ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



ほんとに大事な友だちだったのに、あんなに親しくって、徹夜していろんなこと話し合ったし、深く深く付き合ってたというのに、なんで突然、手のひらを返したみたいに冷たくなっちゃったの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人との付き合い方で、もう一つ難しいのは、相手の侵入をどこまで許すかということです。
 心の扉を開くと入ってくる。こちらが一歩さがると、もう一歩入ってくる。さらに一歩さがると、また一歩入ってくる。このように、どんどん入り込んでくる人がいるのです。このタイプの友達に困っている人はかなり多いと思います。
 これは、友達付き合いを始めたが最後、家のなかに上がり、お米の数まで数えてしまいそうなタイプです。一言でいうと厚かましいわけですが、こうしたタイプであるため、他の人から疎(うと)まれる人もいるのです。
 したがって、オール・オア・ナッシング、つまり、友人なら全部受け入れ、友人でなければまったく受け入れないという考え方をとるのではなく、距離のとり方を常に考えておく必要があります。
 「親しくとも、ここまで」という距離のとり方があるのです。一定の距離をとっておくと、長く付き合えるのですが、その距離が短すぎると、お互いに干渉し合って、長く付き合えなくなることがあるので、距離のとり方を大事にすることです。
 この辺を間違えると、相手にどんどん入ってこられて、いやになり、パシッと切ってしまうことになります。そうすると、相手は 「あれほど自分に好意的だったのに、てのひらを返すような反応をされた。納得がいかない」と考えます。
 こうしたタイプの人は、「自分が入りすぎた」ということがなかなか分からないので、最初から少し距離をとっておいてあげることです。(中略)相手によっては、空間的な距離だけではなく、心理的な距離をとることが必要なのです。心の部分においても、少し距離をとったほうがよいのです。
 また、ある程度、魂の修行を深めている人の場合は、そうでない人とは少し距離のあるほうがよいのです。心の修行を深めている人の場合、他の人と意見がピタッと一致することは少ないものなのです。
 魂修行の段階に差があると、意見がなかなか一致しないのですが、そうしたものだと思って、心の部分では少し距離をとっておくことです。それが多くの人と長く付き合っていく秘訣です。(中略)
 心理的な距離のとり方が上手だと、いろいろな人と付き合えるようになります。ところが、たいていの場合は、深く付き合いすぎるか、まったく付き合わないかのどちらかになって、相手から学ぶものが少なくなっているのです。
(131~134ページ)

長く付き合うためには、距離のとり方を常に考えておくこと。

心の修行をしている人の場合、魂修行には段階があって、他の人とそうはピタッと一致しない。

だからこそ、心の部分では少し距離をとっておくのが、人づきあいの秘訣である──。

なるほどなるほど、です。

心の問題で話ができる友だちを見つけたら、思わずベタベタに付き合いたくなりがちです。

でも、立場を逆にして考えてみればいいんだけど、要は、相手が受け入れてくれると思って、相手の迷惑に気がつかずに、無神経に入り込みすぎてたんじゃないかってことですね。

こんな教えは、人生のマスターに教えていただかないと、なかなか自分で発見できる話ではないと、本当に私は感じているのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著


(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




悪いことをしたら地獄へ堕ちるとか、来世のために功徳を積めなんて、作り話でしょ。今を楽しまなきゃ、一度きりの人生、どうするのなんて、友だちに言われるんだ。将来のために努力するって、ほんとにやるべきことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代人の多くは、「悪いことをしたら地獄へ堕ちる」という話を、「そんなことは子供騙しの嘘話(うそばなし)だ」と受け取るでしょう。また、「来世のために功徳を積む」という話についても、「これは騙しているのだ。やはり、いまを楽しまなければいけない」と言ったりします。(中略)
 「何十年も先のことについては、想像できないし、それがほんとうかどうかも分からないではないか。実際に死んだあと、あの世がなかったら、どうするのだ。あの世の話は信用できない」と言う人は数多くいます。
 「あの世の話を聞くこともあるが、あの世がなかったとしたら、あと何年か何十年かで自分の人生は終わりではないか」と思うと、「現在ただいまを楽しまなくてどうする」という考え方が出てきます。
 また、「『あの世がある』と言うが、それは嘘かもしれないではないか。『悪いことをしたら地獄に堕ちる』という話は、嘘かもしれないではないか。悪いことをしている人はたくさんいるので、そういう人がみな地獄に堕ちるとしたら大変なことになる。だから、そんなことはないのではないか」と考える人もいるでしょう。
 光の天使たちが言うことは非常に先の長い話である場合が多いし、彼らは、一見、本人にとって不利益になるようなことや、本人が聞くと、耳が痛かったり、欲求不満で怒ったりするようなことを言う場合も多いのです。(中略)
 「これは、将来、役に立つ」と言われても、役に立つか立たないかは、そのときになってみないと分からないので、「そんな不確かなもののために、きょうの一日を犠牲にしたくない」という気持ちになることは、分からなくもありません。
 しかし、「将来のために何かを蓄える。将来のために努力する」という考え方は、やはり、霊的な考え方の第一歩なのです。これができるかどうかが分かれ目です。
(190~193ページ)

