ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



悟りの道って、やっぱり厳しいものなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

もし、あなたがたが仏法真理の道に入り、
悟りを得る道に入り、
その幸福をまっとうしたいならば、
あらゆる恐れから自由でなければならない。

あなたがたは、
経済的な恐れを捨てよ。
あなたがたは、
人から愛されなくなるのではないかという恐れを捨てよ。
あなたがたは、
人から尊敬されなくなるのではないかという恐れを捨てよ。
あなたがたは、
人から優れた人だと言われなくなるということを恐れてはならない。
そうではない。
悟りへの道を歩む途中において、
その幸福がどれほど尊いかを知ったならば、
この世的なるものは、
もはやどうでもよくなるということを知りなさい。
そのようなものは、やがて去ってゆくものなのだ。
やがて消え去ってゆくものなのだ。

それゆえに、
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちが、この地上で生きてゆくうえにおいて、
もし、さまざまな迷いが起きたならば、
さまざまな判断に苦しむことがあったならば、
まず悟りの道を究める方向をとりなさい。
この方向をとりなさい。
それ以外のものを考えすぎてはならない。
自分の生活や、自分の地位や名誉を考えすぎてはならない。
そのようなものは捨てても、またいつか現れてくるものであろう。
しかしながら、悟りの道は、いったん捨てたならば、
ここに戻ってくることは、きわめて難い。
(264~267ページ)〔携帯版275~278ページ〕

このブログを読んで下さっている方の多くは、大川隆法先生のお教えに触れ、すでにこの「悟りの道」を歩んでおられると思います。

さまざまな迷いや苦しみのなかで、もうこの道を歩むのをやめようかと思うようなことがあったときには、ぜひとも、この仏陀のお教えの一節を思い出してください。

この言魂を味わうなかで、仏はいつも私たちとともにあることを思いつつ、また今日も一歩を進めて行きたいものだと私は思うのです。

『仏陀再誕』大川隆法著


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あの豊臣秀吉ってさ、朝鮮出兵ってやったでしょ。あれって、なんでだったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太閤秀吉の霊言──天下人が語る日本再生プラン』で、その秀吉その人の霊の言葉(「霊言」)を、インタビュー形式で、次のように伝えておられます。

酒井 朝鮮出兵の動機については、さまざまに言われていますが、結局、本当の本心というのは何だったのでしょうか。

豊臣秀吉 いやあ、だから、世界皇帝になりたかったわけよ。

酒井 ああ。

豊臣秀吉 日本の国はちっちゃいじゃないか。
 天下取りをしてしもうたからさ。いちばん下の草履取りから、天下取りまで行っちゃったから、あとは目標がなくなるじゃない?

酒井 はい。

豊臣秀吉 人生は、目標がなくなったら面白くないでしょ?

酒井 うーん。

豊臣秀吉 だから、「朝鮮半島から大明国を攻め取って、明国の皇帝になってやろうかな」と思うとったんだよ。あんたらが、今、恐れているのと正反対で、「世界皇帝になって、明国も日本が治めたろうか」と思うとったぐらいなんだな。

酒井 なるほど。
 ただ、あれだけ慎重でもあったというか、作戦をキチッと立てて確実に勝っていく戦いをされていた秀吉様が、なぜ、あのような無謀と言われる戦いをしてしまったのでしょうか。

豊臣秀吉 いやあ、もう大名たちに、あまりやる気がなかったのよ。(中略)
 「命令を受けたから、嫌々行った」というような感じだったな。みんな、もう戦いたくなかった。今の日本によう似とるわけよ。みんな、「奥さんや子供を残して、異国の地で長いこと戦いたい」なんていう気は、ほとんどなかったのさ。(中略)
 俺には、世界構想っていうか、「朝鮮半島から中国、それから、シャム(タイ)、ベトナムあたりまで、全部統合していきたい」という思いはあったし、さらには、「ヨーロッパのほうまで、大きくガーッと交易を広げていきたい」っていう感じはあったんだけどなあ。
(50~54ページ)

