ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



なんだか人生って、つらくない? 天上界がほんとの世界で、この世が仮の世界なんだって話も聞くけど、だったら、なんで仮の世界に生まれてこなきゃいけないの。何が目的の人生なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生の目的というものを考えるならば、第一の目的は、やはり、「自己発見の旅」ということであろうと思います。
 「個性を持って生まれてくる」ということ自体が、「自分自身の人生を究めなさい」ということを意味しているのです。「自己を探究し、『自分はなぜ、こういう個性を持って生まれてきたのか。自分は、いかなる人生を与えられたのか』、それを発見しなさい」ということです。この自己探究の旅、自己発見の旅は、誰もが逃れることのできないものです。
 人生のもう一つの目的は、他者とのかかわりです。「他の人々や社会とのかかわりにおいて、自分は、いかなる役割を果たすことができるのか」ということです。「他者とのかかわりにおいて自己を知り、また、互いに影響を与え合う存在として生きていくことの大切さを学ぶ」ということです。
 これが人生の基本的な二つの目的です。
 他の人の存在がなく、自分一人だけでいても、自分自身を知ることは、なかなかできません。考え方や意見の違う人、好きな人や嫌いな人など、いろいろな人がたくさんいて初めて、自分自身というものが分かります。人間の違いを知ることによって、自分の考え方が偏っていないかどうか、平均的であるかどうかも分かるようになります。
 他人は自分の思うようにならないものですが、いろいろな人がいるということは、自分自身を教えてくれるという意味で、ほんとうにありがたいことなのです。
 「こんな人が存在するのか。こんな考え方があるのか。こんな性格がありうるのか」と、非常に不思議に思うことがありますが、他の人から逆照射して自分自身を知るためには、多様な能力や個性を持った人がどうしても必要なのです。それで、人間は共同生活をしているわけです。他人がいなければ、自分自身のことがまったく分からないのです。
 実は、これが、仏や神といわれる存在が世界を創った理由でもあります。仏神は、相対的な世界を展開することによって、つまり互いに磨き合う世界を創ることによって、自己認識を深め、また、自己の可能性を楽しんでいるのです。
(47~49ページ)

大川隆法先生は、仏や神といわれる存在が世界を創った理由まで遡って、「人生の意味」に答えられます。

人生の目的は、第一に、自己発見の旅である、第二に、他の人々や社会とのかかわりにおいて、自己を知り、互いに影響を与え合う存在として生きていくことの大切さを学ぶところにある。

仏神は、相対的な世界、つまり個性を持った魂が互いに磨き合う世界を創ることによって、自己認識を深め、また、自己の可能性を楽しんでいる──。

さりげなく説かれていますが、ここには超絶的な悟りの世界が展開されていることが、ちょっと考えてみるだけで分かると思います。

このような凄味のある教えを説くことができるのは、一体全体、何者であるのか?

主エル・カンターレとは、いかなる方であるのかを、改めて確認できた気が私はしているのです。

『幸福の法』

 大川隆法著

 

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青春っていいよね。有名な詩にもあったけど、青春かどうかは、肉体の年齢じゃなくって、心のあり方だからね。オレは、ずーっと青春なんだ。ね、オレの生き方、これでいいんだよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、人間としてこの世界に生きているわけですが、人間には「三つの驕(おご)り」があります。
 第一の驕りは、「若さの驕り」ともいうべきものです。
 たいていの人間は、十代、二十代、あるいはそれを過ぎた年代においても、若さということを驕るのです。「自分はまだ若い。人生はこれからであり、前途は洋々であって、道は開けている。いかなる試行錯誤をしようとも、まだまだやり直しがきく」と考え、青春の花びらを散らすがごとく、さまざまな事柄や人間関係に熱中します。そして、「自分はいま何をしているのだろうか」と気がついたときには、もはや人生の半ばを過ぎており、若さはどこかへと消えていて、人生の後半にさしかかっていたということがあります。
 桜も、三分咲きのときには未来しかないわけですが、満開になれば、やがて散っていく運命にあります。若者に、「老いてのちのことを想像せよ」と言うのは酷かもしれません。しかし、一日一日、その日は近づいています。
 第二には、「健康の驕り」というものがあります。
 みなさんのうち、大多数の方がたは健康でしょう。そして、勉強したり運動したりして歩んできた、これまでの人生を、当然であるとも考えるでしょう。しかし、みなさんがいったん重い病気にかかったならば、その人生はどうなるでしょうか。(中略)
 健康を失ってみて初めて気がつくもの、それが健康の驕り、高ぶりであり、それに気づくときが、人生のどこかで、みなさんを待ち受けています。
 「自分の身体は頑健、頑強であって、病気ひとつしたことがない」と自慢していた人が、三十代、四十代になると、急に身体の不調を訴えます。暴飲暴食をし、いつまでも若い時のつもりでいた人が、大変な病気になって、「今後、家族をどうしたらいいのだろうか」と悩むようになります。それは自分の健康に騎っていたのです。「健康というものは、ただで手に入るものだ」と思い、驕っていたために、そうした場面が訪れてきて、人間のその高ぶりの気持ちを諭してくれることがあるのです。
 第三に、「生命(いのち)の驕り」とでもいうべきものがあります。
 これは、仏法真理を学んでいる方は別かもしれません。しかし、みなさんが、毎朝、家を出て出勤する途中で出会う人たち、会社で会う人たち、そして会社の帰りに出会う人たちは、どうでしょうか。まるで、自分の生命が無尽蔵であって、決して終わることがないかのごとく生きているように見えませんか。今日があるように明日もあり、明後日もあり、十年後も、二十年後も、五十年後も、百年後もあるように思ってはいないでしょうか。それが「生命の驕り」です。
 ところが、百人が百人、この地上を去っていくことになるのです。(中略)平均寿命が八十歳であったとしても、それはあくまでも平均の話であって、自分に対するお迎えが、いったいいつ来るかはわかりません。にもかかわらず、あたかも自分の生命が無限であって、今の状態でこの世にいつまでも生きていける、そのような錯覚に陥っています。
(90~91ページ)

あなたは、人間の三つの驕(おご)り、つまり、若さの驕り、健康の驕り、生命(いのち)の驕りに陥っていないか──。

中年をすぎて以降の人にとって、身に染みる教えであっても、いままさに青春のまっただなかの人には、一見、関係ない教えのように思えるかもしれません。

でも、青春期にあるからこそ、その大事な時期だからこそ、一度立ち止まってみること。

ほんとうに今の自分の考え方でよいのか、その生き方でよいのか、それが本来の人間のあり方か、という声に、心を虚しくして耳を傾けてみること。

その大切さが、ここでは説かれているのだと思います。

要するに、なぜ若者にも宗教の教えが必要か、信仰が必要か、その根本部分に一撃を加えて気づかせてくれるのが、この「三つの驕り」の教えなんだと私は理解しているのです。
 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著