今は実感としてわからなくとも。

自分の将来のため、未来のため、来世のために、いま努力して功徳を積むこと。

そう考えることができるというのは、じつは「霊的な考え方」の第一歩である──。

ここで「霊的」というのは、肉体に振り回されるだけの動物的考え方よりも進化していて、高度だということ。

そして、仏や神に近い、人間としてあるべき方向であることを教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『青春の原点』

大川隆法著


(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人生で成功するためには、勉強がすごく大事だと思ってるんだ。でも、これから、どんなふうに勉強していったらいいんだろう? なーんて、真っ直ぐな疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私はみなさんに勉強の仕方として提言したいことがあります。
 一番目は、宗教的常識や宗教的知識を身につけることです。これは、人格の基礎づくりのために非常に大事なことだと思います。
 二番目は、みなさんがいま学問なり技術なりで専門として持っている領域があると思いますが、これを社会に対して有用なレベルまで掘り下げることです。これは一本目の井戸です。
 そして三番目は、自分の専門とは違う領域にも、もう一つ別の井戸を掘りなさい、ということを言っておきたいと思います。
 法律学の勉強をしている人ならば、たとえば哲学の井戸も掘りなさい。経済学の勉強をしている人ならば、経済学の専門家になるだけではなくて、心理学や教育学のようなところにも井戸を掘りなさい。工学部系統の学問分野に専門を持っている人ならば、たとえば文学の井戸も掘りなさい。
 このように、系統の違う学問の井戸を、もう一本、努力して掘ってほしいのです。
 これについては、みなさんが当面やらなければいけない専門領域のレベルまでは、すぐには掘れないと思います。しかし、心して五年十年と努力すれば、掘れる井戸なのです。系統の全然違う井戸を、もう一本、掘ってほしいのです。
 これが結局、みなさんが未来社会を開いていくときの発想の源になります。一つの専門しか持たない人は眼が単眼です。一つの眼で世界と未来を見ているだけでは、それ以外の見方がなかなかできません。
 ところが、全然違うもう一つの眼を持っていると、学問間の落差が使えるので、着想が全然違うところから出てくるのです。したがって、最低もう一本の専門を掘ってほしいのです。(中略)
 これがおそらく、将来みなさんが新しい視点を持った人間として成功していくための基礎になると思います。どうか、そうした異質な視点を得てほしいと思い「宗教的基礎を持つこと」「自分の専門領域を、使えるレベルまで掘り込むこと」「もう一本、別の井戸を掘っておくこと」──こうしたことによって、みなさんは必ず、三十歳、四十歳、五十歳になっても枯れずに働きつづけることができますし、有用で有徳な人間にもなれるのです。
(70~73ページ)

大川隆法先生は、勉強について、学生時代だけのものではなくって、社会人になってもずっと続けていくもの、という視点で説かれているんだと思います。

思い返せば、この『青春に贈る』という書籍が刊行された1996年、「よし、自分はこの教えに従って、専門とは違う分野の井戸も掘る努力をしよう」と決心したことでした。

それから、もう20年あまりの歳月がいつのまにか過ぎ去り、たしかにいま、ここで教えていただいているとおりに、世界がちょっと違う眼で見えてきている気がしています。

そんな経験から、一人でも多くのみなさんに、決意して新たな勉強をはじめてみることをお勧めしたいと私は思っているのです。 

 

