ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



地球って星は、どうやって生まれたんだろう。科学者の説明って、なんだかよく分かんないけど、霊界からはどう説明されてるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 もし、大宇宙の仏(根源の神)を二十次元的存在、あるいは、それ以上の高次元的存在であるとするならば、数千億年の昔──より正確にいうと、悠久のむかしから、意識存在としての根本仏はありました。
 根本仏は、いまから一千億年ぐらい前までに、三次元宇宙空間の創造を意図しておられ、約八百億年前には、自らの意志でもって、三次元宇宙を統括する巨大霊を創造しました。これが十三次元意識の誕生であり、私たちが認識できる宇宙に関する最初の霊の誕生です。
 この十三次元宇宙霊は、大宇宙の創造ということを使命としてもっている根源仏の意識の投影であります。この十三次元宇宙霊は、約六百五十億年前に、十二次元の星雲の意識を創造しました。その数は、約二百万体あるといわれています。私たちの属する銀河系意識も、この二百万体ある星雲の意識体のひとつなのです。
 そして、六百億年前に、この十二次元の星雲意識霊によって、十一次元の恒星意識霊が創造されました。すなわち、十一次元空間の誕生です。私たちに関係ある宇宙としては、十二次元の銀河系意識霊が、十一次元の太陽系意識霊をつくったということになります。
 さらに、五百三十億年前に、銀河系において、十一次元の恒星意識霊が中心となって、惑星意識霊の創造が開始されました。これが、十次元宇宙の誕生です。わが太陽系では、十一次元の太陽系霊の努力により、水星意識や金星意識、地球意識、火星意識、木星意識、土星意識などがつぎつぎに誕生しました。こうした惑星意識霊の創造は、四百二十億年くらい前までに、ほぼ完了したといえます。
 そして、いまからちょうど四百億年前に、大宇宙霊の内部で、異変が起きました。すなわち、十三次元の大宇宙霊の意識体の内部で、核融合、核分裂のような現象、あるいはまた、大きな宇宙花火のような現象がつぎつぎと起きたのです。いわゆるビッグ・バン現象です。
 こうして、十三次元宇宙霊の内部に、人体でたとえるならば、内臓諸器官のような三次元空間がポッカリとできあがってきたのです。それは、もちろんまだ、現在のような整然とした宇宙空間ではありませんでした。いわば、透明なクラゲのような胃袋状のものが突然出てきたといった感じでした。このクラゲのような宇宙空間を明瞭化するために、十二次元の星雲意識、十一次元の恒星意識、十次元の惑星意識が協力しあって、三次元宇宙空間に、惑星、恒星、星雲というものをつぎつぎと具体化していったわけです。
 この四百億年前の三次元宇宙空間の出現以来、各星雲、各太陽系で、宇宙創造の進度は異なります。銀河系のなかでも、わが太陽系が三次元宇宙空間に出現したのは、約百億年前です。七十億年前には水星が、六十億年前には金星が、そして、約四十五億年前に地球が誕生しています。これが、私たちの星の誕生です。星もまた、生命をもつ意識体として最初の存在なのです。
(45~48ページ)

ここでは、約1千億年の宇宙の歴史が、さりげなく語られています。

そして、その先に人類の誕生の歴史と、エル・カンターレという霊存在の秘密が淡々と説かれていくわけです。

いま、科学の世界で教えられている宇宙の歴史とは、かなり違っているように思います。

なぜ、違いが出てきたのでしょうか? そして、その歴史の続きは?

そのあたりについては、また次の機会に! 

『太陽の法』

 大川隆法著

 

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霊界って、どういうふうにものが見えるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 不思議なのですが、霊界でのものの見方、感じ方というのは、どうやら一通りではないのです。まったく同じ光景であっても、見る人が違えば、どうやら違うように見えるらしいのです。
 同じ川の水を見ても、全然違うように見えるのです。たとえば、魚が見ればそれは住処(すみか)に見えます。普通の人であれば、それを普通の川として見ます。ところが、餓鬼地獄の亡者がその川の水を見ますと、それが火の海に見えたり、あるいは血の膿が流れているように見えたりするらしいのです。まったく同じものが、そのように違って見えるのです。
 なぜ、そのように火の海に見えたり、血の膿に見えたりするのでしょうか。結局、それを見ている人の心に色眼鏡が掛かっているから、あるいは心のレンズが曲がってしまっているから、そのように見えるのです。
 同じ川であっても、魚はそれを住処と見、普通の人間は普通の川と見、地獄の亡者には、血の膿が流れているように見えるのです。また、その同じ水を天国の人が見ると、とても透き通った水晶のような、きれいな輝きに見えるのです。同じ水が水晶のように輝いて見える、あるいはダイヤモンドの塊のようにも見える──そのように美しく見えることがあるのです。
 これは、仏教の唯識派の説く考えで、「一水四見(いっすいしけん)」と言います(中略)。一つの水に四つの見方があるということです。この一水四見のような見方が本当に現実化してくるのが、あの世の世界なのです。
 ですから、あの世に還ってどのようなものを見たとしても、心しなければいけないわけです。気をつけないと、自分の心のレンズに合わせた図、映像を見ていますから、本当にそうなのかどうかということを、もう一度、よく確かめてみる必要があると思います。
 これがあの世におけるものの見方の原理の一つです。
(138~140ページ)

誰かとケンカになったときに、あとで仲直りしてから話してみると、同じ体験をしたはずなのに、それをぜんぜん違うものとして見てたり感じてたのが原因だったってこと、ありますよね?

