ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



ほんとの愛は、「与える愛」だって、教えてもらってるけど、でもなんで、与えるのが愛なの。もらえるんなら、その方がいいじゃない? なーんてまっすぐな疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 愛の本質とは、やはり与えることなのです。愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、人にわけ与えるということなのです。神の愛は無限です。ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、つきることはありません。神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。
 愛の本質とは、まず、与えることなのです。この点を、よく理解していただきたいと思います。
 愛に苦しむ人々よ、よく開きなさい。なぜあなたがたは、苦しむのですか。なぜ愛において苦しむのですか。愛を与えることによって苦しむのですか。みかえりを求めてはいけません。みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です。与える愛とは、すなわち、無償の愛です。あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人々を愛すべきなのです。
 苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいってゆくのです。愛のみかえりは、ほかの人間からではなく、神からくるのです。
 神からくるみかえりとは、なんでしょう。それは、すなわち、愛を与えれば与えるほどに、あなた自身が神近き人間となってゆくということです。それが、神のみかえりなのです。
  神の本質を見てごらんなさい。神は、燦々(さんさん)とふりそそぐ太陽の光のごとく、無所得のままに、無限の愛と慈悲を万物に与えているのではありませんか。あなたたち、ひとりひとりの生命でさえも、神に対して、一文の支払いをすることなく与えられたエネルギーではありませんか。
 さすればまず、与えることからはじめてごらんなさい。与えるとは、どうすればひとりでも多くの人々がしあわせに生きられるかを考えながら、日々生きるということです。与えるとは、ひとりでも多くの迷える人々の心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、ひとりでも多くの人々を、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。(中略)
 愛に敵はありません。愛は無敵です。なぜならば、ほんとうの愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、あらがうことを許さない無限の力だからです。
(148~152ページ)

なぜ「与える愛」が、仏法真理の基本なんでしょうか。

これについて、大川隆法先生は、本当にさまざまな角度から、多くの書籍で説いておられます。

そこで今日は、最初の理論書にして基本書中の基本書である『太陽の法』から、そのお教えの部分を引用してみました。

たまには理屈ではなく、仏の言魂にひたってみたいと私は思っているのです。 

 

『太陽の法』

 大川隆法著

 

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うちの学校、校則がむちゃくちゃ厳しいの。友だちの学校だとOKなのが多いのにさ、ちょっと破ったらガンガン言われて、親が呼び出されるしさ。ヘンなんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 学校には校則などがありますが、そのなかには奇妙なルールも数多くあり、特に、それが正義の面から見て正しいかどうか分からないものがたくさんあります。
 あることについて、「ある学校ではOK、別の学校ではNO」ということもよくあります。
 ある学校は、「髪の色は、茶色でも金色でもよいし、緑でも青でも結構である」と言い、別の学校は、「髪に色を付けることは絶対に駄目である」と言う。ある学校は、「髪は長くてもよい」と言い、別の学校は、「髪はショートでなければいけない。長い場合には、髪を縛っておかなければいけない」と言う。ある学校では私服が許され、別の学校では制服しか許されない。ある学校では、シャツの裾をズボンから出していてもよく、別の学校では、シャツの裾をズボンのなかに入れておかなければならない。
 そのように、普遍的な法則があるわけではなく、ただ、学校が一定の方針をつくり、それに生徒を従わせようとしているのです。
 しかし、自分がその学校に入った以上、それはそれで、運命として受け入れるべきです。その校則を受け入れ、訓練を受けて、きちんと他の生徒たちと同じことができるようにすべきです。
 校則などは、先生がたが個別の問題に頭を悩ませずに学校を運営していくためにも、生徒同士がお互いに違和感や不快感を与えないようにするためにも、必要なものとして、その学校で決めているものでしょう。それは人類普遍の原理ではないかもしれませんが、一定のルールの下で 「こうしなさい」と言われていることは、なるべく、そのとおりにできるようにしたほうがよいのです。
 もちろん、その後、就職したときにも、会社によってルールはまったく違います。どのようなところへ行っても、ある程度、それに合わせていかなければならなくなるので、そのくらいの変幻自在さは必要です。
 ルールというものは、なぜあるかというと、法律も同じですが、「全員が、それに基づいて、それを一つの目安にして、やっていこうとする」ということのためにあるのです。
 そのようにしないと、ばらばらな人たちをまとめることには非常にエネルギーが要ります。自分のことだけを考えたら、勝手なことをしてもいいように思っても、全体から見たら、各人がルールに基づいて行動しないと、混乱が起きてきて、組織を大きくすることはできなくなるのです。
 まだ学校に通っている段階では、よく分からないかもしれませんが、「これは大人になるための準備訓練である」と思って、学校がつくった校則、ルールなどの世界に、いちおう入ることです。「そのルールの世界に入った上で、自分の個性や自由性を発揮する」という、変幻自在さを出していく必要があります。
(60~63ページ)

学校の校則は、学校がつくった一定の方針に生徒を従わせようとしているにすぎず、正義の面から見て正しいかどうか分からないものもたくさんある。

しかし、ルールというものは、全員がそれを一つの目安にすることで混乱しないためにあるのであって、自分がその学校に入った以上、それを運命として受け入れ、他の生徒たちと同じことができるようにすべきである。

