ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



あーあ、なんで人生って、こんなに短いの。70年とか80年とか言わずに、もっと長く生きさせてくれるといいのに。永遠の生命があったっていいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の生命の世界』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「永遠の生命があれば、これほどよいことはない」と思うかもしれませんが、この世で永遠の生命があったら、それはそれで地獄でしょう。
 幸福の科学には「百歳まで生きる会」がありますし、人間は百歳ぐらいまでは生きてよいのですが、二百歳、三百歳まで生きるということになったら、これは、ちょっと寂しいかもしれません。(中略)
 三百歳まで生きたら、それは大変でしょう。周りの人の顔触れが、みんな変わり、時代も変わって、さぞ寂しいでしょう。
 したがって、「みんなと同じように、転生輪廻をし、生まれては成長し、老い、死んで、また別の機会に生まれてこられる」ということが、やはり楽しみなことなのです。
 このように、生命の世界というものは、循環しつつ発展していくように、全部ができているのです。
 新しく生まれた人が、勉強し、力をつけて、大人になり、仕事ができるようになるということは、非常に楽しみなことです。しかし、年を取っていくと、いろいろなものが古びていき、百歳以降に新しい知識を学んでも、古いものがたくさん入っていて、もう、それは動かないのです。
 明治生まれの人は、「明治の時代は、こうだった。大正の時代は、こうだった。昭和の時代は、こうだった」と、いろいろなことを知っていますが、新しい時代に、ちょっと、ついていけなくなるわけです。
 やはり、葉っぱとして落ち、しばらくして、また、もう一回、生まれたほうが、やりやすいのです。古いものを捨てることは難しいので、別の経験を得るためには、この世を去ることが必要になります。
 そういう仕組みで、人には寿命があり、必ず、この世を去っていくようになっているのです。
(38~41ページ)

永遠の生命を持ってしまった特殊な人間の悲劇を描いた小説とかマンガって、いくつも名作があったと思います。

でも、もし自分がそんな特殊な存在だったらと真剣に考えてみると、大川隆法先生が指摘しておられるとおり、たしかにそれはそれで、天国というよりも地獄に近い世界になってしまうと実感できます。

やはり人間というのは、人類という大きな大樹の葉っぱの一枚として、時期が来たら枯れて落ちて、またもう一回、新たな環境で、新たな体で、新たな名前で生まれ直した方が魂修行はしやすい。だからこそ人間には寿命があるということが、心にすとーんと落ちてくる気がします。

身内や知人が一人また一人と死んでいくのは、とても悲しいことではあるけれども、でも「転生輪廻」という霊的真実を知った上でよくよく考えてみたとき、「死」というのも人間に必要な仕組みとして神仏が作られていたのだと、改めて心の底から納得できた気が私はしているのです。

 

『永遠の生命の世界』

 大川隆法著



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生きてると、悲しいことだらけだよね。なんで、神さまは、人間に喜びだけを与えてくださらないんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「悲しみの底をぶち割ったとき、そこから光が出てくる」という話を、みなさんはご存じでしょうか。「どん底のとき、その底をぶち割ると、一条の光がほとばしってきた。光は上からのみ来ると思っていたのに、底をぶち割ったところ、下から光がほとばしってきた」ということを言う人もいるのです。
 シェークスピアという芸術家はさまざまな悲劇を書きましたが、彼が悲劇をつづったのは、悲劇の底にある光を人びとに示さんとしたからです。「悲劇の底をぶち割ったとき、そこには人間性の真実があり、その真実の奧には、内なる光が潜んでいる」ということを、彼は世の人びとに示さんとしたのです。
 すなわち、喜劇、楽しい劇ばかりが、人間の進歩を促すものではないということです。世の中において悲劇と言われているような現象であっても、ある意味では、それが光に近づいていくための近道だということもあるのです。
 世の中には自分の運命を呪う人が多いものです。「なぜ自分だけが、こんな運命のもとに生まれ、こんな苦労をしなくてはならないのか」ということを考える人は多いでしょう。
 幼くして両親を失った。経済的苦労のため学校に行けなかった。結婚ができない。結婚をしたが、配偶者と死に別れた、あるいは生き別れた。子供が生まれない。子供が生まれたが、幼くして死んでしまった。子供が不良になった――。
 一つひとつあげていけばきりがないほど、世に悲しみの種は尽きません。
 しかし、こうした悲しみ、あるいは不幸な運命といわれているものは、何の意味もなく、何の役にも立たないのでしょうか。(中略)
 『旧約聖書』にはヨブの話があります。あらゆる災難がヨブに降りかかってきて、とうとうヨブが神を呪うまでになったとき、神はヨブに対して答えました。
 「ヨブよ、おまえは神の心を裁くことができるほどに賢明であったのか。もっと謙虚になりなさい。おまえは神の心がほんとうに分かっているのか」
 神はこのようにヨブに呼びかけています。このときの神の答えのほんとうの意味は、「進化という目的のために、神はさまざまな舞台装置を用意されている」と考えればよいと思います。
 自分を遺して死に、旅立っていった人も、あの世の世界で、また素晴らしい生活をしているのです。したがって、「この地上のみに視点をおいて物事を考えてはならない」ということが分かるはずです。
 結局、いろいろな試練を与えられる人は、それだけ光に近いところにいるのです。喜びのなかにいれば天国は近いけれども、悲しみの底にも天国は近づいている。そして、その悲しみの底を打ち抜いて光を手にしたとき、そこに天国が現われる――。世の人びとは、このことを知らねばなりません。
(97~100ページ)