たとえば、自分は親切にしてあげてるつもりだったのに、相手は、わざわざ意地悪されてると感じてた、とか。

この世でもそんなことが起こるわけです。

ですから、思いがすべての「霊界」では、同じ川が、見る人の心境によって、まったく違ったものに見えるというのが、もっと極端な形で現象化するんだと思います。

そういうふうに考えてみると、「一水四見」って、これはけっこう覚えておくべき言葉なんじゃないかと私は思っているのです。

 

『宗教の挑戦』

  大川隆法著

 

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あーあ、孤独だなあ。こんなに苦しいのに、だあれも私のこと、気にしてもくれないんだよなあ。独りで生きて行くのかなあ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ここで、私は一つの真実を語っておきたいと思います。それは、地上にて人びとが苦しんでいる時には、天使たちも共に苦しんでおり、天使たちも共に悲しんでおり、天使たちも共に祈りつづけているということです。
 みなさんが病に苦しんでいる時には、天使たちも、その病が一日も早くよくなるように祈っています。
 地上が戦乱に巻き込まれる時には、多くの魂が迷わないように、傷つかないように、一日も早く目覚めるように、天使たちは集団で祈ります。
 また、地上に悪しき法が広がり、間違った教えが説かれている時にも、天使たちは、必ずや真実の法が広がり、多くの人が救われるように祈っています。
 そして、天上界から地上に出た光の天使が、伝道の途上で、さまざまな苦難や困難に見舞われた時には、「どうか道が開けますように」と、天上界の天使たちも心から祈っているのです。
 このように、祈りは地から天にだけ通じているものではなく、天においては、地への祈りというものもあるのです。
 天使たちであっても、自由意志で生きている地上の人たちを、思うがままにはできません。ただ、「なんとかして、地上にいる人たちをよい方向に導きたい」という願いを、彼らは持っています。
(102~104ページ)

この世のむずかしさは、いくら使命がある人であっても、それに自分で気がつくのは簡単ではない、ということ。

そして、いくら天上界で見守っている存在がいてくれても、それをこの世ではなかなか認識できない、ということ。

そのうえ、天上界の存在は、地上で生きている私たちを思い通りに動かすことはできない仕組みになっている。

だからこそ、天上界では、天使たちがともに祈ってくれている──。

私たちは、けっして独りではないって。

そう、自分の心の中を静かに見つめたときに、天使たちの暖かい念いが、伝わってきませんか? 

『愛から祈りへ』

  大川隆法著

 

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エル・カンターレという方が、日本に生まれて、法を説いておられるんだよね。でも、なんで他の国じゃなくって、この日本なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『理想国家日本の条件』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 今から一万二千年ほど前には、みなさんも聞いたことがあるであろうアトランティスという大陸が、大西洋上に浮かんでいました。非常に優れた文明です。(中略)現在、ピラミッド・パワーということがよく言われますが、当時のアトランティスには、透明なピラミッドが街のあちらこちらに立っていて、太陽の光を受けて銀色に光っていました。太陽エネルギーを受けて、みなさんがまだ経験していない未知なるエネルギーを結集させ、貯蔵し、それをさまざまな動力源に変えていました。(中略)
 その当時、私はトスという名前でみなさんを指導していたことがあります。アトランティス末期において、政治、経済、科学技術、それから宗教、そうしたさまざまな面を統合した指導者として、みなさんに教えを説いたことがあります。(中略)
 このあと千年ぐらい経って、アトランティスは次第に海中に没していくことになりますけれども、当時のアトランティスの文明というのは、やがて今のアフリカ大陸のエジプトのほうに移っていきます。エジプトでは、今からちょうど一万年ぐらい前から文明らしきものが始まり、八千年ぐらい前から本格化して、紀元前後ぐらいまで非常に高い霊文明が発達しました。
 アトランティスの当時、トスという名で呼ばれていた指導者である私は、霊天上界に還って、エジプト文明をつくるための指導をしました。それがエジプト文明の霊的な起源です。そのとき、エジプトの人たちからは、トスという名前ではなく、トートの神、あるいはトートという名前で呼ばれています(『トートの書』というものが現代に伝わっています)。
 いまエジプトには石で造ったピラミッドがありますが、その原型はアトランティスにあった銀色のピラミッドです。その文明がエジプトに伝わったのです。(中略)
 さらに、四千年あまり前には、クレタ島にヘルメスという名で生まれて、地中海文明の基礎をつくりました。このギリシャ文明がやがてローマ文明へと広がっていったときに、エジプトでの文明は終焉を迎え、ギリシャ、ローマ、そしてヨーロッパの、ここ二千年にわたる文明が育っていくわけですが、四千三百年ほど前、ヘルメスという名で地上に生まれ、そして霊天上界に還ってからは、ヘルメス神としての指導を始めました。このときには、エジプトに対しても、ギリシャに対しても、両方に対して霊界から指導をしました。
 エジプトのほうでは、トートの神とヘルメスの神が一体となって、「トート・ヘルメス体制」と呼ばれ、このトート・ヘルメス体制がエジプトの人たちを指導していたというように歴史的には遣っています。そのように魂の兄弟が一体となってエジプトを指導していました。このトート・ヘルメス体制というのは、非常に霊的なことを強調する体制で、さまざまなる秘技、秘術、霊的なる儀式、奇蹟、こういうものをそうとう起こしました。(中略)
 イスラエルにおいても、さまざまなる預言者が数多く出て、神の教えを説いていますけれども、イスラエルの民族においては、私はおもにエルという名前で呼ばれています。(中略)これは「エル・カンターレ」のエルであって、エルの神、エル・シャダイ、エルヒムあるいはエロヒムという名で呼ばれたりしています。(中略)
 さらにインドにおいて、新たに仏教というものを興して、インドからチベット、中国、それから東南アジア、日本へと、仏教文明が現在まで転々と連なってきています。
 こうした過去の流れというものを鳥撤し、そしてまとめて見てみると、どうやら現代という時代は、ここ数千年のあいだ、西洋と東洋に分かれて育ってきたさまざまな文化・文明が、一つに融合しようとしている時代であることが明らかであろうと思います。
 アトランティスからエジプト、ギリシャ、ローマ、それからフランス、ドイツ、イギリス、アメリカへと渡った文明──アトランティス発祥の、この西洋型文明。また、東洋へと向かっていった文明。この両者が、地球をそれぞれに半周して、東の国である日本という小さな島国を、新しい霊的磁場として選んだのです。すなわち、過去の歴史においては、押し寄せてきた波の終着点として、未来に向かっては、その発進点として、この小さな日本を選んだということです。
(226~234ページ)

