ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「空(くう)」って、仏教の教えで聞くことがあるんだけど、どういうことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊的世界、霊界世界の存在というものを認めると、「空」の説明というのは、実に簡単なものになってしまいます。「要するに、この世的な物なるものは、本質的なるもの、実体のあるもの、かたちを決して変えないもの、常住なるもの、実在なるものではない。霊的世界、あの世の世界にあるものこそが実在であって、この世は仮の存在である」。(中略)
 この世の人、たとえば宗教を知らない人にもわかる「空」の説明とは、次のようになります。
 たとえば、「長良川という川は、本当に有るのか、無いのか」という議論を立ててみます。
 まず、「長良川は有る。それは実在する」と言う人がいます。では、長良川なるものをとって見せてください。どれが長良川ですか。長良川の水を汲んでバケツに入れて、「この水は長良川です」と言っても、それは長良川だと言えるでしょうか。そうは言えないでしょう。それは長良川の水ではあろうけれども、長良川そのものではありません。
 また、長良川のこの砂利をとって「これが長良川だ」と言えるでしょうか。言えないはずです。
 では、地図を見せて、「長良川というのはここから始まって、ここの海で消える、この長きのことだ」と言って、それで長良川というものの実体の本当の説明になっているでしょうか。そうではないはずです。
 では、長良川とはいったい何なのでしょうか。
 その川の流れを止めてしまったらどうなるでしょう。その上流で止め、下流で止めて、水を一滴も出さないようにしてしまって、その土と水をまるごと箱庭のようにドンと出して、「これが長良川です」と言えば、それを説明できたことになるかというと、どうでしょう。川の水を止めることができるでしょうか。止めたときに、それは川でしょうか。おそらく川ではないでしょう。そこにできてくるものは、おそらく池であり、湖であって、もはや川ではありません。
 「すると、長良川なるものは、名前はあるけれども、実際に有るのか無いのか」という議論になってきます。そうしてみると、長良川なるものをとって説明することはできません。しかし、みんなが「それは長良川だ」という名で呼んで、有ると認識しているのです。
 このように、この世の存在というものは、名があって、有るように見えますが、その実体を取り出してみせることができないのです。〝変化しないもの〟というものを取り出して見せることは決してできないのです。
 人間ひとつをとってみてもそうです。毎日、新しい細胞ができ、古い細胞が死んでいます。人間の身体に、生まれたときに持っていた細胞は何ひとつ残っていません。十年前のものも残っていないでしょう。骨だって同じものではありません。脳の細胞さえそうです。毎日毎日、消滅しています。
 そうしてみると、「あなたという人間はいったい何者なのですか。これがあなただというものを取り出せますか」と問うても、それを出そうとする瞬間に、すでに変わっているものなのです。
 そのように、この世においては、「これこそがカッチリとしたあなたである」「あなたの名前で呼ばれている人間はこれである」「長良川とはこれである」と出してみよ、というときに、出せるものは何ひとつないのです。
 すべてのものは変化のなかにあります。すべてのものは変わっていっています。これを「すべてのものは無常である」といいます。この「無常」──変わりつつあること、常ならずということ、これを「空」という言葉で説明しているのです。
(44~48ページ)

うーん、私にも、この説明は、とてもよく分かる気がします。

ただ、大川隆法先生は、この説明に続いて、「ただ、この「空」の説明は、あくまでも、この世の人にわかるように言った三次元的な説明のなかでの「空」です。したがって、間違った方向にいくと唯物論的に流れていくことがあることも、充分警戒してください」とも述べておられます。

その他の仏教の中核理論を、本当はどう理解すればいいのかについても、大川隆法先生は論理的かつ合理的で、しかもとても分かりやすく教えておられます。

興味を持った方は、ぜひ本書をひもといてみられることを強くお勧めしたいと私は思うのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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「涅槃(ねはん)」って言葉、ちょっと気になってるんだけど。「涅槃で待つ」なんて遺書を残して死んだ俳優が、昔いたんだよね。この「涅槃」って何なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 結局、「涅槃」とは、この世的なる肉体を中心とした迷いを吹き消した状態に到ることです。これは実に、阿羅漢(あらかん)の境地と同一であることがおわかりかと思います。修行者として阿羅漢の境地に到ることが、すなわち涅槃の境地を得るということなのです。
 そこで、涅槃の境地を比喩的に述べると、次のような感じになります。
 山のほとりに、静かできれいな湖があります。その湖は人ひとりいないし、音もしないような静寂な湖です。この湖は、透明度が非常に高いので、湖の底まで透き通って見えます。そこで、舟に乗って、その湖面から湖底を見下ろしてみると、白い貝殻や玉砂利などが透けて見えてきます──。
 この貝殻や石が、実はこの世の苦しみを表わしています。みなさんが人間として生きているときに、いろいろな苦しみを得て、たいていの方はその苦しみのまっただなかで、もがいているわけですが、涅槃の境地に達した方は、ちょうど澄みきった湖の底の小石や貝殻を、透き通った水を通して見るようなかたちで、みずからのこの世の苦しみというものが見えるようになってくるのです。これが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地なのです。
 この世で生きておりながら、苦しみと七転八倒して格闘するのではなく、透明な湖の底の貝殻を見るように、「ああ、私はこういうところで苦しんでいたのだな。これは肉体的なこういう迷いによって起きたことなのだな。これをいま離れなければいけない。霊的な見地から見たら、その苦しみとはこういうふうに見えるものだ」と、達観した感じで見下ろすのです。それが透き通って見えるのです。要するに、実在界の眼で、この世の自分のあり方、苦しみの在処を見ること、それが「涅槃寂静」の境地なのです。
 ですから、人生の途上で、さまざまな苦しみや悩みが出てきますが、生きながらにして涅槃の境地を得た人は、いま述べたように、実在界から見下ろすようなかたちで、自分の悩みや苦しみを見つめることができます。そして、それに囚われません。それを取り出してみることができます。阿羅漢になれば、このような境地に達することができるのです。
(103~105ページ)

