ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



ソ連って国がなくなって、ロシアになってからだいぶたつけど、ソ連が信奉してたマルクス主義思想って、宗教の立場からは、どう考えればいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学原論②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 マルクスは1800年代後半の社会を見て、独自の経済主義理論をつくったわけですが、その1800年代後半の世界というのは、一部ブルジョワジー・資本家と、下部の人・搾取されている人たちとの乖離(かいり)がきわめて激しく、下部の人たちは鉱山の鉱夫などの労働者に象徴されるように、きわめて劣悪な労働条件下にあったのです。そして、この劣惑な労働条件下にある人びとを救いたいという彼の熱意が、その哲学理論を組み立てたところがありました。
 しかし、彼の思想におけるいちばんの欠落部分は何であったかというと、「生産性の向上」という概念、ここが欠けていたということです。マルクス的な考え方においては、ようするに単位時間に一人の人が生みだすもの、この価値というのはだいたい同一だとみているわけです。(中略)
 一人当たり、一時間当たりの生産性というものはきわめて違うものがあります。それは、事務労働をしても、人によって五倍、十倍のひらきがありますが、もっとそのなかに創造性が加わってくる仕事になると、生産性の差はさらに高まります。そして、一時間当たりの価値というのはきわめて違ってくるわけです。(中略)
 さらにいうならば、機械を使うことによる生産性の向上もあるわけです。機械文明の発達によって、一人当たりの生産性は飛躍的に増大しました。
 ですから、マルクスの『資本論』は、本来は資本主義社会において経済的没落、および階級闘争が起きるという予言であったにもかかわらず、実際マルクス理論が適合したのは農業国ばかりだったのです。社会主義革命はソ連であるとか、中国であるとか、東ヨーロッパであるとか、こうした農業国ばかりに起きました。それは彼の基本概念であるところの労働価値説、すなわち労働が生みだす価値、一時間の価値についての考え方が、まだ生産性の高まらない段階での人間の労働を前提にしていたからです。(中略)高度の資本主義社会、工業社会では適用できなかったということなのです。
 したがって、彼のユートピア建設という理想そのものは正しかったのですが、その学説の成り立ちの部分に、やはり根本的な違いがあったということで、彼も時代の子であるという限界は否めなかったということです。
(105~108ページ)

マルクスには、「生産性の向上」という概念が欠けていた。

1人当たり1時間当たりの生産性は、人によって五倍十倍のひらきがあるし、創造性が加わってくる仕事では、1時間当たりの価値というのはきわめて違ってくる。

だから、マルクス理論が適合したのは農業国ばかりで、高度の資本主義社会、工業社会には適用できなかった──。

このご論考は、1989年に刊行されたものでしたが、発刊後の1991年にソ連は崩壊しました。

それから30年以上の歳月を経て、大川隆法先生のお教えの正しさは、ますます輝きを増しているのではないでしょうか。

いまだにマルクス主義を奉じている人もいるわけですが、その誤りは、少しでも早くただされなければならないと、改めて強く私は思っているのです。

 


『幸福の科学原論②』

 大川隆法著

 

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「国益」って言葉あるけど、まずは国民だよね。国の利益なんて言ってると、すぐナチズムみたいな全体主義になっちゃうでしょ。国民が第一なんじゃないのかな。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、悟り、そして地球──21世紀のフロンティア・ストラテジー』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学では、「利自即利他」ということを、よく言っています。
「個人としての幸福を求めなさい。個人としての悟りを求めなさい。そして、個人として人に愛を与えられる存在になりなさい。個人の幸福を求めると同時に、それを公的な幸福、公の幸福と一致させるようにしなさい。利自即利他──。自分を利するその生き方が、同時に、他を利する生き方、公のものを利する生き方、他の人びとを幸福にする生き方になるようにしなさい。この両方の調和が大事です。この考え方が中道です」
と、いつも教えてきました。
 全体主義の流れのなかでは、この「個人」が消えてしまうのです。悟りを求める個人、幸福を求める個人などは、なくなってしまうのです。
 全体主義は、「お国のためなら、個人の幸福を言ってはいけない」「会社のためなら、個人はもうどうでもいい」「主義・主張のためなら、あとのものは、すべて捨てられてもいい。イデオロギーだけが勝てばいいのであり、個人はどうでもいい」という主義です。こうした全体主義は、幸福の科学が肯定するものではありません。
 しかしながら、逆に、「社会や国家という公共のものは、まったく無駄、無意味であって、個人だけが幸福なら、それでかまわない」という無政府主義的な考え方も、私たちはとっていません。
 確かに、「個人が幸福であれば、それでいい。国がどうなってもかまわない。国が右に寄ろうが左に寄ろうが、戦争をしようがしまいが、自分が生き残れたらいい。ほかの人が貧乏でもかまわない。自分だけご飯が食べられたら、それで結構である。自分だけ幸福なら結構である」という考えはあるだろうと思うし、そうした生き方を実際にしている人もいるでしょう。(中略)
 しかし、人間がこの世に生まれたのは、自分の幸福を求めるためでもありますが、自分のためだけではないのです。人間は、この地上で一緒に生きている多くの人たちを幸福にする生き方をするために、生まれてきたのです。自分の幸福と他人の幸福を同時に実現しなければならないのです。
 たとえばナチズムは、ドイツ民族の幸福を、もしかしたら考えたのかもしれません。しかし、ユダヤ人を皆殺しにして、他の者の幸福を抹殺し、他民族の集団的不幸を基にして、自分たちの民族だけが幸福になろうとした考え方は、幸福の科学の求めている考え方ではありません。
 私たちの考え方は、「個人の幸福は、同時に、社会や国の幸福につながるものでなければならない」というものです。
 もちろん、日本人は日本という国の国益や幸福を考えて結構です。ただ、それがまた、世界の幸福につながるようでなくてはなりません。日本の幸福が、即、世界の幸福、地球の幸福につながるような、両方を貫く幸福を求めなければいけません。その中道にこそ、自分たちの考えの定点を置かなければならないのです。これが幸福の科学の考え方なのです。
(65~71ページ)

