしょうか。

結局のところ、地獄に行きたくない方は、その反対の特徴を備えるよう努力すればよいのではないかと思います。

つまり、まずは霊界の実在を信じること。

そして、「与える愛」に生きるようにすること。

自分が不幸に出会ってしまったときは、反省すべきことがないかを考え、思い当たることがあれば素直に反省し、改める姿勢をもっていること。

たったこれだけのことで、誰もが明るい世界(天国)に還ることができるのだとしたら、それは本当にありがたい仏の慈悲だと私は思っているのです。
 

『死んでから困らない生き方』

 大川隆法著


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霊的な話を聞くと、やっぱり悪霊に取りつかれたりするって、あるのかな。どうやったら、そんなことを避けられるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『アイム・ハッピー』――悩みから抜け出す5つのシンプルなヒント(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 「霊障を避けるにはどうしたらよいのか」というのは、とても大きなニーズがあると思います。
 実は、そのためのいちばん簡単な対処策が、「明るく生きること」なのです。ただただ、明るく生きることです。これ一本でいいのです。これ一本で、悪霊撃退は終わりです。(中略)
 もちろん、明るいふりをするだけでは駄目です。「ハハハ」と笑っているふりをして、顔だけ明るくて「心はドロドロ」とか、「憎しみのかたまり」とかいうのはいけません。これは、駄目です。
 最初は表面的なところ、目や口など、顔の表情を明るくするところから、当然、始まるべきだとは思いますが、次第に、それを心のなかまで落とし込んでいくことです。
 「心のなかまで明るいものに変えていこう」「自分は明るい人間だと思おう」というように、繰り返し、繰り返し思っていると、だんだん潜在意識下に影響が出てきて、深く浸透していきます。
 そうすると、心のなかに溜まっている、恨みの心や悲しみの心、不幸の心、人のせいにする心、「環境が悪いためにこうなったんだ」という心を変えていくことができるのです。(中略)
 やはり、「変えることができること」にトライするべきでしょう。
 それは、どういうことかというと、「事実を変えられないのなら、考え方を変えよう」ということです。
 心の向きを変えましょう。心の思いを変えましょう。
 それはできるはずです。それは各人の自由なのです。
 例えば、あなたが心のなかで、人を憎もうが愛そうが、自由です。「あなたは人を憎んでいるから、愛するようにしてやろう」とか、「人を愛しているが、憎むようにしてやろう」とか、あなたの心のなかに手を突っ込んで、グルッと変えることはできません。
 心のなかのことは、自分自身に、完全に委ねられているのです。
(19~25ページ)

事実を変えられないのなら、考え方を変えよう。

「明るく生きること」が、霊障を避けるためのいちばん簡単な対処策である。

心のなかのことは完全に自分に委ねられているから、「自分は明るい人間だと思おう」と繰り返し繰り返し思っていると、だんだん潜在意識下に深く浸透していき、心を変えていくことができる──。

「明るく生きること」の大切さについては、何度かご紹介してきました。

家庭環境とか仕事柄で、どうしても悪霊と関係しそうな状況にある方もおいでだと思います。

そんな環境にある事実を変えられない場合は、考え方を変えることだ、というのが大川隆法先生のお教えです。

心を変えて、「明るく生きること」。

シンプルでかんたんですが、しかし、とっても大事なお教えだと、改めて私は思っているのです。
 

『アイム・ハッピー』

 大川隆法著


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魂って、やっぱりほんとにあるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「人間学概論」講義』――人間の「定義と本質」の探究(幸福の科学出版)のまえがきで、以下のように説いておられます。

 しかし、私は、霊言集というものを出しています。これはビデオにも録っているし、公開で大勢の人の前で、すでに何百回もしているので、トリックかどうかは、見ている人たちの多くが判断していることだと思います(中略)
 霊言というものを、私は「実体験」としてやっていて、「私自身の考えや心や魂ではなく、他の人格を持った人の霊が私のなかに入ってきて、その人の人格での言葉を話す」ということを実体験しているのです。
 これを、医学的にどう説明するのかは知りません。病気の一つとして、人格の変化とか、多重人格とか、そういうことは現象的にはあります。なかには、二十四人の多重人格というケースも報告されていますが、一般的にそれは(中略)憑依されている状態であり、取り憑いている霊が交替で出てくるのだろうと思うので、私のように、意識的にコントロールして、霊を呼んだり出したりしていることとは同じではないと考えています。(中略)
 ただ、実体験として、三十年以上、霊体験を重ねてきた者として、私は、「霊的存在がある」ということは否定できません。その証拠として、ビデオやCDや本など、いろいろと出し続けているつもりです。反復性もあり、継続性もあり、繰り返し実験できるというところは、そのとおりです。
 ただ、カメラに映るものとしては、この世にある人体以外は映ることができないため、「内容で見て、判断できるかどうか」ということにかかっているわけであり、最後は、やはり、“飛び越さなければ”いけない部分は残ると思います。
 霊言というかたちで、私の口を通して語れば、声は、私の声に聞こえるでしょうが、活字に起こしてみると、話している言葉は、明らかに、ほかの霊とは違う言葉が出てきています。立場の違う霊は、まったく同じことを言うわけがないというか、全然違うことを言うし、男性霊と女性霊でも違いが出てきます。
(63~66ページ)