西洋文明の流れとしては、1万2000年前、アトランティスにトスとして生まれた方は、霊天上界に還り、アトランティス文明を引き継いだエジプトにおいて、トートの神として崇められた。

その方は、4300年前に今度はギリシャに、ヘルメスという名で生まれ、西洋文明の源流となっていった。霊天上界に還ったヘルメス神は、ギリシャの指導もしたが、エジプトに対しては、トートの神と一体となったトート・ヘルメス体制で指導した。そして、イスラエルでは、エルの神やエロヒムと呼ばれた。

これに対して、東洋文明は、2500年前にインドの地で、このトスやヘルメスの過去世をもった方が、今度は仏陀(釈尊)として仏教を説いて、これがチベット、中国、東南アジア、日本へと流れてきて、別の文明を形作った。

この二つの文明が、それぞれ地球を半周して流れ込んできている日本の地に、トス、ヘルメス、仏陀の過去世をもった方が、今度は大川隆法先生として生まれ、新たな法を説いておられる──。

つまり、天上界は、過去の二つの文明の流れの終着点として、そして未来に向かっては、これを集大成した新たな文明(エル・カンターレ文明)の発信基地として、この日本という地を選ばれたのだと私は理解しているのです。

 

『理想国家日本の条件』

 大川隆法著

 

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モテるって、多くの人に愛されてるってことだし、いいことだよね。だから、結婚なんて、しなくていいよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 男性であれば、「あの女性もいい。この女性もいい」といろいろ思うのですが、たとえ、ある男性の心の望みが達成されて、全世界の女性を自分のものにすることができたとしても、その人がはたして幸福になるかどうかを考えてみると、「ならない」という結論になります。
 なぜかというと、今度は、その全世界の女性たちが自分以外の男性を好きになったりしないかどうか、ということを考えはじめると、嫉妬心で夜も眠れなくなるからです。
 逆も同じです。天下の美女、才女というような女性がいて、いろいろな男性から、次々とプロポーズされたり、つき合いを求められたりするようなことがあります。傍目(はため)には非常にうらやましく見えます。
 しかし、天下の男性の恋心を一身に集めた女性が、はたして幸福かというと、必ずしもそうとはいえないのです。
 人間は非常に霊的な存在なので、ある人のところに、いろいろな人の念が集まってくると、その人はその影響を受けます。大勢の男性のいろいろな想念、欲望や嫉妬の念を受けると、よい人生を完結することができないことが多いのです。
 また、男性の場合と同じく、女性が大勢の男性にもてて、男性たちを自由自在に操れるように思ったとしても、そうした男性たちを、自分以外の女性に心を向けないようにつなぎ止めようとすると、結局はそれが苦しみになって、自分自身を不幸にしていくことになるものなのです。
 人の心というのは、なかなか自由にできないのです。相手が一人でも、なかなか自由にできません。ましてや大勢の人の心は、なおさら自由にできないのです。
 したがって、世の男女は、自分にとっていちばん幸福な相手と手を結び、契約をして、「一生、幸福の基地をつくっていこう」と誓い合うわけです。
 そして、夫婦が相和していて、子供も家庭のなかで調和している場合には、そのなかに悪霊は入ってこられません。そうした基地、光の家をつくらなければならないのです。
(42~45ページ)

かりに全世界の女性を自分のものにできたとしても、その男性は幸福にならない。女性たちが自分以外を好きになったりしないかと、嫉妬心で夜も眠れなくなる。

逆に、天下の美女が、男性の恋心を一身に集めても、必ずしも幸福ではない。大勢の想念や念を受け、よい人生を完結できないことが多いし、男性たちをつなぎ止めようとすると、結局はそれが苦しみになっていく。

人の心というのは、自由にできないものであるから、世の男女は、自分にとっていちばん幸福な相手と契約をして、幸福の基地をつくっていこうと誓い合うのである──。

なお、男女ともに、一定割合で結婚せず仕事をすることを予定している人もいると、大川隆法先生は説いておられますので、このお教えがあてはまらない方も一部おられることは注意したいところです。

それはそれとして、要は、一時期いろいろな異性に惹かれていてもいいのであるが、ある時期が来たら、一人の連れ合いと家庭を作っていくのが、やはりもっともスタンダードな幸福への道なのだと私は思っているのです。