人生の悲劇には、悲しみには、大きな意味がある。

「悲しみの底をぶち割ったとき、そこから光が出てくる」──。

大事なのは、神を信じ、仏を信じて、一日一日を、一歩一歩確実に、なすべきことをなして生きていくこと。

その先に、必ずや光があり、天国が現われるってことなんだと私はおもっているのです。

 

『永遠の法』

大川隆法著

 

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大川隆法先生の本って、もう2000冊以上も出てるんだってね。全部が幸福の科学の教えなんでしょ。ものすごい量だけど、なんで、そんなに多いの。ぜんぶ勉強するなんて、とうていできないじゃないの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 一回の人生で学び尽くせないぐらいの法があるということは、ありがたいことなのです。それはどういうことかといえば、自分自身の経験では遭遇できない学びが、そこに展開されているということです。本来ならば、いろいろな転生輪廻をして、いろいろな立場や人格、身分等で生まれ変わり、経験して初めて悟るようなことを、教えとしてすでに示されているということですから、転生輪廻を何回もしてわざわざ体験しなくても、一度に学べるわけです。これは宝の山なのです。
 ですから、「もうこれ以上は勉強できない。無理だ」とため息が出はじめたら、次のようにイメージしていただきたいのです。山道をどんどん歩いていき、足は腫れ、くたびれ果てて、やっと頂上に近づいたら、そこに洞窟があった。洞窟に入ってみると、宝石箱があった。その宝石箱を開けてみると、宝の山だった。真珠もダイヤモンドも何でも入っている。山道を登ってきて、ようやくこれだけの宝を手に入れた。さあ、どうしようか。山道を下りていくときに、「こんなに荷物を持つと重いから」と言って、一個だけ持って下りていくでしょうか。一個だけ持って下りて、また上がってきては一個だけ持って下りる……。そのようにするかどうかです。(中略)
 「法の数が多い」と文句を言う人というのは、「ダイヤモンドや真珠や金がこんなにたくさんあったら、重くて持っていけないではないか」と不満を言っている人と同じです。「ああ、そうですか」と、パタンと蓋を閉められたらそれまでで、不満を言うほうが悪いのです。
 「持って帰りなさい」と開けてくれているのですから、それは考え方を変えるべきなのです。(中略)学び尽くせないと思ったときには、「ああ、自分は宝石を無駄にするのだな」と思っていただきたいのです。「一度下山してから、また登って取りにくることができるだろうか」と考えたときに、「それはできないだろう。それならば、この際がんばって全部学んで還ろう」と決意すべきなのです。
 また、来世で転生しても今世とは環境が違いますし、同じ法は説かれていません。来世で学ぶときには、おそらくこうしたオリジナルではなくて、翻訳本か解釈本か、あるいは弟子の注釈書を読むことになるわけですから、宝物でも少し不純物が入ってきはじめます。金細工のように見えても、メッキされたものが、だいぶそのなかに入ってきます。そのため、そのなかから、メッキされたものを取るか本物を取るかという作業をしなければいけなくなります。来世ではそうした難しい修行がまた別にありますから、今世のうちにがんばって、学ぶべきところは学んでおくことだと思います。
(62~64ページ)

来世、生まれ変わったときに、今世ほど効率よく、この教えを学べるのか。

時代環境は違うだろうし、別の国に生まれて、日本語は外国語の人生になるかもしれない。

後世にいろいろ解釈されたり注釈されたりして、何がオリジナルな教えだったのかが分かりにくい形のもので学ぶしかないかもしれない──。

仏がこの世に本当に生まれられて、現代日本語で、教えを説いておられる。

それを私たち日本人は、オリジナルな形で、リアルタイムに学ぶことができる。

その学びを、効率よく、魂の糧としていくことができる。

まだまだ知らない人もいるんだと思いますけれども、でも、いまはやっぱり奇跡の時代だったのだと改めて私は思っているのです。
 

『沈黙の仏陀』

 大川隆法著

 

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オレって、もっと仕事できると思うし、受けた仕事はこのレベルまでやりたいってのがあるんだよね。でも上司はいつも、「そこまでしなくていい」なんて言ってきて、仕事なかばで取り上げてくんだ。やる気出なくなるよね。いっそ職場変わった方がいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分の仕事をあまりにも完全に追究しすぎると、他の人たちに迷惑をかけてしまうことがあります。これは、個人として仕事のレベルをはかると、まだまだ自己顕示の段階にあると言ってもよいかもしれません。自分が納得のいく仕事をすれば、それで気がすむのだという段階です。
 しかしながら、仕事が進んでくると、自分だけが納得する、自分だけが合理性を感じる、自分だけが気がすむというだけでは許されなくなってきます。実社会においては、それは魂の幼児性ととられる考え方だと思います。
 自分としては十割の仕事をしたくとも、他の多くの人の要請がどうであるかを考えたならば、それに足並みを合わせなければならないときもあります。あくまでも自分のやり方にこだわるタイプの人は、やがてその団体のなかでは傍流に押しやられていくことになるでしょう。
 これが、頭のよい人が失敗していく例でもあると思います。実社会では、会社に入るころには「頭がよい」と言われた人が、次第しだいに窓際に追いやられていくことがほんとうにあります。こうした人の多くは学究肌であり、自分の納得する仕事ばかりを追究していて、会社全体が、あるいはその部や課がいま何を必要としているか、ということが分からない人なのです。
 すなわち、自己満足的な知、形式的な知にとらわれすぎて、全体とのバランスや、他の人との協調性が失われた人は、頭がよくても次第しだいに窓際に追いやられていく、という厳しい現実があるわけです。(中略)
 「仕事も愛の発現の一つである」と考えるならば、一段高い観点に立ち、多くの人びとにとって望ましい結果となるように努力しなければならないと思います。
 特に実社会は、文筆業のように自分の独自性を追究している世界とは違って、多くの人びとのニーズによって動かされています。したがって、よい仕事をするためには、ニーズを、すなわち他の人びとの要求、需要を、いち早く察知することが必要だと思います。
 また、自分の上司がどのような性格であるかを、いち早く見抜くことも大事です。正確な仕事を要求しているのか、速い仕事を要求しているのか、緻密な仕事を要求しているのか。まず、上司がいったい何を要求しているのかを知る必要があります。
 およそ世の中にあって役に立つ仕事をしようとする人であるならば、人びとのニーズ、要請は決して無視してはならないものだと思います。
 世の中は多くの人びとで成り立っています。多くの人がどのようなかたちで生息しているかというと、お互いに相手を必要とする方向において社会が成り立っているのだと言ってよいと思います。お互いに他の人を必要とするからこそ、社会という共同体が成り立っているのだと思います。
 したがって、よき仕事をしていくためには、他の人びとの要請によくこたえなければならないのです。
(137~141ページ)

