ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



宗教には、正しい宗教と間違った宗教があるって言うけど、それって、自分の宗教だけが正しいって話じゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『新生日本の指針』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教には正邪があります。(中略)
 ただ、宗教の正邪を分けるということは、宗教の多様性を否定せよということではありません。私は、いろいろな個性を持った宗教が、日本にも世界にも数多くあることは、よいことだと思います。宗教が、よいところをお互いに出し合って、人びとを導いているという姿は、実に頼もしいものだと思います。宗教の正邪を分けることは、その多様性を否定するということではないのです。
 また、宗教の正邪を分けることは、宗教のいろいろな教えにおいて次元の高低を知ったり、高等宗教と初歩的な宗教とを分けたりすることを、否定するものでもありません。
 このように、宗教の多様性や、程度の違ういろいろな宗教が現に存在しうるということについて、私は肯定的見解を持っています。
 この地上を去った天上界においても、そのように、さまざまな人たちが、さまざまなグループをつくって、生活をしています。
 しかし、天国と地獄だけは、はっきりと分かれています。これが、宗教として外してはならない一線なのです。正教と邪教は、ここに線を引くべきです。
 邪教なるものは、悪魔や悪霊といわれるものに取り憑かれて、多くの人びとを狂わせている教えです。これを極力、小さなものとし、正しいものを推し進めることが、いまの日本の宗教界を浄化し、人びとを幸福にし、迷った人びとを救うために、ぜひとも必要なのです。
 宗教の正邪を見分けることは、難しいかもしれません。しかし、一般の人にもわかるように、簡単にいうならば、「その宗教が社会に広がっていくと、犯罪が減っていくようであれば、それは正しい宗教である。逆に、その宗教が社会に広がっていくと、犯罪が増加するような宗教は、間違った宗教である」ということなのです。
 その宗教が広がることによって、犯罪が増加するならば、その宗教団体のなかにも、犯罪を数多く重ねている人たちがいるはずであり、そのトップに立つリーダー自身の心のなかにも、犯罪を志向するものがあるはずです。それを見分けなくてはなりません。
(24~29ページ)

宗教には正邪があるが、それは、宗教の多様性を認めないとか、高等宗教と初歩的な宗教を分けないということを意味しない。

しかし、この地上を去った世界においては天国と地獄がはっきりと分かれているのだから、正教と邪教は、ここに線を引くべきである。

簡単に言えば、社会に広がれば犯罪が減っていく宗教は、正しい宗教であるが、逆に、社会に広がっていくと犯罪が増加するような宗教は、間違った宗教である──。

なるほど、なるほど、です。

たとえば、私なりに学校で考えてみると、学校の正邪を分けることは、国公立系があったり私学があって様々な特色のある教育をしていることや、小・中・高や大学・短大があることを認めないわけではありません。

しかし、きちんとした学校でもないのに、英会話学校だと称するだけの詐欺は間違っているのだ、とでも考えれば、理解しやすいかもしれない気がします。

そして、最初はもちろん小学校からですが、早く初等教育は終えて上級の学校に進んでほしいというのも、宗教と学校では、似ているのかもしれないなどと、私は考えたりもしているのです。

新生日本の指針: 新時代への国家選択 (OR books)

『新生日本の指針』

 大川隆法著


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宗教同士で争ってるでしょ。戦争の背景には宗教があるっていうし。神さまや仏さまが本当にいて、教えが降ろされたんだったら、なんで、宗教同士で争うの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教のもと自体は、かなりホンワカしたものだし、そう体系化されたものではないのだけれども、弟子筋が体系化していくうちに、やはり都合の悪いことはだんだん切っていって狭めていくので、あとがたいへんなんですね。都合のいいほうに解釈しはじめるので、情熱ゆえにそういうこともあるんですけれども、あれが辛いですね。さまざまな宗教の歴史を見ていると、いろいろと争いが多いですね。だから信仰しない、という人も出てくるぐらいですが、ずっと見てくると、結局、理解力の狭さみたいなものが、ほとんどの原因のように感じるんです。(中略)
 いま現在進行形で幸福の科学をしていても、私はかなり幅広い話をするんですが、しかし弟子たちは、やはりその理解能力に応じてしか理解できないんですね。自分に都合のいいところというか、わかるところは一生懸命言うけれども、それ以外になると、知識としては入っているのですが、やはり魂のほうには入らないんですね。これでは、時代を下れば一緒だなあ、というのはやはり感じますね。
 どうしても、立体的なものの考え方というのは、なかなかできないんですね。たとえば、神の子というか光の天使みたいな人だったら、平和を愛する愛の心で生きている、こういうことがありますね。「人を許す」という考えが一方にあるでしょう。ところが他方には、たとえば軍事的な英雄というのがいるでしょう。これも全部が悪人ではなくて、やはり神から送られた英雄、戦いの神というのがいるんです。すると、どうなるかというと、もう弟子はとたんに理解できなくなるんですね。私は両方説明できるけど、弟子は両方はわからないんですね。こうなるんです。(中略)
 だから、神の光というものは、幅広いものを含んでいるんだけれども、理解力のほうに限界があって、やはり自分に合わせて神様を信じる傾向がありますね。まあ、これは辛いけれども、しかたがないね。勉強してもらって、認識力を上げてもらう以外に道がないんですね。
(170~172ページ)

