ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



幸福の科学って、いろいろ本を出したり、映画を作ったりしてるけど、宗教なんでしょ。なにしようとして、いろいろやってるわけ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「いま、幸福の科学が戦っている相手は、いったい何であるか」というと、それは、現代人の常識であり、学校教育において、「教科書には書かない」とされている考え方です。教科書に書かれていないことや、マスコミ等において、冷笑的、批判的に扱われている事柄のなかに、実は、真実のものがあり、それは、人間として、すべての人が知るべきことなのです。
 そして、人生における教科書に当たるものが当会の仏法真理です。人生における教科書である以上、義務教育と同じように、全国民、全世界の人に、基本的な部分を勉強してもらわなければなりません。
 仏法真理に関しては、「一部の人だけが勉強する」というエリート教育では困るのです。それではいけません。これは魂の義務教育であり、基本的に例外をつくってはいけないのです。「基本的な思想については、一人も逃さず、全員に理解させたい」という願いを強く持たなければいけないわけです。
 もちろん、仏法真理に対する理解には、「上根・中根・下根」の段階があります。人によって理解の程度に差があることは、歴史的に見ても、しかたのないことです。
 学校のテストでも、百点を取る人もいれば、六十点を取る人も三十点を取る人もいて、それぞれに学びの差はありますが、教科書そのものは内容的に一定のレベルでつくられています。
 仏法真理についても同様です。理解の程度に差はあるでしょうが、基本的なもの、ベーシックなものについては、義務教育として、すべての人に教えなくてはいけません。しかし、学校も塾も親も、いま、その使命を充分に果たしていないため、宗教が「霊性の公教育」をしなければいけないのです。そのことを強く訴える必要があります。
 その意味で、当会の伝道活動も、まだまだ充分ではないし、仏法真理の映画を製作して上映しても、必ずしも充分に知れ渡っているとは言えず、仕事は無限にあります。そういう強い使命感を持たなければいけません。「まだまだ、これからである」という気持ちを、強く強く持っていただきたいのです。
 さらに言うと、(中略)仏教も、釈尊が最高であり、そのあとに出た仏弟子は釈尊のレベルまでは行っていません。二千五百年たって、「明らかに釈尊を超えた」という、仏教のお坊さんがいたかといえば、いないのです。小さな分派をつくり、一つの派を立てて広げた人は多いのですが、全体的な思想を説くところまではいかないわけです。
 後世の仏弟子たちは、お経を一つか二つ取り上げて、「これこそが本物である」と主張するかたちの伝道をしました。確かに、大蔵経は分量が多すぎるので、「大蔵経をすべて学ばなければ悟れない」と言ったならば、そこで終わりになります。そのため、「私が、いろいろと勉強した結果、このお経がいちばんよい」と言って、派祖たちがさまざまに教えを広げたことは、よく分かります。
 その反面、仏教の本質そのものにおいては、残念ながら、失われた部分が大きいのです。
 そのため、いま、私は、数多くの教えを説きつつも、一なる本質というものを明らかにしようとしています。そのことを、どうか理解していただきたいのです。
(296~300ページ)

仏法真理は、魂の義務教育である。基本的な部分については、すべての人が学ばなくてはならない。

しかし、学校も塾も親も、そして他の宗教も、いま、これを教える使命を充分に果たしていないため、幸福の科学こそが「霊性の公教育」をしなければならない。

また、仏教は、後世の派祖たちがさまざまに教えを広げたことで本質部分が失われてきているので、大川隆法先生は、数多くの教えを説きつつも、一なる本質を明らかにしようとしている──。

要は、過去の仏教を集大成し、その本質部分を明らかにしている。

それとともに、「あの世があって、人間の本質は霊である」という基本的な霊的真実を人々に伝える「霊性の公教育」、「魂の義務教育」をなしとげようとしている。

それが、大川隆法先生であり、幸福の科学という教団の活動であるのだと私は確信しているのです。

『復活の法』

 大川隆法著

 

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人間って、なんで寝る時間が必要なの。寝なくてすむなら、一日24時間、たっぷりいろんなことができるのにさ。なんでこんな無駄な時間が必要なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『超・絶対健康法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「ナポレオンは三、四時間しか眠らなかった」とも言われていますが、忙しい現代人のなかにも、「睡眠は無駄な時間」と思っている人がいるようです。睡眠時間が短ければ、その分、活動時間が増えるので、より多くの仕事ができるかのような錯覚をしているわけです。
 世の中には、“短眠法”のようなものを奨励する仕事をしている人もいます。
 しかし、実際に短眠法をやり始めて、最初は「睡眠時間が三時間でも疲れない」と言ってバリバリ働いていた人が、一カ月ぐらいすると、だんだんフラフラになって仕事のミスが多くなり、結局、会社をクビになってしまったというような話を聞いたことがあります。
 これは極端に走った例ですが、「睡眠の本当の意味」が分かっていないのです。
 私たちは睡眠中に、肉体から霊体が離れ、実在世界に還っています。これは“里帰り”の現象であり、本来、人間が霊的存在であることを忘れさせないために、そういう習性が与えられているのです。これが睡眠の持つ意味の一つです。
 もう一つの意味は「霊界エネルギーの補給」です。
 私たちの肉体は食べ物によって養われていますが、霊体そのものは、実在界にある霊界エネルギーによって養われています。
 霊界エネルギーの一部は、食べ物を通して入ってくることもあります。動物の肉とか植物、穀類、ミルクなどのなかには、もともと生命エネルギーが入っているので、一部分は食べ物からも吸収しているのです。
 しかし、それだけでは十分ではありません。
 肉体だけであるならば、食べ物だけを食べていれば生きていけるのですが、人間は精神的存在であるため、睡眠を通して必ず実在界のエネルギーを受けないと、霊的に生きていけないのです。
 人間には平均八時間という長い時間の睡眠が必要です。
 機械でも、八時間も休ませるというのは、あまりないでしょう。
 「それだけ休ませないと、もたない」というのは、「睡眠によって実在界のエネルギーを得る」という意味があるからなのです。
 人間は永遠の生命を持っており、長い長い転生輪廻の過程で、肉体に宿るのは、ほんの一瞬のことです。
 それ以外は、長い長い霊的生活を送るので、それを忘れないようにするために、睡眠時に霊界に還ることは大事なことなのです。
(94~97ページ)