世界皇帝になりたかった。

天下取りをしてしまって、人生は目標がなくなったら面白くないから、朝鮮半島から大明国を攻め取って、明国の皇帝になってやろうと思っていた。

しかし、もう大名たちにあまりやる気がなかったため、無謀と言われるような戦いになってしまった――。

え、やっぱりそうだったんですか、って。

まさにそう言いたくなる、あまりに率直な言葉に驚いてしまいます。

本書こそは、あの太閤秀吉自身が語る、当時の歴史の真相を知りたい方に、超オススメの書物だと、改めて私は思っているのです。
 

『太閤秀吉の霊言──天下人が語る日本再生プラン』

 大川隆法著


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ね、地球系霊団が作られたときの理念みたいなものって、あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽に恋をして──ガイアの霊言』で、エル・カンターレが3億数千万年前に、初めて「アルファ」という名で地球に下生した際に、その妻だった女神「ガイア」の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 星によって、星団によって、いろいろと目的が違うし、その進化の度合いにも、ずいぶんずれがあるのですけれども、やはり新しくつくる以上は、何か、そういう「理念」がなければつくれません。
 ただ、直前の文明としては金星文明があったので、「金星文明を踏まえつつも、それとは違ったものをつくろう」と考えたのです。
 どちらかといえば、金星文明は、「調和」が極めて強かった文明かと思います。
 長い調和の間に、「芸術性」や「美しさ」も、そうとう出てきたとは思うのですけれども、ある意味で、停滞し、衰退した部分もありました。
 そこで、地球では、「進化の速度を、もう少し上げよう」という計画が最初からありました。
 ある意味での「新しい創造と破壊」、「変転」、こうしたものを強く入れ、わりに変化の激しい星にして、魂にいっそうのチャレンジのチャンスを与えるような環境をつくろうと考えました。(中略)
 その過程では、初期のころ、確かに、肉食獣などが多く出たときには、若干、弱肉強食的なものも出たことは出たので、これについては、金星的な目から見ると、必ずしも美しくない面はあったと考えます。
 しかし、宇宙の星のなかには、強者と弱者が、明らかに、その位置を固めているところもあり、弱者が、一方的に奴隷のようになっているような星もあれば、餌や獲物になっているような星も、現実にはありました。
 ただ、アルファ様のお考えとしては、「最初のあり方は、多少、原始的に見えるかもしれなくとも、いずれ、それを、現在のような市場原理、競争の原理も入れた上で、切磋琢磨して人類を進化させる原理につながっていくものにしたい」という気持ちをお持ちだったと思うのです。
 そのように切磋琢磨し、進化、進歩をしながら、同時に、もう一つ、調和の光を入れ、どうやってそれを整合させて、地球にユートピア的状況をもたらせつつ、それを最終的に終わらせないようにするか。
 要するに、桃源郷のような状況を何億年も続けさせるのではなくて、「進化させつつ調和させる」ということができないか。
 そういう、大きな文明実験だったと思います。
(56~60ページ)

直前の文明として金星文明があったので、それを踏まえつつも違ったものをつくろうと考えた。

「調和」が極めて強かった金星文明は、停滞し衰退したところもあったので、地球では、進化の速度をもう少し上げて変化の激しい星にして、魂にいっそうのチャレンジのチャンスを与える環境をつくろうと考えた。

切磋琢磨し進化しながら、同時に調和の光を入れることで、「進化させつつ調和させる」という大きな文明実験だった――。

女神「ガイア」が現代日本に転生していると明かされたのは、衝撃だったと思います。

本書では、“エル・カンターレの右手”とも称されるガイアの目から見た、地球系霊団の創世記の秘話が語られているわけです。

まさに、「神秘」の一言ではないかと改めて私は思っているのです。
 

『太陽に恋をして──ガイアの霊言』

 大川隆法著


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スマホって、持ち歩ける高機能コンピューターなんでしょ。ちょっと前には考えられないくらい科学技術が進んだってことだと思うんだけど、そうすると、これから先の未来科学って、どうなっていくのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『トーマス・エジソンの未来科学リーディング』(幸福実現党)のまえがきで、こう説いておられます。

 宗教法人「幸福の科学」は、その名の通り、「科学」とも縁の深い宗教である。科学を否定していないばかりか、それを先取りしている。警戒しているのは、「科学」の美名のもとに、「神」や「信仰」「神秘現象」「宇宙の秘密」を一蹴し、「宗教」を過去の遺物、迷信と決めつけて無視してくる人たちだ。もっと謙虚で、神秘的なものに憧れるのが本来の科学者気質でありたいものだ。
 本書に登場するトーマス・エジソンは、私が製作総指揮したアニメーション映画「永遠の法」でも霊界でのナビゲーターとして登場した人物だ。好奇心の塊で、不思議大好き人間だ。本書も、読み方次第で、様々な未来産業のヒントを発見できると思う。
 もっと寛容な心をもって、未知の世界に挑戦しよう。
(1~2ページ)

「シュリンク包装」というのだそうですが、本書は透明フィルムで包装されていて、立ち読みでは大事な中身がわからないようにされていました。

このエジソンの霊言がヒントになって、今はまだない未来の産業が生まれてくるかもしれないわけですから、その情報価値の高さがこういう形で強調されているのでしょうか。

で、本書に登場するトーマス・エジソンの語り口は、2006年に公開された映画「永遠の法」に登場したエジソンのキャラクターそのままで、好奇心にあふれた、とっても面白い方だと感じます。

そして、その語る刺激的な内容については、また機会を見つけて、少しずつ扱っていけたらと思うのですが、いずれにしても本書は、未来科学や未来産業などに興味関心のある方、ヒントを探している方にとって、必読の書籍であると改めて私は思っているのです。
 

『トーマス・エジソンの未来科学リーディング』

 大川隆法著


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幸福の科学って、ほんとに不思議な宗教だよね。宗教学者は、どう見てるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『宗教学から観た「幸福の科学」学・入門――立宗27年目の未来型宗教を分析する』(幸福の科学出版刊)のまえがきで、次のように説いておられます。

 「幸福の科学大学」を二〇一五年に開学するにあたって、大学関係者が文部科学省の担当官から、「何か『幸福の科学』学のようなものが必要ですね。」と指摘されたと仄聞した。
 確かに週刊誌や月刊雑誌の宗教特集で時たま紹介されることはあるが、宗教学者が「『幸福の科学』学」をまとめ切ったという話は、ついぞ聞いたことはない。私の本は、多い年には、内外併せて二百冊以上出される年もあり、現時点で千四百点以上あることが確認されている。まるで蓮の花が池一面に広がっていくように増殖していく教えに、宗教学者もジャーナリストもへたに手を出すと、間違いを指摘される怖れがある。現に、宗教学論文に「病気治しはしない」と書かれた後、祈願によって難病が続々と治癒し始めたり、「霊言はしなくなった」と書かれた後、霊言が復活したりと、現在進行形の新宗教は実に解明が難しい。「日本神道色が薄い」とも指摘されたが、近年では濃くなっている。本書では、教祖自らが、真正面から答えた次第である。
(1~2ページ)