「利自即利他」、つまり、自分を利するその生き方が、同時に他を利する生き方、公のものを利する生き方、他の人びとを幸福にする生き方になるようにするのが、中道であり、そこに自分たちの考えの定点を置かなければならない。

幸福の科学は、国のため、会社のため、主義・主張のためなら、個人はどうでもいいという全体主義を肯定しないし、逆に、社会や国家などの公共のものはまったく無意味であって、個人が幸福ならそれでよいという無政府主義的な考え方も、とっていない。

幸福の科学の考え方は、「個人の幸福は、同時に社会や国の幸福につながるものでなければならない」というものであって、日本人は日本という国の国益や幸福を考えてよいが、ただ、それがまた世界の幸福につながらなくてはならないというものである──。

なるほど、なるほど、こういうことですね。

まず、「利自即利他」という、自分を利することと他人を利することを調和させること、という大事な教えが、幸福の科学にはあります。

それを国家規模まで広げたときにどう考えたらよいのか、という大きな視点を、大川隆法先生は、ここで教えてくださってるんですね。

ここに、他の国との付き合い方の根本的視点があることに、改めて私は気づいた気がしているのです。

愛、悟り、そして地球ー21世紀のフロンティア・ストラテジー (OR books) 『愛、悟り、そして地球──21世紀のフロンティア・ストラテジー』

 大川隆法著

 

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ミサイルを発射しまくってる国とか、軍事力を急速に強大化して近隣をどんどん支配下に置こうとしてる国に囲まれてて、戦争とか軍隊とかいう言葉を、けっこうひんぱんに聞くようになった気がするよね。宗教としては、戦争をどう考えるんだろう。軍隊って、あってはいけないものなのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、悟り、そして地球』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

  特に何か合理的な理由がある場合、たとえば、ある国で非常に悪い独裁政治が行なわれていて、人びとが何百万人も何千万人も殺されており、それを救うために国連軍などが行かなくてはならないというような場合は別にして、他の国を侵略したり植民地化したりするような戦争行為は、一般的に肯定できません。
 しかし同時に、他の国によって自国が植民地化されることを容認するような政治外交的態度も、容認できません。外国を植民地化すべきではないと同時に、自国も植民地化されてはなりません。これが、政治家が軍事・外交的な面で考えておくべきことなのです。
 したがって、外国に出ていき、軍隊を使って、いろいろなものを取ってこようとする考え方をすべきではありません。
 しかしながら、〝絶対平和主義″と称して、「どうぞ自由に日本の国を攻めてください。財産を持っていっても結構です。婦女子を連れて行っても結構です。日本国民を強制労働に使っていただくのも自由です」と言うような政治家でも、やはり困るのです。
 要するに、「侵略はしないが、させもしない」──ここに中道を求めるべきです。すなわち、悪に対しては、きちっとした戦いをすべきですが、みずからが悪になるべきではありません。ここに中道を求めるべきであると私は考えています。
 それが極端すぎると、どちらも幸福になりません。帝国主義的な植民地支配は、犠牲になる方がたの上に築かれた繁栄でしょう。そうかといって、自虐的で外国に翻弄されるような国家に生まれ、そこで生活している国民も不幸です。そのような不幸を国民に強制すべきではありませんから、政治家は毅然とした態度をとらなくてはなりません。この中道にこそ、政治・軍事的な考え方を求めるべきだと思います。
(71~74ページ)

帝国主義的な植民地支配は、犠牲者の上に築かれた繁栄であるし、かといって、自虐的で外国に翻弄されるような国に生まれ生活している国民も不幸であある。

侵略はしないが、させもしないこと。

この中道にこそ、政治・軍事的な考え方を求めるべきである──。

そして、大川隆法先生は、戦争とか国防とかの問題については、「侵略はしないが、させもしない」というのが「中道」だ、と教えられます。

この「中道」というのは、仏教でとても大事な考え方の一つです。

極端な考え方のいずれにも偏らない、そのときそのときで最も正しい一点、というような意味で理解すればいいのだろうと思います。

ということは、やはり軍隊というのは、国を守るために(自衛のために)必要なものと考えるべきだ、ということでしょう。

うーん、大川隆法先生のお教えは、とてもクリアだし、合理的に理解できる当然の考え方でもあるのだなあ、と改めて私は思っているのです。

 

愛、悟り、そして地球ー21世紀のフロンティア・ストラテジー (OR books)