 

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人間ってさ、本性のままにおいとけば、欲望に振り回されて、悪いことばっかりするじゃない。罪の子なんて言葉も聞いたことがあるんだけど、やっぱりそうなんじゃないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 性善説というのは、「人間は本来的に善い性質を持っている」という考え方です。「その善い人間が、さまざまな社会経験をするうちに毒され、悪いことをするようになったりもするが、もともと本来的には、人間は素晴らしい輝いたものなのだ」という考え方が性善説です。
 一方、性悪説というのは、「人間はもともと、欲に振り回されるものである」という考え方です。「人間は、その性質のなかに、もともと悪を含んでいるのであり、放置しておくと悪くなるいっぽうであるから、教育や法律、さまざまな社会的規制によって、それを抑えて、よく訓練しなければならない」という考え方が性悪説です。
 性善説は、人間を、「その本質において、仏の子としての性質を持っているもの」として見ようとする傾向があるのに対して、性悪説は、どちらかというと、「人間は、自然のままに置けば、野獣のようになってしまう。その野獣性から脱した常識ある人間をつくり出していくためには、教育なり、躾なり、さまざまな社会的鍛練が要る」という見方をしています。
 この二つの考え方が、人類史において、消えないで永らく遣っている以上、人間というものを観察すると、その両面がうかがわれるのではないかと思います。
 しかし、私は、人間が本質的に信仰心を持っているという点において、やはり、「人間の本性は善なるものである」と言いたいのです。(中略)
 「信仰(信じて仰ぎみる)」という言葉が、「仏をめざして、弛(たゆ)まぬ努力をしていこう」という気持ちに立脚しているとすれば、私は、性善説を、「人間は、その本性の持っている方向性においては、善なるものを求めている」という考え方にとりたいと思います。
 すなわち、「人は本来、生まれ落ちてより、信仰心なるものを持っている。人間を超えたる仏を請い求める気持ちを持っている。ところが、たまたま、家族による教育や、学校でのさまざまな学習において、それが否定されてしまったために、本来の信仰心がまだまだ充分に芽生えていない状態にある方が、数多くいるのである」というように考えたいと思います。
 そうした方を目覚めさせるために、私たちは、幸福の科学という組織の活動を通して、日本全国で、あるいは全世界で、日々、種播きをしているのです。種を播き、水をやり、肥やしをやって、人々が心の奥底に持っている信仰心を育て、偉大なる大木へと育つように導いているのです。
(43~45ページ)

あえて性善説か性悪説かと問われれば、性善説こそがとられるべきである。

人間は、その本性として、善なる方向性を求めている。

人間を超えたる仏を請い求める気持ち、すなわち信仰心を持っている存在なのである──。

要するに、人間は、罪の子ではなく、仏の子であるってこと。

だからこそ、その本来もっているはずの仏に向かう気持ち(つまり信仰心)を芽生えさせ、目覚めさせるために、幸福の科学は、日々、地道な伝道活動をしているのだと私は思っているのです。

『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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禅宗って、やっぱり悟りを説いてるし、悟りが一番高い宗派の一つだよね? なーんて考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悟りということを中心に考えるならば、日本人になじみのある仏教では、禅宗というものが、悟りにはいちばん緑が深いと思われるかもしれません。
 しかしながら、この二千年近い歴史を見るかぎり、禅の悟りで、いったいどこまで悟りを得たのかということを考えてみますと、有名な禅者であっても、悟りを得ている人は少ないと思います。特に幸福の科学の仏法真理から見た悟りという意味でみれば、ほとんどの方が到達していない、というのが現実であろうと私は思います。
 禅宗のなかには、たとえば日本人にとっては有名な一休宗純という方もいます。「一休とんち話」は、よく知られているでしょう。機知とウイット(頓知)に富んだ禅僧ということで、現代では慕われていますけれども、彼の人生というものをつぶさに見るかぎり、悪霊に憑依され、そそのかされた人生である、ということが、はっきりと看てとれます。風狂の禅者ではあったけれども、奇妙きてれつなことをし、無頼漢霊に取り憑かれた一生であったと思います。
 そうした人を見て機知に富んだように見えたり、風狂のように、変わり者のように見えることが悟りであるように流れていく考え方が、禅のなかにもありますけれども、これはとんでもない間違いなのです。そういうことをするために修行をしているわけではないのです。それを見抜くだけの見識が禅宗の教えにはありません。
 もう一つは、禅宗の流れのなかでは坐禅を一生懸命に勧めるのですが、結局これが肉体行に墮してしまっているということもあります。ただ坐ることだけを求め、精神的なるものをむしろ否定していく。そういう無神論的唯物論としての禅定というものを考えていく。そして、精神的なるものとしては、せいぜい、「坐禅を毎日組むことによって精神力が鍛えられる。禅定力というものがついていくのだ」という、一種の道力、精神的気魄を得ることだけが悟りだと思う。そんな方が数多いというのが現実です。しかし、幸福の科学の仏法真理を学んだ人であるならばわかるように、「残念ながら、そのような気力、体力だけでは、悟りからはほど遠い」と言わざるをえません。
 また、禅宗のなかでも、知識的にのみ悟りを求めようとしている方もいるかに見えます。しかしながら、そのような頭の訓練的な知識の体操、知の体操によっては、現実の悟りというものは得られません。
 禅宗が悟りにほど遠い世界に流れていった理由、単に「只管打坐(しかんたざ)」あるいは「公案禅」として流れていった理由は、残念ながら、禅者のなかに霊的体験を深めた方がいなかったことが、やはり大きな原因ではないかと思います。
 これに比べて、霊的体験をも持って、知識的な詰めも行なった天台大師智ギなどは、悟りとしてはかなり高いものを得ていたし、心の世界の秘密──「心というものはあらゆる霊界に通じていく」ということを、現実のものとして知っていたという意味で、非常に高い悟りを得ていたと言えます。
(227~230ページ)

禅宗は、有名な禅者であっても悟りを得ている人は少なく、特に仏法真理から見た悟りという意味では、ほとんどが到達していないのが現実である。

坐禅は、ただ坐ることだけを求め、精神的なるものを否定した肉体行に墮しているし、知識的にのみ悟りを求める、頭の訓練的な知の体操によっては、悟りは得られない。

これに比べて、霊的体験をも持って知識的な詰めも行なった天台大師智ギは、非常に高い悟りを得ていたと言える──。

ここで大川隆法先生は、これまで数多くの修行者が黙々と積み重ねてきた修行の営みについて一定の評価をしつつも、現在までの禅宗のあり方に対して、厳しい評価をしておられます。
 