実社会の仕事においては、自分の納得だけにこだわっていてはならない。

それでは結局、単なる自己顕示ということになる。

社会という共同体では、人びとのニーズに応えるのがよき仕事であって、それが「与える愛」を仕事において実践する、ということである──。

頭がよい人にとっては、あるいは厳しい教えかもしれません。

でも、学歴がとっても高いのに、出世できずに窓際族になってしまう人がいるのはなぜなのか。

今日のお教えで、その謎がとてもよく分かった気が私はしているのです。

 

『仕事と愛』

 大川隆法著

 

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仏って、仏典では、「長いあいだ修行して仏になる」と書いてあったり、「初めから仏である」と書いてあったりもするんじゃないかな。どう理解したらいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人問的属性を超えた存在である仏には二つの現れ方があります。すなわち、「初めから、役割上、仏としての姿形を持って仕事をしている存在」と、「いったん、片々たる魂となって個々の肉体に宿り、永遠の修行を経て、元なるものに近い姿に帰っていった存在」という二つの現れ方があるのです。
 実は、魂というものは、創られた時点がすべて同時期ではありません。いろいろな時期に、いろいろな環境下で創られた魂の群れというものがあります。また、創られた時点に差があるだけでなく、創られた目的が違う場合もあります。
 創られた時期の違いで言うと、たとえば、ある百億ほどの魂の群れが、いまから二十億年ぐらい前に創られたとします。その魂群は、転生輪廻をして魂修行を行います。その後、十億年ぐらいたってから、また何十億かの魂の群れが創られたとします。そうすると、二十億年ぐらい前に創られた魂群のなかには、その十億年間の転生輪廻の過程で、そうとう魂修行をして、かなり魂が進化しているものがいるはずです。こういう魂たちは、あとから創られた魂群のところへ、最初から高い悟りを得ている仏の姿で現れてくることもありうるのです。
 これは究極の秘密なので、あまり明かせないのですが、「古い魂ほど、進化して偉くなっていることが多い」と考えてよいでしょう。
 ただ、魂の群れのなかには、やはり、一定の目的のために最初に創られた、先生役の存在があります。
 たとえば、日本の大学には、まだ百数十年という短い歴史しかありませんが、多くの場合、「その大学の卒業生が、そこで助手になり、助教授になり、教授になる」という過程を経ることになります。
 しかし、最初に大学をつくったときには、やはり、先生がいないと授業はできないので、よそから先生に来てもらったでしょう。
 それと同じように、初めて魂を創るときには、どうしても先生役の魂も創らなくてはいけなかったのです。
 そのあとは、「教育の過程で、優秀な人が、どんどん先生になっていく」ということになったわけです。
 このようなたとえで、仏という言葉を理解してください。
(150~153ページ)

魂の群れのなかには、一定の目的のために最初に創られた、先生役の存在がある──。

「究極の秘密」として、二十億年ぐらい前とか、十億年前とかいうスケールで語られていて、想像を絶する話ではあります。

でも、つまりは、仏にはやはり二つの現れ方があったのだ、それを仏典は書きあらわそうとしていたのだということなんだと私は理解しているのです。

 

『信仰のすすめ』

 大川隆法著

 