『愛、悟り、そして地球』

 大川隆法著


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社会主義の国って、中国もそうだし、まだ生き残ってるでしょ。どうなのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『危機に立つ日本』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 理性でもって、世の中をすべて動かせる」と思っているのが社会主義なのです。(中略)日本のエリートたちは、この思想にずいぶん惹かれたのです。「エリートである自分たちが、理性でもって世の中を動かせば、社会をより良くできる」と考えたわけです。
 頭の良いエリートたちからすると、アダム・スミス型の自由放任経済など、まったく原始的に見えるでしょう。(中略)彼らは、「『放っておいたほうがうまくいく』などということはありえない。やはり、一部の賢いエリートたちが、きちんとデザインを描いて、そのとおりにやらせれば、世の中はうまくいくのだ」と考えたのです。これが社会主義です。(中略)
 実際の「生身の人間」というのは、日々の精進によって変わっていくものですし、相手の存在というものもあります。例えば、商売というのは相手があって成り立つものです。貿易も相手があって成り立つものです。
 「自分としては、理性的に考えて、この値段以外にない」といくら言っても、相手が値切ってきたときには、交渉によって値段は変わってきます。
 メーカーの生産部から、「この値段以外で売ってはいけない」といくら言われても、第三次産業である商業の世界では、同業他社もあれば、顧客もいるので、どうしても売りたければ、五十パーセントオフや三十パーセントオフの値段を付けなければいけないときもあるのです。
 そのように、今の経済においても、感性の世界は、まだ十分に生きていて、理性どおりにはいかないのです。
 なぜアダム・スミスのレッセフェールが肯定されるのかというと、それは、「ただ放任する」ということではなかったからです。「各人の持っている、いろいろな智慧や才覚を、全身全霊で最大に発揮することを通して、経済は花開く」という思想であったのです。
 後追い型で経済を統計化することは可能ではありますが、事前に国家が計画し、十カ年計画、二十カ年計画、三十カ年計画というようなかたちで、線引きできるようなものではありません。
 それが、ある程度、成功したのは、旧ソ連が重化学工業化を推進し、国力を上げた時代です。計画どおりにいっていたときには、一時期、アメリカを抜いたように見えた時代もありました。しかし、その後、ソ連邦は崩壊し、実態はひどいものであったことがかなり分かってきました。
 旧ソ連では、完全に生産者サイドのものの考え方をしていて、需要者側、消費者側のニーズを考えていませんでした。食品などが不足し、店先にはいつも行列ができていました。必要なものが必要なだけつくられていないため、すぐに品物が売り切れてしまっていたのです。中央のほうで決めた数量だけをつくるので、需要と供給が合っていなかったわけです。
 これは「敗れた経済」なのですが、それがまた復活してこようとしています。(中略)しかし、その先にあるものは「地獄」です。
(87~94ページ)

理性でもって世の中をすべて動かせると思っているのが社会主義である。

しかし、生身の人間は、日々の精進によって変わっていくものだし、相手の存在もあり、経済においても、感性の世界はまだ十分に生きていて、理性どおりにはいかない。

旧ソ連の崩壊で、「敗れた経済」であるのが分かってきているのに、それがまた復活してこようとしているが、その先にあるものは「地獄」である──。

この説法が説かれたのは、2009年の9月、民主党が政権を取って、鳩山内閣が組閣された直後のことでした。

ここに引用したとおり、大川隆法先生は、鳩山内閣、そしてそれに続いた菅内閣の本質が、社会主義政権であるとして、「その先にあるものは『地獄』」と喝破されました。

その見通し(予言)がいかに真実をついたものであったかは、民主党の国家運営が、それからわずか2年もたたないうちに日本経済をガタガタにしてしまって崩壊したのを見れば、誰もが認めざるをえないところです。

また民主党系の社会主義政権になりでもしたら、「資本主義経済を理解していない」わけですから、日本が「非常に怖い時代」となってしまう。

これが、本稿の大川隆法先生の見通し(つまりは予言)から導かれる、唯一の結論であるのだと私は思っているのです。

 


『危機に立つ日本』

 大川隆法著



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福祉って、やっぱり社会で一番大切なものの一つだよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人間にとって幸福とはなにか』――本多静六博士スピリチュアル講義(幸福の科学出版)で、あの本田静六博士の霊の言葉(「霊言」)を次のように紹介しておられます。

 わしは今、年齢不詳だから、年寄りくさくなってはいかんと思うけども。現代は、優しい社会になっとるとは思うんだけどね。確かに、社会が優しい、国が優しい、市も県も優しい。そういうことをしなきゃ、票が取れないのでなあ。民主主義社会は、まあ、優しい社会になっとると思うよ、実際なあ。
 それは、いいことなのかもしらんし、人類の進歩なのかもしらんと思うところもあるけども、わしの目から見たら、肝心な観点が抜けてると思うんだよな。「人間にとっての幸福とは何か」っていうところが抜けてると思うんだよ。
 人間っていうのはねえ、自分で努力して、一歩一歩、現状の悪い“あれ”から、よくなっていって、成長していくところに、この過程に幸福を感じるんだよ。
 自分がやったので、これが成功した。勉強して成績が上がった。事業でも、工夫してやったら、客がついて売れるようになった。黒字が出た。赤字が黒字になった。人が雇えるようになった。店が大きくなった。まあ、こうしたことが、うれしいことなんだよ。
 この幸福論を忘れてねえ……。現代憲法のいう、いわゆる「文化的最低限度の生活」か?なんか知らんけども、「国や、そんなのが保障してくれることが幸福だ」と、あるいは「病院代を出してくれるのが幸福だ」っていう幸福観は、私は、非常に消極的でネガティブだと思うな。
 もちろん、最低限はそうなのかもしらんけども、心掛けの問題は、やっぱり根本的にあると思う。
 だから、幸福論の観点から、もう一回、考え直したほうがいいよ。今、「福祉」って言うと、何でもかんでも、あれなんだけどねえ。敵もなく、もう賛成しかないんだけども。
(44~46ページ)

現代は優しい社会になっているが、「人間にとっての幸福とは何か」という肝心な観点が抜けている。

人間というのは、自分で努力して、一歩一歩、成長していく過程に幸福を感じるのであって、これを忘れた幸福観は、非常に消極的でネガティブである。

(現代の福祉政策は)幸福論の観点から、もう一回、考え直したほうがいい──。

さすが、「努力即幸福」を説いた本多博士の説法です。そして、滋味あふれる語り口で、わかりやすい。

要は、下手にパートやアルバイトよりも、生活保護を受けていたほうが収入が多くなることもあるように聞きますが、そんな福祉政策は人間を幸福にしていない、ということなんだと思います。

