ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



また知人がガンで亡くなったんだ。ガンって、霊的原因があるのかな。ガンにならないようにするには、どうしたらいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 病気の原因として、運動不足や食べ物の影響は大きいのですが、また別の面から捉えると、現代の病気は、ほとんど〝ストレス〟から生じていると言ってもよいのです。特に内臓系統の病気の場合は、ストレスによるものがほとんどです。
 医者は、病気の原因をいろいろと言うものですが、突き詰めていくと、結局、ストレスのところに来るのです。(中略)
 たとえば、仕事で大失敗をして、上司にものすごく叱られたり、手形が落ちなくて会社が経営難に陥ったりすると、それが原因で非常に心労が起きます。そうすると、どうなるでしょうか。
 肉体には、それとまったく同じ形の霊体が入っていますが、それだけではなく、内臓にも、それぞれ、心臓には心臓の霊体、腎臓には腎臓の霊体、胃腸には胃腸の霊体という具合に、すっぽりと同じ形の霊体が入っているのです。
 これらの霊体は、それぞれ感じ方が違います。それぞれの臓器には特有の使命があり、働きが違うからです。
 たとえば、胃腸の霊体は非常に敏感で、感じやすい感覚を持っています。また、心臓は、もっと大きな部分で、いろいろなものを感じることがあります。
 このように、各臓器の霊体は、それぞれ何かを象徴しているわけですが、人間に何か非常に大きなストレスが発生すると、その性質に応じて、内臓器官の霊体のほうがまず損傷します。
 そして、内臓等の肉体器官は霊体と密接につながっているので、霊体に損傷が起きると、しばらくして、肉体のほうに疾患が現れてくるのです。(中略)
 ガンになる場合もそうです。まず、臓器の霊体のほうに何か問題が起き、そのあと、肉体のほうに異変が起きるのです。これは一種の〝憑依現象〟です。部分的憑依なのですが、そういうことが起きる元はストレスなのです。
 したがって、「三次元波動のなかで、心を調和して生きることが、いかに大事か」ということを知ってください。
 物質的な原因で体が悪くなる場合もありますが、それ以上に、もっと体を悪くする可能性の高いものが、ストレス系統の原因です。これを防ぐほうが、多くの人が健康生活を送るためにはよいのです。
 そのストレスを防ぐものが愛の教えや反省の教えです。また、瞑想でもありますし、光明思想でもあります。
 幸福の科学にも瞑想修法がありますが、瞑想をしていると、内臓諸器官や神経系統がリラックスしてくるので、その方面の病気の予防になりやすいのです。
 特にガンの予防には最適です。ガンは、ほとんどストレスが原因なので、その予防に、瞑想を行うことをお勧めします。
(42~45ページ)

肉体には、全体としてそれと同じ形の霊体が入っているだけでなく、心臓、腎臓、胃腸などの内臓ごとに同じ形の霊体がそれぞれ入っている。

人間に大きなストレスが生じれば、その性質に応じて内臓の霊体がまず損傷しあとに、ガンのような疾患が肉体に現れることになる。

愛の教えや反省の教えを学び、瞑想することで内臓や神経がリラックスして、ストレスを防ぐことで、その種の病気の予防になりやすい──。

要は、ストレスを防ぎ、内臓の霊体を守ることで肉体の疾患を予防するためには、瞑想をすればよいということ。

瞑想はもちろん自宅でもできますけれど、磁場が調えられた幸福の科学の精舎などでは、とても入りやすいので、お勧めです。

いずれにしても、肉体の健康のためには、瞑想を毎日の習慣にすることだと私は思っているのです。

『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




あの人がやっぱり、うらやましいんだよね。頭いいし、美人だし、彼氏はかっこいいし。自分はって思うと、納得できないな? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

人には、それぞれ、
自然なる生き方というものがある。
自然体の人生というものがある。
そのなかに生きてこそ、
幸福に、伸びやかに、日々を過ごすことができるのだ。
それぞれの人に、それぞれの中道がある。
その中道を見いだすことこそ、
大切なことであるのだ。

この中道から外れる生き方を起こさせるものに、
他の者への嫉妬心がある。
この嫉妬は、嫉妬する心は、
決しておまえたちを幸福にすることはない。
このことを知らねばならぬ。
嫉妬は、毒牙を持った一匹の蛇である。
この蛇が、心のなかに忍び込むや、
おまえたちは夜も眠れなくなる。
常に、他の人間がうらやましくて、
その心、落ち着く時がない。

心せよ。
かくのごとき毒蛇を、みずからの内に引き入れてはならぬ。
嫉妬は、その芽のうちに摘んでしまわねばならない。
嫉妬の芽を摘むための考え方は、
これは、他の人に対する公平な評価にあると言ってよいだろう。

自分も、他人も、はるかなる昔に、
仏の子として、人間の生命を得た者であるが、
その時より、今日に至るまで、
幾千回、幾万回、
あるいは、それ以上の転生輪廻を重ねてきたのだ。
それだけ多くの回数を、地上生活者として送ってきたのだ。
ある者は、他の人々の幸福のために生き、
ある者は、他の人々を多く害して生きてきた。
その両者が、もし同じ扱いを受けるとするならば、
仏の創った世界は、
なんと不公平に満ち満ちていることであろうか。
やはり、それだけ多くの転生を経てきて、
人間には、
それぞれの魂の器というものが、
でき上がってきているのだ。
そうして、転生の過程を経てかたちづくられたる、
魂の器というものを認めない考えは、
これは、他人の努力を認めない考え方であり、
暴君のような、暗い心に支配されていると言わざるをえない。
(71~75ページ)

「嫉妬は、毒牙を持った一匹の蛇である」。

この毒蛇をみずからの内に引き入れず、その芽を摘むためには、他の人に対する公平な評価をしていくこと──。

私たち人間の魂は、実は数えきれないほどの転生輪廻を重ねてきた存在であるわけです。

それを知ったときに、その長い長いプロセスで、どういう努力をしてきたかによって、今のあの人があり、今の自分があるってことを考えることができます。

この大宇宙のすべてのものごとには「原因結果の法則」が適用されているのだから、その結果はむしろ公平であることが理解できます。

だとすれば、私たちが自分自身の力で未来を切り拓いていくためには、他の人々の幸福のために愛あふれる生き方を、これから始めていけばいいってことだと私は理解しているのです。