この「涅槃」というのも悟りの言葉であるわけで、世にある仏教書をいくらひもといてみても、なんだかわけが分からない感じしか残りません。

でも、大川隆法先生のお教えは、さすが「再誕の仏陀」(お釈迦さまの生まれ変わった方)であればこそ。それこそ驚くほど端的で、スパッとわかる解説ではないでしょうか。

でも、「阿羅漢」ってのは、やっぱりそう簡単に到達できる境地なんかじゃないこと。

心の修行の世界は、ほんとに奥が深いんだなあと改めて私は感じているのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著


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「縁起の理法」というのがあると言うけれど、素晴らしい人が報われずに早死にしてしまったり、悪いことしてるのに大手を振って繁栄してる人がいるのはなぜなんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

よい原因をつくったにもかかわらず、
悪い結果が出ているように見えたり、
悪い原因をつくったにもかかわらず、
よい結果が現われているように見えたりすることを
「異熟(いじゅく)」といい、
その結果を「異熟果(いじゅくか)」といいます。
世の中の人には、
それはまことに奇怪なことのように思えるかもしれません。

しかし、よくよく観察していただきたいのです。
この世的には成功しているように見える人であっても、
その成功の原動力がその人の持つ欲望である場合、
その人は欲望の炎をさらに燃え立たせて、
大きな欲望へと変えています。
傍目には成功しているように見えても、
よくよく目を凝らしてみると、その人は燃えています。
眼も、鼻も、口も、からだも、心も、
炎に包まれ、燃えています。
煩悩の炎に包まれ、平安なる心を失って、
欲望のなかに、猜疑心や嫉妬心、恐怖心のなかに生きています。
したがって、結果を外面的な成功だけに求めてはなりません。
外面的な成功だけを求めた人は、
その姿をよくよく見るならば、苦しんでいるはずです。

一方、清く生きたにもかかわらず、
この世的には恵まれない最期を迎えた人もいることでしょう。
しかしながら、この世において努力したことは、
それが成就しなくとも、
その人の魂の糧として確実に残っているのです。

すなわち、「この世を去った世界が厳然としてある」ということが、
仏の、そして神の、公平な世界があるということの証明なのです。
仏神の心、その教えに則って生きた人が、
死後に苦しみを得ることはありません。
また、仏神の教えに反した人が、
死後、安らぎの世界に入ることもありません。
正しい心を持ち、正しく生きた人には、
正しい結果が必ず現われるのです。
それが仏の創った世界です。
それは実に単純明快な世界です。
報いられないということは、まったくありえない世界なのです。
みなさんはその世界を信じるべきです。

この世、すなわち現象世界においては、
原因と結果が必ずしも整合していないように見えます。
しかし、そうした論理的矛盾があるからこそ、
「世界はこの世だけではない」ということが明確に分かるのです。
この世以外の世界があってはじめて、論理が完結するのです。
これが原因・結果の法則、時間縁起といわれるものです。
(148~152ページ)

大宇宙を貫く「原因・結果の法則」(「縁起の理法」または「時間縁起」とも呼ばれる)は、この世では必ずしも成り立っていないように見える。

しかし、あの世があってはじめて、この法則は論理が完結することがわかる。

だからこそ、あの世は本当にあるのだ──。

論理的にものを考える人であればあるほど、これはとても合理的に理解できる話です。

純粋に神仏の教えを信じ切ることができるのは、とても尊いことです。

でも、ストレートに信じ切るのが難しい方もおいででしょう。

そんな方は、こういうちょっと違った切り口で、神仏がいかに公平な方なのかとか、「縁起の理法」の意味などを考えてみられたら、いかがでしょう。

それも「信仰」に入っていくための道の一つでもあるのだろうと私は思うのです。

 

『幸福の革命』

大川隆法著

 

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宗教の修行って、やっぱ座禅だよね。でも、あれって、どういう意味があるの。足が痛そうだしさ、坐るだけで、なんで悟れるのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 禅を修行している人は、無我というものを求めているわけですが、「ただ坐れ」という「只管打坐(しかんたざ)」を唱えた道元禅師(どうげんぜんじ)であっても、やはり過去世・現世・来世という三世(さんぜ)をしっかりと認めていた、ということを忘れてはなりません。それを「三時業(さんじごう)」といいます。三つの時の業ということで、「過去・現在・未来という三つの世界、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法というのは昧(くら)ますことができない。これが仏法の中心的考えである」ということを、道元は明確に語っていました。それを知ったうえでの禅定なのです。それを知ったうえでの只管打坐なのです(中略)。
 では、なぜ坐るか。坐禅して、いったい何があるのか。過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、その時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、神仏の心と一体の自己に目覚めようとする、その悟りを求めたものが禅定(ぜんじょう)なのです。もし、そのような世界がまったく存在しないならば、それは単に脚の訓練以外の何ものでもありません。(中略)
 仏陀は、それと訣別することによって悟りを得たのですが、肉体を苦しめることによって悟りが得られるという考えを持つ人も、いまだにいます。それは、逆説的なる意味において、また肉体に囚われているのです。この肉体なるものは悪なるもの、罪をつくるものと見て、これを滅却すれば悟れると思っています。しかし、単なる否定においては、悟りは現われないのです。
 いま肉体を持って生きているのであるならば、肉体を持っているなかにおいて、悟りを求めるべきです。悟りとは、それを否定して得られるものではありません。肉体のなかにおりながら、肉体感覚を超越した、超脱した自己というものを知らなくてはならないのです。それが悟りなのです。
(38~41ページ)