最低限のセーフティネットは必要だと思いますが、でも、人間をダメにするような福祉政策ではいけない。

これは、幸福実現党の政策の方向性にすでに取り入れられていることに気がつきます。

天上界の高級霊の考え方を具体的な政策とし、すべての人を幸福を実現していける社会が、少しでも早くやってくることを強く祈念したいと、改めて私は思っているのです。
 

『人間にとって幸福とはなにか』――本多静六博士スピリチュアル講義

 大川隆法著


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現代に正義ってあるのかね。何か考える手がかりって、ないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『現代の正義論』――憲法、国防、税金、そして沖縄。―『正義の法』特別講義編―(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 最新の私の講演二編を一冊の本として世に問うことにした。『正義の法』という本年を貫くテーマ本もすでにベストセラー街道を突っ走っているが、本書では、時事問題もからめて、その具体論をわかりやすく解説した。憲法、国防、税金、そして沖縄などが論点になっている。いずれも日本のあるべき姿を、国師的気概をもって語ったもので、すでにいくつかの新聞では、要点報道はなされている。
 この国では、もっと本質的で、正直な議論がなされねばなるまい。国を運営する上での根本的な哲学の欠如は、宗教の軽視から出ていると思われる。教育が不毛で、その結果、マスコミがゴシップ記事で国をかきまぜ、民主主義の真なる守護神がいない、といった現状が嘆かれる。本書から、一つでも二つでも、考えるヒントを読者が得られることを望んでいる。
(1~2ページ)

本書では、『正義の法』の具体論を、時事問題もからめて、わかりやすく解説した。

この国では、もっと本質的で、正直な議論がなされねばなるまい。

本書から、一つでも二つでも、考えるヒントを読者が得られることを──。

ロシア・ウクライナとイスラエル・ハマスの戦争が続き、朝鮮半島や南シナ海をはじめとする東アジアでは、今にも紛争が勃発しそうに感じられる昨今。

国内では、賃金が上がらない不況のなかで、裏金問題が騒がれながらも自民党の政権運営が続き、沖縄の米軍基地問題の紛議も続き、能登半島では元旦から大地震です。

いったいこの時代、国防のあり方はどうあるべきなのか、いかなる経済政策がとられるべきなのか、そしてその根本にある正義とは何であるのかと、疑問に思う人は増えているのではないでしょうか。

そんな混迷の時代、大川隆法先生は「国師的気概」をもって、一環して真正面から、この「正義」について語っておられます。

いまの世相や時事問題、政治問題に対して興味関心をもっている方、そのあるべき方向性のヒントを得たいと考えている方は、すべからく本書を手に取られるべきだと改めて私は思っているのです。
 

『現代の正義論』

 大川隆法著


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国の未来を拓くなんて、やっぱり、民間にいたんじゃ無理だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『創造する頭脳』――人生・組織・国家の未来を開くクリエイティビティー(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。

 役人の発想は、基本的に、「なぜ、できないのか」「なぜ、ダメなのか」を中心に回っており、それをいかに整然と説明するかに知力を使っているのである。例外的に文句をつけようがなくなった時のみ書類がパスして、事業が始動するのである。その奥には、責任を取りたくないという自己保身がある。これは、勇気・責任感・積極性・行動力を中心に形成される経営者マインドの正反対のものである。
 いくら税金を投入しても無駄である。むしろ小さな政府を目指して、倒産の恐怖を自分で背負いながらチャレンジしていく民間に任せるべきだ。「創造する頭脳」は未来を積極的に切り拓こうと決断できる勇気の持ち主にこそ与えられるのだ。
(124~125ページ)

役人の発想は、経営者マインドの正反対のものである。

むしろ、倒産の恐怖を自分で背負いながらチャレンジしていく民間に任せるべきだ。

「創造する頭脳」は、未来を積極的に切り拓こうと決断できる勇気の持ち主にこそ与えられる──。

人というのは、ある職業につくと、その職業特有の発想をするようになるものだ、ということだと思います。

職場での訓練ということもあろうし、また、その職業特有の空気というものでもあるかもしれません。

いくら優秀な人たちであったとしても、公務員(役人)の立場になってしまうと、役人の発想しかしなくなる。

そして、いま大川隆法先生が説いておられる「創造する頭脳」というのは、「経営者マインド」でもあるということなんだと思います。

このマインド(心や精神)は、勇気、責任感、積極性、行動力を中心に形成されるとも教えて下さっています。その正反対にあるのが、役人のマインドだ、とも。

「民間」というと、格下のイメージで語られることも多い気がするんですが、そんなことは全然ない。

要は、「創造する頭脳」はそんな「民間」の勇気ある人々にこそ与えられる、と力強く教えておられるのだと改めて私は思っているのです。
 

『創造する頭脳』

 大川隆法著


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日本人って、信仰心がない人も多いみたいだけど、それって当然のことなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『逆境の中の希望』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 私はフィリピンへ巡錫し、「フィリピンの横浜アリーナ」と言われるような会場で(中略)四十分ほどの英語講演をしました。当日、会場に集まった六千人近くの人々のうち、約二千三百人は、おそらくカトリック信者と思われる未会員の人たちでしたが、そのなかの二千百数十人が、四十分の講演を聴いたあとに当会の信者になったのです。入信率は九十数パーセントです。(中略)
 そういうところに、フィリピンという国がもともと持っている宗教的な磁場というか、信仰に対する肯定的な価値観というものを感じました。それは、ブラジル巡錫(二〇一〇年十一月)でも、インド・ネパール巡錫(二〇一一年二月下旬~三月上旬)でも感じたことです。
 信仰心の薄い国ではそのようにはならないので、やはり、その国の宗教心のあり方というものが非常に大きく影響するのでしょう。
 日本には、既存のいろいろな宗派に属している人が水面下ではたくさんいるのですが、(中略)客観的に世界の他の国の人々と比べると、日本人は、概して、宗教に対して冷たく、無視するような傾向を持っています。
 幸福の科学の信者のみなさんが一生懸命に伝道し、成果もあがっていると思いますが、もう少し信仰心の篤い国の場合には、やはり反応の仕方が全然違います。日本の場合、「宗教に対しては、まず疑ってかかる。信じない。感動しない。無視する」というような傾向が強く出るのです。
 こうした傾向は、決して誇らしいことではなく、恥ずかしいことだと思います。なぜなら、そこには、目に見えない世界や神仏の価値観よりも、目先のことのほうに重点を置いている生き様が表れているからです。
(62~66ページ)