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ヒットした映画に、けっこう、もののけとか妖怪とか、よく出てくるよね。あれって、ほんとにいるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊界は天国と地獄に分かれているだけではありません。霊界には「裏側」といわれる世界もあります。(中略)
 裏側の世界は地獄界とは少し違い、山岳地帯や森のようなところです。そこには妖怪や魔女といった怪しげなものたちが住んでいます。しかし、必ずしも地獄ではないのです。
 地獄の住人は、人に対する悪意や敵意、憎しみなどを非常に強く持っています。妖怪世界の住人は、必ずしもそういった感情を持っているわけではないのですが、だからといって天国的でもありません。妖怪たちは、「人を驚かす」ということに強い興味や関心を持っているのです。
 このように、妖怪の世界は、「地獄的ではないが天国的でもない」という世界です。彼らは精霊の一種なのですが、少し変わっているのです。
 霊界の裏側には、妖怪たちの世界があり、その上に仙人界や天狗界と呼ばれる世界があります。
 日本の伝統的な霊界観のなかには、仙人や天狗、妖怪の世界という、裏側の世界の霊界観がかなり濃厚に入っています。「裏側のほうを表側だと考えているのではないか」と思えるほど、裏側の霊界観がしみ込んでいるのです。
 そして、伝統的には、それがアニミズム(自然崇拝や精霊崇拝)のようなかたちになっています。日本神道にもそういう面があります。
 そのため、木や石など、いろいろと自然のものを崇拝します。また、動物崇拝もあります。(中略)
 これは西暦五〇〇年すぎに仏教が日本に入ってくる前から続いている流れであり、いまでも日本人の文化意識のなかに強く残っています。
 日本人に「あなたは宗教を持っていますか」と訊くと、「無宗教です」「無神論です」と答える人が多いのですが、だからといって、そう答えた人に信仰心がまったくないわけではありません。
 この日本的無宗教層のなかに、実は、自然崇拝をしている人、アニミズムの人がかなりいます。「神や仏は信じていないが、森や山は信じている」「滝を見ると心が洗われる」など、自然信仰のようなものを持っている人がたくさんいるのです。(中略)このアニミズム的信仰形態ゆえに、欧米からは日本民族が非常に不思議な種族に見えるのです。(中略)
 高等宗教には「教え」があります。(中略)宗教とは、価値観を提示し、物事の正邪を教えるものなのです。(中略)
 人間性を向上させる原理や教えを有し、それに基づいて生きていくことを教える宗教を、もっと強く押し出していき、そうした宗教を尊敬する土壌をつくっていかなければ、日本人の魂がもう一段の進化をとげることはできないでしょう。ここが現在の勝負どころだと思います。
(104~113ページ)

天上界には、地獄ではない「裏側」の世界として、仙人や天狗、妖怪の世界がある。

それが、日本の伝統的な霊界観にしみこんで、アニミズム(自然崇拝や精霊崇拝)のようなかたちになっている。

人間性を向上させる原理や教えの宗教を尊敬する土壌をつくらねば、日本人の魂がもう一段の進化をとげることはできない──。

まずここで大事なのは、「妖怪」というのは、霊界に実際に存在していることです。

けれども、そんなものに焦点をあてているだけでは、人間の魂は向上しないわけです。
 
ここで人間性を向上させる「教え」を持った高等宗教と大川隆法先生が述べておられるのは、たとえば仏教がそれにあたります。
 
でも、いまに伝わる仏教は、2500年の年月を経て形骸化してしまって、その高度な真意が十分に現代人に理解できるものではなくなっています。
 
そして、いま現代日本で活動を展開いている「幸福の科学」こそが、まさに人間性を向上させるたくさんの教えを持った「高等宗教」にあたるわけです。
 
こういった高等宗教の教えを尊敬する土壌を現代日本に作っていくお手伝いを、ほんの少しでもさせていただかねばと改めて私は深く思っているのです。
 


『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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職場にほんとにキライな人がいるんだよね。その人に会わなきゃかと思うとユーウツで、出勤したくないこともあるんだよね。どうすればいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 好きな人、嫌いな人がいるでしょう。好きな人とつきあえば、おもしろく、非常にハッピーになります。一方、嫌いな人に会ったならば、その人はほんとうに先生代わりになるのです。その人が、なぜ嫌われるような人格を持っているかということを、徹底的に研究できるからです。これほどありがたいことはありません。その人について、「なぜこんなに失敗をするのだろうか」「なぜこんなに性格が悪いのだろうか」「なぜこんなひどいことを言うのだろうか」「なぜこんなに、いつもいつも悲観的な発想をするのだろうか」──これをくまなく観察していると、いくらでも学びの材料が出てきます。
 そして、そこから自分でつかみえた結論は、みなさん独自の貯金です。貯金というものを、銀行への貯金だけと考えてはいけません。いろいろな人を見たり、いろいろな経験をしたなかから、「ははぁ、こういうことなんだな」と思って自己確認した部分──これが自分の貯金になるのです。これは、いつでも引き出せる自分だけの貯金なのです。これを多く持っている人が、成功者になっていきます。
 こうした発想が大事だということを、私はみなさんに言っておきたいのです。
(94~95ページ)

ものすごく前向きな発想です。

これこそ、大川隆法先生が「光明転回の理論」として説かれるお教えなんですよね。

人生で嫌なことがあっても、こういうふうに「光明」の方向に自分の気持ちをクルッと回転させて発想できれば、人生は勝利していくしかない。

今日は対人関係を材料にして、そんなことまで分かりやすく教えて下さったのだと私は思っているのです。

 