睡眠はけっして無駄な時間ではない。

睡眠の本当の意味は、第一に、本来、人間が霊的存在であることを忘れさせないために、実在世界に還ることである。

そして、第二には、精神的存在である人間が生きていくための霊界エネルギーの補給なのである──。

睡眠については、けっこう出てくる疑問なので、このブログでも何度も取り上げています。

寝ることは、霊的にみても大事なことであるので、ないがしろにしてはいけない。

でも、だからといって、寝てばかりでは、この世に生まれてきた使命や目的を果たすことができなくなる。

要は、その適度なバランスが大事であるのだと私は思っているのです。

『超・絶対健康法』

 大川隆法著

 

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いやあ、うちの部下って、ほんとにやる気がないんだよね。どうしたら、部下にやる気を出させることができるのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『社長学入門』(幸福の科学出版)のあとがきで、こう教えておられます。

 一般には、部下がやる気のない場合は、上司も大したことはありません。やはり、下よりは上のほうが強いので、上のほうにやる気が出てくると、それは、どうしても下に伝染するのです。
 したがって、あまり下のせいにしてはいけないところがあります。部下は、認識力が低いから部下をやっているのだし、知識が少ないから部下をやっているのだし、経験が少ないから部下をやっているのです。
 やはり、「上のほうから、できるだけ、やる気を出していき、最後は末端まで変化する」というのが基本です。(中略)
 「部下にやる気がない」というのは、一般的に、どこでもそうなのだろうと思います。給料以上は働く気のない人が九割以上です。
 給料以上に働く気のある人は、出世していく人なのです。トントン、トントンと上がっていく人は、給料以上に働いている人です。
 しかし、たいていの人は出世しません。そして、出世しない人は、「給料以上に働いたら損だ」と思っています。
 「給料以上に働かないと、自分としての使命が果たせない」と思っている人は、同期を尻目に出世していく人です。こういう人は、いつも一部なのです。
 ただ、その会社のなかでは、そのようになるけれども、やはり、ほかの会社に比べて違いが出てこなければ、会社全体としては、良くなっていきません。
 そういう意味で、「本当に必要とされているのか」ということを問うてほしいのです。(中略)
 このように述べるのは申し訳ないけれども、「たいていの企業は、たとえ潰れたとしても、ほかのところが代わってくれる」ということです。したがって、「絶対に必要だ」と言い切るのは非常に難しいことです。
 だからこそ、「『絶対、うちの会社がなければ困るのだ』というものを考え出せ。その哲学をつくり出せ」と言わなければいけません。そうすれば、みんなが燃え上がってきます。そうなれば、発展するでしょう。その哲学を持っていない会社と持っている会社の違いは歴然です。
 そういう使命感のもとにあるのは、「なぜ、わが社は必要なのか」という根源的な問いを持ち続ける、経営者なり管理職なりがいることでしょう。そういう問いを持ってください。(中略)簡単です。お金は要りません。それに答えてください。
 「なぜ、わが社は要るのか。なぜ、必要なのか。なぜ、存続しなければいけないのか。デフレであろうが、不況であろうが、潰れないでいる理由は何なのか。なぜ、潰れないでいてほしいのか。なぜ、わが社の商品、製品は、売れなければいけないのか」
 こういう根源的な問いに答えてください。その答えを考えるなかで、やるべきことは、はっきり見えてくるはずです。(中略)その問いに答えたならば、来年も、再来年も、十年後も、その会社は発展し続けるはずです。
(250~262ページ)

部下がやる気のない場合は、上司も大したことはない。

やはり、上のほうから、できるだけ、やる気を出していき、最後は末端まで変化するのが基本である。

「なぜ、わが社が必要なのか。なぜ、わが社の商品は、売れなければいけないのか」という根源的な問いへの答えを考えるよう努力せよ──。

厳しいお言葉ですけど、要は、部下のやる気は、部下の問題ではなくて、じつは上司の問題であるってこと。

そして、上司(管理職、経営幹部)は、会社の生き残りをかけて、会社が存続すべき問いへの答えを探し続け、考え続けること。

その必死の努力こそが、部下をも燃え立たせる。

そして、ようやくつぶれないレベルから、大不況のなかでも発展し続ける優良会社レベルへと、成長していくことができるのだと私は思っているのです。

『社長学入門』

 大川隆法著

 