 

『永遠の仏陀』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




青年にとって、志(こころざし)って大事だよね。理想も、熱意も大事だよね。でも、どうやれば、それを持つことができるの? なーんて疑問もっている人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世の中には、どうすれば志を持てるのかと訊く人がいます。どうすれば理想に燃えることができるのかと問う人も、数多くいます。どうすれば熱情を持って生きていけるのかと問う人もいます。
 しかし、そういう人たちへの答えは、たった一つの実例が出てきたら、それで十分なのです。たとえば、今この本を手にされているみなさんのなかに、一人、志の高い人が出てきて熱情ある人生を示したら、これでほかの人たちへの説明はいらなくなるのです。
 そうなのです。志というのは感化力を持つのです。他の人びとへの影響力を持つのです。人は、その波動に、その念いに、揺り動かされます。そして不思議なことに、その志が自分のなかにも宿るのです。ああいうふうに生きてみたいという気持ちが、宿ってくるのです。
 そうであるならば、こういう真実に目覚めたみなさんであるならば、手本を求めるのもよいが、自分がまず手本になってみようとは思いませんか。不幸の底にあり、敗北の底にあっても、なお明るく生き、マイナスの思いは出さず、研究を重ね、さらに工夫をし、もう一度挑戦していく。そして、高い志のもとに生きていく。みずからがそういう姿を見せることこそ、じつは多くの成功者を生み出していく秘訣なのです。
 私は、偉人の条件とは、迸(ほとばし)り出てやまない熱情であるように思います。挫折なんか、どこにでも転がっています。失敗なんか、どこにでも転がっています。自己憐憫に陥るような出来事、条件など、いくらでもあります。身体に関しても、才能についても、自分を憐れもうと思えばいくらでも憐れむことができましょう。そんなものは、世の中に掃いて捨てるほどあるのです。
 そうではないのです。要は、どのような掃き溜めみたいな人生環境のなかに生きようとも、そのなかで、いかに鶴のように生きるかです。掃き溜めのなかからでも、鶴のように生きられるかどうかなのです。それが大事なのです。そういう人が出てきてこそ、世の中は幸福に満ちた人びとでいっぱいになるのです。
 人柄がよくても幸福になれない、頭がよくても幸福になれない人には、この情熱というものが必要です。それを教えてあげることが必要です。そうであってこそ、初めて幸福の扉というものは開いてゆくものなのです。
(112~114ページ)

志を問う人よ。まずは、自らがその実例になろうではないか。

そして、まわりの人々を感化していこうではないか。情熱を、教えていこうではないか。

この呼びかけに応える偉人よ、いでよ──。

大川隆法先生は、この御法話「人生の再建」を1990年に説かれてから、28年の歳月を経て、また今も、いや、まだ今も、強く強く呼びかけておられます。

この仏の声に、一人でも多くの若者たちが呼応されますように。

そして、人生経験を重ねた方であっても、ぜひともこの仏の呼びかけに呼応されますようにと私は祈念しているのです。

 

『人生の王道を語る』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「智慧」って、字がむずかしいんだけど、「知恵」でなければ、「智恵」でもないんだ。それって、大事なものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生の目的は、いろいろありますが、その一つとして挙げてよいことは智慧の獲得です。この世で何十年か生きたあと、あの世へ持って還れるものは智慧なのです。
 人間は、智慧を得るために、この世に出てきて、修行をしています。いろいろな勉強をしたり、いろいろな経験を積んだりしながら、苦労して智慧を身につけているのです。
 そういう人生修行を実際にやってみないと、智慧というものは身についてきません。紙の上の知識だけでは、あまり身についてこないところがあるのです。
 人間は、学問などで吸収した知識を実際に行い、いろいろな試行錯誤を経ることによって初めて、「こういう生き方が、ほんとうの生き方、優れた生き方なのだ」ということを知るのです。
 智慧を得ることは人生の一つの目標です。智慧という言葉には非常に奥深いものがあります。
 はっきり言うと、一定の智慧を得たならば、あの世で神になるのです。すなわち、神格を持った霊、高級霊になるわけです。智慧を得ることは、それほどのことなのです。智慧のある人は、いろいろな人を教えられるので、神になるのです。
 智慧を得るために、人間は、みな、営々と努力しているのですが、努力はしていても、なかなかうまくいかないものです。そのため、人生のなかで試行錯誤をします。
 そして、多くの人の導きになるような考え方、生き方を示し、人々を教えられるようになると、その人は指導者になっていきます。みずからの智慧が大きな塊になってくると、その人は、神といわれる人たちのいる世界に入っていくのです。
 智慧を得るのは非常に大事なことです。この世で得たもので、肉体に付随するものは、何もあの世へ持っていけません。食べ物も、お金も、肩書も、会社も、建物も、土地も、あの世へ持っていけません。しかし、智慧は持って還れるのです。
 私は、「あの世に持って還れるものは心だけである」という話をすることもあります。しかし、心は誰でも持って還れますが、そのなかの智慧の部分が大事であり、今世の人生が勝利したかどうかは、この智慧の部分と関係があるのです。
 その意味で、智慧の獲得は人生の大きな目的なのです。
(74~77ページ)

「般若の智慧(はんにゃのちえ)」という言葉があるように、ここで「智慧」とは、単なる知恵とは異なり、もっともっと奥深い叡知のこと。

ここでは、「悟り」という言葉に極めて近いものとして説かれていると理解すると、その教えがよりよく分かってきます。

智慧を獲得こそが人生の目的。一定の智慧を得れば、あの世に帰って、神格を持った高級霊になれる。その意味で、神にさえなれるのだ──。

人生修行は、大変なものではあるけれども、でも、だからこそ意義深いものでもあるのだと私は思っているのです。

 