ちょっと漢字が多くて難しかったかなあ。

でも、座禅(禅定)の極意ともいうべき重要な教えが、この書籍では展開されています。

「過去・現在・未来と流れていく時間の流れ」(「諸行無常」)と、空間的観点から考えても、一切のものは実在でないこの世界のなかで(「諸法無我」)、大宇宙、神仏の心と一体である本来の自己に目覚めようとすること。これが、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の悟りなのだ・・・。

うーん。頭のなかで考えてるだけでは、わかるはずもありません。

そこで、ここで説かれた世界を実修し実感して、自分のものにするために、幸福の科学では、「精舎(しょうじゃ)」という修行施設がつくられ、そこで研修が行なわれているのだと私は思うのです。

 

『沈黙の仏陀』

大川隆法著

 

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「幸福の科学は、仏教的精神が基本にある宗教なんです」と話したりすると、、宗教に詳しい人から、「でも仏教って、あの世を認めてないんじゃないの?」 なんて質問が来たりします。

本当に、仏教は、あの世を認めてないんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 しかし、正確に仏典を読んでいくと、あの世や魂がなかったら、到底ありえないような話ばかりが出ているわけです。あの世がないのに、なぜ成仏ということがあるのでしょうか。あの世がないのに、どうして阿弥陀様がいらっしゃるのでしょうか。あの世がないのに、どうして来世の幸・不幸や、あるいは地獄に堕ちるという話が出てくるのでしょうか。また、魂の転生輪廻というものがないのに、なぜ釈迦が「過去世にも仏陀がいたのだ」という「過去七仏」の話を何度もしたのでしょうか。
 また、釈迦は在家の人を相手に説法する際に、やさしい話から高度な話へとつなげていく「次第説法」をしましたが、その最初に、いわゆる「三論」として「施論」「戒論」「生天論」を話しました。これはよく施しをし、よく戒めを守ったならば、来世、天国に生まれることができるという話です。悟りにおける「妄語」(ウソ)を戒めている釈迦が、方便のためだけに、ウソ話をしたとは考えられません。
 そういうことをつなぎあわせていくと、やはりあの世の存在、魂の存在、その転生輪廻というのは、当然のこととして教えのなかに入っていたわけです。
(166~167ページ)

正確に仏典を読むと、あの世や魂がなかったら、到底ありえないような話ばかりが出ている。

成仏があること、阿弥陀様がいらっしゃること、来世の幸・不幸や地獄に堕ちる話が出てくること、「過去七仏」の話があること、「生天論」の教えがあること。

悟りにおける「妄語」を戒めている釈迦が、方便だけでウソ話をしたとは考えられない──。

お釈迦様は、二千五百数十年前のインドで、苦しみのもとである欲望を断つこと、執着を断つことを教えられました。

これを教えるために説かれた「無我」の教えが、後世、誤解され、ねじ曲げられてしまって、仏教は霊魂がないとかあの世がないと教えているかのように説く人びとが、現われてしまったわけです。

仏教を説いたお釈迦様って、大川隆法先生の過去世の姿なんですから、仏教の教えが、あの世を認めているし、転生輪廻も説いているのは当然のことだったのだと、改めて私は思うのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著


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クリスマスイブだよね。で、そのイエスさまの悟りって、お釈迦さま(仏陀)と比べてどうだったのかなんて、解説してくれる人、いないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『人間学の根本問題』――「悟り」を比較分析する(幸福の科学出版)のまえがきで、以下のように説いておられます。

 本書では、世界宗教の開祖、イエス・キリストと釈尊の悟りを比較分析するという、宗教学者も恐ろしくてできないような試みを、あえてやってのけた。
 私自身には、もうすでに、イエスや釈尊のつかんでいた悟りの内容が、手にとるように分かるのだ。
 本書自体が、西洋と東洋に分かれた宗教文明を、根本にさかのぼって、融合し、統一するものである。
 簡略に語っているため、易しくはあるが、ある意味では難しい。キリスト教と仏教を手のひらにのせるように、簡単に語ること自体が、もう一段高い視点を持っていなければ不可能だからだ。
 本書を起点として、キリスト教や仏教の研究を深めていくきっかけとしていただければ幸いである。
(1~2ページ)

本書で、イエス・キリストと釈尊の悟りを比較分析する試みを、あえてやった。

イエスや釈尊のつかんでいた悟りの内容が、もうすでに手にとるように分かる。

本書自体が、西洋と東洋に分かれた宗教文明を、根本にさかのぼって融合し、統一するものである――。

一見するとこともなげに書かれていますが、しかし、ここで説かれているのは、恐るべき内容ではないでしょうか。

考えてみると、イエス・キリストと釈尊の悟りを比較分析するなんていうのは、お二人の「悟り」の内容を深く理解していないと、そもそもできない作業だと思います。

そして、悟りの内容が「手にとるように分かる」というのは、じつは悟りを開いたことと同じことを意味しているとしか思えない表現です。

そして、世界宗教を開いたお二人と同等の悟りを開いた方が、真にその悟りを比較分析されたとき、そこにキリスト教と仏教を統一できる基盤ができてくるのではないでしょうか。

それはすなわち、キリスト教を基礎においた西洋文明と、仏教を基礎においた東洋文明が融合できることを意味している、ということになります。

本書が刊行された意味というのは、考えれば考えるほど、凄味を増してくるように思えてなりません。

そんなことを考えつつも、このクリスマスイブの夜、一人でも多くの方が本書を手にとって、真の悟りと未来文明の可能性に触れる感動を味わって下さることを私は願っているのです。
 