『青春に贈る』

 大川隆法著


(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




学校、とっても荒れてるんだ。先生はやる気ないし、ぜんぜん勉強できる雰囲気じゃないんだよね。家はっていうと、机について勉強なんてできる環境じゃないしね。受験なんて言われても、どうしろっていうのよね。・・・なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「悩み」「苦しみ」といわれるものの正体は何であるかというと、たいていの場合、選択の豊富さです。
 豊かな社会における悩みは、ほとんどがそうです。幾つもの選択肢があり、あれもこれも選べるので、「選び放題に最高のものを選べば、あそこまで選べるかもしれない」と思うなかにおいて、「思うとおりにならない」と悩むのです。
 そのような〝恵まれた悩み〟が大部分です。考えてみれば、そのとおりのはずです。その恵まれた悩みを、ほんとうの悩みだと思っている人が、ほとんどなのです。
 日本以外の世界各地を見ると、いろいろな地域で、人々は、そもそも選択ができないような状況にあります。
 日本では、「学校のなかが荒れている」「学校の先生の出来が悪い」「家庭内での勉強の環境がよくない」ということもあるでしょう。
 しかし、ミサイルや砲弾が飛び交っている所であったら、どうでしょうか。そういう所では、「一日も早く学校が再開されるといいな。勉強ができる平和な日がまた戻ってくるといいな」と、誰もが願っています。
 日本で「不況だ」と言っても、世界全体から見たら、どうでしょうか。日本の国民は、ほかの国の人々の何倍も何十倍も豊かな生活を享受しています。これが、ほんとうの意味での不況と言えるでしょうか。
 また、「国が何もしてくれない」と言う人も数多くいますが、ほんとうにそうでしょうか。日本には、行き届いた、実にさまざまな行政サービスがあります。先進国では、各国において、さまざまな社会保障があり、弱者に優しい政治が行われています。発展途上国であればまったくありえないような環境が、先進国では整えられています。
 そういう環境のなかにおいて、「もっと、もっと」と求める人たちが不平不満を述べつづけています。国の保護、庇護が、あまりにも強いために、自分の足で立とうとせず、自分で努力しようと思わず、不平不満ばかりを述べる人たちも増えてきています。
 しかし、そういう人たちに、原点に帰っていただきたいのです。
 経済の後退によって、一時期、不況のように見えたり、時代が何十年か前に戻ったように見えたりすることもあるでしょう。それは、あなたがたに対して、「自分が、わがままを言ったり、賛沢をしたり、他人の力に頼りすぎたりしたところを振り返り、人間の原点に帰って、なすべきことをなし、努力せよ」ということを教えているのです。
(290~293ページ)

ちょっとだけ目線を変えて、発展途上国の子供たちは、戦争で荒れ果てた国に住む子供たちは、どうなのかって、考えてみたらどうでしょう?

学校があるだけでありがたい、住む家があるだけでもありがたいって国は、世界中にまだいくらでもあるわけです。

いろいろ不満はあるかもしれないけれども、ここは原点に帰って、今ある環境で、なすべきことをすること、可能な努力をすること。

そう決心しただけで、見える世界がみるみる変わってくることを、今日は教えていただいたんだと私は思っているのです。 

 

『希望の法』

大川隆法著


(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




なんで、知力とか学力ばかりが重視されるの。人柄とか、運動能力とか、絵や音楽とか、文学とか、お金儲けだとかもそうだし、学校の勉強じゃ測れない才能って、たくさんあるじゃないの? 学校の入試だって、そんなのを評価して入れてくれないと、不公平だと思うんだけどな? なーんて疑問持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世間では 「知力重視はいけない」とよく言われますが、私は、知力重視は悪くないと思います。
 縁起の理法から見ると、純粋に学力で測っていくことは、悪いことではないのです。それが万能ではないことも事実ですが、二十歳ぐらいまでの、人生の基礎の部分においては、学力で測ることは決して悪いことではありません。
 この時期に、「人物本位」などと言って、学力以外のもので評価するのは邪道だと思います。
 「一芸に秀でている」ということで測るのもまだ早いでしょう。もちろん、絵や音楽などの芸術方面における才能を持っている人もいるでしょうが、それは大多数であるサラリーマン予備軍にとっては関係のないことです。
 大部分の人たちに対しては、特殊な事柄をあまり考慮に入れずに、きちんとした基礎を教える必要があります。
 自分を鍛えることの意味、学ぶことによる達成感について教えなくてはなりません。そして、学年が上がれば上がるほど学力が向上していくことの意味や、実社会に出てからも積み重ねが大切であることを、きっちりと教える必要があるのです。(中略)
 「偏差値で輪切りにすることはよくない」と言って、偏差値を追放したとしても、成績順や点数順など、それに取ってかわるものはいくらでも出てきます。また、面接、親の収入や職業、クラブ活動の実績などで判断することになれば、あまりフェア(公平)ではない世界になります。
 若いうちは、人物本位といっても信用できません。若い人は非常に可塑性(粘土のように、さまざまなかたちにつくりかえられる性質)に富んでおり、まだまだ変わっていく可能性が高いので、その段階で人物を測ることは不可能に近いと言えます。(中略)
 人物を測れるようになるのはもっと先のことなので、学校時代においては実力本位、学力本位でよいと思います。ある程度、客観的な物差しで測るべきです。
 ただ、学力の高い人が実社会で成功するかどうかはまた別の問題です。世の中で成功する要因はほかにもたくさんあるからです。(中略)
 芸術的才能、文学的才能などもありますが、どのような才能であれ、ほんとうに大きな才能であれば、やがて土を破り、必ず芽を吹いてくるものです。学校時代に芽を出さなくても、時期が来れば必ず芽を出します。
 だからといって、才能を摘み取るほどの重圧をかけてはいけませんが、途中でつぶれるような才能は、もともと大した才能ではありません。ほんとうに巨大な才能であれば、必ず出てくるものなのです。(中略)
 このように、「学力とは別に、実社会に出て成功するための才能がある」という目も持っておく必要があります。ただ、そのような才能は社会に出てから磨けばよいのです。
(35~39ページ)