『感化力』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ 



コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




成功したいよね。それも、一気に、若者しかできない成功をつかみたいよね。そうでなきゃ、今の時代、この日本が、世界を引っ張っていくことなんてできないんじゃないの? なーんてこと考えている人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ある町に、一人の貧しい旅人がやってきました。その旅人は、このように言いました。
 「この町には、何か素晴らしい職業があるでしょうか。成功できそうな職業があるでしょうか。もし、そういうものがあれば、私に紹介していただけないでしょうか」
 旅人は、こういうことを町の人に訊いて回ったのです。
 町の人は口々に言いました。
 「おまえさんの言う成功とは、いったい何なのか、私たちには分からない。
 私たちは、朝、お目様が昇ると、日を覚まし、そして、畑に出て、畑を耕し、水をやり、肥をやって、作物をつくる。目が暮れれば、家に帰って、夕食を食べ、家族団欒をして寝る。そういう生活を長年にわたって続けてきているけれども、『成功とは何か』とか、『成功する職業』とかいうことは、考えたことがない。
 おまえさんは、成功する職業、素晴らしい職業とは、いったい何だと思っているのか、私たちに教えてくれないか」
 町の人たちは、口々に、その旅人に訊いたのでした。
 すると、その旅人は、このように答えました。
 「成功するということは、他の人から見て、『うらやましい』と思われることだ。他の人から見て、『これは、すごいことをやった』と言われることだ」
 町の人たちは、しばらく、額を集めて、ぼそぼそと相談をしていましたが、やがて、その人に、こう言ったのです。
 「どうやら、この町には、おまえさんの探している成功というものはないようだ。みんなに話を聴いたところ、あの山の奥の彼方に、どうやら、そういう町があるらしいから、あの山を越えていきなされ」
 こういう結論になったということです。
 そこで、旅人は、その小さな町、村と言ってもいいような集落を抜けて、山に向かっていったそうです。そして、山のなかで、空腹に悩み、暑さに悩み、あるいは寒さに悩み、動物に吠えつかれ、また、夜、寝ているところを邪魔されながら、長い長い旅を続けていったそうです。
 やがて、幾山川を越えて、次の町へとやってきました。その町は非常に近代的な町でした。貧しい旅人は、「ここでこそ、私は成功できるに違いない」と、欣喜雀躍しました。
 旅人は、町に入ると、「この町の責任者と会わせていただきたい」と、お願いをしました。町の入り口にいた人たちは、町の責任者である町長のところへ旅人を連れていきました。
 町長は、確かに成功していたらしく、髭を伸ばし、たいへん太っていて、身なりも立派で、大金持ちのようでした。町長は、その男を自分の前に座らせて、しばらく睨んでいましたが、目玉をギロッと輝かせて、こう言いました。
(35~38ページ)

有名な、「成功者の町のたとえ」の前半部分です。

さてさて、成功者の町の町長は、この旅人を受け入れたでしょうか?

そんなはずないですよね。

結論を言ってしまえば、この旅人が、成功者の町に入りたいのであれば、その前に通った小さな町で、そこそこではあっても、まず成功してみせるべきだった。

その上で、成功者の町を訪れていたら、町長は即座に受け入れてくれたでありましょう、というお話です。

つまり、成功者の町は、成功者をこそ受け入れるのであって、そうではない者は、はなから受け入れない。

だからこそまず、自分として可能な、身近な成功から始めていくのが大切であることが、ここでは教えられているのだと私は思っているのです。

 

『成功の法』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




もっと実力つけなきゃと思って、日々勉強して努力してるんだけど。他の人のためにもっとすることがあるだろう、なんて言われるんだ。そうなのかな、どう考えたらいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
我はあなたがたに言っておく。
成功者とは、
たとえばあの田畑のなかを流れてゆく水路のようなものだ。
水路はまっすぐに流れている。
まっすぐに流れ、豊かな水量をたたえ、清い水をたたえている。
しかし、この水路から、まわりの田に、畑に、水が供給されてゆく。
これが、成功者の道であるということを知りなさい。(中略)

水路は、そのまわりに囲いを持っている。
その幅は、三〇センチであったり、五〇センチであったり、
一メートルであったり、さまざまであるが、
水を流すために、一定の幅があり、
一定の長さがあり、一定の障壁というものがある。
これは、一見、
他の人びとへの愛を拒んでいるようにも見えるかもしれない。
こうした壁があるということを、
人びとは批判し、それを非難することがあるかもしれない。
しかし、考えてもみなさい。
もし、水路があのようにまっすぐに走っていなければ、
どのようになるかを。
ポンプ小屋から水が溢れるだけであったら、どのようになるかを。
まわりは水びたしとなり、一種の小さな洪水となるであろう。
そして、洪水となった結果が、
ほんとうに稲の穂を伸ばしてゆくことになるかどうかを、
考えてみなさい。
それは、そうではないであろう。(中略)

こうしてみると、
より多くの人びとに、まんべんなく愛を与えるためには、
人生の基礎工事が必要であるということを、
この水路は物語っているのだ。
その水路を引く途中においては、迷いがあるかもしれない。
この水路を作ってゆく工事の途中で、
他の人びとから批判があるかもしれない。(中略)
あなたが、水路を掘り続ける姿を見、
その水路を固め、そして、そこに水を流すための工事をしている時に、
あざ笑う人はいるだろう。
「ばかなことをしている。あんな工事をしたところで、
そこから一粒の麦も、一粒の稲も実らないのに。
つまらないことに時間を費やしている。
つまらない工事に自己満足している」
そのように批判する人は必ず出てくるに違いない。

されども、自らの理想というものを疑ってはならない。
自らの理想を忘れてはならない。
たとえ、遠大な計画であったとしても、
その計画は必ずいつの日か達成されるのである。
目先のことにとらわれてはならない。
目先の利益にとらわれてはならない。
あるいは、あなたが偉大なる理想を持っているときに、
他の人びとの批判や中傷に怯んではならない。
そういう批判や中傷に怯むことなく、
まっすぐ、まっすぐに水路を作ってゆかねばならない。(中略)
あなたがたの人生の理想が、大いなる愛の供給にあるならば、
その工事作業をやめてはならない。
私は、そのように思う。
(78~88ページ)

水路には、一粒の麦も一粒の稲も実らないようにも見えるが、その工事を止めてしまえば、水路なき田畑となって、麦の穂も稲の穂も十分に伸びていくことができない。

教養をつけるための時間は、自らのためならず。

多くの人のために、愛を伝えるために、そのための水路を作っている時間なのだ──。

今日は、「水路のたとえ」です。

ここで、大川隆法先生は私たちに、限られた時間を使って、うまずたゆまず努力して教養を積んでいくことの大切さを教えておられるんだと思います。

まわりの批判や中傷に怯んではならない。

まだ十分な基礎を身につけていない段階の若者たちにとって、自らの遠大な理想、そう、大いなる愛の供給という理想のために、まっしぐらに勉強していくことは、とても大切な成功への道であるのだと私は確信しているのです。