フィリピンへ巡錫し、6000人近くの聴衆中、約2300人が未会員だったが、40分ほどの英語講演の後、2100人余りが入信した。

そういうところに、フィリピンという国が持っている宗教的な磁場、信仰に対する肯定的な価値観を感じたが、それは、ブラジル巡錫でも、インド・ネパール巡錫でも感じたことだった。

日本人は、既存の宗派に属していり人はたくさんいるものの、客観的に世界の他の国の人々と比べると、概して宗教に対して冷たく、無視する傾向を持っているが、こうした傾向は、恥ずかしいことである――。

大川隆法先生は、日本人が信仰心を十分に持っていないことを、恥ずかしいこと、とハッキリと説かれます。

それどころか、この日本においては、新たに宗教を中心とした国家を創ること、つまり「宗教立国」が必要だとさえ、熱心に説かれています。

その理由の一端を、今日は教えていただいたのだと改めて私は思っているのです。
 

『逆境の中の希望』

 大川隆法著


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今回の能登半島地震、まだ余震もぜんぜん収まってないんでしょ。元旦からこんな震災っていうのは、どう捉えればいいの。どうしたらいいのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、東日本大震災が起きた直後の2011年に発刊された書籍『震災復興への道』(幸福の科学出版)のあとがきで、こう教えておられます。

 日米外交危機のあと、日中のGDP逆転、さらに、東日本の大地震、大津波、原発被害と、厄病神がこの国にとり憑いている実態が、次々と明るみに出ている。
 本質的には唯物論の左翼政権がこの国を支配し、無神論、唯物論を助長する商業ジャーナリズムがこの国の世論を操作し続ける限り、貧乏神退治も相当骨が折れる仕事だろう。
 だが、目覚めへの道は、すぐそこまで来ていると信じて、今日も一日を努力していこう。努力の上に繁栄が築かれるのだと信じていこう。
(1~2、217ページ)

2011年当時は、「本質的には唯物論の左翼政権」の民主党政権の時代でした。

今は保守である自民党政権に戻っているはずなんですが、政府がやっている数々の政策をみる限り、「本質的には唯物論の左翼政権」と何も違わないと感じることがとても多い気がします。

もちろん、「無神論、唯物論を助長する商業ジャーナリズム」は、当時から今に至るまで一貫して、多くの国民を惑わしているのではないでしょうか。

さて、大川隆法先生はこの書籍の全編で、天上界の霊的視点でもって、2011年の大震災の原因とその対応策、日本の向かうべき方向を、とても明確な言葉で語られています。

そして、「この国の繁栄は絶対に揺るがない」という明るい未来を、力強く光に満ちた言葉で指し示しておられます。

本書をひもといてみたとき、ここで説かれたお教えは、2024年の今現在においても指針となるポイントがとても多いことに改めて気づきます。

東日本大震災から十年あまりたっても、“疫病神”がとりついたような日本の改善は、遅々として進んでいないわけですが、ここでめげていては絶対にいけないと思います。

この「救世主」のお言葉を信じ、一日一日、努力を重ねて、日本の復興と新たな未来の建設を成し遂げていくために、まだまだがんばっていきたいものだと私は強く思っているのです。

『震災復興への道』

 大川隆法著


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戦後70年だっていうけど、あの敗戦の原因は、やっぱり軍部の独走だったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『救世の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教が尊敬を勝ち得ていない理由としては、やはり、先の大戦における敗戦が大きいでしょう。
 ただ、「先の大戦における日本の敗戦の原因は、結局、聖徳太子以来の国体に背いたことにある」と、私は思うのです。聖徳太子以来、仏教と神道が融和しながら、この国を運営してきました。「外側は神道、中身の教義は仏教」というかたちで、助け合ってやってきたのに、明治以降は国家神道となり、ほかの宗教は弾圧されました。
 明治維新では、天皇を押し立てて革命を起こしたため、日本の国を、もう一段、一神教風にしたかったのでしょう。天皇を「現人神」にし、仏教に対しては、「廃仏毀釈」と言って、仏を廃し、お寺や仏像を打ち壊すことを始めました。
 そのように仏を軽んじた“祟り”が、やはり、第二次大戦の敗戦のもとになったのではないかと思います。他の宗教への寛容の姿勢を失わなければ、あそこまで、ひどくて醜い間違いはなかっただろうと思うのです。日本神道を一神教として立てて、ほかの宗教を排除しようとしたことの“祟り”が、先の敗戦の原因であり、日本の神々の驕りが少し戒められたのだと見るべきです。
(146~147ページ)