宗教は、弟子筋が体系化していくうちに、都合の悪いことをだんだん切って狭めていく。

宗教に争いが多いのは、立体的なものの考え方ができない理解力の狭さが、ほとんどの原因である。

これは、勉強してもらって認識力を上げてもらう以外に道がない──。

神仏の教えは、ものすごく幅広くって、高くて、深さもある。

だけれども、これを私たち人間が、自分の狭い理解力で後世に伝えてしまうことに、宗教の争いの根本原因があるってことです。

とするならば、もっともっと勉強を重ねて、天上界のお教えを、そのまま立体的に曲げずに理解できるようになりたいものだと、心から私は思っているのです。
 

フランクリー・スピーキングー世界新秩序の見取り図を語る 『フランクリー・スピーキング』

 大川隆法著


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ね宗教に入るってさ、なにかいいことでもあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊的世界のほんとうの話。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「とりあえず」というかたちであったとしても、何かの宗教、宗派に縁があったほうがよいのです。
 死後、お父さんやお母さん、親類縁者が迎えに来てくれることが多いのですが、必ず来てくれるとは限りません。自分も修行中であるために出てこられない人もいます。そういう場合には、少し救いが遠のいてしまい、苦労することがあるので、やはり、何かの宗教に縁があったほうがよいのです。
 自分自身は信仰を持っていなくても、友達や身近な人のなかに信仰を持っている人がいれば、ありがたいことに、それでも縁ができます。
 信仰心のある人は、友達が死んだときには、その人の死後のことを心配して、一生懸命に弔ったり、「成仏するように」と冥福を祈ったりします。そうすると、死んだ友達は、その信仰心のある人の守護霊や、その人の宗教の指導霊団とつながりができ、「あの人の友達だから、導きに行かなければならない」と思われ、手配をしてもらえるのです。それで、あの世での行き場所が決まります。
 あの世へ行ったときに、全然、案内人がつかないというのは厳しいものです。
 死後、魂は体から離れ、トンネルを抜けて光の世界に入り、お花畑を通って三途の川に出ます。日本では川の場合が多いのですが、湖の場合もありますし、スイスのほうでは、山の峠を越えることが三途の川を渡る代わりになっていることもあります。
 そのように、いろいろな場面が出てくるのですが、そのときに何らかの導きは必要なのです。
 そのために、宗教者たちは、この世において真理の伝道をし、この世で伝道し損ねた場合には、あの世へ行ってから、また導きの仕事をしています。そのことを知っていただきたいのです。
(200~202ページ)

とりあえずでも、何かの宗教、宗派に縁があったほうがよい。

あの世へ行ったときに、何らかの導きは必要であり、まったく案内人がつかないというのは厳しいものである。

そのために、宗教者たちは、この世において真理の伝道をし、あの世へ行ってからも、また導きの仕事をしている──。

若くて元気なうちは、宗教なんて関係なく生きていても、なにも気にならないかもしれません。

でも、人には寿命がやってきます。病気や事故というのもあるかもしれません。

一人残らず、必ずいずれは帰天することになるわけです。

そのとき、宗教に何も縁がなければ、誰も導いてくれず、あの世で惑ってしまって厳しい体験をすることになる、というわけです。

そんなふうになってほしくないというのは、おせっかいな話だという人もいるかもしれません。

あの世に還ってからも、惑っている人々をなぜひたすら救おうとするのかを、おめでたいと感じる人もいるのかもしれません。

でも、天使や菩薩というのは、求められなくても思わず手を差し伸べてしまう、そういう性格の方々だと聞きます。

だからこそ、熱心な宗教者は、何と言われても、いわばおせっかいだし、おめでたい人たちであるのだと私は思っているのです。
 

『霊的世界のほんとうの話。』

 大川隆法著


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アメリカはまあ、いろいろあっても、いい国ではあると思うんだけど、中国とか北朝鮮って、やってることも言ってることもぐちゃぐちゃだし、仏さまも神さまもその国民を許さんのじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学学園の創立者でもある大川隆法先生は、『教育の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 この国や、この地球上の他の国も、そして、この世界も、未来の構想を明確にし、それに向けて努力する人々が力を合わせていけば、必ずや、その方向に向かっていくのです。(中略)
 私たちは、あくまでも、光でありたい。
 あくまでも、明るい光でありたい。
 あくまでも、希望の光でありたい。
 あくまでも、この国の人々の未来をかたちづくれる強い力でありたい。
 勇気でありたい。
 この国の良心でありたい。

 公平な尺度でもって世界を引っ張っていくだけの「強い力」を持ち、そして、慈悲の心でもって世界の人々を助け、一つにするような、「大きな大きな運動」を起こしていきたいのです。
 そのために、幸福の科学の教えを世界全体に広げていきたいと思います。
 当会は、政治的には、ややアメリカ等の自由主義圏のほうに軸足を置いた思想を持っていますが、中国や北朝鮮の人たちを憎んでいるわけでは決してありません。今、彼らも、時代の流れのなかで、少しずつ変わろうとしていることを感じています。それを助け、もっと幸福な世界へと誘いたいと思っています。
 幸福の科学の信者は北朝鮮にも中国にもいます。
 中国は、公式には、五つの古い宗教(仏教、道教、イスラム教、カトリック、プロテスタント)以外は認めていませんし、しかも、すべて当局の監視下にありますが、その中国本土においても、当会の信者は増えつつあるのです。
 この動きは決して止まりません。中国の人たちも北朝鮮の人たちも幸福になりたいのです。当たり前のことです。私たちも、彼らを不幸にしたいわけではありません。幸福にしたいのです。
 私たちは、彼らを幸福にする方法を知っていますが、今のままでは彼らは幸福になれません。
 したがって、彼らに対して手助けをし、幸福にしてあげる必要があります。国際政治や国際経済のなかで、いろいろなものと協力しながら、そちらの方向へと導いていかねばなりません。
 幸福の科学は、どこかの国だけを敵視し、どこかの国だけを味方に考えるような、狭い心で活動しているわけではありません。「人類全体を少しでもよい方向に引っ張っていきたい」と考えているのです。どうか、そのことを信じていただきたいと思います。
 私は、「個人の自由を最大限に生かすことが、国の繁栄や世界の繁栄を導く」というような思想が、いちばんよいと考えています。
 これが地球に責任を持つ者の考え方です。
(245~248ページ)