「霊言集」の霊言は、大勢の人の前で公開で、ビデオにも録って、何百回も行なっているので、トリックかどうかは見ている人たちが判断できる。

霊言を活字に起こしてみると、話している言葉は、明らかにほかの霊とは違う言葉が出て来ており、立場の違う霊は全然違うことを言うし、男性霊と女性霊でも違いが出て来る。

大川隆法先生は、この霊言において、自分自身ではない他の人格を持った霊が入ってきて、その人格の言葉を話すことを、三十年以上「実体験」しており、反復性もあり、継続性もあり、繰り返し実験できる――。

もちろん、「魂」も「霊」も、客観的な事実として存在する。

大量の個性の違いにあふれた「霊言集」を刊行している事実こそが、その証明である。

この「霊言集」は、本書刊行の2014年段階では、わずか5年で270書と述べられていますが、その後も続々と出されて、2023年の現在では、なんと600書以上にもなっていると聞きます。

毎年毎年、途切れることなく出続ける、この「霊言」と「霊言集」の存在とその内容を知ることで、「魂」とか「霊」とか「あの世」とかがあるのは、もう議論の余地がない気がしてくるのが普通のことだと思います。

一人でも多くの方に、この驚くべき真実を知ってほしいと、改めて強く強く私は願っているのです。
 

『「人間学概論」講義』

 大川隆法著


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マイケル・ジャクソンって、亡くなってだいぶたったけど、あんなすごいエンターテイナーだったんだから、天国にいるのかな。でも「スリラー」なんて映像、地獄の亡者みたいなのがたくさん出てきてたし、もしかして地獄にいたりして? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『エクソシスト入門──実録・悪魔との対話』(幸福の科学出版)で、こう紹介しておられます。

 この人は、いちおう大丈夫のようです。「スリラー」などの映像を見ると、やや怪しい感じもありますが、やはり、人々に喜びを与えた面のほうが大きかったようです。
 また、本人は自分が黒人であることに劣等感を持っていたようですが、「黒人出身で世界的なスターになった」ということで、黒人の世界の「光」になった部分はあったようです。
 そのため、彼は、現在、音楽や芸術家系統の神様の世界に入っていく道の途中にいます。どのくらいの所まで辿りついているかというと、もう八合目ぐらいまでは還っている感じです。
 霊界には、音楽家、アーティストたちの世界があり、レベルはいろいろありますが、彼はかなり上のほうだと思います。現代の音楽なので、昔の音楽と単純に比較するわけにはいきませんが、どのレベルに相当するかというと……。
 (約十秒間の沈黙)
 けっこうトップクラスに近いあたりだと思います。
 『黄金の法』に名前の出ている人や、霊言集(『大川隆法霊言全集』〔宗教法人幸福の科学刊〕)に霊言が収録されている人で言えば、ピカソやベートーベン、モーツァルトなどがいるような世界に還るようです。
 彼の場合は、音楽以外に、もう一つ、「黒人たちの光になった」という意味での功績があったことも理由でしょう。(中略)
 光の世界に還っています。あれだけの有名人になったので、晩年には、周りからの嫉妬が渦巻いたり、事件に巻き込まれたりしたこともありますが、「プラスの面とマイナスの面を比較衡量すると、多くの人に夢と希望を与えた部分のほうが大きかった」ということでしょう。(中略)
 マイケル自身は、光の世界に還っていて、レベル的には、芸術家系の魂としてはトップクラスの人の一人です。
[注]ピカソは菩薩界上々段階の梵天界、モーツァルトは菩薩界、ベートーベンは菩薩界下段階に還っている。『黄金の法』第1章参照。
(84~90ページ)