先の大戦における日本の敗戦の原因は、聖徳太子以来の国体に背いたことにある。

聖徳太子以来、仏教と神道が融和しながらこの国を運営してきたのに、明治以降は国家神道となり、仏教に対しては、「廃仏毀釈」(お寺や仏像を打ち壊すこと)を始めた。

そのように仏を軽んじた“祟り”が、敗戦のもとになったのであり、日本の神々の驕りが少し戒められたのだと見るべきである──。

大川隆法先生は、先の戦争については「大川談話」を発表され、その日本の神々からみた戦いの目的について前向きに評価しておられます。

ただそれはそれとして、神々の主 エル・カンターレとしての大川隆法先生は、その日本の神々をも公平に評価しておられるわけです。

これは特殊な見方というよりも、日本神道の世界をも視野におさめた高次元世界の視点を教えてくださっているのだと思います。

明治維新と明治国家の成功は、その光の面だけが強調されることが多いようです。

しかし、明治国家の宗教政策の是非については、新たな角度から見直しすべきことが求められていると、改めて私は思っているのです。
 

『救世の法』

  大川隆法著


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福島の原発事故って、すごく危険だったんでしょ。やっぱり原発は廃止しなきゃなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本の誇りを取り戻す』――国師・大川隆法 街頭演説集2012(幸福実現党刊)で、こう説いておられます。

 幸福実現党は、唯一、原子力推進を肯定しております。
 理由を述べます。
 「何ともない」からなのです。
 (マスコミは)ただ恐怖を煽っているだけです。
 一年半以上、マスコミは、恐怖を煽りに煽っておるけれども、放射線で死んだ人なんて、一人もいないんですよ!
 ところが、政府の言うとおりに節電して、熱中症で死んだお年寄りは、何百人といるんですよ!
 今また、雪国においては、暖房を止めて、凍死する人が出てこようとしているんですよ!
 日本のエネルギー自給率は、わずか四パーセントです。
 食料でも四十パーセントあります。
 エネルギーは、四パーセントですよ。
 この国を殺すには、エネルギーを止めれば終わりなんですよ!
 これは大変なことです。(中略)
 だいたい、一年半もたつのに、まだ避難民を遠い所にたくさん置いて、彼らの生活を元に戻さない政府に問題がある!
 さっさと元の地域に帰して、再建させよ!
 ちゃんと、村では、牛だってピンピンして生きているではないですか。全然問題ないのです。
 原発事故があった二十キロ以内の病院から遠ざけられた約二百人の病人のうち、五十人は体育館やその他の所で死んでいるのです。
 そして、病院を守っている医者と看護師は、三人ぐらいでピンピンしているんですよ。
 バカな政策は、早くやめなさい。
 原子力なんて、ラドン温泉みたいなものなんですよ。
 広島・長崎で、死んだ人は出ました。しかし、あれは、ものすごい温度が出たんですよ!
 今の福島原発の千数百万倍の放射線と、その炎と熱、爆風で、人が死んだのです。
 その後の広島・長崎は、いかがですか。
 家は建ち、人々は健康に過ごしています。
 子供で、遺伝子異常を起こした人なんて、一人もいないんですよ。
 放射線で遺伝子異常を起こしたのは、ショウジョウバエだけです。
 人間とショウジョウバエは違うのです。
(26~30ページ)

(福島の)原発事故で、放射線で死んだ人なんて一人もいないのに、電力不足で政府に節電を求められたため、熱中症で死んだお年寄りは、何百人といる。

日本は、食料の自給率40パーセントに対し、エネルギー自給率はわずか4パーセントしかないから、この国を殺すには、エネルギーを止めればよいことになってしまう。

いつまでも福島から避難させたままにするようなバカな政策は早くやめよ。「何ともない」から、原子力発電は推進すべきである――。

2012年の総選挙の際に、大川隆法先生が行なわれた街頭演説を活字に起こした書籍ですので、ちょっと表現が激しくなっている気がします。

でも、選挙だから票をもらうために特別なことをおっしゃっているのではなくって、世論に逆らっていようがいまいが、大川隆法先生のお考えは一貫してこの内容です。

たしかに、知人のお父さんの話ですが、爆心地近くいたのに、直後の熱風を避けることができて無事に生き延びて、健康被害もなにもないまま、つい最近、天寿をまっとうされた方がおられました。

考えてみると、原爆のあと、広島や長崎で、人々が避難したままだったとか除染したとかいう話はまったく聞きませんし、その後も問題なく街は草木が生え、復興して発展しているわけです。

白紙の目で見たとき、なぜに原爆とは比べ物にならない放射線量だった福島だけが、いつまでも騒がれるのか、なぜに復興も進まないのでしょうか。

それを不審に思うほうが普通の感覚ではないかと、改めて強く私は思っているのです。
 

『日本の誇りを取り戻す』

 大川隆法著


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地球温暖化って、あんなに騒いでたのに、なんだか今、そうじゃなかったんだって話もよく目にするよ。どうなってるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福実現革命─自由の風の吹かせ方─』(幸福実現党)で、こう説いておられます。

 日本の危ないところは何かと言うと、全部が一緒になって、一斉にウワーッと動くことです。こういうときが、本当は最も危ないんです。
 例えば、先ほど言った、「バブル崩壊」のときも、「バブルは絶対におかしいから潰せ!」と言って、みんなでワアワア大合唱をし、国民の総意で潰しました。それから、「ゆとり教育」のときも、「これはいい」と言って、みな、その方向にウワーッともっていきました。
 その次は、この前のCO2排出削減です。(中略)
 ただ、「原発をやめる」ということは、「CO2が増える」ということなんですよ。(中略)火力発電が中心になったら、CO2だらけになるのですが、そんなことは、もう全部パーッと投げてしまって、それどころでないんでしょう?
 でも、自動車などが普及してCO2排出量が増えた時期と、地球が温暖化した時期とを比べてみると、四十年ぐらい、ずれているんですよ。つまり、CO2が増えたあと、実は、寒冷化が四十年ぐらい続き、それから気温が上がってきているので、温暖化はCO2とは関係がないんです。
 私は、「地球の周期によって、気温が上がったり下がったりしている。歴史的には何度もそういうことが起きているので、CO2と地球温暖化には因果関係がない」と判断していました。だから、その議論を全然相手にしていなかったんです。(中略)
 もう、バカみたいな話です。「何パーセント削減」などと一生懸命に言っていて、(中略)CO2の排出権を国家間で売り買いしたり、もう、こんなことの繰り返しばっかりですよ。
(58~61ページ)