私たちは、明るい希望の光、強い力、勇気、この国の良心として、慈悲の心で世界の人々を助け一つにする大きな運動を起こしていくために、教えを世界に広げていきたい。

中国や北朝鮮の人たちを憎んでいるわけでは決してない。彼らを幸福にする方法を知っているので、彼らを助け、もっと幸福な世界へと誘いたい。幸福にしたい。

「個人の自由を最大限に生かすことが、国の繁栄や世界の繁栄を導く」という思想こそが、地球に責任を持つ者の考え方である――。

「地球に責任を持つ者」である大川隆法先生は、中国や北朝鮮の理不尽な行動を厳しく批判はされても、かの国の人たちを不幸にしたいのではなく、逆に幸福にしたいと考えておられるのだ、ということです。

ただ、中国や北朝鮮のように、「個人の自由」を抑圧する体制の国家が、真に繁栄することはないし、また繁栄すべきでもないとも考えておられるのだと思います。

教えを世界に広げんとしているのは、世界の国々を、その国民たちを、すべての人類を、幸福にするためである。

この幸福の科学の根本のところを、ぜひとも理解していただきたいものだと、改めて私は思っているのです。
 

『教育の法』

  大川隆法著


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信仰はとっても大切って言う人がいるけど、信仰ってそんなに大切なものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊的世界のほんとうの話。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 この世には、素晴らしいものがたくさんありますが、「最後は信仰を取る」という姿勢を採らなければいけません。
 この世的なものは、この世を去るときに、全部、捨てていくものであり、最後にあなたに残るものは信仰しかないのです。
 過去、私は何度も、「死んで、あの世に持って還れるものは、心しかない」ということを説きました。確かに心は持って還れますが、その行き場所には天国もあれば地獄もあります。天国に行く心も地獄に行く心もあるのです。
 したがって、「死んだあとは、家、財産、家族、友人、持ち物、名刺など、すべてを失うのであり、あの世に持って還れるものは心しかない」という教えは、さらに踏み込んで言うならば、「あの世に持って還れるものは信仰しかない」ということになります。
 信仰を持っていれば、あの世において、あなたがたが行くべき所は、はっきりと固まります。信仰こそが、あなたがたが天国に入る鍵であり、天国の門であり、天国に住むための条件です。さらには、光の天使になるための条件なのです。
(204~205ページ)

最後は信仰を取る、という姿勢を採るべきである。

死んであの世に持って還れるものは心しかないという教えを、さらに踏み込んで言うならば、あの世に持って還れるものは信仰しかない。

信仰こそが、天国に入る鍵であり、天国の門であり、天国に住むための条件であり、さらには、光の天使になるための条件である──。

いま、幸福の科学では、「信仰」の大切さが、強く強く説かれています。

神仏への祈りも、純粋な信仰、本物の信仰があってこそのものである、と。

そこで今日は、宗教の核心的問題の一つとして、「信仰」に関する大川隆法先生の教えの一節を、ご紹介してみました!

『霊的世界のほんとうの話。』

 大川隆法著


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人類の歴史って、ほんとは光の天使や光の菩薩、如来が活躍してきた歴史だって、ちょっと聞いたんだけど、ほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、たとえば、こう教えておられます。

 プラトンは、ギリシャに生まれた偉大な光の大指導霊であり、本来、八次元如来界の高級霊なのです。師のソクラテスがそうであったように、プラトンもまた、生きながらにして光子体離脱(幽体離脱)をし、何度も天上界に足を運んで、その様子を実際に見聞しております。(中略)
 ソクラテスやプラトンたちは、来るべき西欧文明が、知性に彩られた文明になることを見越して、理知的に真理を説いたのです。(中略)
 ソクラテスは、紀元前五世紀の人です。インドでは釈迦が、中国では孔子が、活躍していた時代とほぼ同時期にあたります。仏の計画は、いつもこのように、新しい時代が始まるときには、多数の高級諸霊を地上の各地に、集中的に出しているのです。ひとつの時代が終わる頃にも、同じことが言えます。
 人類の歴史を鳥瞰してみると、ある一定の時期に、一定の地域を中心に、異常にレベルの高い人々が住んでいたことが注目されるでしょう。たとえば、今から三千七、八百年前のギリシャのゼウスの時代がそうです。二千四、五百年前のソクラテスの時代、ローマ帝国時代の口ーマもまったく同じことが言えます。十七、八世紀のイギリスや、十九、二十世紀のアメリカも、そうです。
 日本でも、今から二千七、八百年ほど前、天照大神を中心として、多数の諸如来、諸菩薩が輩出しており、大和の国の基礎となる神政政治を行なっておりました。
(76~79ページ)

大川隆法先生は、この21世紀初頭の日本もまた、「新しい時代が始まるとき」にあたると説かれます。

そして、実際に、大川隆法先生が刊行し続けておられる数多くの霊言集によれば、この現代日本には、過去世で名を成した数々の高級霊(つまり諸如来、諸菩薩)が、また肉体を持って活動を開始していることが分かります。

ということは、後世、この現代日本という時代は、「ある一定の時期に、一定の地域を中心に、異常にレベルの高い人々が住んでいた」例の一つとして、数え上げられることになるのでありましょう。
 