でもこれは、自らが2500年前に釈尊として「仏教」を創始し、今また現代日本に下生した「再誕の仏陀」として、あえて心を鬼にしての説法でもあるのだと思います。
 
ここで大川隆法先生が説かれるところは、要するに、仏法真理の知識(智慧)を得るとともに、霊的体験を重ねることで、心の世界の秘密を真に知ることなくして、高い悟りが得られることはない、ということなんだと私は思っているのです。
 
 
『心の挑戦』

 大川隆法著

 


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いま付き合ってる彼は、約束してきた人なのかな。なんだか違う気もするし、結婚して間違いない相手かどうかって、どうやって見分けたらいいの? なーんてせっぱ詰まった悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 若いうちは、相手が美人であるとかセクシーであるとか、そういうことに惹かれることが多いのですが、最終的に、「肉体的な欲望に引っ張られているのか、ほんとうに相手を愛しているのか」ということが分からず、迷うことが多いだろうと思います。
 そういうときには、人生の先をじっと見つめて、「自分が、三十歳になったとき、四十歳になったとき、五十歳になったとき、この人と一緒にいるだろうか。一緒にいられるだろうか。家庭を育(はぐく)んでいる姿が見えるだろうか。子供が生まれているだろうか。子育てをしているだろうか。晩年、死ぬときに、この人に看取ってもらえるだろうか。葬式を出してもらえるだろうか」ということを考えていただきたいのです。
 さらに言えば、「あの世に還ったあと、あの世においても、この人に会いたいと思うか」ということまで、自問自答していただきたいのです。
 そのように、将来のことをずうっと自問していったときに、それでもまだ相手の姿が見えるかどうかが分かれ目です。「六十歳になっても相手の姿が見え、死んだあとも会いたいと思える人かどうか」ということを問うたときに、情熱がサーッと消えていく場合があります。
 いまは、きれいな女性であっても、「この人も、四十歳、五十歳、六十歳、八十歳になるときが来るのだな。そして、死んで、あの世に還るのだな」と思ったときに、あなたの心のなかに何が残るでしょうか。その人が、しわくちゃのおばあさんになり、腰が曲がり、白髪になっても、愛せるでしょうか。
 いま目の前にいる、筋肉隆々のたくましい男性が、入れ歯になり、頭の毛が抜け、下腹が出て、会社を退職しても、それでも、老後を一緒に過ごしたいと思うでしょうか。来世でも会いたいと思えるでしょうか。
 そのようなことを、ときどき、問うてみてください。この世的には少し異常な感じがするかもしれませんが、その人との未来が見えるかどうかということを、ふと考えてみてください。
 いまは、相手がきれいでも、「二十年後も、この人を愛せるか」と考えたときに、もし疑問が湧くようであれば、その恋愛は本物ではなく、違うものに惹かれている可能性が高いのです。
(134~137ページ)

付き合っている相手との未来が、具体的に見えるかを考えてみる。

たとえば、自分が30歳、40歳、50歳になったとき、この人と一緒にいて、家庭を育んでいる姿が見えるか。

死ぬときに、この人が看取って、葬式を出してくれるか。あの世に還ってからも、会いたいと思う人なのかと、自問自答してみる──。

天上界での約束がどうだったかは、今世、自分では分かるものではありません。

けれども、霊能力をもたずとも、こういう形でつきつめて未来を具体的に想像してみることで、その一端を自分でも確かめることができる。

大川隆法先生は、そういうことを、私たちにも分かりやすく教えておられるのだと私は理解しているのです。
 

『青春の原点』

  大川隆法著

 

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アメリカの大統領だったリンカーンって、とっても尊敬されてるんだよね。アメリカって国ができてから、40人以上の大統領が出たんだと思うけど、首都のワシントンDCには大きな記念館があったりして、なんだか尊敬が集まってる度合いが、他の人とは違うんだよね。なんでなんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 リンカンが大統領になったのは、ちょうど、「国が二つに分かれるか否か」という南北戦争の前でした。このときに、リンカンが、「アメリカは二つに分かれてはいけない」という強固な意志を持っていたからこそ、いまのアメリカ合衆国があるのです。(中略)
 リンカンの思想を見てみると、彼は、「誰に対しても悪意を抱かず」ということをモットーとしていました。このような人が南北戦争の指揮者であったことは、不思議としか言いようがありません。(中略)
 リンカンについては次のような逸話もあります。
 ホワイトハウスにリンカンの友人が泊まっていたとき、その人が夜中にトイレか何かの用で廊下へ出ると、低い唸り声のようなものが聞こえてきたのです。「いったい何だろうか」と思って廊下を歩いていくと、ある部屋のドアが少し開いていて、そこから明かりが漏れていました。
 その部屋のなかを覗いてみると、奥のほうで、四つん這いになり、床のじゅうたんに爪を立て、脂汗を流し、涙を流しながら、低い声で神に祈っている人がいました。「誰だろう」と思ったら、それがリンカン大統領だったわけです。
 リンカンは、「私の考えは間違っていないでしょうか。私を正しく導いてください。同胞たちを苦しめないでください」というようなことを、一生懸命に祈っていたのです。
 戦いによって血が流れ、南の人も北の人もたくさん死んでいます。それゆえ、「これが正しい戦いであるかどうか」と悩むのは、国のトップとしては当然のことです。(中略)これはトップの孤独です。上が「こうする」と決めたら、下はそれに従うだけなので、トップには、「これは、ほんとうに神の意に適っていることなのかどうか。間違っていないのかどうか」という悩みが尽きません。
 リンカンの場合も、「自分としては、奴隷制には反対であるし、南北の二つのアメリカを認めるべきではなく、一つのアメリカであるべきだと思うけれども、それが真に神の意に添ったものなのかどうか」ということで、毎夜、ものすごい苦しみがあったわけです。(中略)
 そのようにして夜な夜な祈っていたというのですから、まるで宗教家です。リンカンは、そういう人だったのです。(中略)そのような人であったからこそ、人徳がにじみ出してきたのでしょう。こういう人の下で、アメリカは分裂の危機を回避して一つになり、奴隷制を廃止して平等な社会になったわけです。
 上に立つ人というのは大変です。能力だけで、すべてを解決できるものではなく、最後は、仏や神と同通しなければ、国難を乗り切ったり、人類を正しく指導したりすることはできないのです。そういう謙虚な心が非常に大事です。
 こうした偉人たちの例を参考にして、「与える愛、無償の愛とは何か」ということを考えてみてほしいのです。
 「人から称賛を得よう」とか、「自分が何かを手に入れよう」とか、そういうことを考えていない人たちが、世の中には、いるのであり、そうした人たちが時代を超えて世の中を照らしているのです。
(90~95ページ)