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魂なんて、あるのかな。あるって考え方もあるし、ないという考え方もある。どちらかは分からない。それでいいんじゃないの? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 思想は自由です。学問も自由です。しかし、真理は一つです。
 「人間は霊的な存在である」という命題の真偽について、結論は一つであり、「真でもあり、偽でもある」という立場はありません。
 私が「魂」と呼んでいるものは、人体様の姿をとって人間の肉体に宿っている霊的な存在のことですが、実際、各人の肉体の形状に合わせたかたちで、霊的なエネルギーが人体様の姿をとっています。
 オーラが肉体から五センチぐらいはみ出したかたちになっていることも多いのですが、だいたい人体様の姿で、魂が肉体のなかに納まっています。
 そのように、人体様の姿をとって存在している霊的なエネルギーのことを、魂と呼んでいるのですが、「魂という、肉体の中身、肉体の真なる支配者が、存在するのか、しないのか」ということは大きな問題です。
 もし魂が存在しなければ、肉体という“入れ物”だけが生きていることになり、人間は機械とほとんど変わらなくなります。魂がなくても動いているロボットと同じになってしまうのです。
 ただ、機械は、それを動かす人がいるから動いているのであって、機械がみずから動いているわけではありません。一定の目的のために使う人がいて、機械というものは動いています。機械を動かそうとする人、機械の支配者は存在するのです。
 同じように、人間にも肉体の支配者が存在します。肉体だけが存在し、漂っているわけではありません。(中略)
 みなさんは自分の意志で人生を生きているでしょう。人生は、自分の思うように選ぶことができるでしょう。「右に行くか、左に行くか。何を善と思い、何を悪と思うか。自由とは何か」ということを、みなさんは、自分で求め、考え、決定し、生きていけるはずです。そこが機械とは違うところです。
 したがって、肉体の真実の支配者を見抜くことは、人生にとって、いちばん大事なことなのです。
 これを抜きにして外側の肉体の部分だけを追究すると、みなさんが、「自分である」と思っているものは、単なる脳の作用や神経の作用になってしまいます。
 それが、はたして、人間の尊厳になるのでしょうか。民主主義の基礎にある、「各人は尊い」という考え方になるのでしょうか。
 民主主義のもとにある「各人の尊さ」とは何でしょうか。民主主義のもとには、「人間は、仏神から与えられた生命を持っているがゆえに尊い」という考えがあるわけです。
 それがなければ、民主主義は、「単なる機械としての人間、肉体としての人間を、平等に取り扱う」というだけのもの、「どのように不揃いなリンゴでも、リンゴ一個の値段は同じである」と主張するようなものになるでしょう。
 しかし、その考え方は正しくありません。
 人間は、仏の子、神の子としての生命が宿っているから尊いのです。仏の子、神の子としての生命は、磨けば燦然たる光を放つからこそ、尊いのです。それが人間の尊さです。
(167~171ページ)

魂はある。霊はある。

人間は霊的な存在である。

人間は、仏の子、神の子としての生命が宿っているからこそ尊いのである──。

人間の尊厳とは何か。

これは、価値観がどうだというような話ではなくって、人生の真理とは何かってこと。

やっぱり、人間の体が機械といっしょなんて考えには、ついていけないほうがまっとうであるのだと私は確信しているのです。

『生命の法』

 大川隆法著

 

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幸福の科学って、自分で修行が大事だって言ってたから、「自力」の教えだと思ってたんだけど、でも、いろんな祈願があったりもして、神さま、仏さま頼みの「他力」の教えみたいじゃない。どっちがほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、1995年に刊行された『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏陀の一生を考えてみても、「悟りの宗教」が基本スタイルではあったのですが、その神通力等を信じる人たちからは、やはり救いを求められることが数多くありました。ですから、仏陀が他界してからのちに、霊界に還った仏陀に対して救いを求める救済型宗教が出てきたというのは、「むべなるかな」という点があって、それを完全に否定することはできないものではないかと思います。
 また、仏陀があまり奇蹟を起こさなかったといっても、パータリプトラ等の町で疫病が流行った時などには、実際、密教の呪術にも似たようなものを使って疫病を鎮めています。仏陀が、人々や弟子たちに呪文を教え、聖化した水を街角に撒きながら、呪文を唱えて、今でいうとペストに似たような疫病を、現実に鎮静化したりもしています。仏陀はそういう力を持っていた方なのです。しかし、その力をあまり使いませんでした。
 人々を智慧に導くという目的からすると、仏陀は、奇蹟を起こすことが必ずしもいい方法だとは考えなかったのです。ですから、そういうことは勧めていません。
 要するに、智慧というものを得ることによって悟りを開く、解脱するということが、やはり仏教の中心でした。
 しかしながら、底辺にある者にとっては、智慧を得て悟りを開くことは非常に難しいことなので、仏陀の救済力を願うということも否定できません。また、後世の流れのなかでは、そういう救済型の仏教思想も出てきているのです。これを、完全な異端として批判しきるつもりは、私にはありません。(中略)
 幸福の科学も、やがては、おそらく仏教と同じような流れをとるであろうと思います。ただ、現在進行形で続いているあいだは、やはり、悟りによって目覚めていく人を数多くつくる運動が大事だと思います。これは、私が生きているあいだでないと、できないことだからです。(中略)
 悟りを開いた方たちには、悟りを求めることによって得た力、一種の法力、神秘的な力、霊界と通じた力が生じてきます。すると、そういう人たちがまた、この世の人たちのいろいろな悩みを、断ち切っていく力を得ることができるのです。
 現実に、幸福の科学の支部に行き、支部長の話を聞いて救われたという方が、毎日毎日、数多く出てきているはずです。
 悟りの力を求めれば求めるほど、悟りが高くなればなるほど、多くの人たちの苦しみを救うことができるようになっていくのです。ですから、悟りを高めるということは、救済力を弱めることにはなりません。悟りを高めることが、多くの人を救済する力を高めることにもなるのです。「悟り即救済」になっていくのです。(中略)
 ですから、幸福の科学的な「悟りと救済」というものを考えるならば、やはり、現在進行形では、「悟りを求めながら、その悟りの力によって、多くの人々の悩みを救っていこう」「自分に力がある人たちは、多くの人たちにも智慧を芽生えさせて、解脱させていこう」「自灯明でみずからを光らせることが、まだできない者に対しては、入口の教えではあろうが、方便を使いながら、彼らの悩みを断ち切って、正しい方向に導いていこう」と考えることが大事です。
(274~278ページ)

幸福の科学も、仏陀(大川隆法先生)在世中にしかできないこととして、2500年前の仏教と同様に、智慧を得て悟りを得る(解脱する)人を数多くつくることが大切である。

悟りが高くなればなるほど、多くの人たちの苦しみを救うことができるが、誰もが悟れるわけではなく、仏陀の救済力を願う人々も多いため、後世、救済型の仏教思想も出てきており、幸福の科学もやがては同じような流れとなるだろう。