『常勝思考』

 大川隆法著


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禅定について書かれた記事が、以前あったよね。でも、さわりだけとか言って、よく分からなかったんだけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 瞑想の状態に入っていきますと、心はもう三次元にはありません。心の状態は四次元以降の異次元世界のなかにあります。
 そして、たとえば、あなたがその瞑想の状態で死んだとするならば、あなたの魂は、その心の統一度に応じた世界に還るということになります。瞑想の際に、自分の精神がもし地獄的なるものであったら、死ぬと地獄に還るわけです。天国的なるものであったら、その念いのレベルに応じた世界に還ることができるのです。
 不思議なもので、人間の心にも一定の実力があって、常日頃、自分が考えている世界から、ほど遠いところには行かないものです。そして、最高のものを念おうとしても、やはり〝その人なりの最高″というべきものがあって、なかなか、それ以上のものには近づくことができないものなのです。(中略)
 天国に還るところまでは、どの方にも、ある程度は可能です。それからあと、光の菩薩として、いかなる階梯を昇ることができるのか。高級なる、高度なる、いかなる世界への参入が許されるのか。それがやはり、「みなさんの常日頃の精進がどこまで進んでいるか」ということと関係があるのです。
 もちろん、過去世での魂修行もあります。過去、幾転生したなかで、どの程度の魂の実力を培ってきたかということがあります。その魂の実力に応じて、今世でも潜在意識の宝庫の聞き方は、当然違います。ですから、今世だけの修行で、すべてが可能なわけではありません。
 しかし、「少なくとも今世の修行において、心の塵や垢を落とし、磨き上げることによって、自分の守護霊と交信するところまでは可能です」ということを、私は何度も何度も申し上げております。これが、「誰もが阿羅漢(あらかん)になることはできます」と言っているのと同じことであるわけです。
 常に心の錆落としをし、そして心を統一することを心がけていますと、自然自然に、潜在意識の世界である、自分自身の魂の兄弟、守護霊たちと交流することができます。
 その体験は、なんともいえず幸福な体験です。「彼らは常に見守ってくれている」ということを感じます。毎日の生活をしていても、温かい眼差しで自分を見ているものがある、自分を支えているものがある、という気持ちがします。そして感謝の気持ちが出て、ぽかぽかとした温かい気持ちになって、すべての人々に善意をふりまいていこうという気持ちが起きてきます。
 禅定は、禅定のみのためにあるのではありません。禅定をすることによって、自分自身が本来、来(きた)った世界と、もう一度交流するチャンスを得て、本来の世界に対する理想を抱き、また本来の世界から、自分の魂の兄弟、あるいは、より上位の先生役である指導霊からも光をいただいて、毎日毎日を生活していくための新たな活力源、エネルギー源と変えていく──それが禅定の本質なのです。
(105~108ページ)

ここで出てきている「阿羅漢になる」というのは、旧来の仏教の世界で「悟りを開く」というのとほぼ同じ意味になる、とも教えていただいてます。

つまり、とてもやさしく話して下さっているわけですが、ここでじつは、悟りの本来の意味と目的、そして悟りの開き方というような、ものすごく深遠な世界が説かれていると思うのです。

禅定や瞑想についてこんな明快な教えというのは、やっぱり仏陀であり救世主であられるからこそ。

教えとして座学しているだけでなくって、ときどきは瞑想を実修してみることで、このお教えの本当の凄みをもっと実感してみたいものだと私は思っているのです。

 

『心の挑戦』

 大川隆法著

 


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あーあ、せっかく春で季節もよくなってきたのに、なーんで学校の勉強なんてしなきゃいけないのかなあ。むつかしい数学とか英語なんて、別にできなくても、社会に出て困らないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 特に数学や英語が苦手な人は多いと思いますし、十代の人などで、それで悩んでいる人も多いでしょうが、私は、「数学や英語を勉強することは、自分を鍛える意味でも大事であり、将来、仕事をする上でも非常に大事なのだ」と言っておきたいのです。
 もちろん、仕事においては、また違った知力も必要ですが、学齢期に、緻密で正確な仕事をする訓練をしておくことは、将来、仕事をする上で、非常に大切です。
 書類業務においても、ミスが多い人は、やはり人に迷惑をかけます。その人に仕事をさせても、あとで他の人が必ずチェックをし、幾つものミスを直さなければいけないとしたら、人手が二倍かかります。また、頼まれた仕事をすぐ忘れたりする人も困ります。
 そのため、「正確に物事を処理する」という能力を訓練することは、とても大事です。
 それから、仕事で人の話を聴くことができる能力は、学校の授業をきちんと受け、先生の話を正確に聞き取ることができる能力とも関係があります。いろいろなことを発表する能力についても同様です。学校で行っている、そのようなことは、あまり軽んじてはいけないのです。
(58~59頁)

数学や英語を勉強することは、自分を鍛える意味がある。

学齢期に、緻密で正確な仕事をする訓練をしておくことは、将来、仕事をする上で非常に大切である。

仕事で人の話を聴くことができる能力は、学校の授業をきちんと受け、先生の話を正確に聞き取ることができる能力とも関係がある──。

うーん、いずれは社会に出なくちゃいけない以上は、やっぱり学校の勉強しなくていいなんて言えないんですね。

もちろん、勉強できることだけが偉いみたいになると、また違ってくると思いますが。

ということで、学生・生徒のみなさんは、気を取り直して、いまやるべきこと、つまりは学校の勉強にしっかり取り組んでもらえたらと私は思っているのです。

 

『青春の原点』

 大川隆法著



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ちょっと前の記事に、霊界でたててくる「人生計画」の話題があったよね。じゃ、あんまり決めて来てない人はいいけど、ばっちり決めて来てたら、今さら修正できないわけ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