日本の危ないところは、例えば、「バブル崩壊」や「ゆとり教育」、また「CO2排出削減問題」のときのように、全部が一緒になって一斉にウワーッと動くことである。

今は「原発反対」という人が多いが、原発をやめるということは、「CO2が増える」ということである。

しかし、そもそもCO2排出量が増えた時期と地球が温暖化した時期とは、ずれており、地球の周期によって気温が上がったり下がったりしているのであって、CO2と地球温暖化には因果関係がない――。

本書は2012年末に刊行されたものですが、“地球温暖化の原因がCO2だ”という議論のおかしさについては、大川隆法先生は、少なくとも2009年段階で、声を大にして指摘しておられました。

それからまる13年もたってみてみれば、地球温暖化の懐疑論は、もう無視できない流れになってるんじゃないでしょうか。

大川隆法先生のオピニオンの先見性、まさに恐るべしであると、改めて私は思っているのです。
 

『幸福実現革命』

 大川隆法著


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核兵器って、国連常任理事国は、みんな持ってる兵器なんでしょ。ってことは、大国は持つべき兵器だってことになるのかなあ?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「未来創造学」入門』――未来国家を構築する新しい法学・政治学(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 最近、広島市長は、「核兵器そのものが悪魔の兵器なのだ」と言い切っていました。
 そうであれば、「核兵器を保有している国連の常任理事国五カ国は、すべて悪魔の国である」ということになりかねないでしょう。「どうせなら、そこまで言ってしまったらどうか」と思わなくもありません。広島の市長や長崎の市長が言う分には、世界の国々も多少は聞いてくれるのではないでしょうか。
 そういう意味では、国連常任理事国はすべて核兵器を廃絶すべきだと思います。その上で、ほかの国が持つことを禁じるのであれば非常に筋の通った話であるけれども、「常任理事国は持ち続けるが、ほかの国は持ってはいけない」というのは筋が通らないでしょう。
 もし、そうしたことが、宗教に基づく考えによって、あるいは、先の大戦に基づく「民主主義 対 ファシズム」論が固定されることで言われているのなら、そこには問題があります。なぜならば、ほかの国に対して、いかなる努力の余地も認めないことを意味するからです。
(106~107ページ)

核兵器が悪魔の兵器だと言い切るのであれば、国連常任理事国はすべて核兵器を廃絶すべきである。

廃絶の上で、ほかの国が持つことを禁じるのなら筋の通るが、「常任理事国は持ち続けるが、ほかの国は持ってはいけない」というのは筋が通らない。

もしそうしたことが言われているのならば、ほかの国に対して、いかなる努力の余地も認めないことになるから、問題がある──。

なるほど、なるほど、国連安全保障理事会の常任理事国は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国ですが、たしかにどの国も核兵器を持っているんでした。

とすると、核兵器の廃絶とか不拡散なんて言われても、要するに、自分たちは持つけれども他国は持つなという一方的な話であるわけで、まったく説得力はありません。

しかも、考えてみると、1949年に建国された中華人民共和国(中国)に至っては、1945年の国連発足時には存在してなかった国であって、当初加入していた常任理事国は、中華民国(つまり台湾)だったはずです。

そうなってくると、今の国連のもとの国際秩序というのは、白紙の眼で見たとき、なんだかとてもおかしいのではないか、何か誤魔化しがあるのではないかと考えるのが、「智慧」というものではないでしょうか。

岸田首相って、このあたり、きちんと考えたことがあるんでしょうか…?

大川隆法先生の今日のお教えは、そういったさまざまなことを私たちに考えさせて下さるものだと、改めて私は思っているのです。
 

『「未来創造学」入門』

 大川隆法著


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政党って、国がものすごいお金を出してるんでしょ。政党と認めてもらえないと、お金が出ないんだってね。この仕組みって、どうなのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『国家社会主義への警鐘』(幸福実現党)で、こう教えておられます。

 それから、政党助成法や選挙費用の公的負担の問題がありますね。これも、少しは攻撃してもいいのではないでしょうか。
 例えば、みんなの党から参院選に立候補して落ちた人が、その体験を書いた本があるのですが、それを読むと、「選挙にかかった費用のうち、個人で負担したのは五百万円ぐらいで、一部は国が負担してくれた。さらに、選挙を運営するために税金から支出されたお金は、トータルで、候補者一人当たり五千万円近くになる」というようなことが書いてあったんですね。
 今、増税をかけようとするんだったら、自分たちが当選するための運動費用などに税金を使うべきではないと思いますよ。
 だから、「政党助成法でお金をもらって選挙をするのをやめませんか。そして、幸福実現党とハンディなしで勝負しようではありませんか」ということですね。今どき、百五十億円も二百億円ももらって活動してはいけないですよ。
 それ以外にも、費用の補助はまだたくさん出ているはずですけどね。秘書等も三人ぐらい雇えるし、いろいろなフリンジ(付加給付)がありますよね。
 そのへんのものを外に分けておいて、資産公開をしても、あまり意味がありませんよ。個人の名義になっているものは少なく、それ以外に、実は、資金団体が数多くあって、そちらのほうでは自由にお金を使えていますし、さらに、公費の助成がいろいろあるわけなんですね。
 そうしておいて、「個人の資産は少ない」とか、「赤字だ」とか言っている人が多いんですが、信用できないですよね。こういう人たちに経済や経営が本当に分かるのかどうか、やはり疑問ですね。
(67~68ページ)