宗教学の観点で、教祖自らが「幸福の科学」学とは? という問いに、真正面から答えた──。

本書が刊行されたのは、2013年でしたが、それ以降も、大川隆法先生のご著書は、毎年毎年、まったく半端ではない出版点数が続いています。

かなり熱心なフォロワーを自認する私でさえ、教団の日常の活動にも参加しつつ全冊読破するのは、まさについていくのがやっと、という感じです。

その内容たるや、「宗教」の分野はもちろんのこと、それをはるかに超えて、国内外の政治、経済、法律、科学、教育、時事問題、オカルト、スピリチュアリズム、宇宙人、等々、とにかく、ものすごく幅広い分野に及んでいます。

それも「現在進行形」で、毎年毎年、新たな内容が積み上がっていくわけですから、過去に出された限られた資料しか持たない既存宗教などとは、まったく別世界が展開し続けているわけです。

それを外部の研究者が、これらの書籍すべてをフォローしつつ、宗教活動以外の政治運動や教育活動、チャリティ活動などをも視野に収めつつ、客観的に検証しまとめていくことなど、まったくできるはずがない状況になっているのではないでしょうか。

その意味で、ものすごく研究がむずかしい“宗教”となってしまった「幸福の科学」を、大川隆法先生は、宗教学の観点からどのように分析されるのでしょうか?

本書は、「幸福の科学」に興味を持つすべての方に、お勧めの文献であると改めて私は思っているのです。

 

『宗教学から観た「幸福の科学」学・入門』

 大川隆法著


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あのアップルのスティーブ・ジョブズって、帰天して10年以上たつけど、今、天上界でどうしてるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『公開霊言 スティーブ・ジョブズ 衝撃の復活』ので、次のように説いておられます。

はじめに
 「本書は実にバカげている。スティーブ・ジョブズが復活しただって。そんなアホな。俺はイエス・キリストじゃねえ。もちろん、スーパーマンでもスティール(?)マンでもねえ。もっと言やあ、『泥棒』ともちがうでえ。俺はまだリンゴ農家をやってんだ。正式には『マイクロソフト』という名で呼ばれている地獄の底でな。
 エー、昔々、イヴが悪魔の親切なアドバイスをうけてリンゴを一個食った時、彼女は女神に変身した。そしてこの女神こそがスティーブ・ジョブズの聖母になったってわけよ。わかるかな、俺こそが女神イヴの独り子なんだっつうの。もしあんたらが狂いたければ、どうか真剣に本書を読んで下さい。その時に、エヘン、オホン、あえて教えてやるが、真なる『狂気』が得られるであろう。これこそが新時代の悟りなんだ。」

 ――スティーブ・ジョブズ御霊、聖なる言葉をかく語りき。
 さて、あなたは私の語る言葉を信じられるかな。

FOREWORD
 “This book is really nonsense. Steve Jobs Returns?
 Oh! God. I'm not Jesus Christ. Of course, I'm not the Superman or the Steel (?) man. Furthermore, I'm not the “Steal-man,” of course. I'm still farming apples in the bottom of Hell called “Microsoft” orthodoxly.
 Long long ago, when Eva ate an apple according to Satan's kind advice, she became Goddess. And this Goddess became the mother of Steve Jobs. So, I'm the only son of Goddess - Eva. If you are willing to become crazy, please read this book seriously, and that time, surely, surely, I dare say unto you, you'll attain real “madness.” This is the enlightenment of new age.”

 - Steve Jobs said these sacred words spiritually.
 Could you really believe me?
(4~7ページ)

帰天後3ヶ月ほどで収録され、幻とも思えたスティーブ・ジョブズの英語霊言は、日本語対訳の書籍として、2013年に刊行されています。

そのまえがきからしてそうですが、霊言の内容そのものも、人を食ってるというかなんと言うか…。

でも、その禅問答のような言葉は、時間がたてばたつほど、輝きを増しているように思えます。

書籍そのものは、透明のプラスティックケースに収められた特別仕様で、立ち読みできないようになっています。

しかし、アップル製品を愛するすべてのみなさん、そして、世のスティーブ・ジョブズ ファンのみなさん。

帰天後の彼の考えが分かる、貴重なこの本書を手に取らないままなのは、いかにも残念なことであると私は思っているのです。

 