 

『仏陀再誕』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「縁起の理法」って、よく聞くけど、いまいち納得できないんだよね。努力したからといって、それが結果として出るとは限らないじゃない? 自分は自分なんで、いくら努力しても変わらないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 高校時代は、英語、国語、数学、理科、社会などを勉強し、一定のレベルを修めて卒業します。それから、大学に入ったり、短大に入ったり、各種の専門学校その他に進学したりします。なかには、すぐに社会に出る人もいます。
 そこで、たとえば大学生を例にとると、どんなに優秀な高校生であったとしても、高校卒業時点では持っていないものを、大学で何年か学んだ大学生は持っているのです。どのような草深い田舎の大学生であっても、そうなのです。これは不思議ですが、大学生は高校生が持っていないものを持っています。(中略)
 もちろん、大学の専門領域はいろいろあります。たとえば文科系では、法律、政治、経済、経営、哲学、心理学、教育などがあります。理科系でも、理学部、工学部、医学部、薬学部など、たくさんの系統があります。
 しかし、これらはどれも高校で習うことはありません。したがって、こうした専門領域については、高校時代にいかに優秀な人であっても、その後、専門的な勉強をしなければ、身につかないものなのです。
 高校時代には、かなり優秀な人から、そうでない人までいたと思います。しかし、次の段階である大学に上がり、新しい学問に出合って四年間勉強すると、大学入学時には持っていなかった学力を、大学の卒業時点では持っています。
 このように、同じ人であっても、高校の卒業時点と大学の卒業時点では、学力の点では別の人間になっているのです。
 それは、大学に入って、それまで学んだことがないものを学んだ結果、頭のなかに入っているものが違ってくるからです。知識や情報のレベルにおいては、明らかに入れ替わっていて、別な人間になっています。つまり、十八歳の段階と、二十二歳の段階とでは、違う人間になっているのです。
 これは大学在学中の四年間の話ですが、同じようなことは、それから先にもあります。二十二歳と、三十歳、四十歳、五十歳とでは、別人になるのです。
 成人後は身長や体重がそう変わらないので、魂の入れ物である肉体は、確かにあまり大きくは変わらないかもしれません。
 しかし、目や耳などから、新しい経験や知識が常に流れ込んでいるので、中身は変わるのです。(中略)
 したがって、みなさんは、自分自身のことを、同じ水をたたえた池のような存在だと思っていたとしても、なかに流れている水は違ったものになってくるのです。(中略)
 この間、いろいろなものが新しい情報として入っては出ていき、みなさんは変化しています。形は同じく丸い池であっても、中身が違ってきます。どのくらいきれいな池になるか、魚が棲むか棲まないか、他の生き物が棲むか棲まないか、鳥が来ても養えるような池になるかならないかということが、まったく変わってくるのです。
 このように、縁起の立場は、「播いた種によって、あるいは努力によって、人生は変わっていくものだ」ということを明確に肯定するのです。
(28~32ページ)

これは、学生向けに、分かりやすく「縁起の理法」を説かれたところです。

ここでは、高校生が大学生や社会人になる、という大きな枠組みで、話を進めておられます。これはもっと遡って置き換えて、小学生が中学生になる、中学生が高校生になる、と考えてみてもいいですよね。

学校では、さぼってる人もいれば、熱心に学ぶ人もいるわけですが、「学ぶ」という努力を少しでもしていれば確実に、小学校、中学校、高校、大学、社会人と、自分の中身は変わっていきます。そこには、それなりの努力があるのは間違いない。

つまり、この大きな枠組みで、自分のこれまでの成長をみてくれば分かるとおり、努力という「播いた種」によって、人間は確実に変わっていけることを肯定するのが、「縁起の理法」なのだ、これは大宇宙を貫く偉大な法則なのだってこと。

だからこそ、私たちには、自分がよい方向に変わるよう、日々地道な努力を重ねていくことが勧められているのだと私は理解しているのです。

 

『青春に贈る』

  大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




なんだか、毎日、疲れるよね。なんだか元気出ないよなあ。・・・とか言ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向けの書籍『子供にとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 最初に君たちに言いたいことは、「生きていく勇気を持ってほしい。」ということなんだ。(中略)
 大人は、今、大変な時代を生きているわけだけれども、子どものみんなには、まだまだ未来がある。これから、体が大きくなり、頭もどんどん良くなって、いろいろなことをやっていこうとしているところなので、君たちも、もっともっと、「生きていく勇気」というものを持ってほしいんだ。
 勇気を出すためには、別に、何か必要なものがあるわけじゃない。それは君の思い一つなんだ。
 ちょうど、マッチをするように、心の中で、「勇気を持って生きていこう。」「たくましく生きていこう。」「力強く生きていこう。」と決意したら、そのときから、そのように生きることはできるんだよ。
 けれども、いくじなく生きようとしたり、たよりなく生きようとしたり、「〇〇があるから自分はだめなんだ。」と言って、他のもののせいにしたり、一生けんめいに言いわけをしようとしたりしていると、いつまでたっても良くならない。(中略)
 しかし、そうやって、ほかのもののせいにしてはいけないんだ。そうではなくて、「自分は自分なのだ。」と思わないといけないよ。
 家族みんなが苦しかったり、とてもこまったことになっていたり、ストレスがたまっていたりするようなときには、「自分は自分でがんばっていこう。」「少なくとも自分一人だけでも元気になろう。」「勇気を持って生きていこう。」という気持ちを持つことが大事なんだね。(中略)
 いつまでも人のせいやまわりのもののせいにしていても、きりがない。「君はどうなんだ。」ということだね。
 逆に言えば、「まわりが大変になればなるほど、自分が光をともしていかなければいけない。」ということなんだ。
 静かな部屋の中で、ろうそくの火をともすのは、かんたんかもしれない。けれども、あらしの中で、ろうそくの火を守るのは、とても大変だ。すぐに火が消えてしまう。そのときに、火を絶やさずに燃やしつづけるのは、とてもむずかしいことだ。
 一家の中に調子の悪い人がいるときには、たいていは、それがほかの人にも移って、みんな同じようになることが多いんだ。
 けれども、その家族の中で、だれか一人が、「自分だけでも、灯火をともそう。明るく生きていこう。」という気持ちを持って光をともしたら、それがほかの家族にも移っていく。(中略)
 だから、まず、勇気を持って、「明るく生きよう。」と決意してほしいんだ。
 勇気を出すには、お金も経験もいらない。たくさんの知識もいらない。勇気は、「自分が出そう。」と思ったときから、出すことができるものなんだ。
(15~21ページ)