なるほどねー、です。

いろんな才能があることは認めつつも、でも学校時代には、ある程度、客観的な物差しで測るのだ、と考えていけばいい。

いまの受験勉強を中心とする学校制度の仕組みについて、とても腑に落ちるお教えではないかと、改めて私は思うのです。

 

『繁栄の法』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




友だちの家って、お金持ちなんだよね。着てる服は、ブランドものばっかりだし、遊びに行くと、ゲーム機だってなんだって、ぜんぶあるんだよね。それに比べて、うちは共働きの鍵っ子で、お金はないしなあ。・・・なーんて悩み持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生の出発点──それはゼロからのスタートであったはずです。
 豊かな家庭に生まれたとか、貧しい家庭に生まれたとかの違いはあっても、ほほえんでいる赤ん坊にとっては何の区別もありません。わずか三千グラムぐらいの小さな肉体のなかに、これから何十年かの人生レースを走り抜こうと静かな闘志を秘めている生命が、寝息を立てているのです。(中略)
 こうして、父や母の恩を受け、二十年間、成人するまでのあいだ、人にしてあげたことは少なく、人にしてもらったことは山ほどあるような時代を送るのです。
 この間に、最初のつまずきとして、他人との比較、友人との比較をして不平不満を持ち、心がすさんでいく人たちもいます。これは、人生レースの一周目で、早くも転びかかっている人たちだと言えましょう。
 幼い少年少女たちは、早くも、自分たちがゼロから出発していることを忘れて、この世が自分の永遠のすみかであるかのごとく誤解しはじめるのです。その結果、自分に与えられていることの多さ少なさを、友人たちと比べはじめ、「あの子は医者の息子だから高価なセーターを着ている」とか、「自分は両親が共働きなので鍵っ子だ」とか、こんなことで悩みはじめるのです。
 しかし、人間は本来、だれでもゼロからの人生の出発であったはずであり、ゼロの自分と比べてみたならば、少年少女時代には、多くのものを与えられているはずです。衣服、食べ物、住居、学校、先生、友人、お小遣い、学用品、テレビ、ラジオ、ステレオ、そして何よりも未来への希望、このような多くのものを与えられているはずなのです。
 ゼロから出発している自分であるならば、現在はプラスであるはずです。それにもかかわらず、他人との比較において、マイナスの自分を心に描き出しているのです。
 そして、よくよく考えてみるならば、大人になってからも、心に苦しみをつくるのは、この他人との比較であることに気づきます。苦しみの根っこは、少年少女時代にすでに芽生えたものであり、ゼロからの出発ということを忘れて、他人と自分との持っているものを比較しはじめたときに源を発するのです。
 「人間は『足ることを知る』ということが大事だ」と言われますが、実に、この「足ることを知る」の出発点は、「人間はゼロからスタートし、他のだれとも比較できない独自の人生を歩んでいるのだ」ということなのです。
(13~16ページ)