この日本という国がリードしていく未来世界の行く末に、改めてちょっとワクワクした気持ちを私は感じているのです。
 
 
黄金の法―エル・カンターレの歴史観 (OR books) 『黄金の法』

  大川隆法著


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日本神道って、なんだかよく分からないんだけど、いいテキストってないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本神道的幸福論』――日本の精神性の源流を探る(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 大変まとめることが困難な、「日本神道概論」的な考察も加えつつ、日本神道的幸福論を説いてみた。日本の精神性の源流を探る試みである。日本の精神や大和の心、大和魂、武士道などまで言及していくと、何巻にもなる本になるだろうが、将来的な研究の余地を残しつつ、今回は、神代の時代を中心とする考察となった。
 本書の特徴は、日本神道を単に民族信仰として捉えるのではなく、世界宗教的な比較宗教学の観点から位置づけた点にある。私の勉強がまだ浅いのかもしれないが、ここまで日本神道の持つ「世界宗教性」を、比較宗教学的見地をふまえて学問的に鳥瞰してみせた本は、まだ日本でも外国でも書かれたことはないのではないか。
 世間ではまだ、韓国や中国の反日論と日本の自虐史観を巡って、二十世紀的な宗教論争が尽きないが、本書が、中華帝国五千年の歴史を超えて、日本文明一万年以上説にまで言及しているところにご注目いただきたいと思う。
(1~2ページ)

日本の精神性の源流を探る試みとして、神代の時代を中心に考察した。

日本神道を単に民族信仰として捉えるのではなく、世界宗教的な比較宗教学の観点から位置づけた。

中華帝国五千年の歴史を超えて、日本文明1万年以上説にまで言及している――。

日本神道って、古事記とか日本書記とかを読んでみても、理解できないし、なんだか分からない世界なのかと思ってました。

その世界を、これだけ明晰な現代の日本語で分かりやすく、しかも新たな視点で説いて下さっているのは、本当に凄いと改めて思います。

本書は2015年に刊行されたもので、その後、大川隆法先生は、日本神道について、さらに深い研究を進めておられることをご存じの方も多いと思いますが、それはそれとして。

ともかく、日本神道を基本とした日本文明というのは、じつは世界に誇るべき歴史を持っていたのだと考えてみると、やはりちょっとわくわくしてきます。

宗教に興味を持っている方に、宗教というのは仏教やキリスト教だけじゃない、という大切な観点を学べる注目の一冊であることを、改めてお伝えしたいと私は思っているのです。
 

『日本神道的幸福論』

 大川隆法著


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原発事故がひどかったしょ。福島って、天上界に見捨てられてるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『天使は見捨てない』──福島の震災復興と日本の未来(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 日本の左翼運動再燃の原点ともいえる沖縄に続いて、今回は、福島に入ってみた。前日に福島県の海岸線を視察した後、郡山支部精舎から県内全支部・拠点に本講演を衛星中継した。その後、全国の支部などでも放映されている。折しも、ネパールでもマグニチュード「7・8」の大地震が起きて、死者は、一万人に迫っている。被災者は八百万人を超え、国民の三割にも達しているという。共時性のある、テーマの重なった講演となった。
 私は本講演、本書で震災と現代宗教の視点のあり方を説いた。
 バランスを失った過剰な反応も問題だし、福島の原発事故を、憲法九条を本尊とする反戦左翼平和運動に使われすぎるのも問題だ。
 「天使は見捨てない。」 ただ、現代の神や天使の心がどのあたりにあるかを読み取って頂きたいと思う。
(1~2ページ)