マイケル・ジャクソンは、光の世界に還っている。

プラスの面とマイナスの面を比較衡量すると、多くの人に夢と希望を与えた部分のほうが大きかった。

還ったのは、菩薩界や梵天界と呼ばれる高級霊の世界であり、芸術家系の魂としてはトップクラスの一人である──。

いやあ、考えてみたら当たり前の話ですけれど、音楽家の光の天使というのは、クラシック音楽の領域だけじゃなくって、現代のPop Musicの世界にもいたんですね。

最近また、インターネットの動画で、マイケルの曲に合わせて見事な振り付けで踊ってる人の映像を、よく見かける気がします。

改めて、今日のお教えに触発されて、マイケルが残してくれた素晴らしい楽曲の数々を、少し聴き直してみたいと私は思っているのです。

『エクソシスト入門』

 大川隆法著


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観自在菩薩って、聞いたことあるんだけど、そんな菩薩さまがいるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 般若心経というお経の最初に、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」という文句があります。これをそのまま訳せば、「観自在菩薩の修行の境地がたいへん深まり、内なる潜在意識の宝庫をおひらきになったときに」という意味です。観自在菩薩とは、人の名前ではありません。修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味します。
 菩薩とは、一応、自分づくりという「小乗」の段階を通過して、「大乗」、すなわち、衆生済度に立ちあがり、人々を救おうという気持ちになっている魂の段階です。とはいえ、この菩薩の境地にいたってもまだ、人間的な悩み、苦しみがあり、いつもいつも神通力(法力)を発揮できるような状態ではありません。しかし、菩薩の心境が進み、菩薩界上々段階の悟り、すなわち、梵天の境地になってくると、少々の病気や事件、人間関係のできごとにおかまいなく、安定した神通力を発揮することができるようになってきます。つまり、観自在菩薩とは、梵天の境地であり、実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいうのです。
 観自在菩薩は、インドの釈迦の時代には、アヴァローキタ=スヴァラ(サンスクリット語ではアヴァローキテーシュヴァラ Avalokitesvara)と呼ばれておりました。観世音菩薩も同義語です。まだ十分とはいえなくても、六大神通力を全部そなえるにいたった段階です。六大神通力とは、天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽の六つです。ここで、そのそれぞれについて説明しましょう。
 天眼(てんげん)とは、いわゆる霊視能力のことです。生きている人間のオーラや憑依霊はもちろんのこと、あの世の世界、実在界までを透視する力があります。
 天耳(てんに)とは、あの世の霊たちの声を聞くことができる能力です。霊言能力なども、これにあたります。
 他心(たしん)とは、いわゆる読心のことです。マインド・リーディング、つまり、人の気持ちが手にとるように理解できる能力です。
 宿命(しゅくみょう)とは、単に自分の将来がわかるだけでなく、その人の想念帯を読みとれば、他人の運命、宿命が手にとるようにわかる能力です。もちろん、過去世のことまでわかってしまいます。
 神足(じんそく)とは、いわゆる幽体離脱のことで、肉体を地上においたまま、霊界を見聞したり、テレポーテーションしたりする能力のことです。
 漏尽(ろじん)とは、「心の欲する所に従って、矩を踰えず」と喝破した孔子の境地で、欲望に振り回されず、それを自由に超越する能力です。たとえ霊能力をもったとしても、たんねんに心の錆び落としを続ける精進能力です。
 観自在菩薩とは、以上あげたこの六大神通力がなんらかの形で身についてきた状態の人のことです。同時に多人数の人の心を読んだり、遠隔地の人の心が手にとるようにわかる「如心」よりも、一段と高い心境だといえます。
(206~209ページ)

観自在菩薩(観世音菩薩)とは、人の名前ではなく、修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味する。

それは少々の病気や事件、人間関係のできごとにおかまいなく、安定した神通力を発揮することができるようになった梵天の境地であり、まだ十分とはいえなくても、六大神通力(天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽)を全部そなえるにいたった段階である。

実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいう――。

菩薩というだけでも、その高い心境に憧れてしまいます。

ところが、菩薩にも段階があって、さらに高い境地に至った魂があるというのは、ほんとうに凄いことではないでしょうか。

魂修行には、無限とも思える階梯がある。

そしてその階梯を上がるほどに、仏(神)に近づいていく。

このことが、今日のお教えで、よりよく分かってきた気が私はしているのです。
 

『太陽の法』

  大川隆法著


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ね、天使って、ほんとにいるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 さらに、天使というものについても、「天使は、昔の物語に出てくるような想像上の存在でもないし、『原始のころに神がガッチリと創った』という存在でもない。繰り返し、この世に生まれてくる過程で、多くの人々を救い、幸福にして、あの世でも人々を導こうと思っているような人たちが、天使になっているのだ」という現実を知らなくてはいけません。
 天使は、元は人間なのです。人間の経験者なのです。
 人類の歴史は、一般に考えられているよりも、はるかに古いものです。したがって、ここ数千年のあいだに天使だとか神だとか言われている存在は、みな、人間として地上に生を享けたことのある人たちです。そして、多くの人を導き、あの世でも仕事を続けている人たちなのです。
 「自分には、天使になる可能性もあったのだ。また、逆に、悪魔になる可能性だってあったのだ。天使も悪魔も、創られたものではなくて、自己の思いが実現したものなのだ」ということを知ってください。
 「怒っていて、怖い形相の人は、鬼のように見える。角が生えているようにも、口が裂けているようにも、牙が生えているようにも見える。その鬼の姿が、あの世では実在化してくる。心がそうなら、そうなってくるのだ。一方、天使の心を持てば、あの世では天使の姿になってくる。魂というものは、人体と同じような姿のものとして自己認識をしているけれども、ほんとうは、自由自在の存在なのだ」ということを知らなければいけないのです。
(79~81ページ)