『公開霊言 スティーブ・ジョブズ 衝撃の復活』

 大川隆法著


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オレって貧乏でさ、財産もなにも、まったく持ってないんだよね。悲しいよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心を癒す ストレス・フリーの幸福論』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世の中には、「今、自分は何も持っていない。財産などまったくない」と言う人も多いのですが、そんなことはありません。人は誰しも、たくさんのものを持っています。
 例えば、人間関係がそうです。前述したように、人間関係が悩みの種になることもありますが、自分を助けてくれるような人間関係も、みなさんは、たくさん持っているのではないでしょうか。
 また、肉体だってありがたいものです。現在、臓器移植が流行っているため、発展途上国のような貧しい所では、親が、自分の子供の腎臓や眼など、体の一部を売ったりしています。あるいは、自分の子供が、一生、乞食として食べていけるように、親があえて子供の片手を切り落とすケースもあります。
 一方、日本やアメリカのような豊かな国に住む人の場合は、どうでしょうか。「あなたの両腕を売ってほしい」と言われたら、いくらで売りますか。「腕一本を一億円として、二本を二億円で売ってくれないか。ついでに両足も売ってくれないか。両手両足を四億円でどうだろうか」と言われても、そう簡単には売らないでしょう。
 つまり、みなさんの手や足は、それ以上の価値を実際は持っているわけです。「自分の足で歩け、自分の手でご飯が食べられて、仕事ができる」ということは、ありがたいことなのです。
 また、「あなたの右眼を売ってほしい」「あなたの脳を売ってほしい」と言われたら、いくらで売りますか。やはり売りたくはないと思います。いくらお金を積まれても、そう簡単には売らないでしょう。(中略)これは値段が付かないものなのです。
 要するに、みなさんは、「値段が付かないような生き方」をしています。実際は、いろいろなものに恵まれているのです。
 生き物にとって最も大事な空気も、ただで吸うことができます。「一生の間に吸う酸素の代金を払いなさい」と言われたら大変です。
 例えば、国に財源がないことを理由に、「酸素税」などをつくられたら、もう大変でしょう。「酸素を吸った分だけ、税金を払いなさい。日本領内の酸素は日本の国のものだから、国内で吸った酸素については、国に税金を納めなさい」などと言われたら、日本国民は逃げられません(もっとも、国民がゼロになるかもしれませんが)。
 太陽の光も、ただです。「太陽の光を浴びたら、一時間につき、いくらお金を払ってください」というようなことにはなっていないのです。
 どうか、「人間にとって大事なものは、すでに、ただで与えられている」ということを忘れないでいただきたいと思います。
(53~57ページ)

人は誰しも、たくさんのものを持っている。

例えば、人間関係。例えば、肉体。例えば、空気。例えば、太陽の光。

人間にとって大事なものは、すでに、ただで与えられていることをどうか忘れないでいただきたい――。

私たちが、さまざまなものを、すでにただで与えられていることに深く思いを致したとき。

嘆いたり悲しんだりする必要がないどころか、じつは神仏への「感謝」しかないことに気がつかざるを得ないと、改めて私は思っているのです。
 

『心を癒す ストレス・フリーの幸福論』

 大川隆法著


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マックス・ウェーバーを勉強したんだけど、資本主義の精神はキリスト教精神、特にプロテスタントのなかから出てきたんだから、日本にはそもそもそんな考え方、なかったんでしょ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『石田梅岩の庶民繁栄術──弱者救済への幸福論』で、次のように説いておられます。

 日本にも資本主義の精神はありますが、それは必ずしもキリスト教精神と一致してはいないので、日本の事例を見れば、「資本主義の精神は必ずしもキリスト教精神から出たものではない」ということがよく分かります。
 例えば、最も簡単に思い浮かぶのは二宮尊徳です。
 小田原に行くと、二宮尊徳を祀る神社(報徳二宮神社)がありますが、二宮尊徳の教えを読めば、どう見ても、資本主義の精神そのものです。「勤倹貯蓄をして努力し、貯めたお金を、だんだん増やしていき、藩の財政を立て直し、豊かにしていく」という、国を富ませていく道まで説いています。(中略)
 それから、生きていた時期は少し重なっているのですが、二宮尊徳よりあとに、渋沢栄一という人もいます。明治期には財閥が数多くできていますが、その一つをつくった人です。(中略)
 アメリカのピーター・ドラッカーは、自分が尊敬する人物の一人として渋沢栄一を挙げています。
 渋沢栄一は、明治期の日本で、五百社を超える企業群を一人でつくりましたが、これは、通常、ありえないことです。五百社以上の会社を経営することなど、できるはずがありません。全部の会社の名前を覚えることもできないでしょう。ところが、彼は、明治期に、実際に五百以上の企業群をつくったのです。(中略)
 日本には、西洋に学んだわけではなくても、例えば、ハーバード大学経営大学院に留学し、MBA(経営管理学修士)を取ったわけではなくても、そういう、経営の天才がいたのです。
 日本には、資本主義の精神の体現者と思われる人として、上杉鷹山もいます。(中略)内村鑑三の著作である『代表的日本人』に取り上げられている五人のなかの一人です。
 上杉家に養嗣子(家督を継ぐ養子)で入り、米沢藩主になった人ですが、領地返上の寸前で、大リストラをしなくてはいけない状況を、何とかして持ちこたえ、質素倹約と殖産興業に励んで藩の財政を立て直し、藩を再興しました。
 その際、武士にも殖産興業を手伝わせました。特に、漆を植えさせ、新しく漆塗りの産業を始めたりもしています。(中略)
 そして、もう一人が石田梅岩ではないかと思われるのです。
(22~26ページ)

たとえば二宮尊徳や渋沢栄一、上杉鷹山の例が示すように、日本にも資本主義の精神はあった。

その考え方は必ずしもキリスト教精神と一致していないから、これらの例を見れば、資本主義の精神は必ずしもキリスト教精神から出たものではないことがよく分かる。

そして、日本にも資本主義の精神があったと言えるもう一人の例として、石田梅岩がいた――。

その石田梅岩とは、いったいどういう人だったんでしょうか?

というあたりについては、また次の機会に!
 