 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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仏教思想って、本ごとにバラバラなこと言われてて、何がなんだかわからんないんだけど、どう整理して理解していけばいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦には、八万四千の法門があったと言われるほどに、その教えの内容には高低があり、その幅にも、目を見張るようなバラエティがあります。しかし、その考えの柱を取り出すと、次の五つになります。
 一番目の柱とは、実相世界と地上世界、すなわち、三次元の現象世界との関わりです。釈迦が常々説いていたのは、こういうことです。
 人間には、生まれて来る前にそこにおり、死して、またそこに還る永遠の実相、実在世界があり、この世は仮の世にすぎないのだ。実在の世界が、根元の仏の創造意志によって現出したように、この三次元世界も、実在の世界の投影にすぎず、人間は、影絵の世界に住んでいるようなものである。この影絵の世界、仮の世界こそ唯一の世界だと錯覚して、人々は、地上に執着を持ち、さまざまな苦しみをつくってゆくのである。この苦しみから逃れるためには、自分が本来いた実在の世界を想い起こすことだ。そして、物質人間の執着を断って、本来の実相人間になることだ。さすれば、そこに生の苦しみなく、老いる苦しみなく、病の苦しみもない。そこにあるのは、ただ歓喜の世界であり、光煌めく光明の化身としての人間なのである。人々よ、このことを、まず、悟りなさい、と。これが教えの最初の柱でした。
 教えの二番目の柱とは、時間論です。一番目の柱を空間論とするならば、二番目の柱は、時系列的なものの考え方にあります。そのひとつが縁起の法です。この現象世界、実在世界を貫く法則は、原因と結果の法則であり、あるできごとと次なるできごとを結びつけるもの、あるいは、ある人と次なる人とを結びつけるものを縁といいます。そして、すべてのものごとは、この縁によって生ずるのです。しかも人間は、永遠の時間の流れのなかで生まれ変わり続けてゆくという転生輪廻の法則から逃れられない存在なのです。この転生輪廻も、原因あって結果ありの因果の法則に支配されております。
 来世がどのような世界で、どのように生きるかは、今世をどう生きるかにかかっており、今世の自分の魂の傾向とか、自分がおかれた環境などは、前世に起因しているのです。しかし、逆にいうならば、今世を素晴らしく生きることによって、輝ける未来世が約束されているのだと言えます。ですから、悪しき因果の循環を断つためには、今世において努力精進し、運命に翻弄されている自分の生活を立て直す以外にないのです。これを解脱といいます。そして、運命に支配されない金剛不壊の目分を発見することを悟りというのです。しかも、悟りによって如来の境地に達すれば、人間は、因果の法則で転生輪廻することから解放され、自分の自由意志によって、転生をすることが可能となります。こういう教えが、二番目の時間論なのです。
(144~146ページ)

というわけで、いろんな整理の仕方があるんでしょうけれども、ここでは『黄金の法』で、「思想的観点」から整理されている5つの柱の、さわりの部分を引用してみました。

5つの柱とは、1つ目が空間論、2つ目が時間論。

そして、3番目以降は?

気になる人は、ぜひ大川隆法先生の『黄金の法』を、ひもといてみて下さいね! 

 

『黄金の法』

 大川隆法著

 

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宗教って、民主主義の社会にはなじまないものだよね。だから、政教分離なんだよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ダイナマイト思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本には民主主義が繁栄しているように見えますが、日本の民主主義の基礎にあるものはにせものです。私はそれをはっきり述べておきます。民主主義の基礎にあるものは「神の心」でなければならないのです。
 民主主義が始まったのは二千何百年か前のギリシャでしょう。ギリシャの国は神を百パーセント信じている人たちの集まりでした。神を信じている人たちが、神の理想を実現するために、心を寄せ、みんなで努力して政治を行なっていたのです。そのような理想があってこそ、真なる民主政というものが成り立ったのです。
 神というものがなくなれば、多数が集まったとき、そこに現われるものは衆愚政です。そして一部の独裁者によって迷わされる全体主義が始まっていったのです。ヨーロッパで崩壊した全体主義の流れを見てください。神なき指導者たちが教えた指導方針のもとにやってきた国の体制が崩れたのです。
 宗教と民主主義とは両立しないものではありません。一体のものなのです。その基礎に神を信ずる心があってこそ、人びとは理想に向かって努力をし、その努力が素晴らしい政治、経済を生んでゆくのです。
 日本の民主主義は物質的なる繁栄のみであって、そのなかに心がありません。精神がないのです。これこそが、いま求められているものであり、変革を余儀なくされているものなのです。私たちがやろうとしていることこそが、真の民主主義の道なのです。
 これは私だけの考えではありません。マックス・ウェーバーという社会学者も、『古代ユダヤ教』という本で、「民主主義の時代には宗教が繁栄する」と書いています。その通りです。一人ひとりが、神の心を求めて、真なるものを求めて活動するときに、社会は繁栄するのです。だから民主主義と宗教は一致するのです。
 そして真なる民主主義は、徳治政、徳治主義とも一致するものなのです。真に人びとが神の理想に燃えて努力し、おたがいのなかから最高の人を選んでいく過程を取り、そうした人を選んでいったならば、その頂点に立つ者は、最も徳高き者になるのは当然のことであって、民主主義の真なるものは徳治主義とまったく同じものとなっていくのです。
 これを間違えてはいけません。
(247~249ページ)

歴史を遡って見てみるならば、宗教と民主主義とは両立しないものではなく、実は一体のものである。

神を信じている人たちが、神の理想を実現するために心を寄せ、努力して政治を行なっていくのが、真なる民主政である。

そして、真なる民主主義は、徳治主義とまったく同じものとなっていく──。

今日のお教えは、ちょっとむずかしく感じる方もいるかもしれません。

学校ではまったく教えてくれないお話ではあります。

だけれども、勉強してみれば勉強してみるほどに、この大川隆法先生のお教えは、宗教が独特の話をしているわけでもなんでもない、とても普遍的な事柄を教えて下さっていたことがわかってきます。

要は、西欧の民主主義の歴史を学びさえすれば、信仰あってこそ真の民主主義である、ということなのだと私は理解しているのです。

 

『ダイナマイト思考』

 大川隆法著

 