最後は、仏や神と同通しなければ、国難を乗り切ったり、人類を正しく指導したりすることはできない。上に立つ人には、そういう謙虚な心が非常に大事である。

「人から称賛を得よう」とか、「自分が何かを手に入れよう」などと考えてはいない人たちがいる。そうした人たちが、時代を超えて世の中を照らしている。

リンカーンは、そういう人たちの一人だったからこそ、今も世の尊敬を集めている──。

神の心を心としようとしていたリンカーンという人の生き方は、あるべき政治家の一つの姿を私たちに指し示してくれているってことなんだと私は思っているのです。 

『リーダーに贈る「必勝の戦略」』

 大川隆法著

 

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うちの子、ゲーム機ばっかり毎日毎日やって、全然勉強しないんだよね。やりすぎだって、いくら注意しても、ストレス解消だとかなんとか言って、言うこときかないの。どうしたらいいのかしら? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 子供のころ、テレビゲームに熱中していたとしても、それ以外のところに才能のある人ならば、その才能は必ずどこかで出てきます。才能というものは、チューリップの球根のようなところがあり、時期が来ると芽が出ます。そして、黄色いチューリップの芽は黄色い花を、赤いチューリップの芽は赤い花を、必ず咲かせるようになるのです。
 したがって、「いまは、まだ才能が芽吹く時期ではない」と思ったならば、しばらく静観することが大事です。そして、どのような芽が出てくるか、様子を見るのです。
 要は、「親子であっても魂は別である」という観点を忘れないことです。子供は親の自由にはなりません。その子がどのような魂であるかは、その子自身が知っています。その子が何の球根であるかは、芽が伸び、花が咲けば、明らかに分かることなので、しばらく見つめてみることです。
 本来の個性が出てくる前の子供が、ほかの子供たちのあいだで流行していることをするのは、やむをえないと思います。(中略)
 結局、大切なのは、あなたが自分の子の才能をどのように見るかということです。「将来、テレビゲーム業界などに進むほうがよい」と思うのであれば、話は違いますが、「うちの子は、勉強に打ち込んで道を開いていくタイプだ」と思うならば、テレビゲームで遊ぶ年限を定めることも一つの方法です。
 たとえば、「中学生のあいだはテレビゲームをやってもよいけれども、高校に入ったら(あるいは中三の夏には)、テレビゲームをやめて勉強しなさいよ」と、いつも言っておくのです。そうすると、親子であっても一種の契約関係のようなものが生じます。一定の期間だけ許されたことによって、子供の側は、「親から譲歩を受けた」と感じ、「お返しが必要だ」と考えるのです。(中略)
 子供があまりにも熱中しているものを急に取り上げると、反動が大きいと思います。また何かほかのことを必ずやりはじめます。しかし、「いまはよいけれども、そのときになったら切り替えなさいよ」という言い方をしてあげると、むげに禁止したのとは違い、ストレートな反発は返ってこないものです。このように、切り替え時期を教えてあげることが大事です。
 さらに、勉強に見込みのある子供なら、一日のうちのゲームやマンガの時間を決めて、勉強は何時間やるか計画させてもよいでしょう。
 また、最後は 「諦める」という手もあります。
 どのような花かは別として、咲く時期が来れば花は咲きます。しかし、チューリップに桜の花を咲かせようとしても、そうはいきません。最後は子供自身の力を信じるしかないのです。
 「親にできるのは水と肥料を与えること。世間の評価が光。花そのものを咲かせることはできない」ということを知っておいてください。親がいくら努力しても、子供が別の花に変わったりはしないのです。
(130~145ページ)

まず、才能がどちらの方向かが分かる前の子供が、子供たちのあいだで流行していることをするのは、やむをえないことだと認識すること。

その上で、自分の子が、勉強に打ち込んで道を開いていくタイプだと思うなら、ゲーム機で遊ぶ年限を決めて、「今はいいが、そのときになったら、切り替えなさい」といつも言って、切り替え時期を教える。

また「親子であっても魂は別である」という観点を忘れず、最後は、子供自身の力を信じて、見守ることにするのも一つの考え方である──。

引用部分は、まだ携帯型ゲーム機(PSPやDS)が流行る前になされた質疑応答が、活字に起こされて書籍化されたものです。

据え置き型のテレビゲーム(ファミコンやプレステ)だけが念頭に置かれていますが、今であれば、携帯型も含んだ「ゲーム機」全般に関する質疑応答と理解してかまわないと思います。

要するに、親としては、自分の価値観で子供を自由にできるという考え方は誤りだってこと。

子供というのは、たとえばチューリップの球根のように、時期が来ると必ず芽が出るものだ、何らかの才能を持っているのだと信じて、水と肥料ではぐくんであげることも、親としての大切な役割なのだと私は理解しているのです。
 

『幸福へのヒント』

 大川隆法著


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商売やってるんだけど、不況だよね。客が減っていく一方なんだよね。なにか商売繁盛のコツみたいなの、ないのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『経営入門』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「商売繁盛のコツとは何か」ということについて、結論を一つだけ述べるなら、それは、「人に感動を与える」ということです。
 商売が繁盛し、利益が大きくなるようにしたければ、人に感動を与えることが大切です。これが、業界や業種を問わず、社長から末端の従業員、あるいはパートの人に至るまで、どのような立場の人にも通じる、商売繁盛のコツなのです。
 結論はこれだけです。あなたの言葉や態度、あなたが売った商品やサービスなど、さまざまな仕事を通して、相手に感動を与えることです。
 これに成功し続けることができた人は、どのような業種であっても、仕事が上向きになっていくことは確実です。
 大勢の人に感動を与えることができる社長の下、その影響を受けて、社員も同じように一丸となって、お客様に感動を与えることができるようになれば、その会社は確実に発展するでしょう。
(18~19ページ)

