ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



経済って、宗教と関係ないよね。でも、現代社会で生きてる以上、株価がまた下がったとか、金融危機とか、経済恐慌じゃないかとか、やっぱ経済と関係なく生きてくのはむずかしいと思うんだけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

諸人よ、これより後、よくよく心しなさい。
経済はあなたがたの心を王者にするがために仕えるのであって、
経済のために心が仕えてはならない。
これだけを忘れてはならない。
心清く生きて富める者は幸いである。
そのような者は、その経済力をひとつの力として、
より多く心を磨き、心の修行の場を得、
多くの人びとに感化を与えよ。
また、経済に力無き者であるならば、
しかし、そのことをもって大きな苦しみとすることなかれ。
経済を苦しみとしてはならない。
貧しきことをもって苦しみとしてはならない。
経済的破綻をもって苦しみとしてはならない。
されどもまだ永遠不滅のものがある。
その永遠不滅の魂を、心をこそ磨くという最後の仕事が残っている。
最後の仕事にして最初の仕事、
最初の仕事にして最後の仕事、
それは、いかなる環境下にあっても己が心を磨き続けるという仕事だ。
この己が心を磨き続けるという仕事に、経済という原理を当てはめよ。
己が心を磨きながら、魂の修行をしながら、
しかして経済の原理に奉仕することもまた可能なはずである。
思い返してみれば、貨幣というもので測られている値打ちは、
他の人びとに役立つ仕事をしたならば、
それが豊かさとなって返ってくるということではないのか。
さすれば、あなたがいま貧しいのは、
他の人びとを真に富ませるような仕事をしなかったからではないか。
経済原理における反省というものもあるであろう。
真に人びとの役に立つ仕事をしていて、
富まないということがあるであろうか。
もし、真に人びとの役に立つ仕事をしていて、
自らが富むことなく、いつも経済的危機にあるならば、
智慧が足りないからだろう。
智慧を生かせ。
智慧を生かせば、経済が伸びてくる。
智慧を生かせば、経済は光を放つ。
智慧を生かせば、失敗ということはない。
おそらくは、あなたがたは理想にのみ燃えて、
真によいことをすれば豊かになるはずであるのに、
何ゆえにこんなことになるのかと思うだろうが、
おそらくは、智慧を十分に生かし切っていないのであろう。
智慧を生かすとは、どういうことであるか。
智慧を生かすとは、時間を生かすということである。
智慧を生かすとは、人を生かすということである。
この二点を忘れてはならない。
(172~175ページ)

現代社会で生きるために、経済やお金に関わらざるを得ないのは、私たちを心の王者にするがため。

心清く生きて富める者は、経済力を武器としてさらに心を磨き、多くの人びとに感化を与えていけ。

富むことなき者は、それを苦しみとせず、いかなる環境下にあっても心を磨く修行をするなかで、経済原理における反省をせよ。

智慧を生かせ。時間を生かし、人を生かせ──。

ここで改めてわかってくるのは、いまの不況の時代にあっても、仏法真理には汲めども尽きぬ無限の叡知が光っていることではないでしょうか。

永遠不滅の仏法真理の凄さに、改めて深く思い到った気が私はしているのです。

 

『仏陀再誕』

 大川隆法著

 

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自分自身で努力するってのもいいけど、それだけじゃなくって、自分に幸運を持ってきてくれる人って、やっぱりいるんじゃないかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 運命の曲がり角を見たときに、必ず誰かがそこにいたはずです。自分の流れを変えるところで、あるいは、右か左かまっすぐかを決める分かれ道のところで、必ず誰かが立っていたはずなのです。
 そして、この方との出会いをどうしたかによって、実はみなさんの運命が変わってきていることが多いのです。(中略)人生に勝利していくためには、みなさんを幸運、幸福に導く方との出会いを大切にしなければいけないのです。
 中国には「貴人」(貴い人)という思想があります。そして、「最近、貴人に会われましたか」というような挨拶をすることがあります。(中略)この貴人との出会いというのは、実に大きなことなのです。
 幸福の科学では、基本原則として個人の努力・精進が大事だと言っています。しかし、個人の努力・精進というものは、階段をのぼっていくような地味なことなのです。ところが、この貴人の出現というのは、実は、ちょうどエレベーターに相当するような働きをするのです。そして、このエレベーターに乗ることによって、ドーンと上がってしまい、いままでいたところとは全然違うところに出てしまうことがあります。こうしたことが、人生のうちには何度かあるのです。(中略)
 ある人が、あるときに、運命の鍵を握る人になることがあります。そのときに、そのアドバイスなり意見なりを汲みとって、しっかりとした方向に歩むかどうかが、大事なことなのです。
 こうした方がいつ出てくるか、それは各人で違いますからわかりませんが、自分を導いてくれる人との出会いを大切にしたいという気持ちだけは、忘れてはいけません。すると、そうした方は必ず出てきます。
 そして、その方との出会いによって、みなさんの人生はパーッと光を放ちます。そうした燈めきの瞬間というものは、どのような人でも、人生のうちに必ずあります。もし「ない」という人があったら、それは忘れてしまっているのです。あるいは恩知らずです。恩知らずか鈍感か、いろいろでしょうが、よく考えてみてください。必ずあります。ほんとうは、ここに飛躍への鍵、チャンスがあるのです。
 そうした方との出会い、貴人との出会いというものは、心がけていくと、ほんとうに会う確率が高くなってきます。
 ですから、毎年毎年、「今年はまた、自分の運命を開くためにアドバイスしてくれるような方、導いてくれるような誰かと、会えるのではないだろうか」と思って待っていると、そうした方が出てくるのです。
 さらにもっと短くして、「今月は」と思うと、月単位であっても、みなさんをよい方向に導いてくれる方は出てきます。そのときの条件はいったい何であるかというと、そうした方に会いたいと期待することです。
 そのように期待すると、実際は、自分の守護霊などが働きはじめるのです。
(167~172ページ)