だから、まずは悟りを求め、その悟りの力で多くの人々の悩みを救っていこうと考えることであり、それがむずかしい人に対しては、入口の教えであり方便ではあっても、彼らの悩みを断ち切って、正しい方向に導いていくのが大切である──。

この教えが説かれてから25年余りの歳月を経て、海外百カ国あまりに信者を持つ世界宗教へと大きく飛躍しつつある幸福の科学。

この教団では、自ら悟りを求めること(「自力」)を教えるだけでなく、救済型の「他力」の教えも幅広く説かれ、そのための祈願も精舎や支部で数多く行なわれている、と理解していけばよいのだと私は思っているのです。

『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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幸福実現党の応援団長だっていう坂本龍馬は、暗殺されたんでしょ。ちょっと勉強してみたら、新撰組だとか、京都見廻(みまわり)組だとか、いろんな説があるんだよね。ほんとは誰が犯人だったのかなあ?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊の『龍馬降臨──幸福実現党・応援団長 龍馬が語る「日本再生ビジョン」』(幸福の科学出版)で、龍馬の霊自身の言葉(「霊言」)として、次のように伝えておられます。

 一撃目は横斬りで来た。だから、わしの額、横に斬られたんだ。ああ。この一撃で、最初、ちょっと機動力を失ったな。
 そのあと、床の間に走って刀を取りに行ったんだけど、抜く前に、次、縦に斬ってきよったからな。この二撃目がなあ、脳のなかにズバッと入りよってな、この二撃目で、わしゃあ、動けんようになってしもうたんじゃ。
 そのあと三撃目が来たと、確か、思うがな。
 当時も名刺っていうもんがあった。(中略)わしんときも、名刺というか、木札みたいなもんで名乗ってきたので、上げたら、やられた。(中略)
 「腕に自信はあったので油断してた」っていうとこは、ちょっとあったかな。わしは、「わしを暗殺することなんか、そんなに簡単にできるもんか」と思ってたのは事実だ。
 だけど、気を許しておったのと、刀を手元に置いとらなかったのが敗因じゃったなあ。
 もう一つの敗因は、向こうが小太刀で来るとは思わんかったことじゃ。これが敗因だった。入ってきたときに長剣で来たら、瞬時に机を蹴り上げてでも守りに入ったんだが、長剣じゃなかったんだよ。向こうは小太刀だったんだ。小太刀で来たんだ。
 小太刀だけ持ってくる場合には、武士にとっては、「戦わない」という意味だからな。長剣ではなかったんだよ。小太刀しか持ってなかったので、計略に引っ掛かったんだ、実は。(中略)
 わしだって剣豪じゃから、「踏み込まれる」と思ったら、最初からそれなりの備えはしたから、あそこまでは無様にはやられなかったんじゃ。
 相手は小太刀しか持ってなかったんじゃ。それもだなあ、小太刀も、普通は、こう、左から右に抜くだろ? だけど、右手で持ってきてたんじゃ、小太刀をな。だから、これ、普通は「抜けない」と思うだろ? ところが、左利きやったんじゃ、相手が。左手で小太刀を抜いたんじゃ。
 これで一撃目をくらったために、俊敏な動きができんかった。普通だったら、わしは、そら、二、三秒あれば、何らかの対応はしたんだがな。
 だから、ちょっと、そこは相手も考えたな。ちょっと、これは知力戦だな。
 小太刀を持ってきたことと、右手で提げてきたことで、「これは、話し合いに来たもんだ」と、当然、思うわな。その一瞬、ほんの数秒だ。ほんの一、二秒だな。ほんの一、二秒の油断だったな。
 まあ、酒を飲んでたのと、風邪気味だったのもあったけども、ほんの一、二秒の油断だったな、あれは。あの一、二秒が分かっておって、一撃目をかわすことができれば、何とか防ぎ切れたのだが、まあ、これは、武人としての動物性が、ちょっと落ちとったと言うべきかもしらんがな。(中略)
 あえて言えば、まあ、見廻組だろうなとは思うが、もう向こうも死んどるから、あんまり言うつもりはないよ。油断したわしのほうが悪いんだ。
(138~150ページ)

要点を外さないようにしつつ、このブログに収まるように、細部を省略した形でお伝えしてみました。

ただそうすると、龍馬先生の語り口(細部にわたる脱線の部分に独特の味があります)が消えていってしまって、とても残念な感じです。

興味があるみなさま、ここはぜひ、原典のこの霊言集を手にとってみられますように!

龍馬降臨―幸福実現党・応援団長龍馬が語る「日本再生ビジョン」 (OR books) 『龍馬降臨』

 大川隆法著

 

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子供を一生懸命、愛してあげてるのに、うちの子ったら、反発はするわ、話もしようとしないわで、大変なのよね。反抗期って、そんなに長いわけないのに、何が悪かったのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『ハウ・アバウト・ユー?』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「私は子供をこんなに愛したのに、なぜ、このような目に遭わなければいけないの?」と思うわけですが、実は、その考え方のなかに間違いが含まれていることもあるのです。(中略)
 その一つは、子供に成果を求めて、「目標を達成したら、愛してあげる」というような愛の与え方をすることです。
 こういう親はたくさんいます。
 これは、社会が男性化したことの一つの表れです。
 会社などの男性の社会では、成果主義が進んでいます。これが家庭のなかに持ち込まれているのです。
 母親が子供に一定の成果を求め、「子供が目標を達成したら愛するが、達成しなかったら、愛するかわりに叱ったり怒ったりする」というケースはよく見られます。
 もちろん、一定の範囲では、そういうこともあってよいとは思います。
 子供が学校で良い成績を取ったり、スポーツで活躍したり、絵画や書道で作品が評価されたりすれば、親としてもうれしいので、子供をほめるのは当然でしょう。
 しかし、これが、「成果を条件にする」というように、愛することに条件をつけ始めると、問題が起きてきます。
 子供としては、達成できる場合はよいけれども、達成できない場合には、親に反旗を翻して自分を守ろうとするようになります。
 「成果をあげて一定の条件を満たさなければ愛さないぞ」ということを親から言われると、子供は「親から捨てられるかもしれない」という恐怖心を抱きます。
 “愛”の反対である“恐怖”を感じるのです。
 子供は何とか成果をあげようとして頑張るのですが、親の要求レベルが高いために、そこまで届かないこともあります。
 そういうときに、子供は、自分を守ろうとして、反発したり、内なる世界にこもったり、逃避したりし始めるのです。
 このように、子供の非行や反抗、逃避などは、親の「条件つきの愛」に問題があることもあるのです。(中略)
 ところが、「愛している」と思っているほうは、相手を不幸にしているとは思っていません。
 特に、人は頭が良くなると、支配欲が強くなり、他の人を支配したくなる傾向が出てきます。その支配欲のなかに、「相手を操縦できる」と思う気持ちが湧いてくるのです。
 そういう人は、知恵がついて、相手が自分の狙ったとおりになると「愛し合えている」と感じ、狙いから外れると「愛が成立していない」と考える傾向があります。
 これは、ある意味での支配欲です。
 「相手を愛している」と思っていても、それは、幸福の科学で教えている「与える愛」とは違うものです。
(86~97ページ)