これは大人になるための準備訓練であると思って、学校がつくった校則の世界にいちおう入った上で、自分の個性や自由性を発揮するという、変幻自在さを出していく必要がある──。

納得できないものもあるかもしれません。

でも、実社会に出たら、校則はありませんが、たとえば会社に入ったら会社のルールがある。社会人として求められるルールもある。

それを嫌がってしまうと、まっとうな社会人として生きていくのは難しくなってしまうわけです。

そう考えてみたとき、大川隆法先生が、学校時代の校則を「大人になるための準備訓練」だと割り切って、そのなかで自分の個性や自由性を発揮していく道を勧められるのは、なんて先を見通したアドバイスなんだろうと思います。

私たちは、真なる人生の達人に教えていただいているのだと、改めて私は感じ入っているのです。

 

『青春の原点』

  大川隆法著

 


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学歴社会なんでしょ。幸福の科学でも勉強しなさいって教えてるんでしょ。でも、勉強ってダメなんだよね。それじゃ、人生で成功できないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「頭が悪いから失敗する。頭がよいから成功する」ということは、必ずしも一律に言えるようなものではないのです。
 現代においては、学歴ピラミッドができているので、数として見たら、勝者よりは敗者のほうが、率は圧倒的に多くなります。ただ単に学歴や試験の勝敗だけでいけば、たいていの場合、七、八割の人は、敗者のほうに入るのです。
 そのため、それだけで人生の幸・不幸というものを考えたら、不幸な人ばかりになります。しかし、それは現実には正しい判断ではありません。
 学歴や試験での勝利は一つの手掛かりではあるのです。その自分が得たきっかけを手掛かりにして、さらに努力していけば、成功への道になります。しかし、そこであぐらをかいたら、それで終わりであり、大したことはないのです。やはり、汗水垂らして働く人のほうが、その後、成功していくのです。
 そういうものなので、学歴評価的なもの、あるいは学力評価的なものを絶対視してはいけません。実際、それで勝者になった人でも、その後は苦しんでいることがあるということは、知っておいたほうがよいでしょう。それを知ったほうが、敗者になった人も、たぶん心は安らぐだろうと思います。
 学生時代に勉強しすぎた人の場合は、「学生時代に遊んでばかりいた人が、社会に出てから、なぜ、あれほど出世したり、お金が儲かったりするのか」ということが不思議でならず、それが苦しみのもとになっています。しかし、その遊んでばかりいた人は、試験に出ない範囲のところで仕事をし、試験に出ない範囲のところの能力が評価されているので、それはしかたがないことなのです。
 そういう意味で、天は公平であり、ある人に対して、何かの才能を与えたら、ほかの才能は与えないものです。そのため、「自分には、この才能はない」という場合、その人には何かほかの才能があることがよくあるのです。
 したがって、「才能というものは、どこに埋もれているか分からないけれども、いろいろな人が、それぞれ才能を持っているのだ」ということを知らなければいけません。
(167~169ページ)

学歴や試験の勝利は一つのきっかけではあって、それを手掛かりにさらに努力していけば成功への道になるが、そこであぐらをかいたら大したことはない。

学生時代に遊んでいた人が社会に出て成功するのは、試験に出ない分野での仕事や能力が評価されているということである。

才能はどこに埋もれているか分からないが、いろいろな人がそれぞれの才能を持っていることを知らなければならない──。

大川隆法先生が教えて下さっているのは、結局、こういうことでしょうか。

学生で、まだ自分が何をやったらいいか分からない人は、まずは目前の学校の勉強に集中すること。

でも、学校の勉強ができるかどうかは一つの才能ではあって、それ以外にも人間の才能はさまざまにあるから、別の才能を自分で見つけ出して行くことも、人生を歩んでいく醍醐味の一つである、と。

今日のお教えで、なんだかありがたくって、生きる勇気が湧いてきた気が私はしているのです。

 

 

『幸福の法』

 大川隆法著

 

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 仏教の教えで、「空(くう)」ってあるんだけど、どういうことなの? なーんて疑問もってる人、やっぱりいませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「唯神(ゆいしん)実相哲学」という言葉がありますが、これは「唯光(ゆいこう)実相哲学」と言い換えてもよいものです。
 「三次元、四次元、五次元などという世界があると言われているが、ほんとうは、そうしたさまざまな世界があるわけではない。ただ光のみがある。その光が実相をつくっている。光のみ実相である。その光が変化した姿が、さまざまな世界のありさまをつくっている。霊の世界における仏の光が、いろいろなかたちで霊体をつくり、また、霊体のなかにある光子体をつくっているのだ。
 地上に現われるときには、それが霊子という核をつくり、霊子がもとになって、現代物理学でいう素粒子が誕生する。そして、素粒子がさらに大きな物質を構成していくのである」
 こうした世界観があるのです。これは現代物理学の最先端とも一致しています。最先端の物理学によると、「素粒子というものは、粒子でもあり、波動でもある」と言われています。素粒子は、粒子としての性質を持ちながら、同時に、波としての性質も持っているのです。いま述べた世界観からは、素粒子が粒子の性質と波の性質の両方を持っているのは当然と言えるでしょう。
 仏の光という霊的エネルギーが物質をつくり、その物質が分解されると、霊的エネルギーに還元されるのです。このように、「エネルギーと物質が循環している」という思想も、「空」の思想と言うことができます。
 「色即是空、空即是色」は、この観点から説明することもできます。現代の優れた科学観をもってすれば、こうした領域まで「空」の思想は発展していくことになるのです。
(163~165ページ)

仏教の中核理論の一つである「空」について、大川隆法先生は、さまざまな角度から分かりやすく、しかも論理的かつ合理的に教えておられます。

前回に続いて、今回も、さわりのところだけアタックしてみました! 