沖縄に続いて、福島に入って視察し、講演をした。

現代の神や天使の心がどのあたりにあるかを、読み取って頂きたい。

天使は見捨てない──。

力強く、そしてありがたいお言葉です。

大川隆法先生は、2015年、天上界の意思を行動で示すために、沖縄に続いて、あえて福島に入られたのだろうと思います。

福島の原発事故は、千年、二千年前の経典を読むだけでは答えを見つけることができない、最新の問題です。

この難問に、大川隆法先生は端的に答えを出しておられます。

いまは、天上界のご意思を、お心を、ストレートに知ることができる時代です。

そんな時代に生きている幸せを、一人でも多くの人に伝えていきたいと、改めて私は思っているのです。
 

『天使は見捨てない』

 大川隆法著


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幸福の科学って、世界宗教になるって言ってるんでしょ。そのキーになるものって、やっぱり教えの凄さだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、無限〔改装版〕(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 今から二千年ほど前、イスラエルでイエスが福音を宣べ伝えていました。当時、イエスが語っていた言葉は、アラム語といって、ユダヤの一種の方言です。また、イエスの十二弟子たちもアラム語を話していました。
 したがって、イエスが亡くなったあと、弟子たちがユダヤの地を離れて、異郷の地に伝道しようとしたとき、最初に言葉の障害がありました。
 筆頭弟子のペテロという人も、アラム語以外は話せませんでした。そのため、マルコという青年を通訳に使い、通訳つきで伝道して歩いていたのです。しかし、通訳つきではなかなかうまくいかず、言葉が十分に通じないところが迫害の原因にもなりました。
 一方、十二弟子のころにはまだ活躍していませんでしたが、のちにパウロという名で活躍する、パリサイ派の若者がいました。彼は、最初、サウロと呼ばれていました。(中略)パリサイ派は、厳格な律法主義に立つユダヤ教徒たちであって、当時の主流です。
 このサウロは、「私は一度も戒律を破ったことがない」ということを自慢にするほど厳格な人でした。そして、イエスの弟子たちが新しい教えを伝道しているのを見て、「これは律法を踏みにじるものだ」と非常に憤慨し(中略)、イエスの弟子たちを迫害していた中心人物の一人だったのです。(中略)
 サウロは、エルサレムから徒歩で二日ほどの距離がある、ダマスコという所に、イエスの弟子たちが逃げていることを知ります。そこで、「これを持っている者は、イエスの弟子を捕まえてよい」という逮捕状をもらい、街道を通ってダマスコに向かいました。
 ところが、その途中で、白昼、突如として頭上に白く強い光が射してきました。その光のあまりの強さによって、サウロの目は見えなくなってしまったのです。
 そのとき、上から、「サウロよ、サウロよ、なぜ私を迫害するのか」という声が聞こえてきました。サウロが「あなたは誰ですか」と問うと、「おまえが迫害しているイエスである。おまえは私を迫害しているのだ」という答えが返ってきたのです。(中略)
 しかし、そのあと、ダマスコにおいて、イエスの弟子の一人が、サウロの上に手を置き、イエスの御名において治療すると、三日ほど見えなかった目が、突如、見えるようになったのです。(中略)そして、サウロは回心し、以後、福音を宣べ伝え始めたのです。
 これが有名な「ダマスコの回心」です。ダマスコという町で、サウロが回心をしたのです。心を入れ替え、別人のようになりました。(中略)非常な悔恨にかられて、(中略)いかに疑われようとも、どのような迫害を受けようとも、断固として、信念を持って伝道を始めました。これがキリスト教の世界伝道の始まりです。
 サウロ、のちのパウロは三カ国語が自由自在に話せ、非常に教養のあった人です。「語学ができる」ということが、彼の伝道をずいぶん助けました。いろいろな土地に伝道に行っては、その土地の人が分かる言葉で話すものですから、石をぶつける手が止まってしまうのです。また、彼はローマの市民権も持っていました。こうしてパウロは熱心に伝道していき、最後には殉教しました。
(68~75ページ)

二千年ほど前、イスラエルでイエスが福音を宣べ伝えていた当時、イエスや十二弟子たちが語っていた言葉は、ユダヤの一種の方言であるアラム語だった。

イエスの死後、弟子たちが異郷の地に伝道したときには、筆頭弟子のペテロもアラム語以外は話せず、この言葉が十分に通じないところが迫害の原因にもなった。

「ダマスコの回心」で有名なパウロは、回心したあとは信念を持って世界伝道を始めたが、三カ国語を自由自在に話せたことが、その伝道をずいぶん助けた――。

教えの凄さはもちろんですが、世界伝道をしようとしたとき、やはりキーとなるのは語学であったということが、このペテロとパウロの例で理解できる気がします。

そこで、なぜに大川隆法先生が、英語の学習の大切さをあれほど強く打ち出されるのか、なぜに、海外での説法(「ご巡錫」)を日本語ではなくあえて英語でしておられるのか、です。

キリスト教の過去に鑑みて、幸福の科学を本当に「世界宗教」にしようと真剣に努力しておられる大川隆法先生の本気度を、今日のお教えで改めて学べた気が私はしているのです。
 

『愛、無限〔改装版〕』」

 大川隆法著


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宗教っていろいろあって、何がなんだか分からないよね。幸福の科学は「世界宗教」になるって言ってるけど、他の宗教の教義、何がどう違うのかって、どこから勉強したらいいの?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教社会学概論』――人生と死後の幸福学(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように教えておられます。

 幸福の科学大学では、宗教としての「幸福の科学」の基礎教学も学ぶことになると思う。その際に、宗教教養といえるためには、他の世界宗教らとの教義の異同を、簡潔に整理しておく必要があるだろう。
 本書では、一般に考えられている、世界宗教としての「仏教」・「キリスト教」・「イスラム教」を比較しつつも、社会学者マックス・ウェーバーがその『宗教社会学』で「儒教」「ヒンドゥー教」をも含めて、五つを世界宗教と分類しているので、この二つも考察の対象とした。さらに、「キリスト教」「イスラム教」を理解する上で必須な宗教教養として「ユダヤ教」に言及し、「日本神道」と「ユダヤ教」「イスラム教」「仏教」「儒教」との共通項や特徴も比較してみた。また、中国の宗教を理解する上で、「儒教」と補完関係になっている「道教」の霊的な特質に言及した。
 本書により、「幸福の科学」の比較宗教学、宗教社会学における座標が明らかになると思う。
(1~2ページ)

「幸福の科学」の基礎教学を学ぶに際しては、教養として、他の世界宗教との教義の異同を整理しておく必要がある。

本書では、一般に世界宗教と言われる「仏教」「キリスト教」「イスラム教」だけでなく、「儒教」「ヒンドゥー教」、さらに「ユダヤ教」「日本神道」「道教」も考察した。

本書により、「幸福の科学」の比較宗教学、宗教社会学における座標が明らかになる――。

幸福の科学の教えを本当に知りたいのであれば、他の巨大宗教の教えがどんなものなのか、宗教の違いによって人々の考え方や行動様式にどう違いが出てきてるのかを知ることが必要になるのは、当然のことなんだろうと思います。

でも、世界宗教クラスになると、その文献といっても膨大すぎて、その教えの影響なんて言っても、入門書から読むにしても何がなにやらで、途方に暮れてしまいます。

そこを、大川隆法先生は、わずか一冊で世界の主要宗教を比較しつつ、その特徴や特質、そしてその宗教がどういう文化や歴史をつくってきたのかまで、手短に教えて下さっているわけです。

本書は、世界宗教とは何かを、宗教全体を見渡しながらまずは手軽に学びたい方、幸福の科学の宗教全体のなかでの位置づけや、日本神道の世界の中での位置づけを知りたい方などに、強くお勧めできる必読の1冊だと私は思っているのです。
 