まず自分が裸で生まれて来て、ゼロから出発したんだってことを思い出そう。

そして、ゼロだった自分が、どれだけ多くのものを与えられてきたかを、ひとつひとつ考えてみよう。

自分は、他のだれとも比較できない独自の人生を歩んでいるのだ──。

自分だけの独自の人生が、そこにあるって気がついたとき、改めてまた新たな希望とエネルギーがわいてくる気が私はしているのです。
 

『幸福の原点』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




偏差値が低い学校なんだ。だから、もう先が見えた気がしてるんだ。進学も、就職も結婚も、こんなに低い偏差値だと、いいことあるわけないじゃん? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 これから先の十年間や二十年間では、そうとう大きな開きが出るということを心がけておいてください。(中略)
 たとえば中学校や高校の時代に、成績が中ぐらいだったとしても、学年が違えばどうでしょうか。一年下の学年へいけば、成績はかなり上のほうへくるでしょう。二年下までいくと、さらにもっと上のほうにきます。そうしたものなのです。自分は普通の成績の人間だと思っていても、普通の成績の三年生の人が一年生のクラスにいけば、かなり上のほうまできてしまいます。わずか二年ずれただけで、それほどの違いがあるのです。
 社会に出ると何十年もの差があるので、このような二年や三年の比ではありません。十年や二十年の差というものは、大変な開きです。現在どのような土台に立っていても、将来的には必ず変わってくるのです。
 したがって、「変わる」ということを前提にして、志を持ちつづけることが、非常に大事なことなのです。「自分というものは、変えていくことができるのだ。人生というものは、切り開いていくことができるのだ」と思って、十年、二十年、三十年と、志を持ちつづけることが大事です。
 この志を捨てた人は、過去の「あなた」が今後の「あなた」としての姿になるのです。
 つまり、自分の過去を見て、「自分はこういう人間なのだ」と思えば、その「あなた」が今後の「あなた」になって、六十歳になっても七十歳になっても、死ぬまでそれを引きずっていくのです。青春時代の自己評価がそのまま続くということです。
 五十歳、六十歳になると、二十歳前後という年代は何十年も前のことになるでしょうが、中高年以上になってから、何十年も前の事実でもって言い訳をするような、卑怯な人生を生きてはいけません。過去は過去として、「その後の数十年間、自分はいったい何をしてきたのか」ということを問うべきだと思うのです。過去を見つづける人生であってはならないのです。(中略)
 現在は、「偏差値社会」といわれるように、高度な教育社会になっています。偏差値などで各人の能力が細かくランク分けされていて、非常に苦しい気分がすると思います。それが、進学、就職、結婚など、いろいろな時についてまわるということが、現実にあちこちで起きてきます。
 しかし、それは過去に対しての判定なのです。過去に対しての判定は、過去の自分はそうであったということですから、潔く受け入れたらよいのです。
 過去自体を覆すことはできません。ところが、未来に関しては、覆すことができるのです。(中略)未来に関しては、過去の影を引きずらなければいけないという理由は、まったくないのです。「別の人間になりうる」ということです。これを強く自覚してほしいと思います。
(36~39ページ)

過去がどうかではなく、これからの未来に向けて、地道に努力を重ねていけば、「縁起の理法」で、かならずその努力は花開く。

自分の中身は変わっていって、「別の人間になりうる」んだ、って。

ものすごく希望に満ちていて、しかも、ほんとうにそうだよなあって納得できる教えだと、いまさらながらに思います。

このブログを書いてる私自身を含めて、私のまわりには、この教えを信じて素直に努力して、過去とまったく違う人間になることができた人が、ほんとにたくさんいます。

真実の教えの凄さに、改めて私は感激したりしているのです。
 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




いじめが大きな問題になっています。そして、いじめに会ったのが原因で、自殺してしまう子が、いまだにあとをたちません。どうして、いじめで自殺まで行ってしまうのか。何か根本的な原因があるんじゃないでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、すでに1994年に、『永遠の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられました。

 自殺した人間を、英雄視したり、悲劇の主人公にしてはならない。自殺は悪である。この地上での修行目的の放棄である。それは、英雄的行為ではなく、卑怯な行為なのである。人生からの逃避なのである。この視点を忘れてはならない。
 死んだ人間は、自殺という行為を通しては、天国に入ることができないのである。すべて不成仏霊となって、たいていの場合は、地獄にすら行くことができず、生きている人間に取り憑いて、その家族を、その周りを、不幸にさせる。それが現実である。
 なぜ、そのようなことが起きるのか。学校教育において、「宗教教育」がなされていないからである。
 宗教教育は、愛することの大切さ、反省することの大切さを教える。それを、なんと日本国憲法の第二十条三項においては、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」ということが書かれている。とんでもない間違いである。
 「人を愛すること」「反省の大切さ」「ユートピアをつくるために、共に協力し合わなければならないこと」── それを教えないから、いじめなどが流行り、そして、自殺する者が、当然であるかのごとく、みずからのその行為を正当化しようとするのである。
 教育において、知識のみを求めて、肝心要(かんじんかなめ)の「心の教え」がないのである。
(23~27ページ)

大川隆法先生は、強い強い言魂で、自殺をしては絶対にいけない、自殺は間違っているのだと、もう20年以上前から訴えておられたのです。

幸福の科学が「自殺者を減らそうキャンペーン」をはじめて、もう14年になるんだと思いますけど、この自殺の問題は、いじめの問題とも、密接に関連していたんですね。

幸福の科学は、いじめ問題については、「いじめから子供を守ろうネットワーク」の活動を全面支援して、かなりの成果をあげてきたと聞いてます。

そして、いじめの問題への根本的対策は、結局は「教育改革」になっていくわけで、だからこそ、幸福の科学は幸福の科学学園を設立して、中高の教育にも取り組んで、こちらも大きな成果をあげている。

教育の問題は、最後は憲法改正の問題とも関連してくる大きな大きな問題で、ほんとに重要だし、だからこそ、日本の未来のために、必ずやって行かなければならない改革なんだなあと私は強く感じているのです。
 