商売繁盛のコツは、一言でいうと、人に感動を与えることである──。

今日は、結論部分のみを引用してみました。

でも、このわずか1行には、商売をやっている人にとって、無限の価値をもったヒントがあります。

どんな不況のときにでも、つぶれないどころか、逆に大発展している企業はあるわけです。

自分のやっている商売、会社、仕事などにおいて、どうやって自分の顧客に感動を与えられるのか。

今日も昨日と同じように漫然と仕事をするのではなくって、どうやって自分の顧客に感動を与えることができるのか。

それも1回きりではなくって、日々与え続けることができるのか。

それを徹底的に考え抜いて実行することこそが、商売繁盛のコツであるのだと私は学ぶことができた気がしているのです。
 

『経営入門』

 大川隆法著


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なんだか、政治関連のニュース見てると、今の政治って、ぐちゃぐちゃなんじゃない? なんでこんなことになってるんだろう。仏神は、どういう方向で政治がなされるべきだと考えておられるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本は現在、政治的にも大混迷の時代に入っています。しかし、こうした時代であるからこそ、正しい理想や理念が必要なのです。(中略)
 実在世界においては、理想は単なる抽象的な絵空事ではなく、現実の力です。それは現実の存在形態であり、行動形態なのです。
 そして、「物があり、その取り引きがあり、物を使って生きる」という、物質世界における生活のほうが、架空の現象にすぎないのです。
 実在界には物が存在せず、「思い」しかありません。そのため、「思いの内容はどのようなものか」ということが、日々の修行や試験であり、また、行動原理でもあるのです。
 理想の宗教とは何かを追究するにあたっては、この世とあの世の違いを明確にし、「あの世の世界、実在界の高次元においてすでに実現されている理想的な考え方を、この現象世界に下ろすことが宗教活動の大前提である」ということを知らねばなりません。
 しかし、多くの宗教が三次元世界の悪にまみれているような状況では、どうして実在界の理想を地上に実現することができるでしょうか。
 この三次元では、人びとは心に曇りをつくりやすく、欲望に流され、物質的なものに執われた生活をしがちです。
 したがって、日々、みずからの心を点検するとともに、「本来、この世においては一切が空(くう)であって、ほんとうの存在ではない。ほんとうに値打ちのあるものは、仏法真理的価値をふくんでいるものだけである。仏神の理想を体現しているものこそが、ほんとうの存在なのだ。この世において高次元世界と同通できるのは、仏神の理想と同一視されるような思いと行動だけである」ということを知り、その考えの下に活動を展開していかねばならないのです。
 この世的には、さまざまな方便もあるでしょう。さまざまな手段もあるでしょう。しかし、原点はそこにあります。(中略)
 それでは、高次元世界の思いと行動を実現する鍵は何でしょうか。
 それは「清らかな心で生きる」ということです。
 川の水は、濁っていては役に立ちません。洗濯もできなければ、飲み水にすることもできません。また、魚たちも困ってしまうでしょう。
 「清らかである」ということの価値が再発見されねばならないのです。
 この世という汚れやすい世界にあって、清らかな心で生きるには、「常に仏神の理想を掲げながら、日々、みずからを点検する。その実証として、他の人に愛を与える行為を実践していく」ということが必要です。
 「利他の思いを持って生きる人が増えていく」──これが、この世を天国化していく方法にほかならないのです。
 ただ、そうした人を数多くつくる過程で、それが単なる利己主義的な運動になってはいけません。あくまでも、真に純粋な心でもって、愛の思いを広げていく人びとの集団をつくっていくことが大事なのです。
(110~115ページ)

ほんとうに値打ちのあるものは、仏法真理的価値を含んだものだけである。この世において高次元世界と同通できるのは、仏神の理想を体現した思いと行動だけである、との考えの下に活動を展開していかねばならない。

常に仏神の理想を掲げながら、日々みずからを点検する。その実証として、他の人に愛を与える行為を実践していく。

そういう人が増えていくことが、この世をユートピア化していく方法であるが、そのプロセスで、単なる利己主義的な運動にならないように注意する必要がある──。

1998年2月、つまり21年も前に発刊された書籍の教えとは思えないほど、今の時代にもあてはまる普遍的な教えが説かれていることに、改めて気がつきます。

幸福の科学は、この理念に基づいて、立宗以来33年余り活動を続けてきたのだと思います。

そして、2009年に立党してからちょうど本日、満10周年の記念日を迎えた幸福実現党も、まさにこの理念によって活動を開始し、また現在も活動を続けているのだと私は確信しているのです。

『幸福の革命』

 大川隆法著

 

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「スピリチュアリズム」(心霊主義)って、あるでしょ。なんだか摩訶不思議な話がいっぱい出てくるんだけど、あれって作り話じゃなくて事実なのかなあ。どう考えたらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 実は、霊界通信などを使った、この世での真理の普及運動については、幸福の科学の活動が始まるよりもっと昔の、いまから百五十年余り前から、「大きな計画」がありました。具体的な年を挙げるとすれば、決定的な年は一八四八年です。
 この年に、マルクス(中略)とエンゲルス(中略)の『共産党宣言』が出されたため、「これから地上で唯物論運動が起きていくであろう。やがて、ソビエト連邦や中華人民共和国という大きな国家もできて、唯物主義の勢力が世界に広がり、地球の半分ぐらいまでを席巻するであろう」ということが、もうすでに予見されていました。
 そのため、ちょうど同じころ、一つの戦いが開始されました。アメリカにおいて、いろいろな心霊現象が起きはじめ、「心霊主義」などと訳される「スピリチュアリズム」が始まったのです(近代心霊主義)。その最初の年が一八四八年です。
 この年、ニューヨーク郊外のフォックス家で姉妹に心霊現象が起きました。まず、「ラップ現象」といって、「音が聞こえる」という物理現象が始まり、コツコツ、コツコツという昔が、天井など、いろいろな所から聞こえました。そして、不思議な現象なので、あれこれと調べはじめたところ、次々とポルターガイスト現象類似の事件が起きはじめたのです。(いわゆる「ハイズビル事件」。)
 フォックス家で、そういう霊現象が数多く起き、全米の関心が集まりました。それを喘矢(スタート)として、その後、あちこちで、さまざまな霊現象が起きるようになったのです。イギリスのロンドンなどでも霊現象が盛んになっていきました。(中略)
 十九世紀の後半から二十世紀の初めぐらいにかけて、有名な霊能者だけでも百人以上を地上に出したと思います。霊能者が各地に数多く輩出しました。
 ちょうど科学が発達しはじめたころであり、その流れとも合いやすいので、最初は、そういう物理現象を数多く起こしました。
 当初の第一段階の計画は、「物理的な霊現象を起こし、『この世では分からない世界からの働きがあるのだ。この世の人には理解できないことがあるのだ』ということを人々に悟らせる」というものでした。そのために、何十年かのあいだ、そういう現象を起こしたのです。
 そのなかでも有名なのは次のようなものです。(中略)サー・ウィリアム・クルックス(中略)などの科学者たちが、心霊現象を科学的に研究し、「エクトプラズム」という、一種の霊エネルギーを人間のなかから抽出し、現象化させたのです。(中略)
 それから、他の人の心霊実験ケースですが、「空中浮揚」といって、現実に、「空中に人が浮く」ということも、物理実験として行っています。(中略)また、「宝石など、そこには存在しないものを空中から出す」という、「物品引き寄せ」的なことも、かなり行いました。(中略)
 このように、霊界の証明を、あの手この手で徹底的に行ったのです。アメリカでもイギリスでも、大変な量の証明を行いました。(中略)こうして、そうとうの地ならしをしました。第一段階として、そのような物理現象を起こしたのです。
(164~175ページ)