先日の記事だけでは、当然の疑問ですよね。幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生においては運命の修正が明らかにあります。生まれる前に立てた人生計画には、変えていける面があるのです。
 生きているうちに条件や環境は変わってきます。そのため、最初に考えたものより、もっとよい魂修行が出てくることもあります。(中略)
 こういうときには、生まれる前に立てた計画のままで行くことは必ずしも得ではありません。せっかく生まれてきたのですから、しっかり学ばなければ損です。したがって、目標をもっと上方へシフトしなければいけないし、そのために、その人の守護霊や指導霊も頑張ります。
 逆に、人生が計画よりもうまくいかず、高すぎた目標を下方へシフトすることになる人もいます。(中略)
 運命の修正においては、もう一つ決定的な事実があります。それは、「人生は自分一人で決められるものではない」ということです。やはり、他の人の存在は極めて大きいのです。他の人の力によって運命は変わっていきます。
 中国には「貴人」(貴い人)という言葉があって、中国人は、「あなたは貴人に会われましたか」「あなたは、近々、貴人に会うのではないですか」というような会話をするそうです。
 これは、「幸運をもたらす人が現れる」という考え方です。そういうことは実際にあります。
 いろいろな人の力を借りても実現できないことは、地上には、ほとんどありません。自分「人が、もがいているだけでは、なかなか実現できないことでも、しっかりした協力者が出てくれば、簡単に実現できるのです。
 それでは、そういう人と出会うための条件は何でしょうか。
 ここで、あなたの「徳」というものが問題になってきます。
 あなたに徳が形成されていると、協力者が出現して、運命の好転が始まりますが、徳の部分が足りないと、あなたを助ける人が出てきても、あなたは逆方向にそれ、もっと悪いほうへ行ってしまうのです。こういうことは幾らでもあります。(中略)
 このように、ターニングポイントでの選択によって、人生には、いろいろと起伏が生じます。ある程度の幅が人生にはあるのです。(中略)
 運命に関しては、今世の修行や努力による変更がそうとうあります。
 また、他の人の協力と守護・指導霊の指導は、人生にとって大きな影響力を持っています。そして、この両方を引き出すためには、本人の努力の結果として生まれてくる徳が大きな要素を占めているのです。
(39~42ページ)

今世しっかり努力して、その結果として「徳」が生まれてくれば、協力してくれる人も現われてくるし、守護・指導霊ももっと頑張って指導してくれる。

つまりは、今世の自らの努力で、運命というのは修正していける。

なんてありがたいことなんだろうと私は思っているのです。


『感化力』

大川隆法著

 

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「幸福」って、進歩したり発展しなくてもいいんじゃないの? 今が満ち足りてれば、それで十分幸福だと思うんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 幸福のとらえ方には、古典的な考え方が二つあります。
 一つは「満足」の面を中心に考えるものです。(中略)
 たとえば、汗を流して一日じゅう働き、家に帰ってお茶を一杯飲みながら、「きょうもよく働いたなあ」と思って満足するという幸福があります。あるいは、子供が毎日すくすくと育っていくのを見て、うれしく感じる幸福もあります。(中略)
 一方、幸福というものを、もっとドラスティック(過激)に、もっとダイナミックにとらえる人たちも、歴史上、数多くいました。(中略)このようなリーダーたちは、歴史の転換点においてそそり立ち、「人間の幸福は停滞のなかにあるのではない。人間の幸福は、向上を目指す、より積極的で力強いもののなかにあるのだ」と獅子吼(ししく)してきたのです。
 この「進歩・向上」の面を中心とする幸福は、きわめて力強いものがあります。その結果、各時代において、人類の幸福の水準そのものを引き上げてきた面があることは否めないと思うのです。(中略)
 しかし、古来から、「真理は中ほどにあり」と言われています。二つの相対立するものがあって、どちらにも強く心ひかれるならば、必要な面がどちらにもあることを認めなければなりません。すなわち、幸福の二つの側面は、車にたとえると、アクセルとブレーキの意味を持っているのです。
 人はともすれば過熱し、無我夢中の人生を生きることがあります。そうした人は、ときおり、ブレーキ役としての「足ることを知る」という幸福を知る必要があります。(中略)
 このような人は、人生において、ときおり挫折を経験し、「現在ただいまのなかにある幸福」というものを発見しなければならなくなります。(中略)
 逆に、足ることを知り、毎日、堂々巡りの人生を生きている人、その日暮らしの人生を生きている人に対しては、次のようなアドバイスが必要になります。
 「それだけではだめです。人生にはアクセルも大事です。アクセルを踏むことを忘れては、車は前に進みません。
 停まっていれば自分は安全だと思っているのかもしれませんが、あなたがいる道路を、どこだと思っているのですか。単なる田舎道だと思っているのですか。しかし、そこは高速道路かもしれませんよ。あるいは、都会の道路かもしれませんよ。」(中略)
 道路の混み具合を見ながら、アクセルを踏まなければいけないときもあれば、ブレーキを踏まなければいけないときもあるのです。同じ道路であっても、車が渋滞しているときもあれば、車の量が少なくて非常に速く走れるときもあり、日によって、あるいは時刻によって、走行の仕方は違ってきます。
 同じように、数十年の人生のなかでは、いろいろな環境に合わせて、自分の操縦方法を変えていく必要があるのです。
(41~48ページ)

足ることを知る幸福は、たとえて言うとブレーキであり、進歩・発展の幸福は、たとえて言うとアクセルなのだ。長い人生行路では、どちらも時と場合に応じて必要なものだ──。

「幸福の科学」というネーミングの根本である「幸福」について説かれた、大川隆法先生の代表的な教えの一部を、今日はご紹介してみました!
 