若者よ、すべからく勇気を出そう。

勇気は、お金も経験も知識もいらない。出そうと思ったときから、出すことができる。まさに、若者のために、あるようなもの。

自分一人がまず決意して勇気を出し、光を灯したとき、それはまわりの家族にも伝わっていく。まずは決意することだ──。

子供向けの本だから、やさしく理解できるように、たとえ話をたくさん入れて説いておられます。

けれども、たとえ話の部分を省略して見てみると、ひらがな書きではあっても、実はとても高度なことが説かれてることが、くっきりと浮きでて来ます。

若者にも、そして経験を積んだ大人にも、とても参考になる大切な本であると私は思っているのです。

 

『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「阿羅漢(あらかん・あらはん)」って言葉を聞くことがあるんだけど、それって何なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦の教えのなかで、教育目的としていちばん重視されたのは、阿羅漢の状態となることでした。(中略)阿羅漢とは、この世にあって実在界の存在を感じ、実在界に生きるがごとくにこの世で生きることができるようになる、最初の段階なのです。
 阿羅漢の境地は、私の説いている段階論で言えば、六次元光明界の上段階の悟りに相当します。六次元の悟りというのは、仏法真理を知的に詰めていって悟る段階ですが、六次元の上段階は菩薩の前段階であり、ここにいるのは、菩薩の卵、菩薩への登竜門にいる人たちなのです。
 阿羅漢の状態にもいくつかの段階がありますが、ここでは二つに大別しておきましょう。第一は「阿羅漢向(あらかんこう)」という状態です。これは阿羅漢に向かっている状態です。第二は「阿羅漢果(あらかんか)」という状態です。「果」とは結果という意味であり、阿羅漢果とは、すでに阿羅漢に達した状態のことをいいます。
 阿羅漢向と阿羅漢果の違いは、どこにあるのでしょうか。プロの修行者としての自覚を持って生きており、心が悩みや苦しみから解放された境地にあって、常に精進を怠っていなければ、阿羅漢向の状態にあると言うことができます。そして、阿羅漢果となるためには、そうした状態が少なくとも二、三年は続いているという実績が必要なのです。
 心が穏やかで執われがなく、少々のもめごとや波風があっても心が乱されない状態、そして、みずからをよく振り返り、精進を怠らず、ある程度、天上界からの指導も受けられる状態、こうした状態が三年続けば、阿羅漢果になったと言えます。(中略)
 阿羅漢向になるだけであれば、人によっては一週間ぐらいで可能です。幼いころからの記憶を取り戻して、間違った思いと行ないを一つひとつ反省し、両眼から涙がほおを伝うにまかせて、「法雨」を流したとき、守護霊の声が聞こえ、その光を浴びて、阿羅漢の状態になることがあります。(中略)
 しかし、この状態が長く続くかどうかが鍵となります。一週間ぐらい山にこもって反省行を行ない、阿羅漢に近い状態になったとしても、下山して日常生活に戻ると、また心に曇りをつくってしまうのが人間の常だからです。(中略)
 いったんは阿羅漢向に達しても、そこから転落する者が数多いのです。それはちょうど、崖道を登っている人たちが、頂上まであと少しのところで、ゴロゴロと転げ落ちていく姿にも似ています。
 阿羅漢向になるのは、ある意味で万人に可能ですが、阿羅漢果に達するのは非常に難しいのです。阿羅漢向に達することは、仏法真理を学び、修行をしていけば、おそらく百人が百人とも可能でしょう。しかし、阿羅漢果に達するのは、その百人のうちの四人か五人にすぎないのです。
 そして、阿羅漢果に達した人たちのなかで、菩薩の境地にまで入っていけるのは、十人のうち一人にも満たないのが実情です。
(238~242ページ)

阿羅漢とは、六次元光明界の上段階の悟りを得て、この世にあって実在界の存在を感じ、実在界に生きるがごとくにこの世で生きることができるようになる最初の段階。菩薩の卵、菩薩への登竜門に至った段階。

この阿羅漢向になるのは、仏法真理を学び、幼いころからの間違った思いと行ないを一つひとつ反省していくような修行をしていくことで、万人に可能ではある。

しかし、それを2~3年間維持して、阿羅漢果にまで達するのは、非常に難しい──。

ここでは、真の意味の仏道修行(プロの宗教者としての出家修行)において、阿羅漢向から阿羅漢果に達し、さらに菩薩の境地にまで入っていくことの厳しさが、淡々と、しかしだからこそ安易に慢心を許さない形で語られています。

私たちは普通、プロとしての出家修行をするわけではありませんから、大半の人にとって、参考程度に聞いておけばよい話なのでありましょう。

真のプロの道は果てしなく厳しいものであることを念頭に置きつつも、植福(布施)や伝道から始まる在家としての修行を積むことで、心の平安を得て、まわりにも少しずつ幸福を広げていくのが信仰者のあるべき姿ではないかと私は思っているのです。
 