個人の努力・精進を基本的に大事にすべきではあるが、人生には「貴人」との出会いというものが必ずあるはずなので、そのチャンスを大切にすること。

貴人と出会うためには、強く期待すること。出会いを求め、心がけていくこと。

そうすれば、守護霊も働いてくれて、人生の飛躍のチャンスをつかむことができる──。

そうですよね。

私もこれまでの人生を振り返って考えてみると、たしかに節目節目に「貴人」がいてくださって、私を導いてくれました。

でも、その方にはもちろん、そのために働いてくれたはずの目に見えない存在(守護・指導霊)に対して、感謝もしていなかったことに改めて気がつきます。

これを反省して、これまでの貴人との出会いに感謝し、また出会わせていただくことを心から求めつつ、日々、努力精進していくことで、運命はさらにさらに拓けていくのだと私は信じているのです。

 

『常勝思考』

 大川隆法著

 

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よく「仏の子」とか、「神の子」って聞くよね。仏とか神とかがいて、人間をつくったんだって、なんだかイメージできないんだけどな。粘土こねたりするみたいにして、できたって話なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 私は、第1章において、宇宙の創造と地球霊団の成立の歴史を語ってきました。その成立過程からもわかるように、いわゆる天地の創造とは、高次元のものが、下次元のものをつくってゆくという歴史だったのです。つまり、超高次元の根本仏の意志により、各次元に、つぎつぎと高級大霊がつくられる。そして、恒星意識、惑星意識が誕生したあと、大宇宙大霊の内部にひとつの異変が起こり、それが、三次元宇宙のもととなる。そこから、やがて三次元空間に星ができ、星団ができ、それぞれの星、あるいは、各太陽系において、九次元以下の人格霊の生活空間ができてきた。そういうことなのです。
 わが太陽系においても、地球を中心とする霊系団は、まず、九次元宇宙界層ができました。そのあと、八次元如来界(金剛界)ができ、七次元菩薩界(聖天上界)、六次元光明界、五次元善人界、四次元幽界(精霊界および、地獄界)が完成したのです。
 各次元に対応するこの次元構造は、もちろん、ほかの宇宙空間にもあります。しかし、九次元世界は、各星団の霊界とつながっているけれども、八次元世界以下は、それぞれの星に固有の霊界として発達していることが特徴です。
 こうしてみると、通常、ひとことで、魂と呼んでいる各人の生命体は、はるか高次元の根本仏が、下位レベルで発現したものであることが明瞭となります。つまり、根本仏とは、あなたがた以外の別のところにある他者ではなく、あなたがたを存在せしめているところのひとつの高次の意識体なのです。ですから、あなたがた自身も、仏の意識体の一部であり、仏の自己表現のあらわれの一部だということができます。
 つまり、根本仏は、自己表現の一端として、大宇宙をつくり、大宇宙のなかに住む生命体をつくり出したのです。それは、根本仏の意識の反映です。ですから、根本仏が大宇宙の存続を望まなくなれば、この無限にも思える三次元宇宙空間は、ある日、忽然とその姿を消してしまいます。ましてや、あなたがた人間の生命体も、仏が自己表現の意志を放棄すれば、たちまちにして、あとかたもなく姿を消してしまう、はかない存在なのです。しかし、このはかない存在でもあるあなたがた個人の生命体も、仏の意識体の一部であるという意味においては、非常に高度な存在だといえます。
 ですから、あなたがたは、自分自身が仏の一部であり、仏の自己表現の一端をになっていることに、誇りと自信をもつべきなのです。これこそが、魂の真実です。
(70~72ページ)

ここに引用した『太陽の法』は、二十次元以上に位置づけられる根本仏が、一千億年前に三次元宇宙空間の創造を計画されたところから説き起こされる、奇跡の書物です。

ここでは、「天地の創造」の秘密が、「超高次元の根本仏」「高級大霊」「恒星意識」「惑星意識」と続き、大宇宙大霊の内部に起きた異変(「ビッグバン」ですね)で、三次元宇宙のもとができ、星や星団ができ、各太陽系において、九次元以下の人格霊の生活空間ができてきた、と要約して説明されています。

根本仏は、自己表現の一端として、こういうふうに大宇宙をつくり、仏の意識体の一部として、大宇宙のなかに住む生命体をつくってきた──。

いやあ、これは深遠な悟りの世界なので、なかなか簡単にイメージできる話じゃありません。

でも、2000年に公開されたアニメーション映画『太陽の法』は、この天地創造と人類の誕生の秘密を、見事に映像化していたのです。

こう書いていて、改めて私はこの重大な事実に気がついたのであります。

 


『太陽の法』

大川隆法著



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いやあ、人間、ぼけるよね。おやじやおふくろのこと心配してたら、自分も最近、もの忘れが激しくてさ。ほんとに、どうやったらぼけずにすむのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ぼけの原因として何があるでしょうか。
 年を取ると、目が老眼になってきます。普通は、四十代、四十五歳前後からですが、早い人だと三十五歳ぐらいから老眼が始まるそうです。
 老眼になると、近くのものが見えにくくなるので、新聞の小さな字が読めなくなります。週刊誌なども字が小さいので読めません。若いころに読んだ文庫本も、字が小さくて読めないのです。
 字が読めないため、新聞や雑誌、本などを読まなくなります。そうすると、さまざまな情報が入ってこなくなります。
 ところが、体に栄養が必要なように、脳にも〝栄養〟が必要なのです。そのため、勉強的な知識が入らなくなってくると、訓練が行われなくなり、脳が、だんだん枯れてきて、弱ってきます。
 このように、目が弱ってくるあたりから、ぼけが始まるのです。
 また、目が弱るのと同じころに足も弱ってきます。目と足は連動しています。
 足の裏と目と脳は、みな、つながっています。お年寄りはよく散歩をしますが、足が丈夫で散歩ができているうちは、血液の循環がよくなるので、脳も健康になり、目も健康になるのです。
 足をよく使って運動ができていると、目も頭もよくなるので、本も読めるのです。しかし、足が弱ってくると、血流も悪くなるため、頭もすっきりしないし、すぐくたびれてしまいます。本を読むとくたびれ、テレビを観てもくたびれ、すぐくたびれるのです。
 したがって、血流の維持が大事です。
 歩けるうちは、なるべく歩いたほうがよいでしょう。散歩は最も安上がりな運動です。「散歩をすると目と頭によいのだ」ということは知っておいていただきたいと思います。
 ただ、四十歳を過ぎてからは、体が傷みやすくなるので、ハードな運動をすると足や腰などを傷める人が出てきます。ゴルフをしても腰を傷めることがあります。
 「足を捻挫した」「転んで腰を傷めた」などということがきっかけになって、運動が止まってしまうと、その結果、目も頭も弱くなり、知的活動ができなくなって、ぼけが始まるのです。
 このように、目がきっかけになったり、足がきっかけになったり、腰がきっかけになったりして、ぼけが始まります。
 その意味で、健康管理は、とても大事なのです。
 四十代以降もハードな運動を続けられる人もいるのですが、それを続けられなくなったとしても、体の健康維持のことを考えると、ソフトな運動でもかまわないので、なるべく運動を続けたほうがよいでしょう。
(114~117ページ)