「スピリチュアリズム」は、1848年に出された『共産党宣言』による唯物論運動に対するものとして、天上界の「大きな計画」によって、始められたものだった──。

19世紀というと、少し前の時代のことなので、今は知らない人も多いわけですが、ちょっと文献を調べてみるだけで、当時としては大変な話題を呼んだ、とても大きな動きだったことがわかります。

そして、この天上界の計画は、第一段階のあと、どういう動きとなっていったのか?

興味は尽きませんが、それはまた次の機会にご紹介したいと思います! 

『神秘の法』

 大川隆法著

 

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職場で、上司に毎日のように叱られるんだよね。いろんなことガンガン言ってくる先輩もいるしね。どっちも、同期の同僚にはやさしいのに、なんだか不公平だよね。あーあ、いやだ、いやだ。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向け書籍『子供にとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、子供たちに対して、こう教えておられます。

 君たちは、「大人は子どもに対して公平に接するべきだ。」と思っているかもしれない。けれども、君が大人になったとき、世の中は君に対して公平には接してくれないものなんだ。
 スタートラインでは同じあつかい方をされるかもしれないけれども、君の性格や仕事のできによって、人からの評価もちがってくるようになる。(中略)
 このように、世の中は、けっこう不公平なものなんだね。人はみんな、できのいい人のほうをほめたがり、できの悪い人とは、「できれば、あまりお付き合いをしたくない。」というのが本音なんだ。
 みんなも、親やきょうだいから、性格が悪くておこられたり、できが悪くておこられたり、性格がよくてほめられたり、できがよくてほめられたりしているよね。
 社会に出てからも、子ども時代と同じようなことを経験するんだ。性格が悪かったり、口が悪かったりすると、今度は、職場の仲間や上司からしかられるようになる。
 つまり、家庭というのは、まるで実社会をちぢめたようなものなんだね。
 仕事のできが悪いと、やはり、しかられる。「ぼくばかりしかられる。」「私だけしかられる。」と言っても、毎日ミスをしていたら、毎日しかられることになる。でも、ミスがない人は、まったくしかられない。
 それを「不公平だ。」と言っても、しかたのないことだね。相手は君に「きちんと直してほしい。」と言っているわけで、本当は、しかるほうだってつかれるんだ。
 こういうふうに、大人になると、子どものときと同じことがまた起きてくるから、悪いところは今のうちに直しておいたほうがいいということなんだ。(中略)
 今、君にきびしいことを言う人は、必ずしも悪い人ではないんだ。それは、「この子が大人になってから苦労しないように、今のうちに直しておいてもらおう。」と思って言ってくれているんだね。そういう意味では、本当は親切な人なのかもしれないよ。
 反対に、子どものときに、いくらできが悪くても、いくら性格が悪くても、「まあ、子どもだから、いいだろう。」と思って、放っておかれる人もいる。これは、子どもにとっては、やさしくされているように感じるかもしれないけれども、そういう子どもは、大きくなってから苦労することが多いんだ。
 もし、子どものうちに、親からきちんと説教されていたら、そうならずにすんだのに、放っておかれたために、大人になってから、他の人に、「私は、この人の親でもないのに、こんなことまで教えなければいけないのか。」と思われて、その人にめいわくをかけるようになるんだね。
 だから、君たちにとっては、「この人はきびしいことばかり言ってくるから、悪い人だ。」と思うような人が、本当はいい人で、逆に、今は「やさしくていい人だ。」と思うような人が、本当は自分にとって悪い人だったということを、大人になってから気づくことも、世の中にはたくさんあるんだ。そういうことを知らなければいけないと思う。
(88~93ページ)

社会人としては、当然できなくてはならない基本が十分に身についているか。

毎日、注意力不足の単純なミスばかりしていないか。

上司や先輩職員は、あえてそれをきちんと直そうとして、愛の気持ちで叱ってくれるのではないか──。

子供に対するお教えも、それを今の自分の立場に置き換えて受け止めてみると、とても大切な観点が説かれていることに、改めて気がつきます。

つまりは、家庭教育の真の意味を知ることで、職場で自分になされている教育の意味が、よりよく分かってくるのだと私は理解しているのです。
 

『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著

 

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なんで男って、浮気なんかするのかね。あんなに美人で賢くって、気がきいて、いい奥さんがいるのに、浮気なんて信じられないんだけど、でも、よくある話だよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 四十歳ぐらいで課長や部長になり、肩書が上がって偉くなったときや、家を新築したときなどに、たいてい浮気が始まるのです。
 なぜなら、一定の人生目標を達成したからです。
 そういう人は、一定の人生目標を達成し、「おれも、まんざらではないな」という気がしてきて、人からほめてほしいのです。ところが、奥さんは、忙しいし、結婚して十年も二十年もたち、くたびれているので、ほめてくれません。「これだけやれば、誰だって課長になるわよ」「二十年も働けば、家を建てるぐらいは当然よ」などと腹のなかで思っているので、ほめたりはしないのです。
 本人にとっては、「課長になって、数人の部下を持った」「同期の人の平均より少しだけ早く部長になった」などということは、たいへん自慢に思うことなのです。殿様になったような気分で、「お殿様」と言われたくてしかたがないのですが、奥さんは言ってくれません。その腹いせで浮気をするわけです。
 そして、浮気相手の女性から、「偉くなったのね」「部長さん、すてきね」などと言われ、「そうだろう、そうだろう。おれのような、会社の部長と付き合える女性は、めったにいるものではない。君はラッキーだね」などと言って、小遣い銭をばらまきます。しかし、小遣いがなくなると、それが縁の切れ目で、だいたい終わりになることが多いのです。
 男というものは、プライドの生き物なので、ほめられたいのです。そのため、ほめてほしいときに、ほめてもらえないと、「お大尽、お大尽」と言ってくれる人のところへ行ってしまうのです。大したことのない女性であっても、そうなります。また、そこまでの甲斐性がない場合には、料亭やキャバレーなどに行き、お金を払って遊びはじめます。(中略)
 人間は、分不相応に少し何かが上がると、気の緩みが生じてくるものなので、ときどき、原点に帰って、勤勉な精神、自助努力の精神を取り戻さなければいけません。
 そういう気の緩みは、ある意味では志の低さによるものです。
 たとえ大会社に勤めていたとしても、「二十年、三十年と働いて、課長になった」ということは、いばるほどのことではないのです。(中略)
 不思議なもので、ほんとうに成功するタイプの人は、昇進すればするほど謙虚になります。部長になるような人は、課長になったときに謙虚になり、役員になるような人は、部長になったときに謙虚になるのです。(中略)
 そのように、自分に甘い人は駄目で、偉くなるにつれて自分に厳しくなっていくタイプの人でなければ、その先がないのです。
(153~157ページ)