『人間学の根本問題』大川隆法著


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仏教ってちょっと暗い気がするんだけど、幸福論なんて、あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『仏教的幸福論―施論・戒論・生天論―』(幸福の科学出版)のまえがきで、以下のように説いておられます。

 仏教には一般に暗く悲しいイメージがつきまとう。しかし、その仏教にも、一種の「幸福論」はある。基本的に「抜苦与楽」が幸福への方法だが、そうした個別的人生相談で相手を苦しみから救済する以外に、一般的大衆布教としての「幸福論」はある。仏陀・釈尊の一般大衆救済の定番説法が今回取り上げる『次第説法』である。内容的には「施論」「戒論」「生天論」であり、全国各地で布教に旅立った弟子たちも、内容的には見習っていたものと思われる。
 さて仏教の開祖・釈尊は、どのようにこの世を生きれば来世の幸福が約束されると説いていたのか。
 本書を一読し、仏教学習にアプローチをかけるきっかけになれば幸いである。
(3~4ページ)

仏教にも、一種の「幸福論」はある。

仏陀・釈尊の『次第説法』である。

それは、内容としては「施論」「戒論」「生天論」である――。

この「次第説法」については、かなり以前に、少しだけご紹介したことがありました。

仏陀(釈尊)が、こういうふうに生きれば、来世の幸福が約束されると説いていた、という話です。

そんな話に興味がある方、これはもう、本書を読んでいただくほかはありません。

しかも、仏教書をいくら読んでも何がなんだか分からなかった、仏教の教えのほんとうのところを、誰もがわかるように説かれているのです。

この宝物のような書物を、ぜひとも手に取ってみられますように強くお勧めしたいと私は思うのです。
 

『仏教的幸福論―施論・戒論・生天論―』大川隆法著


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幸福の科学って、仏教も包含してるんでしょ。だったら、鎌倉仏教って、どう考えてるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日蓮を語る』――『黄金の法』講義(5)(幸福の科学出版)で、以下のように説いておられます。

 奈良仏教は、大学院のような感じでしょうか。そのように、非常に難しい哲学を勉強するような感じでは、庶民が救われないのです。そういうニーズが時代背景として出てきたわけです。(中略)
 その背景が出てきたのは、「源平の戦い」あたりです。
 当時、日本国中が非常に悲惨な状況だったのだと思います。(中略)これは、今の人であるから、昔の歴史としてボーッと見ていますが、実際の目で見れば、屍累々で、あちらにもこちらにも死体の山だと思います。食糧はないし、死体がたくさんあったため、「これを救わなければいけない」というニーズが非常にあったのでしょう。
 そのなかで、浄土宗系は、「この世はすでに救いようがないので、来世の極楽を説いて人の心を安らげよう」という気持ちが強かったでしょうし、他のいろいろな宗派も人々を救いたかったのでしょう。(中略)
 したがって、彼らは、「学問的な正しさ」というよりは、「現実にいる人たちをどうすれば救えるか。それが救えなければ、宗教としての使命が果たせないではないか」というところを考えています。
 要するに、戦場の看護師や医者のような気持ちだったのではないでしょうか。「難しい哲学や講釈は要らないので、よく効く薬をくれ。よく効く手術と、よく治る包帯や消毒薬が要るのだ」というような時代だったと思います。(中略)
 例えば、法然は、ものすごく勉強をした人でした。仏教をたくさん勉強したのに、最後、全部を捨てて、念仏を教えたわけです。それは、現実の死体がゴロゴロと転がっていて、オロオロしている人たちを見れば、そんな難しいことは言えないからです。
 ですから、密教の「陀羅尼」になったり、浄土宗の「南無阿弥陀仏」になったり、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」になったりするということも分かります。何とか人々を救いたかったのでしょうし、それによって救われる部分は現実にあると思います。
 それが嘘であれば、例えば、幸福の科学においてエル・カンターレ像に祈ったり、祈願したりすることも効かないはずです。しかし、それは嘘ではありませんので、それなりに救いはあるのです。(中略)
 ですから、鎌倉仏教はそれなりの使命を果たしたのではないかと思いますし、現代まで続いているのを見れば、まだ使命としては続いているものもあるのでしょう。(中略)
 いろいろな宗派がありますが、宗教の「地ならし」として続いてくれることはありがたいです。何だかんだ言っても、断絶したら「終わり」です。
 続いているからこそ、「復興運動」や「新しい革新運動」ができますが、それがなければ難しいでしょう。そういう意味で、私は、いろいろな宗派が続いていることは、ありがたいことだと思っています。
(122~132ページ)

鎌倉時代は、食糧もない死体の山の中で、学問的には正しい大学院のような奈良仏教よりも、現実に人々をどうすれば救うかというニーズが非常にあった。

密教の「陀羅尼」や、浄土宗の「南無阿弥陀仏」、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」によって救われる部分は現実にあるから、鎌倉仏教はそれなりの使命を果たしたのではないか。

いろいろな宗派があって、宗教の地ならしをしていてくれるからこそ「復興運動」や「新しい革新運動」ができるので、いろいろな宗派が続いていることは、ありがたいことだと思っている――。

今日は、ちょっと趣を変えて、仏教に関するお教えをご紹介してみたいと思います。

再誕の仏陀である大川隆法先生は、仏教の諸宗派、その中でも鎌倉仏教と称される浄土宗や日蓮宗などについて、どう考えておられるのか、です。

たとえば、念仏を唱えるなんて、インド時代のお釈迦さまが説かれたわけはありませんから、そんな教えは仏教ではないと言われるのかというと、そんなことはありません。

鎌倉仏教も、当時の時代背景の中でそれなりの使命を果たしたし、現在に至るまで宗派として続いていることはありがたいことだ、と。

つまり、仏教の開祖が現代日本に再誕された方である大川隆法先生は、既存の仏教諸宗派に対して、その評価すべき面を公平にみて下さっているのだと私は思うのです。
 

『日蓮を語る』――『黄金の法』講義(5)大川隆法著


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座禅って、座り方とか手の形とか、いろいろあって難しいよね。どれがほんとは正しいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『禅について考える』――『黄金の法』講義(4)(幸福の科学出版)のあとがきで、以下のように説いておられます。