足をよく使って運動できていると、血液の循環がよくなって、脳も健康になり、目も健康になる。

そうすると本も読めて、勉強的な知識が入るので、脳も訓練されて、ぼけない──。

要は、ぼけないためには、まず散歩などのソフトな運動でかまわないので、運動を続け、健康管理をする必要があるってことです。

若いうちには、なかなか心にストンとは来にくいお教えなんですけど、でも中年以降の方にとって、健康に関する仏法真理は、珠玉のお教えであると私は思っているのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

 

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毎日せいいっぱい生きてるんだ。やらなきゃいけないこと、たくさんあるし、人生、楽しみも必要だし、たくさん寝るのも大切だよね。正しい生活でしょ。何か問題ある? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 だれにとっても、一日は二十四時間、一年は三百六十五日で成り立っています。また、だれもがやがては地上を去ることになっています。大多数の人は百歳まで生きることさえできません。
 人間は一日の枠のなかで何時聞かを睦眠にとられ、さらに何時聞かは食事など生活に必要な時間にとられます。そして残された時間が、仕事の時間だったり、自分のための時間だったりするのです。
 だれに対しても一日が同じ枠として与えられているという事実は、恐るべきことです。生まれつきの才能などに関係なく、だれに対しても同じく二十四時間が与えられており、その二十四時間をどう使うかによって、その人の人生が決まっていくというのは、このうえなく公平なことだと私には思えます。
 この二十四時間を使って、ある人は一国の宰相となり、ある人は大学者となり、ある人は思想家となりますが、ある人は単なる無為徒食の輩となることがあります。この差は、時間という観点から見たときには、結局、「時間の中身をどのように充実させていったか」ということに起因するのです。
 したがって、正命(しょうみょう)を現代的に翻訳し直すならば、「どのように一日を生きているか。どのように二十四時間を使っているか」という考え方になります。また、「二十四時間の積み重ねである毎月毎年を、どう生きているか」ということにもなります。
 ここで私は大事な事実を指摘しなければなりません。それは、「時間を貴重なものだと考えるならば、一日の枠を一生として考え直し、そのなかで時間をいかに使うべきかに、思いを巡らせなければならない」ということです。
 たいていの人は、「きのうがあったように、きょうがあり、きょうがあるように、あすもあるだろう」と楽観していますが、あすの生命があるという保証はないのです。もし、きょう一日で、きょうの夜中の十二時で、みずからの人生が閉じてしまうならば、さあ、どうしますか。あなたはどう生きますか。「しまった」と思うことのほうが多いのではないでしょうか。
 結局、正命とは、「きょうで生命が終わると考えたならば、おそらく自分はこのように生きただろう」という観点なのです。こうした観点から見たとき、反省すべき点が出てくるはずです。あちらにもこちらにも、さまざまな可能性があったのに、その可能性を捨てて生きていた自分を思い知らされるのです。
 要はこの一点です。「一日を一生と思い、その一日で死んでしまうと思ったとき、はたして悔いのない一日であったか」という観点から、一日の出来事や自分の言動を判断していくことです。これを続けることによって初めて、「正しく生活をしている」と言うことができるようになるのです。
(81~84ページ)

もし、きょう一日で、人生がおしまいだとしたら。

きょうの夜中の12時には、お迎えが来て、あの世に還らなきゃいけないんだとしたら。

それで果たして悔いのない一日を、自分は送ってきたか──。

うーん、ちょっと待ってくださいって思いますよね。

そしてそのとき初めて、自分がどれだけ無駄に時間をすごしてしまって、大切な黄金の時間をドブに捨ててしまったかに気がついて、後悔してしまう。

今日は、仏教の代表的な反省法である「八正道(はっしょうどう)」の、「正命(しょうみょう)」の解説部分を引用したんですけれど、いやあ、もっともっと毎日のすごし方を充実させていかなくてはと、改めて私は深く反省したのでありました。

 

『釈迦の本心』

 大川隆法著

 

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うちの会社、いまはまだ小さいけど、必ず、もっともっと大きくしたいんだ。でも、会社が発展するためには、そもそも何が必要なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 戦後に発展した、いろいろな企業等を見ても、〝異常性のある発展〟をしたところは、残らず、そこの経営者が、〝異常性のある熱意〟を持っています。その熱意は並ではありません。いわゆるサラリーマンの熱意とは違います。サラリーマンの熱意は給料の範囲内でしょう。異常な発展をしたようなところは、すべて、経営者の熱意が普通ではないのです。
 トップのその熱意は、どこから来ているかというと、やはり使命感でしょう。その使命感は、どこから生まれているかというと、「『わが社は何のためにあるのか』という問いの答えを求めて考えつづけている」ということでしょう。
 「社員が飯を食えて家族を養えるために、そして、私が社長を続けられるために、わが社が存在しつづけられるといいな」という答えは、普通の答えなのです。
 しかし、こんな答えでは駄目です。たとえ、小さくても、社員が三十人、五十人、百人の企業であっても、「世を照らす。社会を照らす」という気持ちを持っているところは、やはり大きくなります。
 それ以外の条件もたくさんありますが、まず、そういう情熱を持たないかぎりは発展しません。(中略)
 企業間の競争は多いので、はっきり言えば、なくなったとしても困らない会社ばかりです。会社のほうは、「そんなことはない。うちこそ老舗です」「百年やりました」「有名な会社です」などと言うわけですが、「ほんとうに必要か」というところを、やはり問われているのではないでしょうか。(中略)
 ある会社や店が、いま地上から消えたとして、その当座は、そこで働いていた人たちは困りますが、それ以外の人にとっては、消えて困る会社も店も、そんなにはありません。競争があるので、すぐに、ほかのものへ鞍替えできるのです。
 テレビだって、自動車だって、ほかの会社から買えます。着る物だって、よそから買えます。農作物だって、日本で穫れなければ海外から買えます。
 だからこそ、「なぜ、うちの製品を買いつづけてもらわないといけないのか」「なぜ、わが社がありつづけなければいけないのか」という問いに答えなくてはいけないのです。
 「絶対に必要だ」と言い切るのは非常に難しいことです。
 「『絶対、うちの会社がなければ困るのだ』というものを考え出せ。その哲学をつくり出せ」と言わなければいけません。そうすれば、みんなが燃え上がってきます。そうなれば発展するでしょう。哲学を持っていない会社と持っている会社の違いは歴然です。
 そういう使命感のもとにあるのは、「なぜ、わが社は必要なのか」という根源的な問いを持ちつづける、経営者なり管理職なりがいることでしょう。
 こういう根源的な問いに答えてください。その答えを考えるなかで、やるべきことは、はっきり見えてくるはずです。
(23~27ページ)