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彼岸の中日だよね。先祖供養しなきゃね。なにか注意点って、あるの? なーんて素朴な疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の生命の世界』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 教団によっては、先祖供養を重大視するあまり、朝も昼も晩も、年中無休で先祖供養ばかりを行っているところがあります。それが正しいかといえば、霊的な真実を見るかぎり、一定の疑問があります。
 「先祖を供養したい」という子孫の念が、愛念として実る場合はよいのですが、そうではない場合があります。それは、子孫の側、生きている人間の側が、何とか救われたくて供養している場合です。(中略)
 ここに、微妙ながら、すり替えの起きる可能性があります。供養というものは、本来は「与える愛」であるにもかかわらず、子孫の側が、わが身かわいさ、浮世の生きやすさのために、「先祖が悪さをしないように」という思いで供養していると、そこに「奪う愛」が生じやすいのです。(中略)要するに、自己責任がゼロで、すべてを先祖のせいにしている場合です。
 この場合は、供養しても供養しても、先祖は、「そうか、そんなに幸せになりたいのか。では、もっと供養しろ」と、毎日、子孫の家のなかに居座るのです。そうなると、その先祖は、あの世での修行をまったくしなくなります。
 生前、間違った生き方をした場合には、地獄で苦しみを受けることが修行なのです。これは大変ではあるのですが、一定期間、地獄の苦しみを経ることによって、「自分はここが間違っていたのだな」と悟るわけです。
 しかし、地獄から出てきて家のなかに居座っている先祖は、そういう修行をせずに、「もっと供養しろ」「お供えのご飯が少ない」「こんな安物の花ではだめだ」「嫁の心掛けがよくない」「息子が、供養しないで酒ばかり飲んでいる」など、何だかんだとケチをつけるのです。
 なかには、「自分がこんなに苦しんでいるのは、子孫が、ぐうたらで、一生懸命に供養しないからだ。みんな子孫が悪いのだ。だから、子孫を懲らしめてやらなくてはいかん。子供の一人ぐらい、事故にでも遭わせてやろうか」などと考え、実際に悪さをする先祖もいます。
 この辺が先祖供養の非常に難しいところです。(中略)
 心が調和していて光の強い人、守護霊の光が降りていて人々を救済する力を持っている人が、先祖供養をした場合には、その光は、確かにあの世の霊人に届き、彼らの苦しみを軽減する力を持っています。
 しかし、そうではない人が、「先祖の霊さえ追い払えば、何とか幸福になれる」と思い、自分が救われたい一心で供養している場合には、先祖と子孫が〝同じ穴のムジナ″になり、一緒に苦しんでいるというケースが多いのです。
(175~180ページ)

毎日毎日、生きている子孫が、何とか救われたくて先祖供養ばかりしている場合、微妙にすり替えが起きやすい。

この場合、もっと供養しろと、子孫の家のなかに居座ったり、子孫が悪いから懲らしめなくてはならないなどと考え、実際に悪さをする先祖もいる。

心が調和していて光の強い人、守護霊の光が降りていて人々を救済する力を持っている人ではない人が、自分が救われたい一心で供養している場合には、先祖と子孫が〝同じ穴のムジナ″になり、一緒に苦しんでいるというケースが多い──。

先祖供養は、まずは、幸福の科学の支部で、8月中旬に行なわれる「お盆の幸福供養大祭」に参加するのがお勧め、ですね。そして、宇都宮の総本山・正心館や、那須の総本山・那須精舎などでは、この時期、「総本山・先祖供養大祭」が行なわれていると思います。

あの世の霊人(ご先祖)に、光を確かに手向けるためには、やはり、幸福の科学の光の拠点の行事に参加するのが安心だと私は思っているのです。

 

『永遠の生命の世界』

 大川隆法著



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私って、こんなにいろいろ、人にやさしくし尽くしてるのに、ぜんぜん幸福感なんてないんだよね。「与える愛」って教え、間違ってないの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人に対して、いろいろと親切にしたり、優しくしたりするけれども、結局のところ、なかなか幸福になれないという人がよくいます。なぜ幸福になれないのでしょうか。それは“慈悲魔”になってしまうからです。そうしたことが往々にしてあるのです。
 とにかく、人によかれと思って、いろいろと世話を焼くのだけれども、相手にはいやがられ、自分も漠然としたむなしさを感じる人。相手に尽くしているにもかかわらず、相手には感謝もされず喜ばれもせず、自分としては、むなしい気持ちを抱きつづけて生きている人――。こうした人はかなり多いでしょう。それは慈悲魔になってしまうことが原因なのです。
 愛は非常に簡単で容易に見えて、その実、非常にむずかしいものなのです。それは、愛のなかには「人を生かす」という働きが入っているからです。そして、人を生かすという働きについては、やはり、人びとや世の中のことを深く知り、人の心の本質を知り、仏の心の本質を知らなければ、なかなか分かるものではないのです。
 したがって、「知に裏付けをされた愛は、ほんとうに世のすべてを生かしめ、はぐくみ、発展させていく愛であるが、知の裏付けがない愛は、もろく、はかなく、崩れやすいものだ」と言うことができます。
(160~162ページ)

いろいろと親切にしたり優しくしても幸福になれないのは、“慈悲魔”になってしまうからである。

愛には「人を生かす」という働きが入っているが、その働きは、世の中を深く知り、人の心の本質を知り、仏の心の本質を知らなければ、なかなか分かるものではない。

この「知」の裏付けがない愛は、もろく、はかなく、崩れやすいものである──。

大川隆法先生がここで教えておられるのは、要するに、知恵をもって愛を与えよ、ということなんだと思います。

「愛には発展段階がある」という教えが、ここでは別の角度から説かれています。

愛の教えというのは、意外に単純なものではなくって、ほんとうに深みがある教えなのだと、改めて私は感じているのです。

 

『永遠の法』

 大川隆法著

 