 

『釈迦の本心』

大川隆法著

 


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私って、学校出て入った職場で、ずーっと同じ部署なんだよね。部署が変わる異動って、ふつうのことだと思うんだけどな。今後も変わる見込みって、ないのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 基本的には、能力が伸びると環境も変化します。環境の変化に伴って自分の能力が変わるだけではなく、自分の能力が変わってくると必ず環境も変化するのです。
 たとえば、同じ部署で、十年、二十年、三十年と仕事をしている人が、短所を直し、長所を伸ばしたならば、その人の環境は絶対に変化します。「こんなに能力の高い人を、このままにはしておけない」ということになって、環境は必然的に変わってくるのです。
 現在の部署では能力が溢れてしまい、「こんな状態では仕事がおもしろくない。もっともっと働きたい」という人を、そのままで置いておけるわけがありません。そのため、絶対に環境が変化するのです。
 環境が変化しないのならば、基本的に、能力もあまり変わっていないはずです。長所も短所も、ほとんど変わっていないのです。
 自分が変わった場合には、環境も変わります。環境が変わってきて自分が変わる場合もありますが、自分が変わったために環境が変わる場合もあるのです。そして、自分と環境とは互いに影響し合っている面も当然あるでしょう。
(32~33ページ)

環境が変化することで、自分の能力が伸びることは、もちろんあると思います。

たとえば、小学生が中学生になったとき、中学生が高校生になったときは典型的な例でしょうか。

仕事でいうと、研究職から営業職に変わることで、自分には営業の能力があったことを発見するとか。結婚して、家事の能力が高まる。子供が生まれて、母親としての能力が伸びていく、などなど。

見聞きする具体例って、いろいろあると思います。

でも、逆に「自分の能力が伸びることで、まわりの環境が変わる」というのは、こういう形で教えてくださらないと、自分だけではなかなか気がつかない、とても新しい視点だと思います。

つまり、自分の環境が変わらないことに悩んでる人がいたら、自分の能力が変わってないのではないか、という視点で自分を点検してみること。

そして、自分の能力を高める努力を地道に積み重ねてみること、ということだと思います。

ある程度の時間が必要なことが多いんでしょうけれども、自分の可能性を信じて、日々、地道に新しい勉強を積み重ね、自分の能力を伸ばすことができたときには、必ずや、まわりの環境が変化していく。

そんな希望に満ちた未来を今日は教えてくださったのだと私は思っているのです。

 

『感化力』

大川隆法著

 

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幸福の科学で、経文をいただいているんだから、ご先祖さまが迷ったりしてるとき、自分の力で救ってあげれないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そのうちに、だんだん自分にも力がついてきたら、直接、そういう霊たちを救う力も湧いてくると思いますが、まずは、うっすらとでもよいから後光が出る状態になり、法力が出てこないと、救うことはできないのです。
 たとえば、「遊園地などへ行って池でボートを漕いでいると、一緒にボートに乗っていた人が池に落ちたため、その人を助けようとしたところ、手を引っ張られてボートが転覆し、自分も水のなかに落ちてしまった」ということがあります。
 先祖供養においても、それと似たようなことが起こります。「自分もボートから落ちてしまう」というかたちになることが、けっこう多いのです。
 真理にまったく無知な人たちが気の毒であるのは、そのとおりなのですが、宗教を信じている人たちの家庭においても、その思想が未熟だったり、その宗教に力が足りなかったりする場合は、残念ながら、障(さわ)りが増幅されて、もっともっと混乱が起きていることも数多くあります。それは悲しいことです。
 あの世へ行って迷っている人は、この世の人と同通しないと、出てくることができず、逃げ場がないのですが、家族が供養をしていると、「やっと逃げ場ができた」と思って、この世に出てくることができます。地獄で苦しんでいても、「ああ、供養してくれている」と思い、家族のところへ出てくるわけです。
 たとえば、交通事故で死んでから五年もたっているのに、まだ血を流して、「苦しい、苦しい。痛い、痛い」と言っている霊が、直接、みなさんの目に見えて、話が通じるとして、「自分の言葉で、その人を諭せるかどうか」ということを考えてみてください。みなさんに、その人を説得するだけの力があるでしょうか。
 その力は、いまのお寺の住職にも、ほとんどありません。
(65~67ページ)

迷っている霊に対しては、幸福の科学の経文を読誦するなどして供養することが可能ではあるけれども、でも最初は一人では危険だ、ということだと思います。

できれば、幸福の科学の精舎支部など、導師がいる所、光の仲間がたくさん集まっている所で、一緒に供養したほうがよいってこと。

そのための祈願祭なども、幸福の科学では定期的に行なわれてます。

ではどうすれば、迷える霊を自分でも救えるような修行ができるのか。

それは、悟りを高めていくには? ってことでもあって、要は、信仰生活を整えて、教学を重ねつつ、心の修行をしていく、ということになると思うんですが、その先の具体的な話については、またの機会に! 