『ユートピア創造論』

 大川隆法著

 

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お釈迦さまって、他の思想家から形而上学的な論争を挑まれたけど、何も答えられなかったんだって? これが「無記(むき)」だって聞いたことがあるんだけど、なんでなの。哲学的論争はできない方だったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 マールンキャ・プッタという人が、釈迦に「人間の死後の生命はどうなるのか。生存はどうなるのか」「宇宙は有限か無限か」というような形而上学的な質問をしましたが、それに対して釈迦は答えなかったという話が『箭喩(せんゆ)経』のなかに出ています。これを「無記(むき)」といいます。そして語ったのが、有名な「毒矢の譬え(たとえ)」です。これは知っている方も多いでしょう。
 どこからともなく飛んできた毒矢が身体に当たって、死にそうな人がいました。そこで、矢を抜いて治療しようとしたら、その人が言うのです。
 「待ってくれ。矢を抜かないでくれ。この矢が、誰が射たもので、どの方角から飛んできたもので、いかなる種類の毒を塗っているのか、その説明を聞かないかぎり、治療してもらっては困る」
 そこで、治療しようとした人は、
 「しかし、そのようなことを言っていたら、その間に毒がまわって死んでしまう。いま必要なことは、そういうことではなくて、まず矢を抜いて、その毒がまわらないようにきつく縛り、血を抜いて、治療することである。矢は誰が射たか、どの方角から飛んできたか、矢は何の材質でできているか、何のためにその人を射たのか、そんなことを考えるのはそれから後でもよいだろう。まず治療することが大事だ」
 と、応えるわけです。
 すなわち、「人生の向上に少しも役立たない形而上学的な議論、この世的な具体性のない抽象的な議論ばかり重ねても、人はよくなることも救われることもないのだ。そういう議論に立ち入ることを避けて、まず、あなた方は自分の人生を正しくせよ。まず、正しき心の探究をしなさい。八正道を究めなさい。そうすれば、あなた方は、その苦しみから逃れて幸福な道に入れるのだ。まず、それを実践しなさい。『霊魂が死後どうなるか』とか、『宇宙は有限か無限か』とか、そんな話をしたところで何になるか」ということを言っているのです。
 これが「毒矢の誓え」で語った話なのですが、弟子たちはその真意がわからないため、「では、死後の世界はないのだ。宇宙はないのだ。この世だけなのだ。この世だけきちんと生きればよいのだ」という説明になっていくのです。(中略)
 これは対機説法です。
 ただ、その人に合わせた話をしているのに、すぐ一般化するワンパターン人間がいます。一般化するときに、知力が弱いと杓子定規になっていくわけです。
(156~159ページ)

問いに対して、あえて答えないことも、その人に対する愛だってことも、実はある。

そして、その説法を単純に一般化してしまうと、仏の真意は間違って伝えられていく。

仏の教えは、対機説法であって、ある時、ある場所で、ある人に対して、その機根に合わせて縦横無尽に説かれるもの。

だからこそ、法を受けとめ、これを後世に伝えていく弟子たちにも十分な知恵が必要であると私は思っているのです。
 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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今年は受験なんだ。塾で言われたとおりに勉強してればいいんだろうけど、でも、受験のための一般原則みたいなのはないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 何であれ、戦いにおいて勝利するためには、集中の原則というものがあって、戦力の集中が非常に大事です。
 戦でも、戦力を集中すれば勝てます。相手よりも強い戦力で、手薄な所を局所的、局部的に攻めていけば、必ず勝つのです。
 たとえば、相手が十万の大軍であっても、ある所では三千人しかいないことがあります。そこに一万人以上の軍勢を送れば、その部分では勝てます。局地戦において、こういう勝ち方というのは当然あるのです。
 戦に勝つためには戦力の集中をしなければいけません。しかし、戦力の集中をすると、同時に両脇が空くことがあります。この両脇を攻められると弱いのです。
 戦の采配の部分、勝敗を分ける部分はここに尽きています。戦力は集中しなければいけませんが、集中すると両脇が甘くなります。そのときに、囲まれたり、脇から攻められたり、裏側に回られたりします。これを避けるためにはどうすればよいかということです。それをいかに工夫するかに尽きているのです。
 これは受験勉強でも同じです。たとえば、数学が苦手である場合、それを得意にするためには、数学の勉強時間を増やせばよいのです。問題を解く、参考書を読むなど、勉強時間を増やせば、数学の成績は上がっていくでしょう。集中すれば集中するほど成績は上がります。
 ところが、そのために、英語や国語や理科や社会の勉強を何カ月もしなかったならば、当然、そちらのほうの成績は落ちてきます。これは脇が空いてしまったのです。「これは大変だ」ということで、そちらの科目も勉強すると、今度は数学のほうが落ちてきます。そうした難しいところがあります。
 このような、「弱点を補強して伸ばす」という方法がありますし、また、英語が得意科目であれば、英語をさらに勉強することによって成績を伸ばし、高得点科目にしていくという方法もあります。
 集中した場合の効果は確実に表れますが、同時に脇が甘くなります。これをどうするかが、個人においても勝敗を決めますし、戦争のような大きな場面でも、司令官の作戦の成否を決めます。人生の勝利の鍵は、結局、ここにあるのです。
 受験の例で言えば、「得意科目の英語を伸ばすのに、さらにどれだけの時間をかけるか。不得意科目の数学を伸ばすのに、どれだけの時間をかけるか。それから、脇が空いてしまう部分をどうカバーするか」、このバランスの見方なのです。
 これは、集中の効果と、成果、収穫の逓減の問題です。「この部分にこれ以上の時間をかけても、伸びる点数はこのくらいだから、その時間はこちらへ回したほうが有利になる」というような時間配分ができるかどうかです。これが結局、一定の期間、一年間なり二年間なりで成績が伸びるかどうかを決めるのです。
(141~144ページ)

何であれ、相手よりも強い戦力で手薄な所を局所的に攻めていけば、必ず勝てる(集中の原則)。

しかし、戦力の集中をすると両脇が甘くなるので、これをどうするかに尽きる。

これは受験勉強でも同じであって、人生の勝利の鍵は、ここにある──。

このお教えは、「人生は勝負の連続である」という考え方を基礎として説かれたものの一部です。

人生にはその勝負の一場面として、「受験」というものが立ち現われてくるが、そこでこの戦略的な教えを使いこなすことができれば、必ずや勝利して行くことができる、というわけです。