政治家が増税しようとするのなら、自分たちが当選するための運動費用を公的負担させたり、政党助成金などに税金を使うべきではない。

それ以外にも公費助成がたくさんあったり、数多くの資金団体で自由にお金を使えているのに、それらを別にして資産公開をしても、あまり意味がない。

税金からお金をもらって選挙をするのをやめて、(そういうお金はもらえない)幸福実現党とハンディなしで勝負すべきである――。

刊行されてから少し時間がたったお教えですが、状況はいまもまったく変わらないのではないでしょうか。

幸福実現党が活動を開始してから、「政党要件」を満たさないことで、選挙運動が制限されたり、報道されなかったり、政党助成金がでなかったりと、さまざまな不利益を被っていることは、本当によく聞く話です。

これは、政治の世界に新しい勢力が新規参入できないようにしている壁(参入障壁)になっているということだと思います。

なにかと増税の必要性を説く政治家は、まずは自らの身をただして、税金からお金をもらって選挙をするのをやめよ、というのは、あまりに正論すぎるくらい正論ではないかと、改めて私は思っているのです。
 

『国家社会主義への警鐘』

 大川隆法著


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右翼の人たちのいうことを聞くと、天皇って、元首なんですって。でも、学校では、天皇は国の象徴なんであって、元首は総理大臣だって習ったと思うんだ。どっちがほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『猛女対談──腹をくくって国を守れ』(幸福実現党刊)で、次のように述べておられます。

 明治天皇のように、「陸海軍を統帥する」となっていたら、いかにも元首だろうと思いますが、今の天皇が元首かどうかは、議論が分かれるところですよね。元首かもしれないし、元首でないかもしれない。
 それでは、首相が元首なのか、元首でないのか。どちらも、よく分からない状態で、結局、権力の中心がどこにあるかが分からないんですよね。これが、無責任体制が発生する原因の一つですよ。
 今、改憲論が盛り上がっていて、「改憲したほうがいい」という意見が国民の七割ぐらいにまでなってきているので、もし、「天皇が元首である」と言うのであれば、「今上天皇による改憲の詔」というものを出したらいいんですよ。「国会は、速やかに改憲すべし」という「改憲の詔」を出せばよいのです。(中略)
 それで、この詔に従って、国会議員が審議をし、改憲に乗り出すかどうかですが、もし、乗り出さなかった場合、天皇は、以後、一切の法律案に署名しなければいいわけです。
 例えば、国会が内閣総理大臣を指名しても、任命しなければよいのです。天皇の署名がなければ、内閣は成立しないのですから、“ストライキ”をしたらいいんですよ。そのように、「天皇は元首である」ということを、自らお示しになられたらよろしいと思いますね。
 法律論であれこれ言うのも結構ですが、これは、天皇の意志によって、現行の憲法や法律の枠のなかでできることです。
 ぜひ、天皇陛下には、「憲法改正の詔」を発していただきたいと思います。それで、国会が何もしなかった場合、それに対する糾弾が国民のほうから起きてくるかどうかを見れば、この元首制の問題も、はっきりと決着がつくはずです。(中略)
 憲法上、天皇は、「日本国民の総意」に基づいて置かれているわけなので、国民の総意に基づいて置かれている天皇が詔勅を出され、それで、国会が何も動かなかったら、問題があるでしょうね。(中略)
 国民の総意に基づいて天皇制がある一方で、国民主権というものがあります。この部分は、法律論的、憲法論的には、本当はぶつからなければいけないところなのですが、なぜか、訳が分からないまま、うまくくっついています。
 その理由は、実は、「宗教と政治が一体化しているのが日本の政治の本質だから」なんですよ。(中略)この部分を無視して、政教分離だけを言っているわけですから、憲法学者もジャーナリストも、本当はまったく分かっていないのだと私は思います。右翼も分かっていません。(中略)
 右翼も、「皇室を守る」と言っていますが、「天皇は神々の子孫だと分かっているのか」と言えば、それは、全然、分かっていないのです。そもそも神棚が消えていますのでね。
 だから、もう少し根本的に考えなければいけないですね。
(35~38ページ)

天皇が元首かどうかは議論が分かれるところだが、元首というのならば、天皇は、国民の7割ぐらいまできている改憲論に従い、「今上天皇による改憲の詔」を出し、国会が改憲に乗り出さなければ、以後一切の法律案に署名せず、国会で指名された内閣総理大臣も任命しなければよい。

この“ストライキ”は、現行の憲法や法律の枠のなかで、天皇の意志でできることだから、これに対する糾弾が国民から起きてくるかどうかを見れば、この元首制の問題も、はっきりと決着がつく。

天皇制がある一方で国民主権があり、本当は憲法論的にぶつかるべきところだが、うまくくっついている理由は、実は天皇は神々の子孫であり、「宗教と政治が一体化しているのが日本の政治の本質だから」である――。

本書は、現・幸福実現党党首である釈量子さんとの対談集です。

釈さんが聞き上手だからでしょうか、とても楽しく対談しておられるので、さらっと読み流してしまいそうです。

しかし、ちょっと立ち止まってよくよく読んでみると、あまりに斬新な大川隆法先生のオピニオンではないでしょうか。

国民主権で、国民は平等のはずなのに、なぜ「天皇」という特別な方が存在するのか。

それは、天皇は神々の子孫だとされていて、日本神道の祭祀長だからだ、という話はどこかで教えていただいたことがあったと思います。

そして、法律に詳しい知人によると、この天皇の“ストライキ”というのは、これまで見たことも聞いたこともない先鋭な意見だけれども、たしかに法律的にあり得る話だとのことです。

そういう、おそらくは最先端の法律の議論まで、さりげなく学べてしまう。

大川隆法先生のお教えの凄味は、このあたりにもあるのかもしれないと改めて私は思っているのです。

 

『猛女対談』

  大川隆法著


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