ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「無我」について、一度、記事があったけど、なんでお釈迦さまがそんなこと説いたのか、やっぱりよくわかんないなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦が無我を説かなければならなかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」というところです。執着とは、何かに執われることです。この執着のもとにあるものが「我」なのです。我欲。あるいは「我あり」と思う心。あるいは我見──我でもって見る、自我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏りのある目で見る。こうした我に基づく見方や欲望によって、人生の苦しみはすべてできているのです。ほとんどそうです。
 そして、それが最も出ているところは、四苦八苦のなかの「求不得苦」ぐふとっく(求めても得られない苦しみ)です。みんなこれは持っています。この求めても得られない苦しみというのは、もともとは「我」のところからきているのです。「我あり」と思う心からきているのです。「我あり」と思う心から「我がもの」という心も出てきているのです。これはおわかりでしょう。
 「我なし」ならば「我がもの」もないのです。「我あり」と思うから「我がもの」があるのです。(中略)
 まず「我」があって、「私のもの」というのが出てきます。これが執着の原因です。この「私のもの」というのがあって、そこに執着が生まれてきます。
 ですから、この執着を断つためには、まず「私のもの」というのを切る必要があります。「私の私の」「我の我の」というのを、やめることです。
 本来のあなたの存在というのは、いったい何でしょう。それは、大宇宙の根本の神仏が、光として人間を存在あらしめようとして出したのです。それが本来の姿でしょう。それを忘れてはいけません。その本来の姿を想い起こしたときに、人間は神仏と一体になれるのです。
 この無我の教えは、二つの面から、もう一度点検されなければなりません。無我とは、物理的物体としての「我」が無いということを言っているわけではありません。無我なるものの本質の一つには、「あなたは神仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。己れを空しうしなければ、神仏と一体にはなれません。「自分が自分が」と思う心が強ければ、神の光も射してきません。
 神仏と一体になるためには、仏教的に言えば、もちろん反省、瞑想がありますし、キリスト教的に言えば、神への祈りもあるでしょう。ひとりで神に一生懸命祈るのもそうでしょう。「神仏と一体となる」、これが一つです。
 無我になる方法として、もう一つは、「利他、愛他」があります。(中略)
 要するに、神仏と一体になるのも、他人と一体になるのも、両方、無我の教えなのです。「これが結局あなた方を生かしていく道なのだ」ということを教えているわけです。
(161~165ページ)

お釈迦さまが、「無我」の教えを説いた理由の一つは、人生の苦しみのほとんどは執着に原因があって、その執着を取り去るために、「我」を取り去る教えが必要だったから、ということ。

そして、この無我というのは、「我」がないと言ってるわけではなくて、一つには、反省・瞑想・祈りによって神仏と一体になること。

もう一つには、利他・愛他で他人と一体になること、を教えていること──。

サラッと書かれてますけれども、これは、仏教の根本のもっとも深い部分を、現代日本の言葉で、しかも分かりやすく教えて下さっているところに、その凄さがあるわけです。

長年、たくさんの仏教学者がよってたかって研究してもよく分からなかった仏教の核心部分を、こんな形で説くことができる方は一体全体、誰であるのか。

それこそが実は、「仏陀」であり、大川隆法先生であるのだと、私は確信しているのです。
 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著


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