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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私って、大都会の中では砂粒みたいなのよね。何でもない存在なんだよね。あーあ、むなしいなあ。・・・なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

あなた方は知らなくてはならない。
あなた方一人ひとりの心のなかに潜むところの、
その偉大な力に。
生まれ落ちてから数十年間、
自分自身が、心のなかにつくってきたところの汚れ、曇りによって、
どれほど自分の尊さというものを忘れ去っているか、
わかるだろうか。
もっと偉大な魂であるということに、
なぜ目覚めないのだろうか。

惜しいではないか。
それだけのものが、今、与えられているというのに、
自分自身がそれだけの光を有しているというのに、
この光を解き放つことができないままに
数十年の人生を終えてしまうということは、
どう考えても考えても、
残念なことだと思えないだろうか。
一人ひとりの心の奥には、
輝けるダイヤモンドがあるというのに、
何ゆえに、そのダイヤモンドをガラス細工だと思うのか。

私が、
あなた方一人ひとりが神仏の子であると言うのに、
あなた方一人ひとりがダイヤモンドであると言うのに、
なぜ、それをあざ笑う。
なぜ、それをばかばかしいと思う。
なぜ、それをつまらない話だと思うのか。
あなた方自身が真実価値ある存在であり、
価値ある存在が価値ある存在として己れを輝かせるのに、
なぜためらう。
なぜひるむ。
なぜ、それを恥ずかしいことだと思うのか。

私は、あなた方に言う。
人間として生きてゆくための第一歩は、
己れの存在がいったい何者であるかに気づくところにある。
何者であるかに気づくことなくして、
今世を終えたとするならば、
あなた方は虚しく生きたということになる。
両手にいっぱい持っていた金銀財宝を、
ドブのなかに捨ててしまったことになる。
そんなばかなことを、なぜしようとするのか。
(24~27ページ)

大都会の中で、群衆の中で、自分の価値を感じられず、孤独を感じてるあなた。

そのあなたに対して、仏は、「そうではない、己れが何者であるか、その偉大な価値に気づけ」と、強く励まして下さっている。

私たち一人ひとりは、すべて神仏の子である。

私たち一人ひとりの心の奥には、ダイヤモンドがある。

私たちは、みんなが尊く、偉大な存在なのだ。自らの真の価値に目覚めよ、と──。

仏が、今生きているすべての人々に対して投げかけておられる、この力強い檄を全身で受け止めたいと、心の底から思います。

そして、この言魂を、光を、一人でも多くの人に知ってほしいと私は思っているのです。 

『悟りの極致とは何か』

 大川隆法著

 

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このブログって、いいことたくさん書いてあると思うんだけど、でも、伝えたい人は、ぜんぜん聞いてくれないんだ。「心とか、ぜんぜん興味ない」なんて言われたり、「別の信仰もってますから」とか言われたり。どうすればいいのかな? なーんて疑問、持ってくれてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀(ぶっだ)の証明』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

「蓮(はす)の華(はな)のたとえ」というものがあります。蓮は泥沼に咲くわけですが、蓮のなかには、まだ沼の底のほうにあって、水面まで遠い蓮もあります。これに対しては、いかんともしがたいものがあります。「水面上に顔を出して、花が咲けば素晴らしい」というようなことを言っても、まだ時期が来ていないのでだめです。
 また、蓮のなかには、もう水面上に出て、見事な大輪の花を咲かせているものもあります。こうした、すでに花咲いている蓮に対して、「花を咲かせば素晴らしい」というようなことを言っても、しかたがありません。
 このたとえは、「すでに悟った生活をしている方、もう立派に幸福な生活をしている方、こうした方に対しては、法を説く必要はないでしょう。しかし、世の中には、ようやく水面に顔を出そうとしている蓮があります。このような蓮に対しては、手助けをすることによって、その蓮が見事に水面に出て花を咲かすことが可能なのです。あなたがたが教えを説くのは、こうした蓮のような人たちです」ということなのです。
 まだ沼の底のほうにあって、水面まで遠い蓮というのは、「下根(げこん)」の人たちのことです。こうした、まだ機根が備わっていなくて、法を聞いてもわからない人たちがいます。
 一方、「上根(じょうこん)」の人で、もうすでに説法を聞くまでもないような方も、いることはいます。
 そして、これからもうひと押しすれば悟りが開けるような「中根(ちゅうこん)」の方もいます。そうした方を、「世の中にはけがれの少ないものがいる」と言っているのです。「彼らは法を聞かなければ退歩する、退いていくのだけれども、法を聞けば悟って、進歩することができる人たちである。そうした人のために、あなたがたは説法する必要があるのだ」ということを言っています。(中略)
 極悪非道な人をいつまでも相手にしているのはマイナスです。また、すでに上根で説法を聞くまでもない人に説法をするのでもなく、「ちょうどこうした人が、あなたがたが説法する相手だ」ということを教えているのです。
(252~256ページ)

まだ機根が備わっておらず、法を聞いてもわからない人たちは、まだ沼の底のほうにあって水面まで遠い蓮の華のようなものである(「下根」の人)。

一方で、もうすでに説法を聞くまでもないような方もいる(「上根」の人)。

ところが、ようやく水面に顔を出そうとしている蓮のように、もうひと押しすれば悟りが開けるような方もいるので(「中根」の人)、そうした人のために、あなたがたは説法する必要がある──。