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仕事は命をかけてやるべきだ、って記事があったよね。でも、どうやったら命をかけれるようになるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 次に、仕事に命をかけるとは、いったいどういうことなのかについて、述べておきましょう。
 第一に言っておきたいのは、仕事に命をかけるためには、どうしても必要な前提があるということです。それは自分の天命を見きわめることです。天命を見きわめることなく仕事に命をかけることは難しいのです。
 たとえどんなに大きな体をした人であっても、もし勉強が好きで好きでしかたがない人ならば、一生、野球のピッチャーとして球を投げつづけることも、プロレスラーとしてリングで格闘することも、その人にとっては命をかける仕事にはならないでしょう。それは本人の魂が、物事を学んでいく、勉強していくということに生きがいを見いだしているからです。
 このように、たとえ大きな体を持ち、相撲取りやプロレスラー、野球選手になれるような人であっても、本来の天命がそこにない場合は、命をかけることは難しくなります。自分の仕事に天命を見いだすというのは大きなことなのです。
 世の多くの人はサラリーマンでしょうが、どうしても現在の仕事に天命を見いだすことができない人もいるでしょう。そうした人は、いまの世の中では転職という道がいくつも開けているので、天命を発見することに力を注いでいただきたいのです。「これは自分の天命なのだ。天職なのだ」と信じることができたならば、命をかける仕事がそこに現われてくるのです。
 とにかく天命の発見が大事です。これで、仕事の半ばは終わったも同然と言ってよいでしょう。どんなに才能のある人でも、天命と違うところに仕事を見いだしたのでは、大いなる成功はできないのです。
 不世出の画家に事務仕事をさせてもうまくいかないように、また、天来の科学者に詩を書かせてもうまくいかないように、それぞれあてはまる場所があります。みずからが何にあてはまるかということを、よくよく見いだしていくことが大事なのです。
(33~35ページ)

仕事に命をかけるためには、自分の天命を見きわめること。

どうしても今の仕事に天命を見いだすことができない人は、天命を発見することに力を注ぐこと。

天命の発見で、仕事の半ばは終わったも同然と言ってよい──。

そうですよね。

自分の天命は何かを、自らに問い続けること。

自分では答えが見つからなければ、幸福の科学の精舎に行って、研修を受けたり、祈願を受けたり、はたまた瞑想して守護霊に聞いてみたりすることで、その答えが見つかるかもしれません。

この秋、幸福の科学の精舎に行ってみることを、みなさまにお勧めしたいと私は思っているのです。


『仕事と愛』

 大川隆法著

 

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知識人に信仰を勧めるのって、やっぱしむずかしいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ほんとうに意味のある知は、能動的な知ではありません。「自分が主人であり、自分に知識があれば、すべてが開ける」というのは、ある程度の段階までのことです。
 ほんとうに深い知とは、「智」、すなわち叡智であり、「宇宙と一体となる」「仏や神と一体となる」という、崇高な存在と交流する部分を含んだ知です。そして、非常に従的な立場、あるいは、非常に受け身的な立場にならないと、その豊かな知は与えられないのです。
 信仰と知は、ほんとうは対立するものではありません。知の下部の、この世的に役に立つ部分に限定された知と、信仰とが対立しているのであって、ほんとうの深い知と信仰とは対立しないのです。両者は一致していくものであり、むしろ、知が信仰を高め、信仰が知を高める部分があるのです。
 修道女にしても、禅僧にしても、この世的な勉強をそれほどしていなくても、極めて知的に高いことがあります。その高さは、いったい何なのでしょうか。それは、洞察の深さでもあり、直観の鋭さでもあり、大所高所からものを見る、澄んだ目でもありましょう。
 このような深い知は、この世的なペーパーワーク(書類事務)やペーパーテスト(筆記試験)で測られる知よりは、はるかに優れたものです。この深い知は、実は信仰と深くつながっています。学問の世界だけで、このような深い知にまで到達することは、そうとうの努力を積まないかぎり無理です。通常は、そこまで行かないのです。
(156~158ページ)

信仰と知は、ほんとうは対立するものではない。

一見対立しているように思えるのは、この世的に役に立つ部分に限定された知にすぎない。

ほんとうの深い知と信仰とは、対立しない──。

この「ほんとうの深い知」については、一度、宗教修行に関連して、ご紹介したことがあったんだと思います。

大川隆法先生は、今回それを、「知と信仰」という角度から教えられたのだと私は思っているのです。

 