 道元禅は、結跏趺坐をして、あるいは半跏趺坐でもよいのですが、それから、手で法界定印をつくります。
 このやり方は、如浄に教わったとおりには一応なっているのですが、道元禅では、足を組むとき、左足のほうが上に来ます。まず右足を組み、そのあと、左足を上げて、左足のほうが右足より上に来る組み方をするわけです。また、法界定印による手の組み方ですが、道元禅では、左足の上に右手の甲を置き、その上に左手を載せて、親指をくっつけるというかたちになります。
 要するに、「左足が上に来て、左手が上に来るというスタイルで坐りなさい」という教え方をしているのですが、これについてコメントすると、実は、インドの釈迦の坐法とは正反対なのです。引っ繰り返っているのです。
 釈迦の坐法は逆であり、結跏趺坐をしたとき、右足のほうが上に来ます。法界定印も、右手のほうが上に来るのです。道元禅は、まったく正反対で、引っ繰り返っているのです。
 実際にインドの仏像を見ると、今述べたように、すべて右足・右手のほうが上になっています。これは間違いありません。例外は一つもないのです。
 なぜ、右が上だったのに、左が上になったのかというと、仏教が中国に来てから変わったのです。天台智が『天台小止観』を書いたときに、左が上になるやり方を書いたので、それで、そのあと、左が上になったのです。
 実際は、どちらでも同じです。どちらが上になってもよいのです。
 ただ、やってみると、やはり、右が上のほうが坐りやすいのです。これは、右利きの人が多いからでしょう。右が上のほうが楽であり、左を上にすると、足が少し窮屈な感じがします。右が上になったのは、おそらく、右利きが多いからだろうと思います。そういうことで、右左が正反対になっています。
 「修行とは坐禅であり、只管打坐である」「坐禅が悟りなのだ」と言って、そこまでかたちにこだわっていた以上、「坐禅のスタイルが間違っている」などということになったら、実際は、大変な致命傷になります。しかし、それで、やれたわけですから、それに気がついていないところが“幸福”だったと言えます。
(61~65ページ)

道元禅では、足を組むとき、まず右足を組み、そのあと左足を上げて、左足のほうが右足より上に来る組み方をし、手の組み方は、左足の上に右手の甲を置き、その上に左手を載せて、親指をくっつける。

釈迦の坐法は、インドの仏像を見ればわかるとおり、結跏趺坐をしたとき右足のほうが上に来るし、法界定印も右手のほうが上に来ており、道元禅と正反対であるのは間違いない。

逆になったのは、仏教が中国に来てから、天台智が『天台小止観』を書いたときに、左が上になるやり方を書いたことによるが、実際はどちらでも同じである──。

今日の話題は、かなりやさしく説いて下さっていますが、「坐禅が悟りなのだ」としてかたちにかなりこだわっている道元禅にとって、けっこう致命的とも思えるものですが、あえてさらっとまとめて下さっているのは、大川隆法先生のご配慮なのでありましょう。

今日は、精神統一というのは「かたち」ではないのだ、ということを学ぶことができただけでも、少しだけ智慧が深まった気が私はするのです。
 

『禅について考える』大川隆法著


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座ることは修行の中心なんだから、座法(座る形)ってのは、とっても大切なものだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『悟りと救い』――『大悟の法』講義(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 仏教には宗派がいろいろあります。
 禅宗には、みなさんもご存じのとおり、「ただ坐る」という宗派もあれば、公案を中心とする宗派もありますが、いずれも坐禅中心です。
 これは、釈尊が肉体を持って生きていたときの修行スタイルを、ある程度、まねようとする動きであることは間違いありません。坐禅は、釈尊も実際にやっていたことです。
 ただ、坐禅といっても、インドのほうの川や岩場、山などを見れば分かるように、単にああいうかたちで坐ることに意味があったわけではないのです。現代であれば、別に岩場で坐禅をする必要はありません。それ自体には意味はなく、ああいう風習だったのです。
 インドの人はやせていて手足が長いので、ペタペタッと足を折りたたむことができ、簡単に坐って、それで体を支えられるのですが、もうちょっと栄養のよい人種の人は、そう簡単には足を折りたためません。西洋人などは、足を折りたたむのも大変ですし、日本的な正座をするのも大変です。
 インドの人は足をたたむのが簡単であるのに対し、西洋型の人は坐るのが苦手ですし、胴が長くて足が短い日本人型の人も、坐ることへのこだわりはあるのですが、みんな、本当は坐るのが苦手なのです。坐ると、足のことばかりが気になって、なかなか精神統一ができないのです。
 インドでも、場所によっては、坐禅をするときに、ときどきは枯れ草を敷いて坐ったりしていました。現代風に言えば、それは座布団やクッションでもありましょうし、椅子やソファーでもありましょう。そういうものを使っても別にかまわないわけです。そういうことが問題ではなかったのです。
 坐禅というものを修行としていますが、それは一つのポーズであって、必ずしも「そうでなければいけない」というものではありませんでした。一般的に、そのようにしている人が多かったので、そのスタイルを取り入れたということです。
 禅宗では、かたちのほうは、まねているのですが、中身は、どのレベルまで行っているかは、種々、問題はあるでしょう。
(27~29ページ)