有名な「蓮の華のたとえ」です。

世の中には、これからようやく水面に顔を出そうとしている蓮のように、ちょっとした手助けがあれば、見事に水面に出て花を咲かせる人が、たくさんおいでなんだと思います。

説法なんてだいそれたことは考えていないわけですけれども、でも今日のお教えで、まさにそういう「中根」の方の参考になればという思いで、延々とこのブログを更新していたことに改めて気づくことができた気が私はしているのです。

 

『仏陀の証明』

 大川隆法著

 

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あんなに親しいと思ってたのに、あの人と、なんだか最近ぎくしゃくしちゃってるんだよね。ちょっと、はっきりものを言いすぎたのかなあ。なんで、最近、避けられてるんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間関係がうまくいかなくなってきたときには、原点に帰り、初心に戻って、自分を厳しく見つめ直す必要があります。また、他人に対して粗探しをする癖をやめることが大事です。
 人間の能力には、もちろん上下があり、「できる人」と「できない人」はいるでしょう。しかし、人間の価値は能力だけでは決まらないのです。もっと幅広い、さまざまな要素があります。人間は、性格、行動力、体力、人格、経験など、さまざまな要素を持っている多面体なので、そのすべての面を完全に評価することはできないのです。それを知らなければいけません。
 たいていは、相手を一面的に評価していて、何かの面だけを取り上げて、「駄目だ」と言っているはずです。
 したがって、人の粗探しをする習慣をやめて、「相手にも、よいところはないか」という目で見ることが大切です。
 そうすると、不思議なもので、口に出して、「〇さん、ごめんなさい。あのとき、あんなきついことを言って悪かったね」「あなたのこんな悪いところばかりを見ていたのです。すみません」などと言わなくても、自分の考え方や心の持ち方を変えただけで、それが以心伝心で相手に伝わるのです。
 そして、相手のほうも、「あの人を、あんなに嫌ったり、陰で悪口を言ったりしたのは悪かったな」と、同じころに反省を始めます。こちらが考え方を変えると、それに連動して、相手のほうも考え方が変わってくるのです。(中略)
 これは不思議なぐらい符合しているので、やってみるとよいでしょう。必ずそうなります。
(160~162ページ)

 

人間関係がうまくいかなくなってきたときには、自分を厳しく見つめ直し、他人に対して粗探しをする習慣をやめること。

 

人間はさまざまな要素を持っている多面体であるから、その価値は能力だけでは決まらず、すべての面を完全に評価することはできないことを知ること。

 

自分の考え方や心の持ち方を変え、相手にもよいところはないかという目で見るようにしていると、それに連動して、口に出して言わなくても相手のほうも考え方が変わってくる──。

なるほど、なるほど。

ほんとに、心って不思議なものです。

今日のお教えも、「心の法則」の一場面であるのだと私は思っているのです。

 

『希望の法』

 大川隆法著

 

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(こころざし)が大事だって教えてもらってるんだと思うけど、でも、どんな志を立てればいいのか分からないんだけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 どのような志を立てればよいか分からない人に対しては、次のアドバイスをしたいと思います。それは「あなたがいま、いちばん興味や関心を持っていることは何か」という問いに答えていただきたいということです。あなたが最も興味や関心を持っているもののなかにこそ、あなたの才能は眠っているのです。
 あなたが水泳に興味があるのならば、山登りをいくらやってもおもしろくないでしょう。水泳に興味がある人は、やはり、水泳をやっているうちに、その才能が出てくることがあるのです。あるいは、英語の勉強をしたい人が、設計の勉強ばかりしていてもおもしろくないでしょう。
 興味や関心があるということ自体が一つの才能でもあります。そして、興味や関心がある分野にこそ、才能を発揮する場があるはずなのです。
 したがって、とりあえず、自分が特に興味を持っている分野を掘り下げていくことが大事です。スポーツでも、語学でも、その他の勉強でも、あるいは趣味の領域でもかまいませんが、自分が関心を持っている領域をとりあえず三年間掘り下げて、その道で一流か、一流に近いセミプロの段階までいくことです。
 そのようにして、三年間、努力を積み重ねて、ある程度の自信がついたならば、次は、その領域を広げていくことです。人間の関心はけっこう広いものであり、一生のあいだで一つのものにしか関心がないという人は少ないのです。一つの関心領域を、ある程度のところまで掘り下げたならば、それ以外で関心のある分野に移り、自分の器を広げていくことが大事です。
 このような努力をしている人は、どこかで必ずその才能を生かすチャンスに恵まれて、次なる飛躍が可能となるのです。
 要するに、私が言いたいのは、「努力をしていない者には決して道は開けない」ということです。努力していることが前提条件なのです。
 努力していても道が開けないこともありますが、それは「どれだけ時を待てるか」という問題だと言ってよいのです。一生を通じて努力が報われない人はめったにいません。また、万一、生きているあいだに報われなかったとしても、後世、その価値が発見されることもあります。
 たとえば、宮沢賢治は小説や詩をたくさん書きましたが、彼が世に認められたのは死後のことです。生前は、郷里で教員をしたり畑仕事をしたりしながら、自己顕示欲から遠ざかって、つつましく生きていました。ところが、その彼が死後にあれほど有名になったのです。そうしたこともあります。
 いずれにせよ、「魂を光らせる努力をしていた」という事実は、いつの日か明らかになるときが来るでしょう。それを信じて努力していくことが大切です。
(126~129ページ)