並みでない大発展をした企業は、すべて並みでない熱意を持っている。つまり、経営者が、管理職が、この〝異常性のある熱意〟を持っていることが、会社が大発展する秘訣である。

その熱意は、使命感から生まれる。

そして、その使命感は、「わが社は何のためにあるのか」という問いの答えを求め、考えつづけるところから生まれる──。

それでは、「なぜ、うちの製品を買いつづけてもらわないといけないのか」「なぜ、わが社がありつづけなければいけないのか」という問いに対する答えには、どういうものがあるのでしょうか。

大川隆法先生は、「世を照らす、社会を照らすという気持ち」と、さりげなく触れておられます。

つまりこの書籍は、会社経営はもちろん、人生全般で成功していくための秘訣に満ち満ちた、とっても大切な指南の書であると私は思っているのです。
 

『リーダーに贈る「必勝の戦略」』

 大川隆法著

 

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「過去世」ってのがあるんなら、なんで、その記憶がないの。大事な過去の経験なんだから、それをもとにまた今世も生きて行けた方が、効率がいいはずでしょ。記憶を残してくれててもいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間として生まれて来る前に、それぞれの人が属していた霊層、次元世界というものは、もちろんあります。しかし、母の胎内に宿り、赤ん坊として生まれたときは、だれもが平等なのです。つまり、スタートラインは同じだと言えます。人間が、すべて過去世の記憶を忘れてしまうことは、各人の魂修行を平等のスタートラインから始めさせるための仏の配慮なのです。
 たとえば、過去世に、ミケランジェロ、あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチとして生きたことを記憶している子供がいるとしましょう。しかし、その子の人生は、はたして、それで幸福でしょうか。その子供が、過去世同様に、芸術家として生きることを今世の使命として持っているとしても、それを知っているということは、必ずしも幸せな少年時代を意味しないのです。やはり、他の少年と同じように、クレヨンで、下手な牛や馬の絵を描いて、小学校の先生に手直しされているぐらいでよいのではないでしょうか。やがて、長ずるに従って、自分の才能に気づき、芸術家への道を歩んでゆく。そのほうが、その魂としては、はるかに磨きをかけることができるのです。
 イエス・キリストも、処女マリアから生まれる必要はなかったのです。最初から、他の子供と違ったような、いかにも救世主然とした生まれ方をする必然性など何もありません。また、釈迦が、マーヤー夫人の脇の下から生まれ落ちる必要もないのです。たとえ救世主であったとしても、普通の子供として、他の子供と一緒に遊び、かつ学んでゆくなかで、人生への疑問を持ち、その答えを求めて修行をしてゆくうちに、真実の生き方に気づき、やがて、悟りを開き、世の人々を救ってゆく。それでよいのです。それでこそ、ほんものだと言えるのではないでしょうか。
 同じスタートラインに立って走り始める。しかし、やがては、レースのリーダーとなる。そういう人であって初めて、すぐれた指導者と言えるのではないでしょうか。指導者となるべき人が、他の人々よりも百メートルも先のスタートラインに立って、スタートを切る。そして、「後に続く者たちよ。おれについて来い」と言っていたのでは、だれもがやる気をなくしてしまうでしょう。
 栄光のゴールに到達するために、もっとも大切なことは、努力なのです。努力なくして偉人になるということは、まず、ありえないと考えるべきなのです。どのように偉大な人物であっても、やはり、同じくスタートを切って偉大になってゆくのです。人間の偉大さは、その心の広さであり、その志の高さにあります。そして、そのためにこそ、さまざまな人生経験があるのです。
(61~64ページ)

人間に過去世の記憶がないのは、各人の魂修行を平等のスタートラインから始めさせるための仏の配慮であって、そのほうがはるかに意味のある魂修行となる。

他の魂たちにとっても、指導者の魂がはるか先のスタートラインから、おれについて来いというのでは、努力の意欲をなくしてしまう。

出自が偉大な魂(高級霊)であったとしても、他の平凡な魂たちと同じスタートを切って、さまざまな人生経験を経るなかで「努力」を重ねていくことで、偉人になってゆくのである──。

大川隆法先生は、ここでも「努力」の大切さを説いてくださっています。

私たちは、自分がどんな霊層から出てきた魂かとか、過去世がどうだったかは分からないわけです。

けれども、それもまた仏の慈悲と受け止めて、自らがいま与えられたこの肉体と環境で、最善の努力を重ねていって、少しでも仏に近づいていくのが大切なのだと私は理解しているのです。

 

『黄金の法』

 大川隆法著

 