『石田梅岩の庶民繁栄術』

 大川隆法著


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なんでマスコミって、新しい宗教をなんだか軽蔑して言ったり書いたりするんだろうね。一度紹介されたけど、つまりは、戦後の宗教学が原因なのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悲劇としての宗教学』(幸福の科学出版)で、次のように教えておられます。

 生前の岸本氏は、「科学としての宗教学」を唱えつつ、「価値中立」という立場をとっていました。(中略)こうした傾向は、この人の孫弟子ぐらいに当たる宗教学者たちや宗教評論家たちにも出ていると思います。(中略)
 「科学としての宗教学」という考え方のなかには、やはり、一種の実験科学のような思考があり、「検証ができないものについては科学性がない」と思っているところがあるわけです。そのため、検証できないものに対しては、迷信に近いもののような捉え方をするのです。
 この岸本宗教学も、結論を言えば、「神や天使、スピリッツ(霊)などというものは、イリュージョン(幻想)、妄想なのだ」というような考え方なのです。そして、その考え方を「科学的だ」と思っているわけです。
 しかし、これは宗教学でとるべき立場ではないと私は思うのです。(中略)
 それから、「価値中立」の考え方には、結局、基本的に価値判断を放棄しているところがあると言えます。
 やはり、宗教にも善悪はありますし、間違っている部分や理論の濃淡もあります。そのへんについての判断を放棄しているところに怠慢さがあると思うのです。
 宗教学に携わっている研究者と会ったときの印象を述べると、彼らは、「自分は中立的立場なのだ」と考えており、ある意味で、裁判所の裁判官の立場にいるような気持ちでいました。そして、宗教に携わっている人間や宗教家を、高い所から客観的に見て、アリの観察でもしているかのようでした。(中略)
 そして、「自分は当事者ではないのだ。だから、信仰にハマったら駄目なのだ。信仰にハマらないことによって、客観的に見ることができるのだ。それが価値中立性だ」と捉えているように感じられました。
 そのため、彼らは、あえて信仰から遠ざかろうとするのです。「一生懸命、教義に吸い込まれないようにしている」というように見えました。
 しかし、こういう価値中立の態度を、私は、オウム教事件のときに、かなり批判したのです。
 価値中立の態度をとると、結局、悪い宗教も、よい宗教も、一緒にしてしまいます。しかし、「おかしい宗教について、『おかしい』と言えないようでは、学問としての正統性はないのでないか」と私は思うのです。(中略)
 岸本教授の後任は故・柳川啓一氏ですが、この流れを汲んだ三代目が、だいたい今の世代です。そして、今は、また次の世代に移行しようとしている時代かと思います。
 岸本宗教学の影響は東大以外の大学にも出ています。教育学部の左翼化と相まって、宗教学や仏教学にも同じ傾向が生じているのですが、こういう唯物論化、あるいは、この世化している部分には、やはり、ある意味での害毒に当たるものがあるのではないかと私は思います。
(14~21ページ)

(東大の宗教学の教授であった)生前の岸本氏は、「科学としての宗教学」を唱えつつ「価値中立」という立場をとっていたが、その唯物論化の害毒は、孫弟子ぐらいに当たる宗教学者たちや宗教評論家たちにも流れている。

「科学としての宗教学」という考え方は、あたかも実験科学のように、検証できないものに対して迷信に近いような捉え方をするが、これは宗教学がとるべき立場ではない。

「価値中立」の考え方は、価値判断を放棄して、悪い宗教もよい宗教も一緒にしてしまうが、おかしい宗教について『おかしい』と言えないようでは、学問としての正統性はない──。

東大の岸本英夫教授が源流となって、それを受け継いだ柳川啓一教授、そしてその弟子筋の学者がそろそろ引退しようとしているのが、今の宗教学界の流れということです。

ちょっとむずかしい内容かもしれませんが、本書は、現代宗教学の源流としての「岸本宗教学から流れる毒水の研究」とでもいうことになりそうです。

発刊されてもう10年になりますが、本書の価値はまったく減じていないと思います。

宗教を学問的にも深く学びたい方にとっては、興味尽きない、教訓に満ちた貴重な書籍ではないかと、改めて私は思っているのです。

『悲劇としての宗教学』

 大川隆法著


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一日って、なんだか無駄にすぎてくよね。どんな意味があるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ひと口に人生と言っても、それは結局、一日の連続体、毎日の積み重ねです。(中略)その人がどのような人であり、いかなる人生を生きた人かを決めるのは、結局、一日一日をどう生きたか、毎日がどのようにつながっていったかということなのです。
 人間は、あすの時間を自由にすることも、きのうの時間を自由にすることもできません。(中略)自由にできる時間は現在ただいまだけなのです。
 その意味において、一日というものは非常に大きな鍵を握っています。やがて人間は地上を去り、ある者は天国へ行き、ある者は地獄へ堕ちますが、そうした違いも、結局、一日一日の蓄積にかかっているのです。
 その人が死後、どのような世界に行くかは、一日一日をどのように生きてきたかの総決算によって決まります。したがって、毎日毎日を決しておろそかにはできないのです。
 そして、毎日毎日の過ごし方における課題は、結局、「一日の質を、どのようにコントロールし、どうやって高めるか」という点にあります。
 一日の量を変えることはできません。一日の時間を引き延ばすことはできず、一日は二十四時間です。しかし、一日の質を変えていくことは可能なのです。
 一日の質を変えるために、ある意味では、科学技術が非常に奉仕していると言えます。(中略)しかし、これ以外に、精神的なるもの、心のあり方という観点から、一日の質を変えることも可能です。
 大部分の人間は、日々、心のなかに何らかの悩みや苦しみを持って生きています。この悩みや苦しみをどのように解決していくかが、その人の人生そのものにつながっていきます。すなわち、心が一段高い境地にある人は、悩みや苦しみを一刀のもとに切り捨てることが可能なのです。
 たとえば、心を穏やかにして、日々、修行に励んでいる人であれば、たとえ世の中でどのようなことが起きても、それにあまりとらわれることなく、行雲流水の心で生きていくことができるでしょう。
 しかし、人生のあわただしさの渦中にある人は、みずからを忘れてしまうような悩みにとらわれることがあります。(中略)会社においては、「〇〇さんが自分より早く出世した」「仕事のミスで上司にしかられた」「思うように利益が出ない」などが悩みの種でしょうが、より澄んだ境地の人から見れば、それはたいしたことではないのです。
 このように、一日のうちで心の大半を占めている問題が、一段高い境地から見れば、簡単に解決がつく場合があります。高度な判断のできる人にとっては、わずか三分で解決がつく問題を、ある人が一週間、一カ月と悩んでいるならば、その人の人生には、それだけマイナスが生じていることになります。
 一日は非常に貴重なものです。その一日をどのような心で生き抜くかということを、もっと考えなければいけません。一日の量を増やすことはできませんが、一日の質を変えること、転換することは可能なのです。
(39~44ページ)