『釈迦の本心』

 大川隆法著


(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




あーあ、なんで英語なんて勉強させられるの。単語覚えるなんて、疲れるし、熟語とか文法とか、もう嫌になっちゃうよ。日本人なんだからさ、外国語なんて、別にいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「母国語以外の言語を知っている」ということには、人生を二度生きるような意味があります。「もう一つの言語に通じる」ということは、「その言語を使ってきた人たちの人生観や文化を学ぶ」ということなので、転生輪廻をしなくとも、生きながらにして、もう一つ別の人生についての研究ができることになります。「他の言語を学ぶ」ということは、「考え方、思考方法や文化の背景の違いを知る」ということにもなるのです。
 そのようにして得られる認識力、異質な目というものが、また、役に立ちます。
 母国語だけで考えているときには、「これは当然の常識であり、こうでなければいけない」と思うことでも、異質な言語を学び、ほかのことをいろいろと勉強してから見てみると、少し違った感じに見えてくることがあります。
 この異質な文化から見た目によって、自分自身の違う面を発見することもできるし、自分たちが属している社会や会社などの問題点や違う面が見えてくることもあるのです。
 そういう異質なものの目を持たないで、自国の文化のなかだけにいたら、「これは、おかしいらしい」「これは遅れているらしい」ということが分からない場合があるわけです。留学の効果は、いまだに大きいのです。(中略)
 現代はグローバリズムの時代なので、やはり、できるだけ外国語をマスターしたほうがよいでしょう。
 何力国語もできれば、それに越したことはないのですが、実際には、誰しも能力はそれほどないので、英語だけでも充分です。多くの国や地域では英語で話が通じますし、英語で読めない文献等は、ほとんどないので、英語一力国語だけでもマスターすれば、人生は二倍ぐらいの密度になります。
 英語については、あまり不平不満を言わずに、努力してマスターする必要があります。
 特に、英語のなかでも、基礎の部分には、おもしろくない面があります。中学生や高校生ぐらいになると、日本語であれば、内容的にかなり高いレベルのものが読めるのに、英語のほうでは、基礎レベルの内容のものを勉強させられます。内容のレベルは低いし、細かい文法の間違いなどを延々と指摘されたり直されたりするので、腹が立ってきます。「できない」「達成感がない」ということで、嫌になってくるのです。
 しかし、たとえば、「一年間、英語の文法に取り組み、こつこつと間違いを直して、できるようにしていく」という努力には、異文化への接近という意味もありますし、数学と同じく、頭脳訓練として重要な意味もあります。緻密な頭脳や、「一定のルールに基づいて作業をしていく」という頭脳をつくる上で、非常に役に立つので、厭わずに取り組んだほうがよいでしょう。(中略)
 さらに、チャンスも増えます。外国語ができると、海外へ行ったときにも役に立ちますし、仕事面でも、いろいろと仕事の幅が広がってくるのです。これは、生きていく力としては大事です。
(34~38ページ)

このグローバリズムの時代、やはりできるだけ外国語、少なくとも英語をマスターしたほうがよい。

外国語を学ぶことで、思考方法や文化の背景の違いが分かり、そこで得られる認識力、異質な目が役に立つ。また、仕事の幅が広がってきて、チャンスも増える。

基礎的な勉強は面白くない面もあるけれども、それは頭脳訓練としての重要な意味もある──。

10年ほど前から、大川隆法先生は、海外に出かけられて、本格的に英語での説法を開始しておられます。

それも、よくある原稿を読み上げるような形ではなく、数えきれないほど国内でしておられる日本語の説法とまったく同様に、毎回、説法の内容そのものを、その場で即座にオリジナルで語られるものです。

この英語説法では、日本語の説法ではいまだ説かれていない新しい内容が初めて説かれたことも、1度や2度ではありません。

ありがたいことに、これらも精舎での御法話研修などで、日本語の字幕つきで拝聴することができはするわけですが、やはり、できたら英語のままでストレートに、大川隆法先生の説法を理解できるようになりたいものだと感じます。

考えてみると、大川隆法先生は、30年以上前に幸福の科学を立宗された当初から、幸福の科学を世界宗教にすると宣言しておられるわけです。そして、日本語だけの説法では、言葉が通じない海外に大きく広がっていくのが簡単でないのは当然のことではあります。

その意味では、大川隆法先生が、学生のみなさんだけでなく社会人になっている私たちにも、英語を学ぶことを強く推奨しておられるのは、幸福の科学が世界宗教になっていくために必然の話でもあったのだと改めて気がついたりします。

よし、また明日から英語を学び直してみようと、改めて今晩、私は決意したりしているのです。

 

『青春の原点』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




健康のためには、適度な運動が必要って、よく分かる話なんだけど、でも、今さら、どうやって運動したらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 運動不足の人には、まず、歩くことから始めることをお勧めします。
 都会生活の人は、なかなか、歩く場所や時間の確保が難しく、通勤時間帯ぐらいしかないことも多いのですが、歩くことが充分にできれば、精神活動は活発になります。これが基本なのです。
 たとえば、私は、毎日、万歩計を身につけていて、「その日、何歩、歩いたか」ということを測り、夜寝るときに、それを記録しています。
 また、体重も、朝・夕・夜と、一日に三回、測定しています。
 さらには、体重だけではなく体脂肪率まで測定しています。体重が同じでも、脂肪が多くなってくると、これは筋肉が落ちていることになりますし、体重が同じで体脂肪率が下がれば、筋肉が増えていることになります。体の質のほうもコントロールしているのです。
 以前は、このようなことは、まったく気にもしていませんでした。行事が多いと、とにかく力をつけなくてはいけないものですから、エネルギーのつくものをたくさん食べていましたし、疲れから回復するためには休むしかないので静養していました。エネルギーのつくものを食べて静養すると、体重の増加を招きます。当然のことです。
 しかし、現在は、マックスのときに比べ、かなり体重が落ちています。これは、努力に努力を重ねて、意図的にコントロールして落としたのです。(中略)
 三十代のときには、まだ体も若くて強いので、「病気などしない」と思っていたのですが、四十代以降になると、健康面の問題を感じ、その予防を考えるようになりました。
 そして、「大勢の人に迷惑がかかってはいけない。長く仕事を続けるためには、あらかじめ手を打っておかなくてはいけない」と思い、体重をコントロールし、単に痩せるだけではなくて、体力の改善も、そうとうやりました。
 まず、一日に一万歩を歩くことから始め、その次には、もう少し筋力の要る運動もやりました。
 テニスや水泳をしましたし、自転車のようなものなどで脚も鍛えました。また、ダンベルなどで筋力を鍛えました。
 十代や二十代ぐらいであれば、体力と知力の相関関係が、あまり分からないのですが、長く勉強を続けるためには、体力を維持することが必要なのです。
(26~29ページ)

まずは、歩くことから始めること。

そのために、万歩計を身につけることにして、一日、一万歩を最初の目標にすること──。

十代、二十代では、このお教えの凄さがなかなか分かりにくいんですけど、たぶん、三十代、四十代をすぎて五十代以降になると、ほんとうに身に沁みて分かってくるのだと私は思っているのです。


 