『永遠の挑戦』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




学校の勉強なんて、社会に出てから役に立つわけないじゃない。微分とか積分とか、使うことないよー。物理も化学もそうだし、学校出てからは使わない知識ばっかりじゃないの。歴史とか地理なんてのも、何が役に立つっていうの。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 確かに、学校で勉強したことが、実社会でそのままストレートに使えることはまずありません。
 しかし、世の中で仕事をして報酬を得るためには、ある程度、「仕事の詰め」ができなければならず、それができるかどうかは、学校できっちりと勉強したかどうかによるのです。学校時代にきちんと勉強をしなかった人は、仕事の中身を詰めることができません。
 学校でしっかりと勉強をして、ある程度、達成感を味わったことがある人は、仕事を詰めていく傾向を持っています。これは有用な価値です。
 もちろん、これ以外にも、「オリジナルなものをつくり出す」「だれも考えつかなかったことを考え出す」などといった価値もありますが、そこまで行かなくても、仕事の詰めができる人は、世の中で役に立つための一定の基準は満たしていると思います。
 したがって、教師が学生や生徒に教えるべきことは、一つには、「知は力である」ということです。「知識は力を生む。知っているということは、結果として力になるのだ」ということを教えなければいけません。
 そして、「知識は自由を与えてくれる」ということも教える必要があります。知識を持っていれば、他人の意見などに迷わされずに、自分なりの主体的な判断をすることができるのです。
 主体的な判断ができなければ、集団主義で動くしかなく、他人の言うなりの人生になってしまいます。それは知が足りないからなのです。他の人たちと一緒に集団で動くことしかできないのであれば、自分で判断をするだけの知がないということです。
 「真理は汝を自由ならしめん」とよく言われます。真なる知識は自由を与えてくれます。真なる知識を手に入れることによって、自由な判断、自由な考え方ができるようになります。それができない人は知が足りないのです。
 きっちりとした知識を手に入れていれば、自由が得られ、自由を得た結果、幸福を得ることができます。幸福の基準を自分の内に持つことが可能になるからです。
 幸福の基準が自分の外にある人は、最終的な幸福者にはなれません。まわりの人たちから、「ああいう人は幸福だろう」と言われることを追い求めていたのでは、幸福は得られないのです。
 しかし、自分の内的な力によって自由を得たならば、幸福を得ることができます。内なる自由を得ることによって、幸福を得ることができるのです。
(32~34ページ)

うーん、まず、自分が社会で有用な人間になるために、仕事の詰めができるためのトレーニングとして学校の勉強があるってこと。

また、「知は力である」し、知識は自由を与えてくれて、幸福のもとになるものであるってこと。

きちんとした勉強を重ねることはほんとうに大切だったのだ、と改めて納得できた気が私はするのです。

 

『繁栄の法』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




学校なんて、何で行かなきゃいけないの。数学とか物理なんて、社会に出たら必要ないでしょ。英語だって知らないから困るとは思えないよね。あーあ、生徒の好きにさせてくれればいいのに、なんで、こんな決まりだらけの学校で勉強しなくちゃいけないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 物事は何でも、結局のところ、基礎ができているかどうかが肝要です。これは、個人についても、会社などの組織についても言えることです。基礎がなければ、個人も会社も弱いものです。仕事でも同じです。人生には基礎というものが大事なのです。
 たとえば、学校教育は何のためにあるのかといえば、結局、人生の基礎をつくるためだと思います。
 学校教育について否定的な人びとは、「ああいうことは無駄である。好きなことを好きなだけ勉強させればよいのだ」というような論調の話をよくします。しかし、いろいろな学問をすることが、人生の基礎をつくるうえで役に立っているという点は否めないでしょう。
 人間はいろいろな物事に対して判断したり行動したりしますが、その根底には、その判断や行動の材料、原動力、基となるものが必要です。その意味では、何らかの蓄積がなければ、人間は判断や行動ができないのです。
 料理ひとつをとってもそうです。主婦が料理を毎日つくれるのは、それなりの基礎があるからです。料理に対する考え方を持ち、数十種類から百種類、二百種類もの料理を知っていることが基礎となって、毎日の料理を滞りなくつくっていけるのです。
 また、車を運転するためには、交通法規を知り、いろいろな事態に対処する方法を知っていることが必要です。「坂道ではどうすればよいか」「対向車があるときにはどうするのか」「雨の日や夜はどうするのか」などということを知っていると、それが判断の材料になります。
 しかし、交通法規を知らないと、対向車との関係も分からないし、右折や左折のときにどうすればよいかも分かりません。交通法規を知っていることによって、正しい行動がとれるのです。
 このように、人生においては、基礎というものが何にもまして大事です。基礎の部分が厚ければ厚いほど、あるいは重ければ重いほど、その人の判断と行動に重厚さが増してくるのです。
(11~13ページ)