人生は、一日の連続体であり、毎日の積み重ねであるから、その人がいかなる人生を生きたかを決めるのは、結局、一日一日をどう生きたか、ということである。

人間は、明日の時間や昨日の時間を自由にすることはできない。自由にできる時間は現在ただいまだけであるから、その意味で、一日は非常に大きな鍵を握っている。

そして、一日の量を変えることはできないから、毎日の過ごし方の課題は、結局、一日の質をどうコントロールし、どうやって高めるかにある──。

うーん、です。

このお教えは自分に関係ないと思った方もおられるかもしれません。

大切なお教えだとは思いつつも、そのまま読み流して忘れ去って行く方もおられるでしょう。

でも、この一見さりげないお教えが、いかに大切な黄金のお教えであるか。

そのことに気がつき、それだけでなく地道にこれを実践していった方。

そんな方にとっては、これからの人生の成功は約束されたも同然であると私は確信しているのです。

 

不動心―人生の苦難を乗り越える法 (OR books)

『不動心』

大川隆法著



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儒教精神って、幸福の科学の教えと関係ないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本陽明学の祖 中江藤樹の霊言』で、日本陽明学の祖である中江藤樹の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 まあ、陽明学に至る前の話から始めなければいけないとは思うけれども、(陽明学の)もとは儒学ですよね。すなわち、孔孟の学から来ているものでありますが、私は、親孝行の「孝」のほうから始めたわけです。
 しかし、第二次大戦、太平洋戦争が終わってから、アメリカ軍に占領され、GHQによっていろいろな日本の文化の解体作業が行われましたが、そのなかの一つに、「日本の家制度の解体」というものがあったと思うんですね。
 その家制度のもとにあったのは、この「孝」の教えです。これは、親孝行の教えであるし、仏教的に転化すれば、あるいは日本神道でもそうかもしれませんが、先祖供養的な教えの部分ですね。戦後、この部分が破壊されました。(中略)
 今、政治などでは、年金問題だとか、福祉だとか、医療だとか、いろいろなことを言っておりますけれども、「孝」の概念が確立しておれば、これらは、みな、最終的に国家財政の破綻にまで至るようなことにはならずに済むのです。
 現実に、「孝」の思想があった昔であれば、「子供が親や祖父母の面倒を見る」というのは当たり前の世界でした。ところが、横の夫婦関係優先型になり、「孝」の思想が完全に切れてきてからは、高度な教育を受けた女性たちが、親孝行の息子などを、「一種の成熟していない男性」というような、見下した考え方で見るようになってきましたね。
 そのように、「孝」の思想が壊れてきたところが、結局、少子化や年金等の問題、さらには財政赤字にもつながってきたのではないでしょうか。
 だから、アメリカが破壊したもののなかには、「大きいもの」があったのではないかと思います。この部分については、何らかの意味で、少し考え直さねばならんと思っております。
 特に、「『孝』の部分が決定的に欠けている」というところですね。
 さらに、同じような問題として、「孝」とは少し違うのですが、「師弟関係、すなわち師に対する弟子の礼のようなものも薄れてきた」ということが言えると思うのです。
 これも、やはり、学校などでの乱れの原因ですね。
 現在、教育関係において、先生の権威がなくなり、生徒のほうが、学級崩壊、暴力、いじめ、その他、いろいろな問題を起こしていますけれども、これなども、やはり、「師弟の道」が十分に説かれていないところに原因があると思いますね。
 ですから、古い思想のようではあるけれども、儒教的精神のなかに、現代の問題を解決する原動力があるのではないかと思います。
 まあ、陽明学的な思想は、こうしたものにとどまらず、さらに、社会変革まで目指していく行動論を説くものでありますので、あなたがたの教えで言えば、おそらくは、ユートピア創造やユートピア建設に関係する部分が、陽明学に当たる部分であろうとは思いますね。
(27~31ページ)

陽明学のもとである儒学には「孝」の教えは、戦後、GHQによって破壊されたが、「孝」が確立しておれば、少子化や年金、福祉、医療などの問題は、国家財政の破綻にまで至らずに済む。

同じような問題として、「師弟の道」が十分に説かれていないことが、学校などでの学級崩壊、暴力、いじめなど、乱れの原因である。

つまり、この儒教的精神のなかに現代の問題を解決する原動力があるが、陽明学的な思想はこれにとどまらず社会変革を目指す行動論を説くものなので、幸福の科学の教えでは、「ユートピア建設」に関係する部分にあたる――。