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異星人なんて、ほんとにいるの? 「異星人とのコンタクト」なんて、オカルトやってる人だけのおとぎ話なんであって、きちんとした社会人が口にするような話じゃないんじゃないの? なーんて疑問もってる人いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 ここにあるとおり、宇宙の統治の仕方は集団自治のかたちになっています。これが基本原則です。
 すでに述べたように、何十億年という時代を隔てて、根本仏の意識の一部が散乱し、いろいろな地域に出たわけですが、基本的には、「各集団において自治をしていきなさい。自分たちで治めていきなさい」という方針なのです。
 それはある意味で、自治を任されているリーダーたち自体が仏になっていく歴史でもあります。「各人が仏の考え方を体現して、自治をしていきなさい」という使命が下ったのですから、そこには、そのリーダーたちも進歩していけるという慈悲があるのです。
 各星団においては、最高の星や環境をつくるために、いろいろな人たちが努力しています。みなさんはまだ知らないから気の毒なのですが、宇宙にはいろいろな人びとがいるのです。地球にもかなり来ています。証拠もそうとうありますが、残念ながら、いまだに認められていないようです。
 実は、アメリカ政府は異星人のことをすでに知っているのです。アメリカ空軍はかなり情報を持っていて、異星人とコンタクト(接触)もしています。ところが、日本はまだそこまで意識がいっていません。アメリカに比べ、十年から二十年は後れているでしょう。
 各惑星では、「ユートピア創りに励む」ということが、最高の仕事として与えられています。これを補助する仕事として、各人の職業というものがあり、また、ユートピアの基地として、家庭というものが与えられているのです。
(62~64ページ)

日本の多くが知らないだけで、アメリカ空軍は、すでに異星人とコンタクトもしていて、アメリカ政府は異星人のことを知っている。

何十億年も前に、根本仏の意識の一部が散乱することで、大宇宙が創られ、生命が生成されていき、各宇宙に数多く生まれた霊団には、仏の考え方を体現した「集団自治」が求められ、運営されている。

その一つである、この地球という魂の修行場には、留学や移住みたいな形で、他の星の生命体(異星人)がやってきている──。

世間ではたくさんの書物が、この事実の断片を報告してますし、ネットの世界でも、かなりディープな情報が飛び交っています。事実として異星人は存在しているし、地球にもかなり来ているって。

本書は、1997年に刊行された書籍ですが、その中で大川隆法先生は、仏の目から見て大宇宙はどう創られ発展してきたのか、という大きな大きな視点から説き起こしておられます。 

それから20年以上の時間が経過して、いま、大川隆法先生は、数多くの「UFOリーディング」を公開されることで、UFOに乗った宇宙人の生の声をかなり頻繁に紹介までしておられるわけです。

なんとも凄い時代になったものですが、いずれにしても、〝生命が地球にしか存在しない″なんて話にそもそもなるわけがないし、異星人とのコンタクトが起きるなんてのも、もうあたりまえの話であるのだと私は思っているのです。
 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著

 

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哲学をきちんと勉強した教養人からみるとね、宗教の人が「魂」なんて言ってるのは理解不能だよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 二千年前や二千五百年前の宗教や哲学などを学ぶと、「魂」という言葉は幾らでも出てきますが、現代に近づけば近づくほど、霊的な色彩は薄れ、「精神」や「心」、あるいは、「脳の作用」「神経の作用」という表現になってきます。そして、そのように考えることが、学問的な進歩・進化であるかのように思われがちです。
 たとえば、哲学という学問は、現代では、数学的な考え方や記号論理学の考え方などが入ってきて、非常に難解なものになっています。そのため、「哲学書を読んで、魂が浄化されて、きれいになり、悟りを得られる」ということはなくなっています。哲学は、昔とは違った学問に転化しているのです。
 ただ、プラトンは、はっきりと魂の存在を知っていて、その存在を肯定していました。彼の一連の著作には何度も何度も魂の話が出てきます。しかし、それを読んでいる近現代の哲学者の多くは、霊的な体験がないために、魂の存在について触れていないことが多いのです。
 デカルトやカントあたりから、精神と肉体を分けて考える傾向が強く出てきたので、その影響もあるでしょう。
 精神と肉体を分けて考えることは、「学問の細分化、専門化」という意味では、確かに諸学問を発達させた面がありますが、逆に、それによって物事の本質が見えなくなった面もあると思います。(中略)
 魂の存在を抜きにして、正しい人生のあり方や人生の意味をいくら問うても、根本的な解答を得ることはできません。この世の部分だけを取り上げて人間の生き方をいろいろ議論しても、本質に辿り着くことはできないのです。
 十九世紀後半から二十世紀にかけて、実存主義哲学が流行りました。
 実存主義哲学は、いろいろな人が説いているので、一概に要約はできませんが、その背景にある思想は、「人間は、自分が望んだわけでもないのに、偶然に、この世に投げ出され、何をどうしたらよいかが分からない不安のなかを、手探りで生きている存在である。そういう盲目的な人生を生きているのが人間なのだ」というものです。
 この思想は、私が説いている、「人生の目的と使命」や、「人間は、長い転生輪廻の過程を通し、繰り返し、この世に生まれて、人生修行をしている」という教えから見れば、まったく的外れなものであることが分かるでしょう。
 実存主義の哲学者が説いていることは、たとえて言えば、子供が、「ある日、気がつくと、私は小学一年生になっていて、ある山間部の小学校の教室で、机に向かって座っていたのであった」と言っているようなことに近いのです。
 「私は、なぜ、ここにいるのか。私は、なぜ、このような勉強をしているのか。私は誰なのか。それが、さっぱり分からない」ということが、現代的哲学の一つの姿であると思います。
(162~167ページ)

記号論理学が入った難解な哲学は、本質的なものを求める学問であったはずの、本来の「哲学」ではない。

実存主義哲学などは、人間や人生の本質に照らせば、まったく的外れなことを議論している。

しかし、哲学史にさん然と輝くギリシャのプラトンは、はっきりと魂の存在を肯定して、その著作を書いていた──。

近現代の哲学者の多くは、プラトンの著作の霊的な部分を理解できないために、その部分にあえて触れないことで、プラトンの巨大な哲学を矮小化しているってことだと思います。

本来の哲学は、真なる宗教と対立するものでも矛盾するものでもなかった。

「人生の目的と使命」や「転生輪廻」の真実を説く幸福の科学が、「幸福哲学」を標榜することがあるのも、その意味では当然のことであるのだと私は理解しているのです。
 

『生命の法』

大川隆法著

 