『信仰のすすめ』

 大川隆法著



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あの世に持って還れるのは、心だけなんだから、心を鍛えることが大切なんであって、それが幸福の根本だよね。体が二の次になるのは、仕方ないよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 健康生活は非常に大切であり、お金には換えがたいものです。
 肉体をよくコントロールして、健康生活を保つことが、長く幸福に暮らすコツです。それによって、他の人に迷惑をかけることなく、自分自身も楽しい生き方ができるのです。
 病気になる人は、たいていの場合、何か〝無理〟をしています。あるいは油断をしています。また、けがの場合は、不注意によることが多いと思います。
 精神を重視する人には、ともすれば肉体を軽視する傾向があります。しかし、肉体の健康なくして、持続的な幸福感を味わうことは難しいのです。
 「肉体と精神とは関連がある」と思わなければいけません。あの世においては〝精神〟しかありませんが、この世においては〝肉体と精神〟が相互に影響し合っているのです。心が病めば肉体も病気になります。逆に、肉体が病むと心のほうも悪くなってきます。
 現代ではガンで亡くなる人が増えていますが、実は、ガンというものは、ほとんどの場合、精神的なストレス、悩みや苦しみが原因になっています。
 人間は精神が物質化する存在なのです。心のあり方がすぐ肉体に影響し、体調が変わります。心が病むと肉体も痛んでくるのです。
 これは、別に、「悪人だからガンになる」などと言っているわけではありません。
 現代のようなストレス社会においては、心のコントロールが難しく、知らず知らずのうちに無理を重ねてしまい、精神的な疲労、恐怖心、取り越し苦労、心配など、さまざまな圧迫を受けて病気になることが多いのです。(中略)
 精神状態が悪くなると、肉体にも必ず影響が出ます。たとえば、「会社が倒産し、多額の借金をかかえたところ、病気になってしまった」というのは、よくあるパターンです。この場合は、肉体より先に心のほうがまいっているのです。
 また、肉体が病気になると、精神のほうもしだいに蝕まれていき、不平不満や小言が多くなります。他人に対して厳しい言葉を吐いたり、八つ当たりをしたりするようになって、周囲との不調和が起きてきます。肉体が病むと心のほうも病んでくるのです。
 したがって、仏教で言うように、「この世において色心(しきしん)は不二(ふに)である。肉体と心は一体であって分けることはできず、相互に関係し合っている」ということを知る必要があります。その意味で、体の手入れは非常に大事です。
 適切な栄養、適度な運動、適度な休養を体に与えることが健康の秘訣です。栄養に気をつけ、運動を心掛けることが必要ですし、睡眠が足りなくてもいけません。
 「栄養」「運動」「休養」の三つのバランスで健康生活は成り立っています。簡単なことです。
 体の調子が悪くなったならば、この三つのバランスが崩れているのですから、意識的にバランスをとるように心掛けることです。
(14~17ページ)

この世において、肉体と心は一体であって、分けることはできない。相互に関係し合っている。

だから、体の手入れはとても大切なのだ。

適切な栄養、適度な運動、適度な休養──。

うーん、自分を振り返ってみると、すぐ夜更かししてしまったりして、やはり肉体を軽視してるなあと、深く反省です。

改めてこの秋、もう少し運動することからはじめてみようと改めて決意しました。

みなさんは、いかがですか? 


『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

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反省なんて、いやだなあ。なんでそんなことしなきゃなのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 繁栄するために身につけるべき「よき習慣」には、どのようなものがあるでしょうか。
 信仰生活という観点からいえば、「反省」があげられます。これは幸福の科学でよく教えていることです。
 人間は自由性を与えられているため、間違いを犯すことがしばしばあります。思い違いをしたり、間違った行動をしたりします。
 しかし、間違ったことをしても、みずからをよく振り返って反省すると、仏の光が入ってきて、その間違った部分が許されます。「反省によって、間違いが正され、その部分の罪が消える」という法則があるのです。
 その意味で、「反省は消しゴムのようなものだ」と言えます。間違って書いた漢字や計算式を消しゴムで消すのと同じような効果が、反省の力として与えられていて、やり直しがきくようになっているのです。
 一度でも間違ったことをすると、もう取り返しがつかないのならば、人間はしばしば間違いを犯す生き物なので、世の中のすべての人が地獄へ行ってしまうことになります。
 ところが、間違ったことをしても、反省という消しゴムによって、それを消せるのです。間違った思いを出したり、間違った行動をしたりしても、それをきれいに消して、書き直すことができるわけです。このようなことが許されているのは非常にありがたいことです。
 反省は人間にしかできません。動物の場合は、からだが本能的にどんどん動いていきます。
 犬には犬の、猫には猫の、豚には豚の、牛には牛の本能があって、どうしても本能に従った行動をとってしまい、それ以外の行動はできません。動物は本能のほうが強く、植え込まれたパターンに則って動くだけなのです。
 しかし、人間だけは、各人がそれぞれ違った考え方や行動をとることができます。そのような自由性が人間には与えられています。この点が人間に生まれることの幸福なのです。自由性が与えられた結果、間違いも起きますが、その場合でも、きちんと反省をすれば、やり直しがきくのです。
 反省には、この世での反省だけでなく、死後、あの世に還ってからの反省もあります。 よき習慣の一つとして、反省は非常に大切なものです。
(141~144ページ)

反省は消しゴムのようなものだ。

そして、反省は人間にしかできない。

こんなありがたいことが、人間だけに許されている幸福を知れ──。

反省って、やらされるようなイヤなものなんじゃないんですね。

反省させていただくことで、やり直しが効く、仏の慈悲だったわけです。

これは凄いことではないかと、改めて私は感じいっているのです。

 