仏教宗派の一つである禅宗は、坐禅中心であるが、これは釈尊が肉体を持って生きていたときに実際にやっていた修行スタイルをまねようとするものである。

ただ、今の禅宗が教えるようなかたちは、インドでは一般にそうしている人が多かったためにそのスタイルを取り入れただけであって、そのかたちで坐ること自体に意味があったわけではない。

禅宗では、かたちのほうはまねているが、中身がどのレベルまで行っているかは、種々、問題はある――。

幸福の科学でも、「精舎」に修行に行って、本格的な精神統一の仕方を学ぼうとすると、「結跏趺坐(けっかふざ)」には、吉祥坐と降魔坐があって…、とか教えていただくことができますし、結跏趺坐に便利な「座布」という座布団の厚いものも入手できます。

ただそれは、そういう座り方がある、というレベルで理解しておけばいいのであって、好みによって、座布で結跏趺坐をしたい人はそれでもいいし、椅子に座りたい人はそれでもいい、と指導されていると思います。

そういう自由さが許されているのは、大川隆法先生が説かれている教えがあるからであって、要は、禅宗が大事にしている座法というのは、本質的な真理の部分ではなく、そのときどきで変わっていく「風習」の部分にすぎない、ということなんだと思います。

呼吸法の注意点は別にあると思うんですけど、座り方について特にこだわらなくっていいんだと知るだけでも、仏陀の教え(仏教)への見方が大きく変わってくるのではないかと私は思っているのです。
 

『悟りと救い』――『大悟の法』講義大川隆法著


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大川隆法先生は、念仏を唱える仏教(浄土宗とか浄土真宗)について、どう考えておられるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『他力信仰について考える』――『黄金の法』講義(3)(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 この法話をするにあたり、私は事前に、源信、法然、親鸞、それから聖徳太子などの“関係者”を呼んで話をしました。
 「呼んで話をする」とは、この世的には分かりにくい話で、どういうことかと思われるかもしれませんが、私は霊と話ができる珍しい人間であるため、関係者が言ってほしくないこともあろうかと思い、少し意見を聴取したのです。
 だいたいの人は特に異論がないようでしたが、親鸞には少し意見があり、「『念仏宗は仏教ではない』と言わないでほしい。やはり、仏教のなかに入れておいてほしい」という一点について、願い出てきました。
 親鸞は、「間違っても『仏教ではありません』と切って捨てないでほしい。切って捨てられると困るので、仏教に入れてほしい。『浄土宗、浄土真宗も、エル・カンターレの慈悲の側面を強調した宗教である』というように理解してもらってほしい。そうでないと仏教から出てしまうので困るのです」と言っていたことを、あらかじめ述べておきます。(中略)
 そのような要請があったので、基本的に、「念仏宗も仏教の範囲内である」というラインのなかで話をしていくことにします。仏教のなかにおける「解釈の違い」、あるいは、「強調する点の違い」の範囲であるということで、浄土宗や浄土真宗等も仏教に入れておきたいと思います。多少怪しいと思うところがあっても、そこは「解釈の違い」ということにしておきます。
 人間として、いろいろなことを考えるのは当然のことですし、「仏教でカバーしない範囲がある」というのも残念なことです。仏教は寛容な教えなので、できるだけなかに取り込んでいきたいと考えています。
 基本的なスタンスとしては、そのようなところです。
(10~13ページ)

この法話にあたり、源信、法然、親鸞、聖徳太子などの“関係者”を呼んで意見を聴取したところ、親鸞が「念仏宗は仏教ではないと言わないでほしい」と願い出た。

そこで、「解釈の違い」あるいは「強調する点の違い」の範囲ということで、浄土宗や浄土真宗等も仏教に入れて話をしていくことにする。

仏教は寛容な教えなので、できるだけなかに取り込んでいきたいと考えている――。

過去の高名な仏教者はもちろん、聖徳太子まで呼び出して話ができる、というのは、世界最大の霊能者であられる大川隆法先生の面目躍如、といったところです。

でもそれだけでなく、さまざまな「仏教」の教えを掲げた宗派がある中で、どれが仏教の教えでどれが違うというのを、権威をもって判定される方は、いったい誰なのか、です。

それはまさに、「再誕の仏陀」、つまり2500年前に仏教を創始されたお釈迦さまが、現代日本に生まれ変わって法を説いておられる、大川隆法先生だからこそ、であるわけです。