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幸福の科学の建物が近くにあるんだけど、何本か立ってる柱なんか、なんだかパルテノン神殿みたいで、ちょっとギリシャ風のイメージだよね。教えは仏教精神が核にあるんだって説明も聞いたことがあるんだけど、お寺なんかとだいぶ違うじゃない。どう理解したらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代では、ヘルメスはギリシャのオリンポス十二神の一人であり、芸術や文学の神であるとともに、富と繁栄の神でもあると言われています。(中略)
 私は、大川隆法という表面意識、地上に出ている人間としての意識だけがすべてなのではありません。表面意識の奥には潜在意識といわれる部分があります。そして、潜在意識の部分は実在世界に存在しており、個性を持っています。
 実は、私の潜在意識のなかに、このヘルメスの部分があるのです。それを「部分」と呼ぶのは語弊があるとすれば、「一つの記憶」といってもよいでしょう。
 かつてギリシャの地に生まれ、ヘルメスとして生きた時の記憶、その個性としての記憶が、現在ただいまも生きている人のごとく、私に語りかけてくることができるのです。
 人間の本質がいかなるものかを認識するうえで、これは非常に大事なことです。結局、人間の魂は一つの手のようなものなのです。手は手のひらと五本の指でできており、そのなかで、人差し指は人差し指、小指は小指としての分かれた意識があります。しかし、全体としては、手という統一概念で結ばれているのです。(中略)
 同じように、私には霊的世界にいくつかの個性があり、それぞれは互いにつながっていて、一つの霊体をつくっているのです。
 かつてギリシャに生まれたヘルメスは、実は私の潜在意識の一部なのです。そのため、その記憶を出してきて、その個性で語ることが可能であり、本書では、そうしたヘルメス部分の証明もかねて、さまざまな話をしているのです。
 実在界において、ヘルメスはおもに二つの役割を果たしています。
 一つは、繁栄、発展をつかさどる役割です。ギリシャにおけるヘルメスの繁栄が、現在まで西洋文明の繁栄を創ってきたという事実があるのです。
 ギリシャに端を発した西洋文明が、あれほどまでに繁栄したのは、その背後で、ヘルメスがバックアップを続けていたからです。(中略)
 ヘルメスのもう一つの役割は芸術的な部分です。ヘルメスは文学や絵画といった芸術系統の指導もしてきました。(中略)
 そのなかでも、愛が一つの核になっています。この愛には、キリスト教的な愛とは多少違った部分があることは、すでに述べたとおりです。ヘルメスの愛の概念は美と知を両面に備えているものなのです。
 ただ、いまから二千年近い昔に、イエスがイスラエルの地に肉体を持ち、法を説いた時には、イエスの説く愛の教えを、ヘルメスの意識が霊的にかなり指導していたという事実があります。それが真実の姿なのです。
 このように、ヘルメスの意識は芸術と富という極めて感性的な部分をつかさどっていますが、おもしろいことに、これと対極と思われる部分、すなわち、知の部分、悟りの部分、哲学的な部分をつかさどっている仏陀意識も、同じ霊的生命体のなかにあるのです。こうした両面を持ちながら、全体としてのバランスをとっていると言えましょうか。
(177~180ページ)

大川隆法先生は、過去世(かこぜ)、まず2600年前のインドで「仏陀」(お釈迦さま)として教えを説かれた。

そしてそれだけではなく、4000年以上前のギリシャでは、「ヘルメス」としても教えを説かれた。

このヘルメス神の繁栄・発展の教えと、その霊天上界からの指導によって、古代ギリシャから流れ出した西洋文明が創られてきた──。

幸福の科学が全国・全世界で建立している、ギリシャ風の味わいのある建物(精舎や支部精舎)は、このヘルメス神の教えが教義の大きな一部をなしていることを、象徴的に示していると理解すればいいのだと私は思っているのです。

 

『愛から祈りへ』

 大川隆法著

 

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外に出るのが好きだから、子供ができても仕事したいと思ってるんだ。でも、子育てと仕事の両立の心得とか、注意点とか、あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の子供は、生まれてから一人前になるまで二十年かかります。これに対して動物の場合は、生まれてすぐ歩けるようになるものもありますし、たいていの場合、一年もしないうちに大人になります。(中略)
 ではなぜ動物は一年で大人になるのに、人間は二十年かかるのでしょうか。もちろん神様がそのようにつくられたと言ってしまえばそれまでですけれど、冷厳なる事実として、人間は子育てに二十年かかるようになっているのです。ということは、人間はそれだけの愛を受けなければ育たない動物であると考えなければならないと思います。二十年間の親の愛を受けて初めて、残り数十年、社会に尽くすための人格ができあがる、それだけの愛を受けて初めて花開く動物であると、こういうふうに考えなければならないのだと思います。(中略)
 そこで、女性が仕事をしながら子育てをする際に、いちばんはずしてはならない観点はなにかということを、まず知らなくてはなりません。それは「鍵っ子にはしない」ということです。まず、これはどうしても守っていただきたいのです。
 子供はやはり、さきほど言ったように、愛情をかけられることによって成長するわけですから、鍵っ子、つまり家に帰ってきても親がいないような子にしますと、情緒の面でひじょうに大きな欠陥が出てきて、社会に出てからもやる気のない人間になってしまうこともあります。
 子育てにも、子供が小さい時分、つまり乳幼児の時代と、ある程度学校に通うようになった時代との両方があるでしょうが、どちらにとっても、やはりそばに大人がいるということはとても大事なことです。
 ですから、どうしても辞めがたい重要な仕事をしている女性であるならば、自分に代わって子育てをしてくれる人を確保できるかどうかということが、ひじょうにたいせつなポイントになります。たとえば自分の母親、あるいは知り合いの人、近所の方、あるいは保母さんや預かってくれる施設などです。自分が仕事をしているあいだ、きちんと面倒を見てくれる人が確保できるかどうか、これが大事です。それも、できるだけ身内であるはうがいいわけで、完全な他人まかせと言いましょうか、機械的に処理されるようなところには、やはり預けないに越したことはありません。(中略)
 ですから、まずこれははっきりとわりきって、たとえば奥様が仕事を辞めてもご主人の収入だけで十分やっていけるかどうかということを考えましょう。なんとかやっていけそうならば、子育ての期間、ある程度奥様のほうの仕事をあきらめるということも大事だと思います。収入が少なくて、どうしても働かなければならない、たとえば家賃が出ないということならば、やはり働くべきでしょう。その場合、大人がそばにいることが大切だという点に配慮をし、自分の代わりができる人を確保しなければなりません。それができない場合には、もっと生活水準を落としてでも、子供を育てられる方向を考えるべきであろうと思います。(中略)
 いずれも子供を中心にした視点が大事であると思います。
(97~101ページ)