興味や関心がある分野に自分の才能がある可能性が強いから、とりあえず、まず3年間をめどにして、努力を積み重ねてみること──。

「努力」という「因」によって、なんらかの成果という「果」が得られるというのが、「縁起の理法」(原因・結果の法則)の根本ではあります。

ただ、大川隆法先生のお教えが凄いと思うのは、努力しても道が開けないときであっても、それはどれだけ時を待てるかの問題だ、というところではないでしょうか。

宮沢賢治のように、死後に作品の価値が認められて有名になった人もいるけれども、死後も認められないままで終わる人もいる。

しかし、その人のほんとうの価値は、天上界に還ったときにはかられる。

そのとき、「縁起の理法」はたしかに完結するということだと私は思っているのです。

 

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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会社や職場の仕事で、どうやったら成功できるの? って悩みを持ってる人に対して、少し前になるけど、一度、話題として取り上げました。今日は、その第二弾。

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「上司を尊敬する」ということの反面とも言えますが、「部下を愛する」ということなくして成功する人もまたいません。(中略)一時的に、そういう現象が起きたとしても、その人は、やがて、必ず、人々の信を失い、長たる資格を失っていくことになります。
 では、「部下を愛する」とは、どういうことか、分かるでしょうか。それは、「その人の持つ、よいところを伸ばしてやる」ということ、また、「悪いところがあったら注意をする」ということです。
 部下というのは、たまたまの巡り合わせで来ることもありますが、上司は、自分の部下を、人間的にも立派になるように、将来、仕事で一人前になって立っていけるように、さらに、高い立場に立ってもやっていけるようにしていくことが大事です。
 この際に、いちばん気をつけなければならないことは、「部下の才能に嫉妬してはならない」ということです。
 優秀な部下が来たときに、ともすれば、その部下に嫉妬しがちな人がいます。「何とかして足を引っ張ってみたい。ケチをつけてみたい」という気持ちを持つ人もいます。
 しかし、そういう気持ちでいては、その部下が出世できないことは当然のことですが、そのような評価を下すあなた自身も、そこで出世が止まることになるのです。
 ほんとうに偉くなっていく人というのは、「才能を愛する」という傾向を持っています。自分にない才能を持っている人を愛し、自分にない素晴らしい面がある人を愛し、そして、育てていこうとする気持ちがあります。
 「部下を愛する」という気持ちは、実は、「自分とは違った個性である部下を、その個性のままに伸ばしていきたい」という気持ちを持つことをも意味しています。むしろ、自分より優れた人物を配下において、それを自慢にするぐらいの高い心境にならなければいけないということです。そのくらいの心境になって初めて、その人も出世していけるのだと私は思います。
 上司が部下を愛さなければ、いったい誰が、その上司を支えてくれるのでしょうか。人間は、自分一人の力で偉くなれるものではなく、やはり、人に担(かつ)がれて偉くなるものなのです。人に押し上げられて偉くなるのです。信任されて偉くなるのです。その無言の雰囲気が、実は、出世の力となっていくのです。
 したがって、「あなたの下で働けてよかった」と言われるような、あなたとならなければいけません。
 この際に、自分より年若い者のなかに、自分より優れたものを見いだしたとしても、それをほめられるような、それを育てられるような、そういう心境になってください。そうしなければ、あなた自身が、よりいっそう向上するということはないのです。精神的な高みに上がるということはないのです。
(122~126ページ)

部下を愛せよ。

そのために、部下の持つよいところを伸ばしてやり、悪いところがあったら注意をするという、当たり前のことをせよ。

その際に、部下の才能に嫉妬せず、その才能を愛せよ──。

これまた、真なる人生の叡知と心素直に納得できる、深いお教えだと改めて私は思っているのです。

 

『成功の法』

 大川隆法著

 

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何が善で、何が悪かってことを、学校でも家でも教えてくれなくなったことが、世の中が悪くなってる原因の一つだって教えてもらったんだけど。じゃあ、何が善で、何が悪なの。何が基準なの。そんなの、分かるわけないじゃん? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

しかし、考えてもみよ。
おまえたちも、
思ったことを振り返って、
恥ずかしく感じることがあるだろう。
自分の思ったことを振り返って、
誇らしく思うこともあるだろう。
なぜ、あるものを恥ずかしく思い、
なぜ、あるものを誇らしく思うか。
その判断の根拠こそが、
おまえたちのなかに宿りたる良心の存在であるのだ。
この良心があることが、
おまえたちが仏の子であることの証明にほかならない。
仏の子であるから、
善そのものの価値基準が、そのなかにあるのだ。

ゆえに、おまえたちは、
己の心のなかにある正しき基準を、
常に知っていなくてはならない。
他人を欺くことができても、
自分自身を欺くことはできないであろう。
すなわち、自分自身が、
自分の思いと行いをすべて知っているのだから、
その、生地のままの、ありのままの、
思いと行いを自己点検して、
そうして、恥ずかしくない生き方をするということなのだ。

たとえ、その外に現れたる姿が、
よき言葉を発し、よき行動に満ちているように見えたとしても、
その心のなかに思いたる言葉悪しく、
その真実の願いが、
相手を堕落せしめ、詐術に陥れんとするものであるならば、
それらは、相手が感謝をするかどうかにかかわりなく、
少なくとも、天国の住人のなすべき業ではないということになる。