『宗教社会学概論』

 大川隆法著


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世界各地で起きている紛争って、背景に宗教の争いがあることが多いんじゃないの。やっぱり、どれからの宗教は神様が指導してるんだったら、他の宗教は悪魔が指導してることになるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『死んでから困らない生き方』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 キリスト教などでは、「神」は一人であるのに対して、「天使」というと、大勢いることになります。
 当会の世界観で他の宗教と異なっているのは、霊的な存在について、段階の違いがありながら、同時に、多様な存在があることを認めているところです。このことは「神」にも当てはまるのです。
 ところが、世界の各宗教を見ると、今、主流というか、メジャーであるのは、一神教といわれるものです。これは、「神は一人であり、それ以外の神は偽物である」という考え方です。
 キリスト教やイスラム教は一神教ですし、ユダヤ教もそうです。こうした一神教が、たまたま、今、先進国に広がっているため、「宗教としては一神教のほうが進んでいる」と考えられています。
 そして、「多神教的な宗教を持っているところ、例えば、インドのように神がたくさんいるところは遅れている。また、『古事記』『日本書紀』等を読むと、日本にも神は大勢いるが、そういう八百万の神々がいるようなところは遅れている」と見るわけです。このように、「一神教がすごく進んでいる」と捉えがちです。
 しかし、当会の霊界観は、そういうものではありません。
 やはり、「神」と呼んでもいいような、霊格の高い高級存在がいます。それを、「神」ではなく、「天使」や「大天使」と呼ぶこともあれば、「菩薩」や「如来」と呼ぶこともありますが、いずれにせよ、霊界には、地上の人間から見ると、遙かに神に近い高級存在として、いろいろな種類の霊人が現実に大勢いるのです。(中略)
 「われらの神こそ本物だ」と言う宗教は、あちこちにあるのですが、数多くいる天使、あるいは如来や菩薩たちのうちの誰かが、その宗教の教祖を指導していて、「われが神だ」と言っている場合、教祖のほうは、「その人しか神はいない」と思ってしまいます。それで一神教になっているのです。
 そのため、小さな新宗教にも一神教はたくさんあります。だいたい、それが普通のスタイルです。
 したがって、「一つの宗教だけが正しく、ほかの宗教は、全部、間違っている」というわけではありません。宗教の違いの多くは、「誰が指導しているか」ということの違いにすぎないのです。
 宗教が一神教になりがちなのは、そうしないと、教義や教団の行動方針が混乱しやすいからです。複数の霊人たちが、それぞれ違うことを言うと、話の内容が、あっちに行ったり、こっちに来たりして、今風に言うと、ブレやすいのです。
 宗教では、よく、「神同士が喧嘩をする」という言い方をするのですが、そうならないようにするため、神を一人に絞ることが多いわけです。
 それが一神教の発生原因です。
 宗教は、たとえ今は大きくなっていたとしても、発生当時を見ると、ほんとうに小さなものです。(中略)それが、何千年かたつうちに大きくなり、各地に広がって、世界的な宗教になったときには、その小さなところに降りた神が、世界的な神のように言われ、他の神を排除するような状態になるわけです。それが、宗教的な紛争などの原因にもなっているのです。
(112~118ページ)

世界の宗教で今メジャーな一神教が、たまたま先進国に広がっているため、宗教としては一神教のほうが進んでいて、多神教的な宗教のインドや日本は遅れていると捉えられがちである。

しかし、天上界には「神」と呼べる霊格の高い高級存在が大勢いて、「天使」や「大天使」、「菩薩」や「如来」と呼ぶこともある。その誰かがある宗教の教祖を指導して「われが神だ」と言う場合、教祖はその人しか神はいないと思ってしまうため、一神教になっているにすぎない。

したがって、一つの宗教だけが正しいわけではなく、宗教の違いの多くは、誰が指導しているかの違いにすぎない。それが何千年かたつうちに大きくなり世界的宗教になったとき、他の神を排除する状態になるのが、宗教紛争などの原因にもなっている──。

一見するとさりげなく解説されているように感じられるかもしれませんが、でも、ここで説かれているのは、世界で起きている数多くの紛争を思想的に解決するキーポイントではないでしょうか。

それは、真実の霊界の様相を、現代の言葉で明快に説き明かした世界観であるわけですが、それこそが、真に世界を平和にすることができる教えでもあるわけです。

この教えを見たとき、大川隆法先生が率いられる幸福の科学(Happy Science)こそが、人々が平和で幸福に暮らせる真のユートピアを、本当に世界に創り出せる宗教であることが確信できると、改めて強く私は思っているのです。
 