『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




お墓まいりって大事だよね。でも、亡くなった人はどうなってるんだろう。人間、死んだら終わりなんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 たいていの人は、死後の生命について、「あればいいな」という気持ちもある一方で、「死んだあとも命があるというのは信じられないな。証拠がないしね」というような思いでいるのではないでしょうか。
 それについては、学校の教科書にはまったく載っていませんし、学校で教わることは、「小さなタンパク質のかたまりのようなものが進化した」などという話ばかりです。「死んだら、そのあとはどうなるか」ということについては、学問の領域としては「手が出ない」という感じでしょうか。
 死ぬ間際のことについては、医学的に、いろいろと研究したり、対策を立てたりしていますが、死後の世界については思考停止に陥っていて、「そこから先の話は、やめてください」というような感じでしょうか。
 しかし、死後の生命について知ることは、ある意味では、いちばん大事なことです。たとえ、その他もろもろの、この世的な知識を学ばなかったとしても、「死後、あの世で、まだ命があるのか、ないのか」という点については、真実を知らなくてはなりません。この一点について真実を知らなければ、人生の意味が、がらりと変わってしまいます。
 「人生は、この世限りで、死んだら終わり」ということならば、それなりの生き方がありますし、昔話などが言うように、「死んでも、あの世がある」ということならば、それにふさわしい生き方をしなくてはなりません。どちらであるかによって、生き方が大きく変わるのです。
 したがって、これは非常に大事な大事な話であり、死後の生命に関する知識は、その他もろもろの知識と一緒にはできない、重要なものなのです。
 昔は、哲学も、こういうものを対象にしていたのです。しかし、哲学は、実証性の面で、「ほんとうかな」という疑問に耐えられなくて、しだいに抽象的な思考になっていきました。いま、哲学は、死後の世界とは無縁の世界のほうに持っていかれて、論理学の親戚のようになってきています。「哲学は死後の世界から離れていった」と言うべきでしょう。(中略)
 みなさんも、幽霊話のようなものは、一回や二回は聞いたことがあるのではないでしょうか。
 ただ、現代では、あの世のことについては、学問的には否定する傾向がありますし、科学万能の世でもあるため、霊体験をした人も、それをあまり言いません。また、「妄想か、幻影、幻覚かな」などと思い、黙ってしまうことも多いのです。
 ほんとうは、家族だけではなく、一族、親類ぐらいまで含めて、よくよく調べると、霊体験の話は、たいてい、どこかから出てくるものです。
(16~21ページ)

死後も、人間は霊魂として生きている。

これは、大川隆法先生が、手を変え品を変え、何度も何度も根気強く語って下さっている、真実です。

実は、幽霊の話が今でもたくさんあるし、たくさんの方が幽霊を実体験していること自体が、死後の生(霊魂の存在)を証明している。

あの世はあるし、死後の生命はある。

そういう念いで、お盆も、お彼岸も、縁あるひとの命日や年忌法要も、心をこめて供養して差し上げたいものだと私は思っているのです。

 

『神秘の法』

 大川隆法著



(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




成功するためには、信用が大事なんだよね。この信用をつくるのには、どんな点に気をつければいいのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世の中においては、金銭関係で信用を失うことが多いので、「貸し借り、その他、お金の面で、味噌をつけない。ミスをしない」ということは、わりあい大事なことです。仕事の面で積極的に攻めまくる人はたくさんいますが、「意外に金銭面でいいかげんなために、つまらない金額のお金で失敗してしまう」ということがあります。
 戒律ではないけれども、日ごろから金銭面できちんとしていて、そういう雰囲気が漂っていると、悪い儲け話を持ちかける人や、引っかけて騙そうとする人などは、自然に寄ってこなくなります。(中略)
 世の中には、税金をごまかして絵画を購入しようとしたりする役人もいますが、そんなお金は、はっきり言えば、はした金です。「将来、出世したい」と思っているならば、そういうことは絶対にしてはいけません。ところが、ちょっとした誘惑に負けてしまい、裏金をつくって懐に入れたり、ほかのことに流用したりする人がいるのです。
 「将来、大を成そう」と思うなら、そんなことで信用を失うのは惜しいことです。「天知る、地知る、我知る、人知る」で、いずれは露見するものであり、完全に騙しきることはできないのです。もし、自分に、そういう悪しき傾向性があるのならば、それは摘んでいかなければなりません。
 「いろいろなところから見られている」ということは、結局、霊的なものにつながっていくことになるかもしれません。幸福の科学では、「守護霊や指導霊など、高級諸霊が地上の人々を見守っている」ということを説いています。
 しかし、「悪いことをしたい」と思っている人にとっては、これは嫌な話なのです。人に見られていないから、悪いことができるのであり、人に見られたくはないのです。そのため、そのような話は聴きたくないし、信じたくもないわけです。
 「目に見えない世界から見られている」という意識が、この世的に別なかたちに変化してくると、「公の目でもって自分の行動を見る」ということになります。
 「公の目で見る」「守護霊の目で見る」という感覚を持っていれば、たとえ人が見ていなかったとしても、公金を着服したり横領したりはできません。
 たとえば、店番を任されたときに、「店の主人がいないから、お金を少し抜き取って、きょうの昼食代に使っても、分からないだろう」などと考えて、それを実行し、そんなことで一生を棒に振ってしまう人がいます。あるいは、銀行などに勤めていて、ちょっとしたことでお金を着服してしまい、それで一生を棒に振る人もいます。
 そういうことは、損得計算をしたならば、ばかばかしくて、やっていられないことなのですが、「誰も気がつかないだろう」と思って実行してしまうのです。
 したがって、「目に見えない世界から見られている」という気持ち、あるいは、「自分自身の良心が見ている」という気持ちを持つことが大事です。「『将来、大を成そう』と思うのであれば、そんなことで味噌をつけるようなことをしてはいけない」と、自分を律する気持ちを持たなければいけません。
(120~124ページ)

日ごろから金銭面をきちんとすること。

「目に見えない世界から見られている」という気持ち、「自分自身の良心が見ている」という気持ちを持って、自分を律する気持ちを持つこと──。

「将来、大を成そう」と思う人にとっては、一見地味ではあっても、実はこれが、とても大切な心がけであるのだと私は理解しているのです。

 