人間というのは、他の動物と違って、20年もの期間、親の愛を受け続ける必要がある生き物である。

親の愛情が足りないで育ってしまうと情緒面に欠陥が出てしまうことがあるから、必ずそばに大人がいるように、それも可能であれば、できるだけ身内が面倒をみてくれるほうがよい。

母親が子育てに専念できる環境であれば、可能な限りそうするのが望ましいし、場合によっては生活水準を落としてでも、子育てに専念することを考えたほうがよい──。

大人には大人の都合があるわけですが、でもやはり、「子供を中心にした視点が大事である」というのは、改めてとても大事な要点を教えていただいたと私は深く思っているのです。

 

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著

 

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「悟り」なんて、むずかしいよね。私たちには、縁のない世界なんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「悟り」という言葉にもいろいろな意味があります。低い意味での悟りとは、たとえば、「人間は肉体ではない」ということを知ることです。これだけでも、悟りは悟りなのです。四次元幽界においては、「人間は肉体ではない」ということを明確に悟っている人は、そう多くありません。肉体のような、肉体ではないような、まだはっきりとは分からない生活をしている人が多いのです。
 また、地獄界から天上界へ上がるときの悟りもあります。この場合の悟りとは、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない。人間は他人のために生きなければいけない存在である」ということについて、最低限の認識を持つことです。
 地獄にいる人たちは自我我欲のままに生きています。自分中心であって、「自分が、自分が」という思いに満ちています。「自分さえよければ、人はどうなってもいい」という思いで生きている人が地獄にいて、「自分のために生きることの、いったいどこが悪いのか」と言っているのです。
 ただ、彼らも、自分と同じように、自己保存欲、自我我欲のままに生きている人間たちといっしょに、何十年、何百年と地獄で生きているうちに、それがいやになって、考えを改める時期が来ます。これが、地獄から天国へ上がる場合に必要な最初の悟りです。もっとやすらぎのある平和な世界を希望する時期が来るわけです。
(119~121ページ)

このお教えで登場する「四次元幽界」というのは、あの世のなかで地上にもっとも近い、いわば天国と地獄の境目の世界のことです。

そこでは、死んであの世に還っているというのに、自分が霊であることを認識できないまま生活している人が多いわけです。

ですから、今日のお教えは、そんな人たちが「人間は肉体ではない」ということを知ることも、大事な悟りであるってことなんだと思います。

そして、「地獄」というのは、この「四次元」のなかのよどんだ領域のことであって、現代社会では亡くなった方の半分以上が、この地獄の方に行ってしまうとも以前から教えていただいています。

地獄に行ってしまった人は、自分と同じような人びとの見苦しい姿を、いやというほど見せつけられるなかで、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない」と分かったとき、つまり、そういう悟りを開いたときに、天国(まずは四次元のなかの精霊界)に上がっていくことができる、ということなんだと思います。

とするならば、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない」「人間は肉体ではない」という程度の知識さえあれば、最低限ではあっても、あの世に還ったときに惑わずにすむわけですから、このシンプルで大切な「智慧」を、まずは一人でも多くの人に知っていただきたいものだと強く強く私は思っているのです。

 

『永遠の法』

 大川隆法著

 

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なんで、こんなに太って生まれてきちゃったのかな。いくら努力しても、体質なんだよねー。やせないんだ。あの人がうらやましいよね。どうして、こんな体なんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は、持って生まれたものがいろいろあります。身体が大きいか小さいか、太っているか痩せているかということは、食生活や運動とも関係がありますが、身体は親に似てくるので、ある程度は生まれつきの傾向性もあります。ただ、これを他人の身体と入れ替えることばかり考えたところで、生産性はありません。自分は自分であり、そのように生まれついた人間なのです。
 男女の性別、年齢、頭のよし苦し、身体の大小など、他人との違いはいろいろあるでしょう。性格にも、外向的な性格と内気な性格がありますし、仕事でも、向き不向きなど、いろいろあるでしょう。しかし、それであってこその個性です。それであってこそ、これだけ大勢の人が同時代の同期生として生きているのです。
 他の人びとの存在を肯定するなら、自分自身の存在をも肯定しなさい。「そのあなたでいいのですよ」と言って、仏は許しているのです。「そのあなたでいいのです。他の人でなくていいのです。その名前を持ったあなたでいいのです。そのあなたの今世の人生を許しているのですよ」と、今世の魂修行を許可されたのですから、あなたはあなたの生き方をしていけばいいのです。いま与えられているもののなかで、自分として最善の生き方をしていくことです。
(174~175ページ)