『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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私の悩みって、心の問題なんだから、他の人には分かってもらえないのよね。あーあ、パシっと私の悩みの原因を明らかにしてくれる、悟りを開いた人って、身近にいてくれたらいいのになあ。・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 たぶん、みなさんの悩みの七、八割ぐらいは、経済力がつくと解消するはずです。「自分の悩みは精神的なものだ」と考えているでしょうが、みなさんの悩みの七、八割は、経済力がつくと意外に解決するのです。
 みなさんの収入が今の十倍になれば、悩みの八割はまず消えると断言できます。意外にそうしたものなのです。
 たとえば、主婦の方が疲れてしょうがないとします。「なぜ疲れるのだろうか」と考えてみます。そうすると、何のことはない、ふだん買い物に行く所が家から遠いのです。お金がないものだから、駅から遠い所に家を建てざるをえなかったのです。そのために、買い物に行くのに二キロも歩かなければならなくて、くたびれてしょうがない、それだけのことだったということがあります。
 そうしてみると、解決するにはいろいろな方法があります。お金があれば、自転車を買うというやり方もあります。これは安く上がる方法です。ほかには、たとえば自動車を手に入れるというやり方も、もちろんあります。「自分は車の運転ができない」と言うかもしれません。しかし、その場合は、車を運転できるお手伝いさんを雇えばいいのです。そして、車を手に入れれば解決です。他人の買うものが信用できないのならば、誰かに運転してもらって買いに行けばそれでいいのです。経済力だけで片づく問題です。それだけのことで、いつも不平不満のかたまりになっていたはずです。
 また、「子供が病気だ」「おばあちゃんが病気だ」というようなことから出た困難もあります。これなども、人手があれば解決することがあります。意外なところに解決の手立てはあるのです。
 また、「子供の頭が悪い」と言って悩んでいるけれども、お金がないだけのこともあるのです。お金があれば私立の学校にでも行かせることができるのに、お金がないから国立でないとだめだということで、「おまえは頭が悪い」と言って子供をいじめているのです。これは、親の甲斐性がないというだけのことです。お金があれば私立にでも行けるのですが、国立にしかやれないという前提でいじめているのです。そのようなことがあります。
 こうしてみると、家族の悩みの〝ピン〟(原因)のところが、意外に経済的な問題であることが、現代では多いのです。
 そうであるならば、そこに止まって悩んでいるのではなくて、ほかに道はないかどうかを考えてみる必要があります。(中略)現状で勝手にネックを決めるのではなくて、常に、「どうすれば道は拓けるか」「何か工夫はないか」ということを考える必要があります。これは大事なことです。
 単に逆境に流される、あるいは不平不満を言うということではなくて、逆境は逆境としていったん受け入れるけれども、それをバネとして、さらに前進していく方法を考えていく必要があるということです。
(59~63ページ)

現代の「仏陀」(悟りを開いた人)である大川隆法先生は、自分の悩みは、実は、経済的な問題にすぎないのではないか、と発想を変えてみよと教えられます。
(ただ、これを〝お金がすべて″という教えだと誤解した人がいましたが、そういう教えじゃないですよね)。

もしそうであると分かったときには、対策も出てきます。

収入を上げる。支出を下げる。もっと根本的に生活パターンを変えてみる、等々。

要は、悩みが出てくるような逆境に対して、ただ流されたり、不平不満を言うだけではだめだ、と。

そうではなく、その環境をいったん受け入れた上で、それをバネとして、さらに前進していく方法を、思考を柔軟にして常に考え続けよ、と。

それが「常勝思考」としてまとめられている大切なお教えの一面であるのだと私は理解しているのです。

『常勝思考』

 大川隆法著

 

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臓器移植って、臓器を提供しようとしてる人の愛の行為なんだから、いいことじゃない。何か問題あるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
 
 臓器移植は、臓器の提供者が、執着を持たず、愛の行為として、「他の人にあげたい」という純粋な気持ちで行うなら、悪いことではないようにも思えます。
 しかし、実際には、死んでも、すぐには自分の死に気づかない人がほとんどであり、死後、スムーズにあの世へ移行することができず、しばらくのあいだは、何が何だか分からない混沌状態に置かれることが多いのです。
 その段階で、生前は「自分の臓器を他の人にあげよう」と言っていた人が、ほんとうに自分の臓器などに執着を持っていないかというと、疑問があります。たいていの場合は、肉体への執着があるので、移植先の人のところへ魂も引っ越し、その人に取り憑きます。
 臓器を貰う側にとっては、「庇を貸して母屋を取られる」ではありませんが、「臓器を貰って体を取られる」ということになるのです。その結果、「臓器を貰うと、人格が変わり、別人のようになってしまう」ということが数多く起きています。これについては真相を知っておいたほうがよいでしょう。
 臓器移植によって、「拒絶反応」が起きることもありますが、「人格が変わる」という例も多いのです。これは臓器提供者の霊に完全憑依をされることが原因です。しかし、その霊は簡単には追い出せません。「この臓器は私のものだ」と言い掛っており、その主張には一定の正当性があるので、なかなか追い出せないのです。
 魂と肉体とは「霊子線」(シルバー・コード)というもので一対一に結びついているのですが、臓器を移植された人は、もう一つ、臓器の部分で他の魂と結びつきができるので、どうしても二重構造の人格になってきます。
 臓器を提供してくれた人が、たまたま、天使のような、善意の人だったらよいのですが、霊的に見て悪い人から臓器を貰う場合も多いでしょう。「やくざの抗争で撃たれて脳死状態になった人の心臓を移植される」といぅことにでもなったら、たまりません。おそらく、かなりの人格変化を起こすでしょう。
 そういう意味で、悪い人の臓器は貰いたくないものです。貰うと、相手の悪い人格がザーツと入ってきてしまいます(中国では死刑囚の臓器を使うという)。
 霊は、臓器を提供していなくても、この世の人に憑依するのです。ましてや、臓器という足場、橋頭堡があると、非常に強力です。「この世で生きたい」という執着がある霊は、そういう足場があれば、ずうっと居座ります。これは、その霊の意識の一部が臓器とともに入っているので、そう簡単には追い払えないぐらいの強さです。
 臓器移植は、霊的な真相をよく知っていないと怖いものなのです。臓器移植をするのならば、その辺の真相をよく知った上で行ってください。
(40~43ページ)

死んでも、ほとんどの人はすぐには自分の死に気づかず、しばらくのあいだは、何が何だか分からない混沌状態に置かれることが多い。

その段階では、たいていの場合、臓器の提供者も肉体への執着があるので、移植先の人のところへ魂が引っ越し、その人に取り憑く。

その結果、臓器を貰うと人格が変わり別人のようになってしまうことが数多く起きている──。

移植手術をする外科医はもちろんのこと、臓器移植を受けようと考えている人には、まずはこの霊的真相を知ってもらう必要があると私は思っているのです。

 

『霊界散歩』

 大川隆法著

 

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