子供に成果を求めすぎていませんか。

子供が目標を達成したら愛してあげるが、達成しなかったら、叱ったり怒ったりするだけではありませんか。

自分の支配欲で、子供を支配してしまっていませんか──。

自分では愛だと思っていても、それは「与える愛」ではなく、「奪う愛」。

つまりは、子供が非行に走ったり、反抗したり、逃避したりしてるのは、じつは自分の「奪う愛」に原因があるんじゃないか。

その大事な事実に親のほうが気がつき、そして反省ができたときに、親子関係というのは劇的に改善されると私は確信しているのです。

『ハウ・アバウト・ユー?』

 大川隆法著

 

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私って、あの世があるの、信じれるんだ。でも、うちの親とか兄弟はだめなの。友だちも、信じてない人が多いんだ。なんで、すぐに私は信じれるのに、そうじゃない人がいるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

何ら人より強制されることなく、
何ら無理強いされることなく、
何ら特に学ばされることなく、
あの世の世界を信じ、
転生輪廻を信ずることができる者は幸いである。
そうした者たちは、魂の記憶のなかに、
過去世の様相が残されているのである。
魂の比較的浅いところにまで、
そうした仏法真理が焼き付いているのである。
そうした者たちは幸いである。
過去の転生においても、仏法に馴染んできたことが、
数多くあるに違いない。
過去の転生において、仏法を学んだことがあるからこそ、
そうであるからこそ、今世においてもその事実が、
比較的早くわかりやすくなったに違いない。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
あなたがたは修行の道に入って、
まだそう長い月日は経っていないに違いない。
されども、あなたがたがこうした早い時期に、
仏法真理にたどりつき、仏法真理の縁を得、
そして、悟りへの道を歩むことができるようになったことを、
感謝せよ。
仏法真理にたどりつき、仏法真理の縁を得て、
悟りに到る道を歩みはじめたということは、
人間として生まれて最大の幸福でもあるのだ。
おまえたちは、幸福な人間であるということを、
よくよく心のなかに言いきかせねばならない。

この地上的なる富を、いくら積まれようとも、
この地上的なる名誉を、いかに積まれようとも、
この地上的なる地位や、肩書や、権勢や、
そのようなものすべてを、いかに積まれようとも、
この幸福にはかなわない。
すべての地上的幸福、金銀財宝と引き換えであっても、
この幸福を譲り渡してはならない。
仏法真理の縁に触れ、悟りの道を歩んでいる者の幸福は、
何ものにも替えがたいということだ。
(261~264ページ)〔携帯版272~275ページ〕

ほんとにありがたい、仏のお言葉ですね。

信じることのできる自らの幸福をかみしめながら、そして、この幸福への道を、一人でも多くの方にお勧めすることを決意しつつ。

今晩は、心やすらかにやすむことにしたいと私は思っているのです。

『仏陀再誕』

 大川隆法著

 

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私、不幸の星の下に生まれて来たんだって、占いの先生に聞いたの。人間には運命があるんだから、これはもう、どうしようもないのよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『勇気の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

勇気さえ持てば運命はどうにでもなる。
勇気があれば何だってできる。
言い訳を排し、勇気を元手にして戦うことだ。

勇気があれば、その一言が出る。
勇気があれば、手を差し伸べられる。
勇気があれば、立ち上がれる。
勇気があれば、ほかの人の命を救うこともできる。
自分の運命だって変えられるし、
人の運命も変えることができる。
それが勇気だ。

ユートピアの創造は勇気から始まる。
勇気を持った人が出てこなければ、
ユートピアなんてできない。
後の人々のために身を挺して戦う人が要る。
自分自身で刈り取ろうと思わないで、
自分自身が果実を手に入れようとしないで、
後の人々のために尽くす人が要る。
その人に必要なものが勇気なのだ。
(190~191ページ)

勇気があれば何だってできる。

勇気があれば、人の運命も、自分の運命さえも、変えることができる。

ユートピアの創造は、勇気から始まるのだ──。

「勇気」の教えは、やはり凄いのだと、改めて確認できた気がします。

この力強い言魂を、しっかりと味わって、明日からもまた勇気を出して、元気にがんばりたいものだと私は思っているのです。

『勇気の法』

 大川隆法著

 