「あの人」がうらやましく思えるというのは、その人の存在を肯定している、ということなんだと思います。

そして、大川隆法先生は、こう教えられます。

他の人びとの存在を肯定するなら、自分自身の存在をも肯定しなさい。

そのあなたでいいのですよと、仏は許してくださっている。

あなたはあなたの生き方をしていけばいい。いま与えられているもののなかで、自分として最善の生き方をしていくことだ──。

考えてみると、ほんとにありがたいことですよね。私たちは、仏から、この身で、この名前で、この人生を生きることを許されているんだって。

うーん、そうやって考えてみると、自分には恵まれているいろんなものがあることに、改めて気がつきます。

よし、またがんばろう。

今日は、そんな元気がわいてきたきた気が私はしているのです。

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

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人の意見なんて関係ないよね。やっぱりオリジナリティが大事だよね。自分は自分の考えをガンガン出していかなきゃね。そうでしょ? なーんて考え方もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いろいろな人がさまざまなことを言うでしょうが、そのなかで、「これはいける」と思うことは、自分自身のものにしてしまうことです。人生観に著作権はないので、どんどんもらっていけばよいのです。よいと思うところを集めてできたものは、自分自身のものなのです。
 他の人の考えであっても、自分が共感する部分というのは、実は自分自身のなかにあるものです。自分自身に〝素質″がなければ、その考え方に共感しません。感応する場合には、自分のなかにそうしたものがあるのです。
 したがって、いろいろな人の話のなかから、自分が感応するものを集めていけば、それは自分自身の思想になります。与える側と受け取る側とは、感応できる部分において同質なのです。
 他の人の人生観に学ぶことは、物真似や人真似では決してありません。そのなかで深く感じるものは自分自身のものなので、多くの人から学び、自分の言葉として語ればよいのです。
 それをせずにじっと考えていても、何も出てきません。多くのことから学ばなければ、何も出ないものなのです。知識や経験、他の人の言葉などから学び、それを自分自身のものにしていくことです。
 幸福の科学の会員となって勉強していると、いつのまにか、当会の書籍に書かれていることを口にすることが数多くあると思います。それでよいのです。その部分こそが、自分自身の思想になろうとしている部分なのです。
 こうすると、人間は無限に成長していきます。人の意見に関係なく、自分は自分の考えを出せばよいのだと思って生きていくと、思想的な豊かさというものは決して出てきません。逆にどんどん先細りしていきます。栄養を使いきって、葉も生えず、花も咲かない植物のようになってしまいます。
 それは水に活けられた花と同じであり、一時期、咲くことがあっても、やがては必ず枯れてしまいます。花を長く咲かせつづけるためには、土のなかに根を下ろして、養分や水分を吸わなければならないのです。この養分や水分にあたる部分が、自分以外の者から学ぶということです。
 他の人から学べるものは、どんどん学ぶことが大事です。そうしたことを通してこそ、実は自分自身のなかの最良のものを掘り出すことができるのです。
 土のなかに埋もれている宝を掘り出すには道具が必要です。知識や経験は、シャベルやスコップのようなものであり、そうした道具をつくるのが学びです。学びによって道具ができ、自分の本来の宝が掘り出されてくるのです。
(95~97ページ)

他の人の考えであっても、自分が共感する部分は、実は自分のなかにあるものだから、いろいろな人の話のなかで感応するものを集めていけば、それが自分自身の思想になる。

花が長く咲きつづけるために、土に根を下ろして養分や水分を吸うのと同じように、自分以外の者から学ぶことが養分や水分になる。

他の人から学ぶことを厭ってはならず、他の人からどんどん学ぶことを通してこそ、実は自分自身のなかに埋もれている本来の宝、最良のものを掘り出すことができるのである──。

今日は、学ぶことの意味、学校を出てからも学び続けることの重大な意味を、とても腑に落ちる形で教えて下さったのではないでしょうか。

「人生観に著作権はない」というのは、ものすごい一転語です。
 
大川隆法先生の出されている多数の書籍(経典)を学び尽くすことで、素晴らしい自分の人生観、そして思想をつくりあげていきたいものだと思います。

ただし、大川隆法先生のご著書は、この世的な法律で守られているのだと思いますので、ここで、ご著書の一節を勝手に自分の文章であるかのように使うことを許しておられるわけではないと思います。
 
その境目には微妙なものがありますけれども、このブログも自戒しながら丁寧に書き進めていけたらと、改めて私は思っているのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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あーあ、私って不幸なの。ぜったいに不幸なの。生まれついた星なんで、どうしようもない気がするのよね。あーあ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福になりたいならば、まずそれを決意することです。そうすれば、次にどうすればよいかがわかるでしょう。
 ところが、たいていの人は自分で幸福になりたいのか、なりたくないのかがわからないのです。人生相談などを聞いているとそうです。わからないのです。(中略)
 幸福よりも不幸のほうを選んでいく人の場合、これはどうしようもないのです。アドバイスしたとしても、そのアドバイスも悪いほうにとっていくのですから、どうしようもありません。神様は救おうとしていても、自分で堕ちていく人だけは、これはどうしようもないのです。(中略)
 不幸を愛する傾向というのはほんとうにあるのです。愛しているのです。そこから脱しようとしていないのです。そのぬるま湯が大好きでしょうがないのです、そこから出られないのです。不幸を取られると何か寒くなって、上着を取られるようで、寒くて寒くてしょうがなくなるから、いつも着ていたいのです。(中略)
 ですから、この不幸を愛するという傾向は、自分では、なかなかわからないかもしれないけれども、とりあえず他人を見ればわかることもありますから、他の人を研究してみてください。この人は、不幸を愛していないかどうか、あるいは、不幸を抱きしめているような人もいますが、それを見て自分ははたしてどうなっているかということをふり返ってみることです。
 そうして、その傾向があるのなら、その不幸はこれは神様のせいでも、守護霊のせいでも、他人様のせいでもない、自分が選んでいるのだということに気づくことです。そのときにはじめて、その不幸の上着を脱ぎすてることが可能になっていくのだと、私は思います。(中略)
 その不幸を愛する傾向のひとつのチェックポイントとしては、感謝をする心がなくなってきます。これはチェックポイントとしてありますから、よく考えてください。(中略)
 不幸を愛する傾向があると思ったときに、方法はいままでいろいろなことを習ってきておわかりのことと思いますが、方向は二つです。
 不幸を愛している状態というのは、一つには、やはりこれは他人から奪い続けている状況に現在なっているわけですから、まずは与えるほうに徹していくことです。他の人の幸福を自分の幸福と思える方向に徹していくこと、これがきわめてだいじです。ほかの人の喜びをわが喜びとする考え方に切り替えていくことです。(中略)
 もう一つは、似たようなことですが、祝福ということです。祝福の気持ちを持たないと絶対に不幸から脱することはできません。現に幸福に生きている人、幸福な人を見たときにこれをやはり肯定するということはだいじなことなのです。肯定するということは、もうその時点からその人に近づいていくということなのです。
 他のすばらしい人を見て、すばらしいなあと言える人は、もうすでに不幸を愛する傾向から脱してきているということです。
(48~53ページ)

幸福になりたいならば、まず幸福になろうと決意すること。

自分には、不幸を愛する傾向がないか、他の人を見て、自分を振り返ってみること。そのときのチェックポイントは、自分に「感謝する心」があるかどうか。

不幸を愛する傾向があるときの対策は、第一に、与える愛に徹して、ほかの人の喜びをわが喜びとする考え方をもつよう努力すること。第二に、他の人の幸福を祝福するよう努力すること──。

今日は、幸福というのは、じつは自分自身の努力で簡単につかむことができることを、とてもシンプルに教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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