『希望の法』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今朝、寝坊しちゃって、だんなさんに、朝ごはん出してあげれなかったんだよねー。だんなさん怒ってるのに言い返しちゃって、朝から夫婦ゲンカ。あーあ。どうしたらよかったのかなあ? なーんて悩み持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『コーヒー・ブレイク』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「朝、ご主人が起きて待っているのに、奥さんは寝ていて、ごはんがまだできていない」というときがあります。(中略)
 ここで、戦いをして、心に毒をつくるというのは、間違いです。
 「しまった!」と思ったところからが勝負です。「『しまった』と思ったところから、いかに切り抜けるか。そして、よい結論まで到達するか」ということです。

 「人間は、二つのことを同時に考えられない」という法則があります。こういうときには、その法則を使うのです。別名、「子供だまし」ともいいます。
 幼い子供は、ちょっと親が目を離すと、泣きます。親がそばにいないと分かると、冷遇されたと思って泣きます。そのとき、遊び用のボールなどを用意しておいて、ボンと投げるわけです。そうすると、子供は、はっとそちらを見て、急にそちらへ違いはじめます。そのあいだに用が足せるのです。
 これを子供だましといいますが、ほんとうに子供は泣きやみます。
 それと同じことは、ご主人が相手でもできるわけです。』
 「あなた、先日、〇〇さんが、あなたは仕事ができるって、ほめてましたわ」などと、ポーンと言うと、「えっ」という感じになり、とたんに、ご主人の怒りはそこで切れます。子供だましの方法と同じです。
 ご主人は、「いったい、おれの何をほめていたんだ」と訊きます。そして、奥さんから、「あなた、何か、最近、ものすごく仕事で成功されたんだそうですね」などと持ち上げられ、「まあね。言ってみれば、おれは朝飯も食わずに仕事に行くぐらい熱心な男だからね」と言います。それで終わりです。
 「人間は二つのことが同時に考えられない」という法則を、「大人だまし」に使うことです。あとからフォローするのは簡単なことです。
 怒りの波動や悩みの波動があったら、いったん、それを他のことにコロッと変えさせるのです。考え方を変えさせ、その想念を切ってしまいます。すごい波動を受けたら参ってしまいますから、それをバシッと切ってしまうのです。
 そのあとで、また時を改めて、たとえば、ご主人が夜帰ってきたときに、おかずを一品、余分につけ、「あなた、今朝はすみませんでした。今朝の分で、余分に、これをつけておきましたから」という具合に補完するのです。
 そして、その日だけのことにして、「一日一生」で終えてしまうわけです。
 でも、誠実さは忘れないでくださいね。
(70~74ページ)

夫婦ゲンカって、よくあることだけど、相手の怒りの波動をまともに受けてしまうと、心に毒を作ってしまって、あとが大変。

「人間は二つのことが同時に考えられない」という法則があるので、まずは見え透いた「子供だまし」でいいから、ポーンとほめてしまって、怒りの想念を、その場でバシッと切ってしまう。

そのあとは、ときを改めて、謝るべきところはしっかり謝ってフォローすればよい──。

さすが人生の達人のお教えです。

これは「一日一生」で生きていくための具体的な方法論の一つでもあるのだと、改めて私は感じ入っているのです。
 

『コーヒー・ブレイク』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人類って、猿から進化してきたって教えられるけど、でも進化論って、ほんとなのかな。霊界からはどう説明されてるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 三次元宇宙空間に星としての太陽が出現したのは、いまから約百億年前です。(中略)
 この太陽系に最初の生命が誕生したのは、美しきヴィーナスの星、金星ができてからです。金星ができたのは六十億年前ですが、それからさらに五億年ほどたったころ、ですから、五十五億年ぐらい前になりますが、そのころにこの太陽系に九次元世界がつくられることになりました。そして、十次元惑星意識よりさらに行動的で、今後、星に誕生すべき生命体を統治しやすい、最高度に発達した人格をもった大霊が創造されたのです。この金星の十次元意識が個性化した最初の九次元大霊のことを、エル・ミオーレといいます。金星の統治者です。
 エル・ミオーレが三次元の金星の地表につくった最初の実験用生命体は、植物と動物をかねたものでした。(中略)次に、エル・ミオーレは、植物と動物とを分け、約二十億年それぞれを進化させました。(中略)
 金星での生命実験及び文明の発達と並行して、四十五億年前に地球が誕生したとき、地球の十次元意識も、地上生命の誕生について考えていました。彼らは、先進地である金星での実験を参考にしながら、金星よりも生物の生存条件のよい地球では、よりダイナミックに進化ということに重点をおいた地球系生命霊団の構築を検討しました。そこで、エル・ミオーレの意見をもとに、地球十次元の大日意識、月意識、地球意識の三大霊は、地球上での生命活動に、二本の柱を基本としてもうけることにしました。第一の柱とは、地上にあらわれた生命の発現レベルにかなりの上下の差、高低の差をもたせるということです。第二の柱とは、地上での生命活動は短期間とし、多次元世界との転生輪廻を法則とすることです。(中略)
  そして、いまから六億年ほど前になると、地球惑星大霊たちは、地球に、いよいよ高級生命を創造する時期がきたことを悟ります。そこで、地球にも九次元霊界をつくり、先進地金星からエル・ミオーレを招きました。この地球最初の人格大霊エル・ミオーレがまず担当したのは、かつて金星でつくった初期の霊的生命体を移動させて、地上に哺乳動物を中心とする高等生物の創造をすることでした。(中略)
 このようにして、しだいに、地上に高級動物が栄え、転生輪廻も軌道にのりはじめていきます。そこで、エル・ミオーレは、十次元意識たちと話しあって、「いよいよ、地上に人類をつくるべきときが近づいている」と主張したのです。そして、いまから約四億年前、地上に人類を誕生させることとなりました。
 かつて、金星の支配者であり、地球霊団の最初の九次元存在であったエル・ミオーレは、このころ、名前をエル・カンターレとかえました。「うるわしき光の国、地球」という意味です。
(49~55ページ)

本書では、人類草創の歴史とエル・カンターレという霊存在の秘密が、約百億円前に太陽が誕生したところから、淡々と説かれています。

そして、人類がいったい、どういうふうに成長して繁栄し、現在に至ったのかという秘史の一端が、明日から日米同時公開の映画『宇宙の法-黎明編-』で明かされているのだと聞いています。

さてさて、どんなストーリーなんでしょうか・・・?

というあたりも含めて、この続きは、また次の機会に!

 

『太陽の法』

 大川隆法著

 

↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