『死んでから困らない生き方』

 大川隆法著


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信仰を持つって、なんだか特別のことなんじゃないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は「信ずる心」を本能的に持っています。なぜなら、人間は、「大宇宙と自分」「他の多くの生き物と自分」「他の多くの人間と自分」というように、他のものと自分とのかかわりを見ながら生きることができるからです。
 人間は「大宇宙のなかに生きている自分」というものを見て、自分の小ささを感じ、「無限の宇宙から見れば、自分は小さなアリのような存在である」ということを知る力を持っています。
 アリは自分がアリであることを客観的につかむのは難しいでしょうが、人間は「大宇宙から見れば、自分はアリにも及ばないほどの小さな存在、無力な存在かもしれない」と考えることができるのです。
 その結果、当然ながら、人間は存在の不安を感じ、「大きな宇宙のなかの地球という星に、非常に小さな生命として、ぽつんと置かれている自分。その自分が、他の多くの生き物と一緒に生きていかねばならない。いったい、どのように生きていけばよいのか」ということを考えます。そして、「これを頼りにして生きていけばよい」という、生きるよりどころを求めるのです。
 地球には大勢の人が生きているため、各人が勝手に生きたのでは大変なことになります。大勢の人が仲よく楽しく平和に生きていくためには、すべての人が、「このように生きよう」という決まりを守ることが必要です。
 それでは、その決まりをどこに設ければよいのでしょうか。
 だれもが「自分こそ神だ」「自分こそ仏だ」と言い、新しい“神”や“仏”になったならば、どうしても意見が合いません。それぞれの人がばらばらの意見に基づいて生きていたのでは、収拾がつかなくなります。
 そこで、人びとは、目に見えない超越的な世界にいる、偉大なる存在を信ずるようになるのです。
 その偉大なる存在からは、教えというものが地上に下ろされます。時代に応じて、仏陀やキリストなど、偉大な使命を持った人が地上に降り、「この教えに則って生きなさい」と、人びとに教えを説くのです。(中略)
 信仰とは、目に見えないものを信ずることです。目に見えず、だれも手が届かないものだからこそ、北極星のごとく位置が変わらず、すべての人が帰依できるのです。北極星の位置が変わってしまえば、どの方角が北なのか分かりません。
 北極星のように、人間から見るとはるか遠く、手の届かないところにある「仏神の心」を基準として生きることによって、人びとの心が一つに定まります。
 そして、人びとは、「各人はそれぞれの考えを持ち、さまざまな行動をするけれども、根本的には、大きな決まりに則って生きていくのだ」ということを納得し合うのです。
 これが信仰の世界です。信仰は本能として、もともと人間に与えられているものなのです。
(131~135ページ)

人間は、「大宇宙と自分」「他の多くの生き物と自分」「他の多くの人間と自分」というように、他のものと自分とのかかわりを見て、自分の小ささを知る力を持っている。

その結果、人間は、存在の不安を感じ、生きるよりどころを求めて、目に見えない超越的な世界にいる偉大なる存在を信ずるようになる。

人間は「信ずる心」を本能的に持っている。信仰は本能として、もともと人間に与えられているものなのである――。

信仰は人間の本能なんだって、聞く人によっては、ものすごい衝撃を受けるかもしれない、まさに〝一転語〟のお教えです。

考えてみると、信仰深い犬とか、信仰深い馬なんてのは、実際に見たことがない気がします。

そして、ニュートンとか、アインシュタインとか、歴史上、有名な科学者の多くが、敬虔な信仰を持っていたというのは、客観的な事実だと思います。

外国では、無神論者はケダモノ扱いをされるとか、アメリカ合衆国では、信仰を持っていない候補者が大統領に当選することは絶対にあり得ないというのも、よく聞く話です。

要するに、日本人はふだん意識してないだけであって、信仰を持つことは、何も特別なことなんじゃなくって、むしろ人間として自然なことであるのだと、改めて私は思っているのです。
 

『繁栄の法』

  大川隆法著


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宗教を表の世界で扱わないのが世間の常識だ、なんて言われるけど、これって海外でも常識なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不滅の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 当会の国際本部の職員は、日本国内だけではなく海外も含め、「当会の伝道において最も難しいのは、実は日本とアメリカと韓国だ」と言っていました。
 日本には、前述したように、宗教を悪く見たり、低く見たりする傾向がかなりあります。そのため、最初に「宗教」と言うと、マイナスのイメージ、あるいは拒否感を持たれてしまい、伝道には、なかなか時間がかかります。ちょうど地下のトンネルを掘っているような難しさがあるのです。
 アメリカの場合には、もちろん、「キリスト教国である」ということもありますが、おそらく国民が自分たちの文化的優位性を自覚しているために、「東洋の教えには、すんなりとは帰依したくない」という面が一部あるのではないかと思います。それでも、当会の会員は、アメリカでもかなり多くなってきています。
 韓国の場合には、おそらく政治絡みの問題もあるのだと思います。「韓国の国民には、政治的に日本に対するマイナス感情があるため、日本発の宗教である幸福の科学の伝道がやや難しくなっている」というような話を聞いています。
 私は日本で数多く説法をしていますが、ある意味では、「最も難しいところの一つで説法をしている」ということになるので、「撃てども撃てども、なかなか弾が届かない」という面はあります。
 日本人には、素直に話を聴く前に、まず宗教に対する先入観があり、それが壁のようになっています。「宗教を表の世界で扱わないことが常識だ」というような考え方が日本にはあるのです。
 それは、政治的に翻訳すると、北朝鮮や中国にあるような、ある種の、宗教に対する壁に似たものです。それほど厚いものではないかもしれませんが、「日本には、少なくとも、透明ではない、視界を遮る何かが、まだ残っている」と思わざるをえません。
 しかしながら、あの世は「ある」か「ない」か、事実は二つに一つです。
 宗教が教えていることは何であるかというと、「この世を去った、あの世の世界は厳然としてある。あの世の世界においては、神(あるいは仏)といわれる存在、および、神を助けている、天使といわれる存在がある。また、天国と地獄という、大きく二つに分けられる世界がある」ということです。
 これが世界の宗教では共通観念になっています。
 そして、「この世を去って、あの世へ旅立つに当たり、その人の人生が、『天国へ行く人生であったか、地獄へ堕ちる人生であったか』ということは、その宗教が決めている正しさに依る」ということになっています。
 ところが、日本においては、そういう点を考えることなく、「人生は有限で、数十年のものだ」と思って生きている人が数多いのです。これは、おそらく「教育」と「マスコミの論調」によるものであろうと思います。
(48~51ページ)