浮気には法則があって、一定の人生目標を達成したのに、奥さんがほめてくれないような家庭の場合、浮気がはじまる。

他の女性をつかまえるほどの甲斐性がない場合には、夜の街でお金を使って遊びはじめる。

しかし、それは志が低いだけで、ほんとうに成功する人は、偉くなるほどに自分に厳しく謙虚になっていくもの──。

これは、人生の叡知に基づく深いアドバイスですよね。

つれ合いに浮気されたくない女性は、その成功を、できるだけほめてあげること。

逆に男性のほうは、高い志をもって、ほんとうに世のため人のためになる人生を、送っていきたいものだと私は思っているのです。
 

『希望の法』

 大川隆法著

 

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幸福の科学が創った「幸福実現党」って、憲法9条の改正を唱えてるんでしょ。でも、9条って絶対に変えるべきじゃないんだって、学校で教えられたんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福実現党宣言』(幸福の科学出版)で、憲法9条について、こう説いておられます。

 「平和を希求する」という平和主義は結構です。しかし、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」というのであれば、「ソマリア沖の海賊を、海上自衛隊が行って追い払う」ということは、「武力による威嚇」以外の何ものでもありません。すでに破っています。
 「憲法をいじらずに、自衛隊法やその他の法律のほうでやれるようにする」という、ずるい手法をたくさん使っているので、もう少し正直であるべきです。憲法の規定で駄目なのであれば、憲法を変えるべきだと私は思います。(中略)
 さらに、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と書いてあります。
 では、自衛隊はいったい何なのかということです。(中略)「自衛のためのものであるから、軍隊ではない」と言っても、他の国の軍隊も、みな自衛のために持っているものであって、国連で、「侵略のために軍隊を持っている国は、手を挙げてください」と言ったら、手を挙げる国はたぶんないでしょう。
 アメリカなどはずいぶん侵略的なことをしていると思いますが、少なくとも公式には絶対に認めないはずです。あくまでも、自衛のためか国際平和を守るためにやっているわけであり、侵略のためにやっているわけではありません。
 自衛隊は、明らかに「陸海空軍その他の戦力」です。(中略)「陸海空軍を持ってはいけない」というのに持っているのですから、自衛隊法は形式的には、違憲です。
 しかし、国を守るために、現実に自衛隊が必要なのであれば、憲法を変えるべきです。憲法を変えないのに、いざというときだけ「守ってくれ」と言うのは、ずるい言い方だと思います。(中略)
 「国の交戦権は、これを認めない。」というのは、完全に、かつてのアメリカがインディアンを征伐したときのような文章の書き方です。「インディアンは、もう二度と弓を持ってはならない。なぜなら、騎兵隊を射殺すことができるから」というのと同じ論理です。
 これは、人間としての尊厳を認めていないということです。アメリカは、戦争中、「日本人はサルだ」と言っていて、動物扱いでしたので、その延長上にあるのだと思いますが、失礼な話です。
 したがって、あえて文言を変えるとしたら、「平和主義を基調とする」ということはかまわないと思いますが、「侵略的戦争は、これを放棄し、防衛のみに専念する」ということであれば、よいのではないかと私は考えます。
 「そのための戦力は、固有の権利として、これを保持する」ということをはっきり規定して、自衛隊法の根拠を明確にすべきです。嘘をつくのはよくないと思います。(中略)軍隊は必要なのです。これだけの大国になったら、軍隊ぐらい持つのは当たり前です。
 「侵略はしません。その代わり、こちらが侵略されたときには、国民を守るために、きちんと戦います」というあたりのところで、中道の線を引くべきだと思います。
 そのように憲法を変えるべきです。
(59~64ページ)

いちばん問題が多い憲法9条は、改正すべきである。

平和主義を基調とするにしても、「侵略的戦争は、これを放棄し、防衛のみに専念する」「そのための戦力は、固有の権利として、これを保持する」とはっきり規定して、自衛隊法の根拠を明確にすべきである。

「侵略はしません。その代わり、こちらが侵略されたときには、国民を守るために、きちんと戦います」というあたりのところで、中道の線を引くべきである──。

護憲派の人びとにとっては、驚天動地の教えかもしれません。

しかし、核兵器を捨てようとせず、またミサイルをぶっぱなしている北朝鮮の動きを見たとき、憲法前文に書かれた「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という前提など、とうの昔に崩れています。

大川隆法先生の説かれるのは、あまりに腑に落ちる当然の教えであるし、立場ではないでしょうか。

幸福の科学が創ろうとしている「仏国土ユートピア」というのは、あの世だけじゃなく、この世の目的でもあるんであって、そのためには、核ミサイルで侵略されるような国家のままではいけない。

それを変えていくために、具体的に行動しなくてはならないのだと私は思っているのです。

『幸福実現党宣言』

 大川隆法著

 