基礎を作る時期って、とってもつまらなく感じるんだよね。

でも、その時期に手を抜かずにしっかりやった人だからこそ、その後の華々しい活躍がある。

そんな話を聞くことがあります。

いま大変な思いをしてるみなさん。

「人生の基礎をつくるための学校教育」という教えを心素直に受け止めて、しっかりと、でも楽しく、学校生活を送ってくださったらと私は思うのです。

 

『不動心』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 

どんな職業がこれから有望なの? どんな職業につくことを考えて勉強していけばいいの? って疑問もってる若い人、多いんじゃないかなあ。

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 製造業、メーカーなどの技術系統で考えると、安全性を高めるような技術に関連するところは、まだまだ伸びるのではないかと思います。
 たとえば自動車を考えてみると、日本だけで毎年一万人もの人が交通事故で死ぬというのは、異常な事態です。これは戦争状態に近いのです。これにそのまま満足して、自動車という商品を買っている現代という時代は、もう少しあとの時代からは、(中略)「毎年一万人も死ぬような恐ろしいものに乗っていたとは、不思議な時代だった」といわれると思うのです。(中略)
 同じことは、飛行機、電車、船、宇宙船その他の乗物に関してもいえます。このように、今後は、安全性を高める技術の研究が進んでいくし、その方面が伸びると思います。
 それから、世界的に見ると、あちこちで食糧問題がかなり危機的な状況にあるので、バイオ(生物工学)の系統で研究がそうとう進んでいます。未来においては、狭い空間から大量の作物が穫(と)れるスタイルの農業技術は、まだまだ広がると思います。これは可能性が高いし、現在も研究が進んでいるでしょう。(中略)
 それ以外では、(中略)情報・知識を扱う領域の仕事、目に見えない情報等を中心に仕事を推し進めていくものは、教育産業であれ、メディア系統であれ、ニーズ(需要)があって、二十一世紀にはまだまだ発展します。これはほぼ間違いありません。宗教も、情報産業に分類されるべきなのかもしれません。教育であれ、他の一般的なニュース(情報)を扱う会社であれ、さまざまな情報系統のものは発展すると思います。
 それ以外で外れがないものとしては、高度な判断力、高度な交渉力を要する職業です。それは、どこにでも常にありつづけることなので、なくなることは、まずありません。(中略)
 全体的には、来世紀以降、いったい何が最大の資源かという問題があります。(中略)最大の資源は時間です。一日は二十四時間、人生は数十年であって、個人あたりの時間の有限性がかなり高いので、時間の値打ちが上がると思うのです。
 その意味では、時間を短縮する方向で努力しているものは発展します。(中略)「どうやって時間を縮めるか」「どうやってプロセスを縮めるか」ということに関わるものは、どの系統のものであれ発展すると見て、まず間違いありません。
 交通手段系統で時間を縮めるものがあれば、発展するのはほぼ確実です。マスコミも、より短い時間で、よりコンパクトに集約された情報を出すことができれば、そこが勝つのはほぼ間違いありません。
 ただ、第1章でも述べたように、来世紀はおそらく、「プロの伝道師」というような職業がいちばん尊敬される時代になるでしょう。それが望むべき方向でもあると思うので、ある程度、トレンドとして知っておいてもよいかもしれません。
(79~84ページ)

この御法話(質疑応答)は、1994年に説かれたもの。

それから23年の歳月を経て、21世紀がかなり進展した今であっても、ますます輝きを増している仏法真理だなあ、と改めて思えます。

なお、「第1章」というのは、本書のタイトルとなった御法話「青春に贈る」です。

まだ読んでいない方は、青春期にある方も、すでに通りすぎて久しい方も、ぜひ一度目を通されることを、強くお勧めしたいと私は思うのです。

 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大学に入ったんだけど、いま何すればいいんだっけ? 遊びたいし、恋もしたいし、でも学生のうちに、ほんとはやんなきゃいけないことがあるんじゃないのかな? なーんて悩んでいる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 学生のみなさんは、二十代において、親の人生観・世界観から、何とかして抜け出さなければいけなくなってきます。
 みなさんの両親のなかには、立派な方がたも多いでしょう。しかし、みなさんの両親は、みなさんよりも何十年か前から生きている方がたなのです。両親から汲むべきものが数多くあるとは思いますが、時代が変わってきています。
 したがって、ある程度は両親の意見を聴きながらも、みなさんは自分としての答えを出していかなければならないし、あるときには、両親とは違う考え方の下に生きていく道を、選ばなければいけないこともあると思うのです。職業においてそうですし、あるいは結婚という問題においても、おそらくそうだろうと思います。そのときに自己の判断に責任が持てるかどうかこれが非常に大事なことになるのです。
 では、どうすれば、自己の判断に対して責任をとれるようになるのでしょうか。まずは、考える材料というものを持たなければいけないのです。そのために、学びというものが必要になってきます。
 みなさん自身の頭では、考えても考えても結論が出ないことがあるでしょう。しかし、考える材料として、一定の知識や情報を持つことによって、物事を判断するときに、非常に早い時間で結論づけることができるのです。この判断の材料が手に入らないために苦しむことが非常に多く、あとになってからわかることも実に多いわけです。
 十代後半、あるいは二十代の前半において、豊富な人生経験を持つということは、なかなか困難なことです。その意味では、まず、学生の本分である知的なアプローチによって、考える材料を手に入れ、それを集積することが非常に大事です。
 世界中で自分だけがぶつかった難問というのは、それほど多くはないはずです。たいていの場合は、かなり多くの人がすでにぶつかった問題であることが多いのです。
 したがって、学生時代は、ある問題を自分だけのものとして考えるよりは、先人や先輩たちが、それをどのように考え、解決し、乗り越えていったかということに対し、謙虚に耳を傾けるべきなのです。主として、そうした思考の材料、考える材料というものを手に入れるために、学生の期間はあるのだと思います。
(22~24ページ)