陽明学の思想と幸福の科学の教えとの関係については、この間、かなりの数の霊言が降ろされるなかで、しだいに明らかになりつつあるようです。

「儒教」や「陽明学」が古くさいものだとか思い込んでいると、それはぜんぜん違うということになりそうではあります。

そのあたりのお教えや霊言については、また次の機会に少しずつご紹介していけたらと私は思っているのです。
 

『日本陽明学の祖
 中江藤樹の霊言』

 大川隆法著


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幸福になりたいよね。どうしたら幸福になれるのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『真実への目覚め』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幾つかのポイントに絞って、「幸福へのヒント」になるようなことを述べておきたいと思います。
 その一つは、「人生の幸・不幸を決めるのは自分自身だ」ということです。これを最初に述べておきます。「自分自身の幸・不幸を決めるのは、ほかの人ではないのだ」ということを、どうか知っていただきたいのです。
 「他の人が『あなたは幸福です』『あなたは不幸です』と決めたから、自分は幸福、あるいは不幸なのだ」と考えるなら、それは間違いです。「自分が幸福であるか不幸であるかを決めるのは、あくまでも自分自身である」ということを知ってください。これが、みなさんに最初に述べておきたいことです。
 言葉を換えて言えば、毎朝、起きたときに、「自分が、幸福な一日を送るか、不幸な一日を送るか」ということを、自分自身で決められるのです。これを自覚しなければなりません。その一日を幸福にするのも不幸にするのも、他の人ではなく自分自身なのです。
 例えば、今、外は曇っていて、雲が早く流れています。雨が降るかもしれません。(中略)雷が鳴るかもしれません。
 しかし、それでもって、「雨が降った。雷が鳴った。だから、自分は不幸である」と考える人もいれば、「雨のなか、雷のなか、はるばる日本から来た大川隆法の話を聴けた。自分は、こういう環境に負けずに説法を聴きに行った。今まで勉強してきたかいがあった」という喜びで満ち溢れている人もいます。そういう人にとっては、天候などはどうでもよくなるわけです。
 雨や風などの天候によって自分の幸・不幸を決める人もいるでしょうが、「そうした外部の環境ではなく、『自分自身がどう考えるか』ということによって、自分の人生を完全に支配することができるのだ」と考えることが大事です。
 これは、私が幸福の科学で繰り返し説いていることの第一点であり、最も大事なことの一つです。この教えを一つ握っていれば、あとのところは、その大部分を忘れたとしても、大きく外れることはありません。
 まず、「幸・不幸を決める主体は自分自身である。自分の心一つが幸・不幸を決めるのだ」ということを、どうか忘れないでいただきたいのです。
(64~67ページ)

自分自身の幸・不幸を決めるのは、ほかの人ではなく自分自身である。

毎朝、起きたときに、自分が幸福な一日を送るか不幸な一日を送るかは、自分で決められる。

外部の環境ではなく、自分自身がどう考えるかによって自分の人生を完全に支配することができるというのが、幸福の科学の教えで最も大事なものの一つである──。

え?! と驚いた人もいるかもしれません。

でも、朝から実践してみさえすれば、いかにこれが真実であるのかをすぐに実体験できます。

今日のお教えは、その意味で、初歩ではあるけれども、とてもとても大切なものであると私は思っているのです。
 

真実への目覚め 幸福の科学入門

『真実への目覚め』

 大川隆法著


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大川隆法先生、600冊以上も霊言集を出してるんでしょ。中には、いま生きてる人の「守護霊」の霊言ってのもたくさんあるんだけど、これって、マスコミの人は理解できてるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『WILL花田編集長守護霊による「守護霊とは何か」講義』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように述べておられます。

 何とも珍しい題の本ができてしまった。
 「守護霊の霊言だけはかんべんしてほしい」という人の守護霊に、「守護霊とは何か」を講義させようとする、宗教学者も仰天するようなテーマの本である。
 現代民主主義社会の陰の主役は、何といってもジャーナリズムである。その代表選手的な花田編集長に、「俎板(まないた)の鯉」になってもらおうとする、宗教側からのささやかな挑発ではある。相手は横綱級の名編集長であるので、この程度の本で名声に傷がつくこともあるまい、との当方の身勝手な「甘え」もある。
 さて、中国、北朝鮮、韓国などの首脳級政治家が、最も怖れているのは、日本に影響力のある宗教家が出てきて、「国家の気概」を国民に教えることである。今、私は、世界百数カ国で対中国包囲網もつくりつつある。日本人の多数は知らなくとも、向こうにとっては、私は世界的革命家である。
 ステルス性の異次元攻撃が必要な時代でもあるのだ。
(1~2ページ)

まさに「ステルス性の異次元攻撃」の一冊です。

月刊「WILL」の花田編集長は、往年の「週刊文春」の名編集長としても著名な、代表的マスコミ人の一人でしょう。

何ごとも疑うことから始める習性を持っているとも言われるマスコミ人の守護霊は、自分自身が「霊」であること、ホントに「霊言」というのがあること、どういう切り口で、どのように語ったのでしょうか?