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仕事に命をかけるには、天命を見極めよってんでしょ。で、今の仕事、どんなに考えても、ぜったいに天命なんだよね。だけど、ぜんぜん成功できないんだよね。教えが間違ってるんじゃないの? なーんてちょっと斜めの疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『経営入門』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 陶器は、いくら粘土や上薬がよくても、あるいは模様がよくても、窯の火の熱が足りなければ、よいものは焼けません。同様に、仕事には熱意が大事です。世の人々は、この辺を誤解していることが多いのです。
 成功しなかった人は、その理由として、「生まれた家が悪かった」「時代が悪かった」「お金がなかった」「学校時代に勉強ができなかった」「友人が悪かった」など、いろいろなことを挙げます。もちろん、そういう影響もあるでしょう。
 しかし、最後は熱意なのです。「あなたが成功しなかったのは、熱意が足りなかったからだ」ということです。ほとんどこれに尽きるのです。
 天命から外れていない仕事をしているのに成功しない場合は、「熱意が足りない」ということです。自分が本当に好きで、自分の生命を生かし切れる職業、仕事であったならば、熱意が湧いてこなければ駄目なのです。
 少々の能力差や身体的ハンディなどといったものは、熱意の前には吹き飛んでしまいます。年齢的なものもそうです。すべて吹き飛んでいくのです。
 成功しないのは、要するに熱意が足りないのです。一生懸命に不成功の言い訳を探したところで、どうなるものでもありません。
 勉強でも同じです。学校時代に勉強ができなかったことを、いくら言ってもしかたがありません。その後、熱意を持ってカバーするしかないのです。
 大学では、普通、四年間しか勉強しません。しかも、四年間まともに勉強している人はごく一部であって、ほとんどの人はそれほど勉強していません。したがって、社会に出てから、五年、十年としっかり勉強していけば、勉強不足は十分にカバーすることができます。それで済むことなのです。
 学生時代の不勉強をいつまでも言っていてはいけません。やるかやらないかは各人の熱意です。それだけのことです。
 「自分は過去にこうだったから、現在はこうだ」という説明をしているだけの人は、それだけの人間なのです。「過去はこうだったが、現状を変えよう」と思ったならば、そこを熱意で埋めていかなければならないのです。言い訳をしてはいけません。
 熱意は本当に大事です。『仕事と愛』には、釈尊、イエス、孔子、ソクラテスという四聖の例を引いて述べていますが、彼らがなした仕事は、単に頭が良いだけでできる仕事ではありません。
 救世の事業はすべてそうです。いくら頭が良くても、それだけでできるものではなく、やはり熱意が必要です。熱意が勝っているからこそ、人々が動いていくのです。
 師だけではなく、弟子も同じです。弟子の熱意がどれだけあるかによって、法が広がっていくこともあれば、広がらないこともあります。
 弟子が、「自分が尊敬されたい」という「奪う愛」の思いだけで仕事をしていれば、法は大して広がらないでしょう。しかし、「人々を救いたい」という気持ちが本当に強ければ、法は広がっていきます。そういうものです。
 熱意が最も大事です。熱意の前には、頭の良さや体力の強さといった少々の違いは、それほど大した問題ではないのです。
(66~70ページ)

熱意が最も大事である。

熱意の前には、頭の良さや体力の強さといった少々の違いは、それほど大した問題ではない。

成功しないのは、要するに熱意が足りないのである──。

うーん、熱意、ですよね。

いまの自分に、この仕事に賭ける熱意が、どれだけ本当にあったのか。反省させられます。

今日の仏の一喝、みなさんはいかがでしたか? 

『経営入門』

 大川隆法著

 

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ねえ、よくわかんないんだけど、なんで宗教なの。なんで信仰なんてしてるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

そう、当然のことでもあろう。
生まれてきた赤子は、
自分の父がだれであり、母がだれであるかを、
知ろうとするではないか。
父母なるものを知ることなくして、
人間として生まれ、育つことは、
この上なく悲しい事実である。
教えられなくとも、
小さな小さな赤子は、
母を求めて泣くではないか。
そうして、父の名を呼び、母の名を呼び、
自分を庇護するものが、いったいだれであるかを、
知るではないか。
それは教えられてではない。
生きているということ自体が、
生きてゆくという行為そのものが、
生かされていることを知るということ自体が、
みずからの親がいったいだれであるかを、
知ろうとするのだ。
そうであるならば、
川に流るる流木ならばいざ知らず、
生命ある、血のかよった人間であるならば、
みずからの生命が、だれによりて与えられたものであるかを、
知りたいと願うのが当然であるのだ。

そして、魂の親である仏を知った時に、
もはや、子供である人間は、
その親の名を呼ばずして、生きてゆくことはできなくなるのだ。
したがって、目覚めたる人間たちは、
「仏よ、仏よ」と、
毎日、その名を呼びて、やむところがない。
まるで、赤子が、毎日、父母の名を呼ぶように、
「仏よ、仏よ」と呼びて、
そして、その言葉を語ることに飽きることはないのだ。

あなたがたも、
この地球という小さな星に生まれ落ちたる、
ささやかな生命たちではないか。
そうであるならば、
求めよ、求めよ。
あなたがたの親に、
あなたがたの魂の親に、
求めるがよい。
すべてのものを求めるがよい。
すべてのものが与えられるであろう。
いや、与えられているであろう。
与えられていることに気づくには、
親の存在を知ることだ。
仏の名を呼ぶことだ。
(22~27ページ)

うーん。なるほど…、です。

ここで言葉を足す必要はないように感じます。

今日は、この仏の語られる言魂を、心で受け止め、じっくり味わってみたいと私は思っているのです。
 

『永遠の仏陀』

 大川隆法著

 