おまえたちは、いち早く、
この正しき習慣を身につけることだ。
やがて来る来世においては、
一切の偽りが通じないのであるならば、
いち早く、今世において、
一切の偽りを排し、正直に生きてゆくことだ。
(65~69ページ)

善悪の価値基準は、実は自分の心の中にある。

他人を欺くことができても、自分自身を欺くことはできない。

だからこそ、正直に、自分の良心に恥ずかしくない生き方をすることである──。

それこそが天国への道なのだと、大川隆法先生はここで教えて下さっているのだと私は思っているのです。

 

『永遠の仏陀』

大川隆法著

 


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今の時代、結婚より同棲のほうが、お互いにフリーでいい気がするんだけどな。神さまとか仏さまは、どう言われるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福のつかみ方』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 過去、何千年、何万年、何十万年、いやそれ以上の歴史のなかで、人類が生きつづけてきた背景には、男女の正しい家庭の営みがあったことは否定できません。両親の健全な結婚があって子供が産まれ、家庭のなかでの養育が行なわれ、そして子供が巣立ち、また結婚をし、こういうくり返しをあなた方の先祖は何十代、何百代、何千代と続けてきたわけです。
 なぜそうしたのか。なぜそういう結婚制度があるのか。なぜ家庭生活というものがあるのか。
 それは、子々孫々にまで自分の命を連ねていくということに、生物としてのひじょうに尊い使命があったからだと思うのです。
 しかし、同棲生活というものは、そういうことについてはまったく考えていない部分があるように思います。(中略)何度もくり返しますが、本則は、正しい家庭生活を営み、子孫をつくっていくなかに人間の健全な生活はあり、そして仕事上での成功というものもほんとうはそこにあるのだ、ということを知っておいてください。それがあくまでも本則で、それと違うものはイレギュラーなものなのです。イレギュラーなものが正当性を持つためには、それだけの合理的な説明というものが必要です。
 どのような事情で同棲するかは人それぞれですから、一概には言えませんが、もし好きあって同棲にはいるならば、経済的事情とか、親の許可がとれないとか、いろいろなことはあるかもしれませんが、できれば同棲生活にはいってから、半年、遅くとも一年以内には、正常な夫婦として結婚ができるようなところまでこぎつけていただきたいものだと思います。
 逆に、同棲生活にはいって一年もたって結婚ができないようであるならば、お互いに、あるいはどちらか片方が不誠実なのではないかという感じが、私にはします。どちらかのわがままのためにそうなっているのではないかな、というふうに感じます。
 同棲生活をしていて、やがて彼が新しい女性をつくって別れるというパターンがひじょうに多く出てきております。これなども、「女性にとっていちばん幸福な生き方とはなにか」ということを教えられていない最近の女性たちが迷っている姿に思えて仕方がありません。
 いろいろな男性を愛することも、それはそれなりにおもしろいことでしょうが、やはり一生をかけてひとりの男性を愛しぬくということがどれほど重要で、かつ美しく、また楽しいものであるかということを教えてくれる人がいなくなったのでしょう。とても残念なことだと私は思っています。
 どうか、女性のほんとうの幸福は、複数の男性とか、行きずりの男性を愛するのではなくて、ひとりの男性、「これは」と思った男性を長く愛することのなかに、深い深いよろこびがあるということを忘れないでいただきたいと思います。
(33~37ページ)

結婚制度があり、家庭生活があるのは、子々孫々にまで自分の命を連ねていくということに、生物としての尊い使命があったからである。

同棲は、それをまったく考えないイレギュラーなものであって、できれば半年から1年以内に、結婚できるところまでこぎつけたい。

ひとりのこれはと思った男性を長く愛することのなかに、深いよろこびがあり、女性のほんとうの幸福があることを忘れないでいただきたい──。

この教えが説かれた本書は、1992年に発刊されています。

それから四半世紀をすぎているわけですが、働く女性の幸せに関する大川隆法先生のお教えは、以前から変わってきたところもある反面で、結婚制度や家庭生活に関するお教えについては、変わっていないと私は思っているのです。

 

 

『幸福のつかみ方』

 大川隆法著

 