そんな凄い書物がいま、日本全国の書店だけでなく、ネットで簡単に手に入るという驚きの事実を、もっと多くの方に知っていただければと私は思うのです。
 

『他力信仰について考える』大川隆法著


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無我の教えって、とっても大事なんだから、どんなときでも、どんな人に対しても、無我でなければならないんだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そして、無我観で、もう一つ忘れてはならない観点があると思うのです。
 サンガのなかにあって、お互いに理解し合える仏法真理の仲間たちにとっては、無我の教えによって、自分自身の欲を抑えて人のために生きるということで、理想的な世界ができます。しかし、まだこのなかに入っていない人、仏法真理についてまったく無知な人に対しては、ともすれば危険なこともありますから、これを知っておく必要があるのです。
 自分自身は無我なのですが、それが相手の我を増長させるようなことになってはなりません。この種の誤りは時々起きるように思います。
 仏法真理を知っている者どうしであったら、よくわかり合え、お互いに与え合う素晴らしい世界ができるのですが、羊の世界に狼が入ってきた場合には、まったく仏法真理に無知な人、あるいは仏法真理とまったく逆の考え方をしている人、地獄的な発想をしている人が、そういう無我の人を見ると、非常にお人好しで騙しやすく見えることがあるのです。
 そのように、人を利用しようとか騙そうとか、あるいはその人から奪い取ろうという人に対して、その無我の気持ちが、逆に彼らの欲を増長させ、火に油を注ぐようなことになってはならないということを、よくよく知っていただきたいのです。
 これは智慧のところなのです。苦しみを増大させるのが智慧であるはずはありません。苦しみを減らすことが智慧であるはずです。人間の罪を増大させることが智慧のはずがありません。罪を減らすことが智慧のはずです。
 ですから、現に罪を犯しつつある罪深い人、あるいは罪をこれからも犯しそうな人に対して、その罪が増大する、あるいはその悪しきカルマが増大する方向にその人を増長させることは、智慧であるはずがありません。その人が間違いを犯さないようにする必要があります。
 その方法は二つです。一つは、やはり隙をつくらないことです。
 天国的な与える愛の世界、無我の世界に生きているということが、相手の欲を増長させないように気をつけなければいけない。利己心を強く持って来ている人に対しては、今がその時期でないと思うときには、やはり一定の距離をとるということが大事です。
 「私たちは羊の群れですよ」と言って、羊の群れのなかに狼を引き入れることは、いいことではありません。やはり一定の距離をとって、用心をしなければいけないことがあります。これは決して我欲ではありません。「有我」でもありません。大事な智慧なのです。
 それから、もう一つの方法は、逆に相手が少しずつ目覚めてきていると思うときには、相手に合った指導を少しずつしていくことです。少しずつ少しずつ、指導していくことが大事です。
(165~168ページ)

仏法真理に無知あるいはまったく逆の地獄的発想をしている人にとって、無我の人は非常にお人好しで騙しやすく見えることがあるので、自分の無我が、相手の我を増長させることになってはならない。

これは人の苦しみを減らすための「智慧」であって、一つは、やはり隙をつくらず、今がその時期でないときには、一定の距離をとることである。

もう一つは、相手が少しずつ目覚めてきていると思うときには、相手に合った指導を少しずつしていくことである――。

「無我」の教えについては、何度何度も教えていただいていますが、今日もまた、「智慧」の立場から、その注意点について説かれた部分の一部を、ご紹介してみました。

汲めども尽きない智慧が具体的に説かれているわけですが、この続きは、またの機会に!
 

『心の挑戦』大川隆法著


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キリスト教には、「空中携挙」って教えがあるんだってね。でもそれって、ほんとなのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄思考』(幸福の科学出版)で、次のように教えておられます。

 イエスが十字架上で死んだのは金曜日の午後です。午後三時ごろに息を引き取っています。イエスは十字架につけられたまま槍で脇腹を刺され、その体からは血と水が流れ出ました。そして、洞窟の中に葬られたのです。
 そのイエスが復活したのは三日後の月曜日の朝です。(中略)
 「そんなばかな」と思うかもしれませんが、「イエスが復活したか否か」ということは、実は、キリスト教の成立には極めて重要な影響があるのです。
 イエスは、この世で三十三歳まで生き、三十歳からの三年間、伝道をしましたが、やがて、二人の犯罪人と一緒に十字架につけられ、三人で処刑されました。本当にそれだけで終わりだったならば、そのあと世界宗教ができるとは思えません。(中略)
 イエスが捕まって十字架につけられたとき、周りには、女の弟子が二、三人と、ヨハネなど男の弟子が少しいただけであり、教団自体は壊滅状態になっていたのですが、「イエスの復活」のあと、教団は急速に伝道団体に変わっていきました。
 『聖書』には、「復活したイエスを五百人以上の人が見た」と書かれているので、本当に見たのだろうと思います。「イエスは死んだはずだ」と言われても、五百人以上が「見た」と言ったら、いくら何でも証人の数が多すぎます。(中略)
 以前の私は、「これは霊的に現れたのかな」とも思っていたのですが、必ずしもそうではないようです。
 キリスト教の思想の中で、長年、私にもどうしても分からなかったものに、「空中携挙」という、「肉体を持ったままで空中に引き上げられる」という考え方があります。
 私は、この考え方に何となく納得がいきませんでした。空中に上がるときには、普通、霊体で行くのであり、「肉体を持ったままで空中に上がる」ということは考えられないからです。しかし、『新約聖書』には、「将来、主が再臨するときには、大勢の人が空に引き上げられる」というようなことが書いてあるため、ここに引っ掛かっていたのです。
 ところが、二〇一〇年から「宇宙人リーディング」を始め、いろいろなことを知るようになると、「その可能性のある場合が一つだけある」ということが分かりました。それは牽引ビームです。
 UFOから出る牽引ビームで、地上の人がスーッと吸い上げられることがあるので、「ああ、なるほど。『肉体のままで地上から空中に吸い上げられる』というケースは実際にあるのだな」と思ったのです。
 以前、ある男性をリーディングしたところ、その人の潜在意識は、「私はベガ星人だったが、イエスが処刑されたときには仲間と共に宇宙船の中にいた。そして、われわれはイエスを宇宙船の中に引き上げて治し、イエスを復活させた」と言っていました(前掲『宇宙からのメッセージ』第3章参照)。
 一連の宇宙人リーディングで一回出ただけの話なので、これについては、もう少し多角的に検証しようとは思っていますが、「その話が事実であれば、『肉体を持ったままで空中に引き上げられる』ということは、ありうる話ではないか」と、今の私は考えています。
(95~101ページ)

聖書には、復活したイエスを500人以上の人が見たと書かれているが、これは必ずしも霊的に現れたのではないかもしれない。

キリスト教には、「空中携挙」(肉体を持ったままで空中に引き上げられる)という考え方がある。

「宇宙人リーディング」によれば、牽引ビームでイエスをUFOの中に引き上げて治し、復活させたと述べている宇宙人の意識が発見されたので、その話が事実であれば、「空中携挙」はありうる話ではないか――。