マスコミ人特有の視点満載で、数ある霊言集のなかでも、その面白さと分かりやすさは、まさにダントツ。

刊行から10年近くが経過しても、その価値はまったく変わっていないと思います。

この夏、大川隆法先生の霊言集に初めて手を伸ばそうかと考えている方に、特にオススメできる書籍の一つではないかと、改めて私は思っているのです。
 

「WiLL」花田編集長守護霊による「守護霊とは何か」講義 公開霊言シリーズ

『WILL花田編集長守護霊による「守護霊とは何か」講義』

 大川隆法著


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霊って、「霊言」でいろいろ予言してるじゃない。当然、当たるものなんでしょ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 あの世の霊だから、なにもかもがわかるのかといえば、決してそうではありません。やはり、その霊の認識の高さ、悟りの高さによって、理解できたり、把握できたりする範囲は異なってきます。その典型的な例は、「予知」です。四次元以降の実在界の霊たちは、程度の差こそあれ、だれもが、将来起きること、つまり未来の事件に関して、ある程度予知することができます。ただし、それが地上の三次元の人間に対してなされると、往々にして問題となります。というのは、時間的に、あるいは、場所的にズレることがあるからです。
 もう少しくわしく説明すると、その理由は二点あります。第一点は、将来起きることにも、確定的事件と流動的事件があるからです。確定的事件とは、高級霊界において、決定ずみのことで、これは、よほどのことがないかぎりくつがえすことが不可能です。しかし、流動的事件とは、このままでいけばこうなるであろうという予測的な段階にしかすぎません。ですから、これは、地上人の努力や、守護・指導霊たちの努力によって変更することが可能です。つまりは、天上界の霊の予言もはずれることがあるということになります。
 第二の理由は、天上界の諸霊の意識の段階差と、得意・不得意の分野によって、予言の精確さに、程度の差が出てくるからです。一般的にいえば、霊格が高ければ高いほど、予知がよくあたるのはもちろんです。予知を専門の職業としている霊もいるほどで、やはり専門家のほうがあたる確率が高いといえます。
(204~206ページ)

実在界の霊たちの「予知」は、時間的あるいは場所的にズレることがある。

その理由の第一は、将来起きることにも確定的事件と流動的事件があり、流動的事件は、地上人の努力や守護・指導霊たちの努力によって変更することが可能だからである。

理由の第二は、天上界の諸霊の意識の段階差と、得意・不得意の分野によって、予言の精確さに、程度の差が出てくるからである――。

だからこそ、大川隆法先生は、「予言ははずせる」し、「未来は変えることができる」、と教えておられるのだと、改めて私は思っているのです。

太陽の法 エル・カンターレへの道 法シリーズ

『太陽の法』

  大川隆法著


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成功するためには、やっぱし、人に頼るんじゃなくって、自分の才能がすべてでしょ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『百戦百勝の法則──韓信流・勝てる政治家の条件』で、「項羽と劉邦」の劉邦側の大将軍として有名な韓信の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 私どもの時代でも、先ほど話が出た劉邦は、そんなに戦が強い人ではなかったんだけど、人気はあったんですよね。とにかく人気があって、まあ、今流に言えば、人気の出る感じの政治家でしょうか。
 要するに、緻密に損得計算だけをする小役人のような頭ではなくて、何というか、気前よくお酒を振る舞うような、そういう「くれっぷり」がいい感じですね。
 もちろん、その下で汗を流した人もたくさんいるわけでしょうけども、彼は、そういう肚の大きい人であったので、その包容力の大きさに多くの人がついていったし、「多様な人材を使えた」という点が、やはり項羽よりも上だったのだろうと思うんですね。
 項羽には、個人の才能に頼っていたところがそうとうありますけども、結局は、「個人の才能よりも、多くの人を使える人物というか、そうした肚があり、包容力のある人間が、やはり勝つ」ということですね。
 劉邦は、個人としては、項羽と戦ったら負けるし、項羽の前に出たら、ぶるぶる震えるぐらい怖かったようですが、「個人としては勝てなくても、多くの人を使えば勝てる」という戦い方があるわけですね。(中略)
 これには、現代の経営に通じるものもあるだろうと思います。
 経営者なども、零細企業は社長一人から始まるのですが、だんだん中小企業から大企業になるにつれて、結局、器の問題になってくるんですよね。「どれだけ人が使えるか」という器の問題になってくる。
 もちろん、自分で仕事ができるからこそ、会社を起こせるわけですし、もともと、研究者であったり、技術者であったり、開発者であったり、営業の人であったり、アイデアマンであったりするわけですけれども、それを、どこかの段階で、組織を使って大きくしていく術に切り替えていけなければ、自分で起こした会社を大企業にすることはできなくなるんですね。その過程で、才能のある人を使わなければいけなくなってくるんですよ。
 ただ、自分自身に才能がある人は、どうしても才能のある人とぶつかります。「相手の才能が分かるため、それに対して嫉妬心や競争心を感じてしまい、その人を使えない」ということがあるわけですね。
 しかし、現実に会社を大きくするためには、そういう才能のある人が使えなければ勝てないわけです。
 政治も同じです。「国民からの目線で人気があり、有能な人材、有用な人材を配置して、国全体をうまく回していき、国力を高めてくれるような人」のほうが、個人的才能はともかく、最終的には、大国の指導者としての条件を満たしてくるようになるわけなんですね。
 最初に、自分一人が勝つためには、才能がなければいけないし、才能を持っている人に対して嫉妬心や競争心もあるだろうけども、「最終的には、やはり、才能を超えた『徳』の世界に入らなければいけない」ということですね。
(35~38ページ)

個人の才能に頼っていた項羽と異なり、劉邦は、そんなに戦が強くなかったが、その肚(はら)の大きさに多くの人がついていき、多様な人材を使えたため、最後は勝った。

経営者も、零細企業は社長一人から始まるが、中小企業から大企業になるにつれて、どれだけ才能ある人を使えるかという、器の問題になってくる。

自分自身に才能がある人は、才能のある人に対して嫉妬心や競争心を感じてしまい、その人を使えないことがあるが、最終的には、才能を超えた『徳』の世界に入らなければいけない――。

昨日、大川隆法先生が『未来の法』で説かれた、「多くの人の力を結集するには」というお教えがありましたが、今日の韓信将軍は、まさにその具体例を示して語ったのではないかと私は思うのです。

『百戦百勝の法則』

 大川隆法著


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