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アメリカでは、UFOの「アブダクション」って、問題になってるんでしょ。日本ではあんまり聞いたことがないけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いま、アメリカでは、UFOとの遭遇や、UFOによる誘拐事件などが、かなりの件数に上っており、大きな問題になってきています。(中略)「そうとうの数の人がアブダクション(誘拐)に遭っているのではないか」と、いま問題になっています。(中略)
 このように、この世には不思議なことが数多くあるので、幸福の科学も、こういう不思議なこと、オカルティズム、神秘思想を否定しては成り立たないと思っています。
 真実の世界認識は、「この世の三次元世界は水槽のなかの世界であり、その外の世界は広大無辺である。この水槽のなかの世界と外の世界は、まったく別のものではなく、その広大無辺な世界のなかに、水槽の世界も、きちんと入っている」というものです。
 そして、外の世界の人は、水槽のなかの世界に介入することができます。水槽のなかに手を入れたり、棒を入れて、かき回したり、えさをやったり、いろいろなことが自由にできるのです。
 UFOによる誘拐事件なども、それと同じようなことです。
 外の世界の人は、水槽のなかの金魚を手で捕まえて取り出すことができます。しかし、なかに残された金魚たちは、いったい何が起きたのかが分からず、「仲間がいなくなった」と思っています。ところが、しばらくすると、その仲間が上からポチャンと落ちてきて、「急に現れた」という感じになるのです。
 霊界とこの世の関係と同じことがUFOについても起きているわけです。(中略)
 彼らは、オカルティズムの片棒を担いでいるかのように、ちらっと自分たちの存在を示すのですが、必ず、全部は教えないようにしています。
 彼らは、人間を誘拐しても、記憶の一部を消してしまうので、誘拐された人は、その間のことが分かりません。もっとも、そういう人であっても、催眠術をかけられたりすると、そのときの状況を思い出すことができるわけですが、彼らも、そのことは知っていてやっているのです。
 宗教家が霊界思想を教えているのと同じように、エイリアンたちも、「宇宙には秘密の世界があり、そこから異星人が来ているのだ。あなたがたの知らない世界があるのだ」ということを、ちらちらと教えてくれているのです。
 しかし、全部は教えてくれません。「隠されている」というところに、実は意味があるのです。「全部を教えるわけにはいかない。自分で宝探しをしなさい。自分たちで掘り出しなさい」ということでしょう。
(272~281ページ)

「この世は水槽のなかの世界であるが、広大無辺な外の世界と別のものではなく、外の世界のなかに水槽の世界も入っている」というのが、真実の世界認識である。

霊界とこの世の関係は、外の世界の人が水槽のなかに自由に介入できるのに似ているが、それと同じことがUFOについても起きている。

宗教家が霊界思想を教えているのと同じように、エイリアンたちもアブダクション(誘拐)で、「宇宙にはあなたがたの知らない世界があるのだ」ということを、ちらちらと教えてくれている──。

UFOは実在するし、アブダクション(誘拐)と言われる事件も、作りごとではなく実際に起こっている、というわけです。

ということは、そのままでは異星人はやりたい放題となりかねない気がします。

ところが、大川隆法先生はこのあとの部分で、それは宇宙の意思決定機関のきまりの範囲内のことではあるし、異星人の行動をコントロールする高次元の霊存在もあるので、それほど心配する必要はないという趣旨まで教えておられるのです(281~282ページ)。

いったいどんな方がここまでの法を説くことができるんでしょうか。

それこそ「仏」以外にはあり得ないだろう、と私は思っているのです。

神秘の法―次元の壁を超えて (OR books) 『神秘の法』

 大川隆法著


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心の教えを学んでるんだけど、私の仕事って、パソコンの画面を一日にらんで、キーボード打ってるようなもんなのよね。どうやって心の教えを活かしていけばいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仕事にもいろいろありますが、機械相手の仕事、特にコンピュータの画面相手の仕事などでは、心の教えといっても、相手が理解してくれないですから、努力のしようがほとんどありません。一日中、機械に向かっている人の場合には、残念ながら、心の教えを仕事で使うのは難しいのです。
 そのため、機械相手の仕事をしている人は、どちらかというと、心のほうが疎(おろそ)かになっていきます。そして、性格が暗くなったり冷たくなったりして、あまりハートを感じない人になりやすいのです。これは、「ほかのところで補う」と割り切ったほうがよいと思います。
 要するに、機械相手の仕事が長時間続くような人は、その仕事を離れた段階で、人びととの心の交流を深めるようなことをしたほうがよいのです。そうした機会を提供する場としては、宗教なども非常に豊富な場所だと思います。
 また、技術系統の人であっても、管理職になったときには、心の教えを使うことができるようになります。実務担当者では、なかなか心の教えを使えないと思いますが、管理職になり、人を使う立場になってくると、当然、心の教えが活きてきます。特にメーカー系統であれば、技術系でも出世する人は多いのです。
 管理職になった場合には、人の心がわからないと全然務まりませんので、その日を期して勉強を続けておくことが大事だと思います。
 これからも機械文明そのものは発展するでしょうが、人間の心の価値、心の触れ合いの部分は永遠になくならないと思います。(中略)自宅で仕事をするようになったとしても、やはり、人びとは触れ合いを求めて集まります。その価値自体はなくなりません。
 また、人間がいちばん満足するのは何かを考えると、機械相手の仕事で評価されるよりは、人と会って、その人に自分自身の人間性を認められるのが、いちばん幸福だろうと思うのです。
 したがって、職業上、人間性が少し希薄になる仕事をする場合には、どうか心の面を別な修行で埋めていくということを考えてください。
(108~110ページ)

一日中、機械に向かっている人の場合、心の教えを仕事で使うのは難しいが、ほかのところ(たとえば宗教の場など)で補うと割り切ったほうがよい。

ただ、技術系統の人も、管理職になったときには心の教えが活きてくるので、その日を期して勉強を続けておくことが大事である。

機械文明が発展しても、心の価値、心の触れ合いは永遠になくならない──。

仕事の性質上、人と触れ合うことがないような方は、幸福の科学の支部とか拠点とかに、仕事帰りに顔を出してみるようにすると、日常生活で足りない部分を補えるのだと思います。

そして、管理職になったりする将来を期して、大川隆法先生の経典を読んだり、精舎の研修に参加したりして、心の勉強を重ねておくことが大切であることを、今日は教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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