霊的な復活、つまり、イエスさまが帰天後に、霊体として現れて人々にその姿を見せたことがあったのだろう、というのが、これまでの大川隆法先生のお考えだったと思います。

ところが、2010年に始まった「宇宙人リーディング」によって、また違う世界があり得る可能性が見えてきたわけです。

実際に、ものすごい数の人々が、UFOから出る牽引ビームで寝室からUFOの中に引き上げられる「アブダクション」という現象が起こっているのは、もう間違いない話だと思えます。

2000年前のイスラエルで、同じ現象が起こされ、高度な科学技術を持った宇宙人(ベガ星人)の力によって、イエスさまがまさに肉体としての復活を遂げられたということがあっても、不思議ではないのかもしれません。

いずれにしても、この問題については、大川隆法先生がまだまだこれから「宇宙人リーディング」を続けられるなかで、多角的に検証して行かれるでしょうから、その結果を首を長くして待つことにしたいと私は思うのです。

 

『繁栄思考』大川隆法著


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千日回峰って、命がけのものすごい荒行なんでしょ。満行したら、悟りが開けるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『酒井雄哉日本天台宗大阿闍梨に引導を渡す』のまえがきで、次のように説いておられます。

 日本天台宗の大僧正にして、千日回峰行を二度満行された酒井雄哉(さかいゆうさい)氏が、死後二カ月余りで本年十一月三十日に、私のところに現れた。
 突如、呼吸ができない息苦しさと、あっと言う間に室温が1℃ぐらい下がって来たのを見て、私に死後の自分の状態について解説してもらい、できれば救ってもらいたいのだと看破した。
 そこで幸福の科学総合本部にて、公開霊言をした。彼に引導を渡すまでの、その一三七分の記録が本書である。
 日本天台宗では活き仏になっていたはずなのに成仏できず、死後、幸福の科学に助けを求めて来た点、一定の求道心はまだ残っていたのだろう。
 霊言は、最初は私が執行し、あとはチャネラーに移して、私自身も説得にあたったものである。真実を知らないマスコミが美化しているのを見るにつけ、「救いとは何か」「成仏とは何か」に答えた一書である。
(1~2ページ)

千日回峰行を二度も満行して、「活き仏」になっていたはずの大阿闍梨(だいあじゃり)であっても、じっさいには全く何も悟っていなかった、という冷厳な事実が明らかとなっていくやり取りは、まさに圧巻です。

本書は、天台宗に関係する方はもちろん、「救いとは何か」、「成仏とは何か」、という根源的な問題に興味関心がある方にとって、間違いなく必読文献であると私は思うのです。
 

『酒井雄哉日本天台宗大阿闍梨に引導を渡す』大川隆法著


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キリスト教とか仏教って、勉強してみても、なんだかよく分からないところだらけなんだよね。どうやったら、その本質みたいなのがつかめるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『救世の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あの世や霊、宗教、信仰というものを、すでに認めている人であっても、正確な意味における仏法真理をまだ学んでいない人は数多くいます。
 二千五百年前に、ゴータマ・シッダールタ、釈迦牟尼仏が説いた教えは、現在まで、お経というかたちで伝わっていますが、現在ただいま、私自身の悟りの目で見ると、遺されている真実、真理は、ごくわずかなものです。その内容は、ほとんどが形式的なものに終わっています。
 ところが、日本のお寺においては、中国から渡ってきた、漢文のお経を、日本語読みで読み上げることでもって、仏教の儀式を執り行っています。
 しかも、僧侶のなかには、魂やあの世を信じていない人が数多くいるのです。
 キリスト教会においても事情は同じです。時計の針が二千年前で止まっているのです。
 「二千年前のイエスの時代には、奇跡も起きた。イエスの時代には、天なる父がイエスに語ることもあった。イエスの時代には、イエス以前の過去の預言者がイエスに語ることもあった。イエス自身は、病人を治すことができた。イエスの直接の弟子たちも、病人を治すことができた。
 そういう事実は確かに『聖書』に記録されているが、それは二千年前のことである。それからあとは分からない」
 このように考えられています。
 教会では、もはや奇跡が起きなくなっており、バイブルとしてつくり上げられた本の解説に終始しています。
 意外なことでしょうが、幸福の科学で学べば、キリスト教の本質がよく分かります。また、仏教の本質を知りたければ、もちろん、幸福の科学で学べばよいのです。幸福の科学の数多くの経典を読めば、仏陀の本心が現代語で分かります。
 過去のものは過去のものです。二千年前や二千五百年前と今とでは、時代が違います。「人間は、魂をその本質として、この世で数十年の人生を生きている」という事実は変わりませんが、社会の仕組みや、この世での生き方そのものは、大いに変わりました。
 現代に関して、釈迦ならば何と言うか。イエスならば何と言うか。これを知りたくなくて、「自分は仏教徒だ」とか「キリスト教徒だ」とかは、とても言えません。
(185~187ページ)

二千五百年前に、釈迦牟尼仏が説いた教えは、現在まで、お経というかたちで伝わっているが、遺されている真理は、ごくわずかなものにすぎない。

しかし、幸福の科学で学べば、キリスト教や仏教の本質がよく分かり、仏陀の本心が現代語で分かる。

幸福の科学で学べば、社会の仕組みや、この世での生き方が大いに変わった今、釈迦ならば何と言うか、イエスならば何と言うかがよく分かる――。

キリスト教や仏教に興味がある方は、本気で、幸福の科学で学んでみませんか。

聖書や仏典を勉強してみて、疑問を数多く持っている人であればあるほど、その学びは大きく深いものとなることを保証できると私は強く思っているのです。
 

『救世の法』大川隆法著


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