もちろん、理論が分かったとしても、それをどう自分の目前の問題にあてはめて実践していくのかは簡単ではないと思います。

ここでは、一例として、「この部分にこれ以上の時間をかけても、伸びる点数はこのくらいだから、その時間はこちらへ回したほうが有利になる」という時間配分ができるかどうかだ、と説かれています。

こういった智慧を試行錯誤の中から苦労して自分のものにしていくことこそ、人生修行の醍醐味でもあるんだと思います。

いずれにしても、すべての受験生のみなさんが真剣な努力を重ねられ、栄冠をつかまれますようにと心より私は祈念しているのです。 

 

『常勝の法』

 大川隆法著

 

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みんなあの世から生まれて来るんでしょ。その時、みんな「人生計画」って、たててくるんでしょ。でも、私ってなんだか、ちゃんとした計画なんてない気がするんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ある教団では、「人間は誰しも、自分の人生についての計画を立てて、この世に生まれ変わってくる」と説いています。そのため、その教団の信者たちは、人生がうまくいかないと、「自分の計画のどこにミスがあったのか。守護・指導霊は何をしているのか」などと考えます。
 しかし、計画といっても、実際には、その人の自覚の程度によって、かなり差があります。
 高次元の霊であれば、環境、両親、職業などについて、そうとう細かいところまで計画して出てきます。
 ところが、生まれ変わってくるときに、両親さえも、きちんと選ばない人もいるのです。四次元あたりには、あの世に行っても、生きているのか死んでいるのか、肉体なのか霊なのか、よく分からないが、とにかく成仏だけはしているという人がいます。こういう人のなかには、時期が来たら、何となく睡眠のような状態に入っていき、親となる人の波長に引き寄せられて、どこに生まれるのかも分からないまま、すうっと地上に出てくる人もいるのです。
 五次元の人は、もう少し目覚めていて、両親ぐらいは、はっきり決めてきます。六次元の人は、はっきりと職業も決めてきます。
 このように、意識の段階によって、人生計画の立て方は、かなり違います。その人の状態しだいなのです。
(174~176ページ)

人生計画は、しっかりたててくる人もいれば、ぼんやりとして、ほとんどたてていない人もいる。

自分が、そのどちらの方なのかは、今世、生きていて、そうそう分かるものではありませんよね。

だとすると、そんなことを気にしすぎてもしょうがない。

まずはこの大切な今世の人生、前向きにしっかり計画を立てて、一日一日を無駄にしないように生きていくことこそが、大事なんじゃないかと私は思っているのです。

 

 

『霊界散歩』

大川隆法著



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一生懸命に生きてるんだ。情熱もってて、伝えたいことがたくさんあるんだ。でも、まわりのやつって、元気がないというか、根性がないというか、覇気がないというか、逃げていくんだよね。どうすればいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 対人関係の問題では、私もずいぶん悩みました。私はもともとのエネルギー量が大きいので、本来はもっともっと強烈な個性なのです。(中略)
 現在は、「光を落とす」ということに気がついて、押さえ込むのに成功しています。これを「和光同塵(わこうどうじん)」といいます。光を落として塵(ちり)に交わるということです。
 これは決して自己卑下でもなければ、単なる謙遜でもありません。愛ゆえにそうなるのです。光が強いと、他の人は目を開けていられず、一緒にいられないことがあります。夜だって、光が強ければ眠れません。(中略)
 したがって、光を強くすることも、光を弱くすることも、どちらもできるようにしておく必要があります。光という言葉をエネルギーと言い換えてもよいでしょうが、自分のエネルギーを強く出すことも弱く出すことも、どちらもできるようにしておかないと、人びととの付き合いは難しいところがあるのです。
 みなさんのなかには、「自分を丸ごと認めてほしい」という気持ちのある人もいるかもしれません。
 しかし、それは大きな鯛をドーンとまな板にのせて、「はい、どうぞ」と差し出すことに近いのです。相手にとっては、「どうやって食べろというのだ」ということになります。
 「自分自身を丸ごと差し出しても、相手は食べられないだろう」と思えば、切り身にするなどといった考え方が必要なのです。
 光を強くすることも弱くすることもできる作法が必要だということを、どうか知っておいてください。
 若い人の特徴として、光を強く出すことはできても、弱くすることができないという点があります。エネルギーを放射することに専念してしまい、それを弱めることができないのです。
 これができるようになるためには、いくつかの挫折を経験することが必要です。そうした挫折を経験する前に、あらかじめ述べておくと、強いエネルギーを出しすぎて問題を起こすことがあるのです。
 それはまわりの人の責任では必ずしもないのです。調和のなかで生きていきたいという気持ちが人間にはあります。その調和を乱しているのが自分ならば、やはり自分に責任があるのです。
 スピードを出すべきではない場所でスピードを出せば、車は事故を起こします。当然のことです。制限速度があるはずなのに、それを見落として、「自分の車は時速二〇〇キロまで出るから」と言って、アクセルを踏み込めば、それはその人の責任なのです。
 青年の人たちは、どうかエネルギーの出し方の調整法を身につけてください。
(152~155ページ)

愛ゆえに、自分の強い光を、まわりの人に合わせて落とす必要があることもある。

まわりの調和を乱さないのも愛の一つの形である。

エネルギー量が多い方は、「和光同塵」を、人生の叡知の言葉として大事にしていけたら、ますます発展していけるってことなんだと、私は思っているのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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