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なんだかさ、悪霊ってレベルじゃなくて、もっとすごい、たぶん悪魔が来てて、影響を受けてるみたいなんだ。どうすればいいの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊的世界のほんとうの話。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悪魔は、千年も二千年も三千年も、あの世(地獄)にいるので、説得されて天国へ上がることは、ほとんどありません。
 悪魔が憑いていて、変なことを語る人もいるでしょうが、その人に憑いている悪魔を説得しようとしても無駄であり、悪魔は、うまくごまかして相手を引っかけようとします。泣いて慈悲を乞うたり、「助けてください」「心を入れ替えました」「弟子にしてください」などと言い出したりしますが、それは嘘なので聴いてはいけません。悪魔は、涙を流すぐらいのことは平気でするのです。
 悪魔とは交渉をしてはいけません。ただただ、ふっ飛ばすことです。「これ以上の悪は許すまじ。悪を広げてはならない」という強い念で、ばっさりと切ることです。
 死んでまもない迷っている霊の場合は、説得して天国に上げることができますが、そういうかたちでは悪魔は上がりません。それだけの悪を行ってきているからです。そのため、悪魔に対しては、それ以上の悪を犯させないことが大事なのです。(中略)
 悪魔自体をすぐになくすことはできないので、私は、「光の領域を増やし、悪魔を包囲していく」という方針を採っています。「あちこちに光の牙城、拠点をつくり、悪魔を包囲して、しだいに彼らのすみかを狭めていく」というかたちをとっているのです。
 これは長い戦いですが、悪魔も数が多いので、教団自体の勢力が大きくなっていかないかぎり、単に戦うだけでは勝てません。
 ただ、悪魔というだけあって、彼らは協力し合うことがないのです。これが、いちばんありがたいことです。悪魔たちが協力し合い、一体となって大勢で出てこられたら大変ですが、彼らの戦いは個人戦なのです。「これは、ほんとうにありがたいことだ」と感謝しています。
 地獄の悪魔が総結集すると、何百人いるか、何千人いるか、分からないぐらいの数になるので、一緒になって攻めてこられたら大変です。しかし、彼らは、仲間同士でけんかになるので、一緒に行動することはできないのです。
 そのため、必ず個人で来ます。悪魔は、互いに協力し合い、手を携えて行動することはなく、みな勝手に個人で動いているのです。
 悪魔と戦うには、光の勢力が共同戦線を張り、手をつないで共同で戦うことが大事です。(中略)個人的な関心や、そのときの状況によって、それに合った悪魔が出てくるのですが、悪魔は、攻撃がばらばらで、組織立っていません。だからこそ、こちらが組織で戦えば勝てるのです。
 ただ、悪魔祓いは、幸福の科学の支部や精舎等、霊的磁場のできている場所で、修行を積んだプロの導師が行うのが、いちばん効果があります。
 当会の信者であっても、相手が強く、こちらの霊力が足りないと、負けてしまうこともあるので、個人で行うよりは、できれば、霊的磁場のある当会の霊場で、専門家に行ってもらったほうがよいのです。
(166~170ページ)

悪魔は、ただただ、ふっ飛ばすこと。

悪魔とは、光の勢力が手をつないで、共同で戦うこと。

ただし、悪魔祓いは、個人で行なうよりは、幸福の科学の支部や精舎など、霊的磁場のできている場所で、専門家である修行を積んだプロの導師が行うのがよい──。

こういう問題で悩んでいる方がおられたら、ぜひ、お近くの幸福の科学の支部や精舎などに連絡して、相談してみてくださいね!

『霊的世界のほんとうの話。』

 大川隆法著

 

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人の思いって、なんなの? 念力って言葉もあるんだから、物理的な力があったりするものなのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 心の作用とは、実は、仏が人間に与えた創造作用なのです。仏はおもいによって、各次元構造をつくりました。三次元宇宙をつくり、人間の魂をつくり、人間の肉体をもつくったのです。人間そのものが、仏の意識体の一部であり、ひとつの完結した小宇宙もあるわけです。したがって、人間の心の作用は、すなわちこれ、仏の創造作用と同種同根のものだといえます。つまりは、心のなかで考えること、思うことのひとつひとつが、この三次元宇宙空間と、多次元空間のどこかに、なにかを創造しているのです。そして、各人のおもいの総合体が、実在界をつくりあげている力となるのです。
 ところで、おもいとひとくちにいっても、おもいにも、やはりいくつかの段階、程度の差があります。
 まず、「思い」は、日常生活のさまざまな瞬間に、心のなかに去来するおもいであり、各人の通常の精神活動の一環だといってよいでしょう。
 つぎに、「想い」は、ある程度具体性のある考えです。「思い」が、海岸に一日中寄せては引いてゆく波のようなものだとすれば、この「想い」とは、ある程度、継続性があり、具体性のあるビジョンであり、それを視覚化し、映像化することができるものだということができます。「想い」は、ストーリー性をもっており、たとえば、流れてゆく川の水のように、継続性と方向性があるものなのです。
  さらには、「念い」という段階があります。ここまでくると、おもいも、はっきりとした創造性をもっています。また、それだけでなく、ひとつの物理的な力をもっています。いわゆる念力の「念」です。四次元以降の多次元世界では、この「念い」が仏に似た創造作用をもって、いろいろなものをつくり出していますが、三次元世界においても、かなり物理的な力をもった精神作用だということができます。
 たとえば、ある人をよい方向に導きたいという「念い」が集中してくると、その人の心境が一転したり、その人の環境が急転回して、好転したりすることが現実に起きてきます。(中略)
 これは、個人の場合ですが、集団でも同じことがいえます。この地上を仏国土ユートピアにしたいと願う人が、何十万、何百万と出てきて、その「念い」が集中、増幅されてくると、地上世界の一角から光が出てくる。そして、人々の心にその光が浸透して、どんどん幸福な世界がひろがってきます。そのため、この地上界が、「菩薩界」にとかわってゆくのです。
 もちろん、この反対のケースもあります。この地上界が、人々の悪い念い、すなわち、憎悪、怒り、利己主義などの念いで満ちてくると、どうなるのか。霊眼で見ると、まるで雷雲を思わせるような、黒雲のごとき想念エネルギーが地上世界のいろんなところにポッカリと浮かび、この想念体が、さらに大きな混乱を地上に起こすための物理的な力にかわっていっているようです。
 このように、人間の心の作用とは、すばらしいものであり、反面、こわいものでもあります。そのためにこそ、私たちは、自分自身をよくふりかえり、心の作用を確かめる必要があるのです。
(106~109ページ)

心の作用とは、仏が人間に与えた創造作用である──。

その心の作用には、「思い」「想い」「念い」の段階があって、「念い」には、物理的な力があるってこと。

この仏から与えられた「心の力」の凄さ、素晴らしさを知ったとき、さて、私たちは、どうするのか。どうするべきか?