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出世したいよね。やっぱ、企画力つけないとね。英語力も必要だよね。うーん、でも、根本的なものって、なにかあるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 出世するための第一条件は、とにもかくにも働くことです。(中略)
 いくら頭のなかで方法論や策略を練ったところで、あるいは、よい知恵を仕込んできたところで、結局、実際に働くという段階で証明された実力でなければ通用しないのです。そして、働くという段階で証明される実力とは、広い意味で、働くことが好きだということです。また、よく働く人が実力のある人だということです。(中略)
 出世の条件としては、まず、働くことが生きがいであり楽しいということです。そして、働きの褒賞は働きそのものによって与えられるということを知ることです。すなわち、「働くことがうれしい」「働くことが楽しい」という境地になっている者にとっては、働くことはもはや抜きがたい魅力であり、他の人とは違った目の輝きをもって取り組まざるをえないものになっているのです。
 働くことそのもののなかに充実感を味わうことがどれほど大事であるか、みなさんはよくよく考えたことがあるでしょうか。よく働いて、「きょうはよい仕事ができた」「ことしはよい仕事ができた」と思うことによって得られる喜びは、ほんとうに他のいかなる喜びをも凌駕するものなのです。
 遊びやかけ事、あるいはスポーツなどのほうが、働くことよりも楽しいという人は、私に言わせれば、たいていは真実に働くことの喜びを充分に知っていない人だと思えるのです。その喜びが充分に分からないからこそ、他の喜びのなかに逃げているように思えます。(中略)
 人生を七十年、八十年と見て、その年数をふり返って総括してみたときに、自分自身がいちばん喜びとするものは何でしょうか。それは「これだけの仕事ができた」ということです。これに勝る喜びは決してないのです。そして、その喜びは、決して偶然に起きるものではなく、働くことを続けていくことで出てくるものなのです。
 たとえば、金鉱をつるはしで掘り出すときには、一定の深さまで掘らなければ金鉱が出てこないように、働くということも、一定の年数、一定の深さで耕しつづけなければ、その喜びは出てこないものです。
 これが、その人の天職ともいうべき職業によって喜びを得た人と、単にアルバイトとしてしか働いたことのない人の違いとも言えましょう。
 アルバイトのなかには確かにおもしろいものもあるかもしれません。また、一時的には、通常のサラリーマン以上に、時間あたりの収入が得られることもあるかもしれません。しかし、長続きする人はいません。それが本来の職業だと思っていないからです。アルバイトから得られるものは、やはりお金という対価だけであって、それを超えた人生の喜びそのものは得ることができないと思います。
 まず私は王道から入っていきたいのです。出世の条件は、とにかく働くことが好きであること、働くことそのものが喜びであることです。働くことがいやな人間に出世はありません。たとえ一時的に出世することはあっても、決して永続することはないのです。
(75~82ページ)

出世するための条件はいろいろあるだろうけれども、その第一条件は、とにもかくにも働くこと。

働くことを好きになり、楽しくなること。

そして、働きの褒賞はお金ではなくて、働きそのものによって与えられるということを知ること──。

せっかく就職できたのに、嫌になってすぐに辞めてしまう若者が増えていると聞きます。

でも、一定の年数は続けてみないと、仕事の楽しさ、面白さは分からないもの。

転職は、それが見えてくるまで、ちょっと我慢してからでも遅くないかもと私は思ったりしているのです。
 

『仕事と愛』

 大川隆法著

 

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前回、約4億年の昔に、エル・カンターレが地球に人類が誕生させることになったってところまで聞いたんだけど、その先は? なーんて疑問もってる人、いませんか? かなり難しい話になるんですけど、今日は、その続きになります。

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 エル・カンターレは慈悲と智慧の光を増幅させて、九次元界に巨大な光球を創り出しました。そしてこの光球に金星人として最高度に発達した人霊を送り込み、再生のパワーを与え、やがて小さな光に分割し、地球起源の八次元以下の表の光の指導霊たちを何百体か創造しました。そして彼らに個性を与えるため、九次元パワーの総力を挙げて地上に物質化現象を起こしました。まずは蜃気楼のような透明なゆらめきが地表に現われ、次第に人の影のように見えはじめ、最後には、白く輝くばかりの肉体が出現しました。(中略)
 初めての人類が、五人、十人、百人、そして五百人と、続々空中より出現した時、彼らを二つの集団に分け、右半分の集団には、金星人の智慧と勇気の光を投げかけ、左半分の集団には、同じく金星人の優美さ、優雅さの性質を帯びた光を投げかけました。こうして人類の男性と女性が分かれました。彼ら、彼女らが、後にギリシャ系、あるいは仏教系の諸如来、諸菩薩、観音などとなった、高度に進化した魂を有する人類だったのです。やがて彼らの肉体子孫も増え、優秀な金星人霊たちも、数多く、地球人としての肉体生活の経験を積みました。そして彼らの人口が地上で七億七千万人を超えたころのことです。
 エル・カンターレは、自分の創造した高級人類の子孫たちに、指導者としての経験を積ませるためには、類人猿たちより進化した生物を生活させ、それらを訓育・指導させる必要があることを感じました。そこで、他惑星からの人類型生物の導入を決定しました。この頃、他惑星からの移住計画の立案のため、射手座の九次元意識アモール(イエス・キリスト)、白鳥座のセラビム(孔子)、蟹座からモーリヤを招来し、彼らの意見を参考としました。
  しかし当時、地上には、恐竜などの巨大生物が徘徊しはじめていたので、地上に慣れない移住民たちが生命を奪われる怖れがありました。そのため、最初にマゼラン星雲の惑星から招来した人間に似た生物たちは、やや自己顕示欲と自我が優勢な、戦闘性の強い種族になりました。それでも、彼らは科学技術において高度なものを持っていたので、宇宙船に乗って地球にやってきました。姿形は、現在の人類とよく似ていますが、耳の先がとがっていることと、猫のような尻尾がついていることが彼らの特徴です。やがて、とがった耳や尻尾は徐々に退化していきましたが、彼らの心の中に残るその自己イメージのため、天上界に戻っても、一部の人たちは天狗や仙人、鬼、妖怪などの姿に変化していきました。
 エル・カンターレ系の高級人類たちは、いわば王家の人々として、彼ら移住者たちを地球になじむように同化政策を押し進めました。
 しかし、移住者の中の指導者たちは、光のエネルギー総量は多いものの、わがままな荒神、祟り神的要素をもつ者も出てきて調和を乱したので、これを裏側に封じ込め、天上界にも、八次元、七次元、六次元世界に表側と裏側ができはじめました。
(56~59ページ)

人類は、猿から進化してきたわけではない。エル・カンターレによって、金星に生まれていた人霊たちを用いて、何百体かの地球起源の光の指導霊たちが創造されたのが、地球人類の最初の起源。

しかし、その後、九次元霊であるアモール(後のイエス・キリスト)が射手座から、セラビム(後の孔子)が白鳥座から、モーリヤ(後のモーセ)が蟹座から招かれて、九次元霊域には4体の高級霊が存在することとなった。

そして、マゼラン星雲の惑星から、宇宙船による肉体生命の大量移住が受け入れられ、同化政策が推し進められたものの、天上界には、八~六次元世界に、表側と裏側ができはじめた──。

ここでも、人類草創の驚くべき秘密が、淡々と説かれています。

今日はまだ、何億年も前の段階。

このあと、どうやって地獄ができるのか、どういうふうに人類が増えていくのか等々、興味は尽きませんが、この続きは、また次の機会に! 

『太陽の法』

 大川隆法著

 


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