実は伝道が最も難しいのは、日本とアメリカと韓国であり、日本人には、宗教を悪く見たり低く見たりする傾向があって、宗教に対する先入観が壁のようになっている。

しかし、宗教が教えているのは、神や仏、天使といわれる存在があり、あの世には天国と地獄という世界が厳然としてある、ということである。

日本において、これを考えることなく、人生は数十年の有限なものだと思っている人が多いのは、「教育」と「マスコミの論調」によるのだろう――。

日本において伝道がむずかしい理由を、こうやって教えていただくと、ここにも「日本の常識は世界の非常識」というどこかで聞いた言葉があてはまるのは驚きです。

宗教に対する先入観(つまりは「偏見」)の最大の理由は、まずは学校教育において、一般社会人として最低限必要な、教養としての宗教教育がなされていないからでしょう。

また、この誤った学校教育で培われてしまう誤った常識を、宗教をできるだけ裏側のものとして扱おうとするマスコミの論調が、悪い意味で助長しているということでもあると思います。

宗教は、決して裏側のものではなく、本来、表の世界に堂々とあるべきものだという世界の常識を、一日も早く日本の常識にして行きたいものだと、改めて私は思っているのです。
 

『不滅の法』

  大川隆法著


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宗教団体は、伝道って、何でやってるの。自分たちだけで信仰してれば、いいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 これまで述べてきたように、仏教には自由と平和という二つの特徴があり、悟りのなかには、その両方が入っています。この自由と平和を含めた悟りのことを、智慧といいます。
 この智慧は個人のものではありません。真実の智慧には普遍性があり、それは人類の共通財であって、公共のものなのです。
 仏陀は、自分の悟りを自分一人のものとはせず、悟りの果実としての智慧を、他の人にも分け与えようとしました。「このようにすれば、悟りを得ることができる。あなたがたも、修行をすれば、仏神と一体の状態になれるのだ。その状態を目指しなさい」と、みずからが得た智慧のあり方を教えました。
 この智慧を押し広げていくことを伝道と呼んだのです。
 そして、智慧を押し広げることは、同時に慈悲であり、多くの人々の苦しみや悲しみを取り除く行為です。それは、また愛の実践でもあります。慈悲にして愛、愛にして行動の原理が伝道です。これが大事なのです。
 仏陀は、智慧を個人のものとせず、人類の共通財産、共通の宝として、他の人と共有しようとしました。これが伝道への熱意になったのです。
 真理というものは、より多くの人に理解してもらう必要があります。なぜなら、真理は多くの人を幸福にするからです。
 自分は幸福になる方法を知っているのに、それを他の人に教えないということは、やはり情けないことだと思います。
 真理を知らない人は、ちょうど、「自分の家の庭を掘れば、そこから温泉がわいてくるのに、それを知らずに、洗面器を持ち、何百メートルもの長い距離を歩いて、風呂屋に通っている」という人にも似ています。多くの人々が、現にそのような状態にあるのです。
 そのため、「庭の下には温泉があるのですよ。その掘り方を教えてあげましょう」と言っているわけです。
 これが智慧と慈悲の関係です。
 伝道、教化、布教といわれるものは、智慧の部分を押し広げていくことです。それが仏弟子の仕事であると言ってよいのです。
(264~266ページ)

仏教には自由と平和という二つの特徴があり、この自由と平和を含めた悟りの果実を、智慧という。

この真実の智慧には普遍性があり、人類の共通財として公共のものであるため、仏陀は、自分の悟りの果実としての智慧を、他の人にも分け与えようとした。これが伝道(教化、布教)である。

これは同時に、多くの人々の苦しみや悲しみを取り除く慈悲の行為であり、愛の実践でもある。慈悲にして愛、愛にして行動の原理が伝道であり、それが仏弟子の仕事であると言ってよい──。

むずかしい漢字を使うほうの「智慧(ちえ)」という言葉の意味を、初めて知った人も多いのではないでしょうか。

悟りを得た者である「仏陀(ぶっだ)」が、なぜこの智慧を衆生に分け与えようとされたのか、そして今もされているのか。

宗教としてのこの「伝道」活動の真の意味が、改めてとてもクリアに理解できたような気が私はしているのです。
 

『大悟の法』

  大川隆法著


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宗教って、いろいろタブーってあるでしょ。幸福の科学はどう考えてるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『比較宗教学から観た「幸福の科学」学・入門』――性のタブーと結婚・出家制度(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 「比較宗教学から観た」と題したわりには、「幸福の科学」から観た「仏教分析」、特に「小乗仏教」「大乗仏教」分析が中心になっており、字義通りの内容を完成させるには大著の出現を必要とするようである。
 前著である『仏教学から観た「幸福の科学」分析』と対をなす内容になっており、両著をお読みになることを勧めたい。
 それでも現在及び将来の宗教の問題には触れており、プロテスタント、カトリックのそれぞれキリスト教や、イスラム教との対比も一部含んでいる。
 やはり「タブーの問題」に踏み込まないと、宗教対立や紛争の理解は難しいと感じた。本書を通じて、仏教そのものも耐用年数の限界が来ていることを感じざるをえなかった。宗教問題への一石を投じる意味で参考にして頂ければ幸いである。
(1~2ページ)

仏教そのものも耐用年数の限界が来ていることを感じざるをえなかった――。

重い言葉が書かれたまえがきです。

幸福の科学の教えからは「小乗仏教」や「大乗仏教」がどう評価されるのか。

あるいは、宗教のタブーの問題そのものについてどう考えるのか。

そんな問題に興味ある方に、ぜひお勧めしたい書籍であると、改めて私は思っているのです。
 

『比較宗教学から観た「幸福の科学」学・入門』

 大川隆法著


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