自らの心をよくふりかえって調えて、仏国土ユートピア建設に向けて、正しい念いを結集して行きたいものだと私は心から思っているのです。

『太陽の法』

 大川隆法著

 

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リーダーになりなさいって、最近、よく言われるんだ。でも、どうしたらリーダーになれるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『国家の気概』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 リーダーには、とにかく、「決断力」が大事です。決断力がないと、人はついてこないのです。
 また、決断のときには、「善悪とは何か」「何が善であり、何が悪であるか」ということ、言い換えれば、「正義とは何か」ということを、常に追究しなくてはいけません。
 そして、「真実、これが、未来を開く鍵である。未来を開く方向である」と思ったら、世間やマスコミの論調がどうであろうとも、「正しい」と思うことを、勇気を持って堂々と言うことです。それだけの自信が必要です。
 決断し、そして、自分が決断したことを堂々と語り、実践する。そういう勇気が必要です。それが、やはり、リーダーの姿であると思います。(中略)
 さらに、リーダーは責任を取らなければいけません。「どれだけ、多くの人のために責任を取ることができるか」「どれだけ、多くの人への責任を感じるか」ということが大事です。(中略)
 そのように、リーダーには、「決断し、実行し、責任を取る」という潔さが必要だと言えます。
(85~88ページ)

リーダーは、「決断し、実行し、責任を取る」という潔さが必要である。

決断のときには、「正義とは何か」を常に追究し、決断したことを堂々と語り、実践する勇気が必要である。

さらに、リーダーは、どれだけ多くの人への責任を感じ、どれだけ多くの人のために責任を取ることができるかが大事である──。

つまり今日は、リーダー論の一つの形を、教えていただいたのだと私は思っているのです。

『国家の気概』

 大川隆法著

 

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ね、ね、「反省的瞑想」って聞いたことあるんだけど、何のこと? 反省なの、それとも瞑想なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 心のなかに、デコボコといろいろなものがあって、そこにひっかかりがたくさんありますと、そのひっかかりの部分に、ちょうどロープでも結んで上がってくるように、悪霊が入り込んできますから、潜在意識との完全な交流に入る前に、まず自分自身の心のあり方を正していく必要があります。その際に、自分の思いと行ないの一つひとつを点検していくことが大事になります。
 では、まずは何を点検すればよいのか。通常の場合、いちばん大切なのは、まずその日一日をふり返ることです。
 「きょう一日はどうであったか。朝起きてからあと、自分の心のなかにどんな思いが去来しただろうか。それは正しい思いであっただろうか。人に対して悪い思いを持たなかっただろうか。悪いことを考えなかっただろうか。また、悪い行ないをしなかっただろうか」――そのように、思いと行ないについて、まずその日一日をふり返っていくのです。
 そして点検してみて、悪いものがあったならば、「今後は、そういうことはするまい」と反省するのです。人に対して悪い思いを発したならば、「それは、どうも申し訳ないことをしたものだな」と、きちんと反省をする。悪い行為についても、「もうこういうことはするまい。修正すべきことは修正しよう」と決意をすることです。
 そして、きょう一日について心のクリーニングが終わったならば、さらに、その射程距離を広げていきます。
 たとえば、ここ一週間のことについて思い出してみます。(中略)それが終わったならば、さらにもう少し広げて、この一ヵ月について考えてみます。(中略)そしてさらに次には、この一年ぐらいをふり返ってみます。(中略)ここまでしますと、だいぶ身体と心が澄んでまいります。
 そして、さらに、自分自身をふり返る充分な時間がもう少しあるならば、できれば生まれた時からのことを、年代を区切って順番に考えてみることが大事です。(中略)そこまで反省をしますと、たいていの場合、思わず知らず両眼から涙が頬を伝っているものです。(中略)教えられたわけでもなく、そうしなさいと言われたわけでもないのに、反省の心、懺悔の心、慙愧の念いから、自然に涙が流れてくるのです。(中略)
 それは実は、自分が間違っているということを知るためのモノサシ、判断の基準を、本来、心の奥底では知っているということなのです。自分が間違った生き方をしているということ、そのモノサシに反しているということを知っているから、それに気づいたときに涙が流れてくるのです。(中略)
 このように、リラックスして、身体と心を調え、そして反省に入り、自分自身の過去をふり返り、涙が流れるようになりますと、心はかなり澄み切ってきます。(中略)
 そのように、反省をしながら、心を次第しだいに穏やかに、静かにし、そして、精神をリラックスさせるなかで、ひとつの精神統一の状態に入っていくことを「反省的瞑想」といいます。この反省的瞑想は、釈迦が禅定に入るとき、いつも使っていた方法なのです。
(96~105ページ)

心のなかにひっかかりがたくさんあると、そこに悪霊が入り込んでくるので、潜在意識との交流に入る前に、自分自身の心のあり方を正していくとよい。

反省をしながら、心を次第しだいに穏やかにしていって、精神統一の状態に入っていく方法を「反省的瞑想」という。

この瞑想法は、魔に狙われるようなことがなく安全で、しかも実り多い精神統一をすることができる方法である──。

うーん、ちょっといいなあと思いませんか?

反省は心のクリーニング。

そうそういつもというわけには、いかないかもしれません。

でも、少し時間がとれるときには、ここで教えていただいたように、自分の過去を振り返って反省しつつ、じっくりと精神統一をしてみたいもの。

幸福の科学の精舎に足を運べば、整った磁場のなかで、そんな精神統一がしやすいと思います。

おススメです!

 



『心の挑戦』

大川隆法著

 

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