天使とは、繰り返しこの世に生まれてくる過程で、多くの人々を救い、幸福にして、あの世でも人々を導こうと思っている人たちである。

人類の歴史は一般に考えられているよりもはるかに古く、ここ数千年のあいだに天使や神だと言われている存在は、みな人間として地上に生を享けたことのある人たちである。

魂というものは、ほんとうは自由自在の存在なのであって、天使も悪魔も、創られたものではなく、自己の思いが実現したものなのである――。

今日は、天使という存在を題材にしていただいたことで、ちょっとだけですが、天上界の秘密の一端に触れることができた気が、改めて私はしているのです。
 

『神秘の法』

  大川隆法著


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霊界があるんでしょ。この世に生まれてくるって、楽しいことなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 かつて、日本の僧侶たちは、仏法を求めて、荒海を乗り越え、唐の国へと渡っていきました。
 空海が入唐したときには、日本を出航した四艘の遣唐使船のうち、唐に辿り着いたのは二艘だけだったと言われています。あとは沈没したり行方不明になったりしています。唐に着いた船にしても、途中で潮に流され、大変な苦労をへて辿り着いたのです。まさに命懸けです。
 そのように、空海は、命懸けで「入唐求法」をし、唐の国で仏法を学びました。「再び遣唐使船が派遣されることがあれば、その船に同乗して日本に帰れるかもしれないが、船が来なければ、もう二度と帰れなくなるかもしれない」という覚悟で唐へ行ったのです。
 それだけの危険を冒してでも、「唐へ行って仏法を学び、それを日本に伝える」という使命を果たすことが非常に尊い経験だったのでしょう。
 同じように、人間は、魂の経験を手に入れるために、入唐求法のような覚悟で、この世に生まれてくるのです。「この世に生まれる」ということは、ある意味では、入唐求法のように危険な賭けなのです。
 もともと、魂は、あの世の天国では、幸福感に満たされて暮らしています。それでも、あえて危険な賭けをして、あの世からこの世に生まれてくるわけです。
 この世に生まれてくる前、魂は、あらかじめ、あの世で、自分の両親を選び、お願いをし、子供として生まれる約束をしています。そして、両親になる予定の二人が地上で結婚し、母親が妊娠するのを待っています。
 やがて、母親が妊娠し、満八週を越えて九週目になったころに、魂は母親のおなかのなかに宿ります。そして、厳密には、いわゆる「十月十日」よりもやや短くなりますが、何十週も子供の魂は母親のおなかのなかに入っています。
 ただ、魂は、母胎に宿る前から、あの世で、地上に生まれる準備を始めています。その時点から生まれるまでをトータルで見ると、実に一年近くのあいだ、魂は、身動きがとれない状態になります。まるで繭にくるまれた蚕のような心境で、生まれるのを待っているわけです。
 この最中に、何か事故が起こることもありますし、流産してしまうこともあります。(中略)その意味で、「この世に生まれる」ということには、入唐求法と同じような危険があると言えます。(中略)
 さらに、「この世に生まれることができたとしても、人生のなかで苦しむことは当然あるだろうし、生まれたうちの半分ぐらいの人は人生に失敗する、すなわち、死んだあとに、数十年ないしは数百年、一時的に地獄に堕ちることはありうる」ということを、誰もが知っています。
 それでも、この世に生まれることを希望する魂が大勢いるのです。(中略)危険を冒して生まれてくるのです。
(206~211ページ)

かつて日本の僧侶たちは、仏法を求めて荒海を乗り越え唐の国へと渡っていったが、まさに命懸けであり、また二度と帰れないかもしれない旅だった。

そんな危険を冒してでも、唐で仏法を学び日本に伝える使命を果たすのと同じような覚悟で、人間は魂の経験を手に入れるために、この世に生まれてくる。

魂はあの世の天国では幸福に暮らしているのに、またこの世に生まれるのは入唐求法と同じような危険があるというのに、それでもあえて、多くの人間はあの世からこの世に生まれてくる――。

なるほど、なるほど、です。

天上界の魂にとっては、この世の体験は、そんな危険な賭をあえて行う意義がある、とても尊い体験なのだということでありましょう。

今日は、人がこの世に生まれてくる秘密の一端を、とても分かりやすく教えていただいたのだと改めて私は思っているのです。
 

生命(いのち)の法―真実の人生を生き切るには (OR books)

『生命の法』

  大川隆法著


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