学生時代は、その本分として、知的なアプローチ、すなわち学校の講義や書物などの学習によって、考える材料を集めていくこと、なんですね。

そこで集めた考える材料をもとにして、自己の判断に責任をとれるようになっていくこと。

それが、ほんとの意味で、大人になっていくということなんだろうと私は思うのです。

 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どうして私にはお父さんがいないの? どうしてボクにはお母さんがいないの? どうして、こんな両親の家に生まれたの? ・・・なーんて、両親への不満を持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 両親に対しての不満もあるでしょう。しかし、その両親を知っていて生まれてきたのは、みなさん自身なのです。「親が勝手に産んだ」というのは根本的な間違いであり、必ず自分で親を選んで生まれてきています。生まれる前に、自分の親が誰かということを知っているのです。
 たとえ、それが正規の生まれ方でない場合、要するに正常な夫婦のあいだに生まれなかった場合であっても、それを承知のうえで生まれてきています。その人の魂経験に必要なために、そのような計画をして、そこに生まれているのです。そこに自分にとって必要な学びがあるからです。
 自分が何者であって、いかなる人生計画を持っている人間であるかということは、過去を振り返ってみればよくわかります。あなたの両親は、どのような仕事をしていましたか。あなたは、どのような家に生まれましたか。それはどの地域ですか。どの時代ですか。家族はどうでしたか。近所はどうでしたか。兄弟のなかで、あなたは他の人とどのように違っていましたか。その人生の歩みを、数十年間ずっと振り返ってみると、あなたの人生の目的と使命というものが、非常にはっきりと見えてきます。それが、あなたの魂の、今回の課題なのです。それを、まず見抜かなければなりません。
 そして、いかなる使命であるかがよくわかったならば、いま与えられているものに最大の感謝をしながら生き、また、日々みずからが過ちを犯さないように心して、もし間違いを犯したならば反省をすることです。
(177~179ページ)

そう、この人生の環境は、生まれる前に自分で決めてきたのだ、と知ることが出発点。

そして、自分の人生をしっかりと振り返って、他の人と異なるところに着目して、自分の人生の特徴をつかむこと。

そうすることで、今世の自分の人生の課題が何かを発見すること。

与えられているものに最大の感謝をしながら生き、間違いを犯したら素直に反省していくこと──。

つまり、自分の人生を、自分で主体的に生きることなんですね。

なにしろ、「人生は一冊の問題集」、なんですから!

 

『信仰告白の時代』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




就活なんかしてるんじゃなくって、もう自分で会社作って、社長になりたいよね。かっこいいし、一国一城のあるじだから、人に指図されずに自由にやれるしさ。当然、社長になれるよね? なーんてこと考えてる人、いませんか? 

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。ちょっと長いんですけど、引用してみます。

また、あなたがたは適材適所という言葉を聞いたであろう。
適材適所ということは、
その人の器、その人の才能、
その人の能力に合った立場につけるということだ。
この適材適所という考えが、なかなかわからなく、
また、なかなか肯定しがたいことのように思われるかもしれない。
その多くは、欲望が強いがために、
自ら自身を正しく評価できないことにある。
人は、その器相応に使われてこそ、
はじめて喜びを得るのだという事実を知らなければならない。
鋸(のこぎり)には鋸の幸福がある。
鉋(かんな)には鉋の幸福がある。
鑿(のみ)には鑿の幸福がある。
それを忘れてはならない。
鋸(のこぎり)は木を挽(ひ)くのに役に立つであろう。
木を上手に挽くのは鋸(のこぎり)の喜びであろう。
しかし、木を平らかにするのは鉋(かんな)の喜びであろう。
また、木に溝をつけるのは鑿(のみ)の喜びであろう。
この鋸(のこぎり)と鉋(かんな)と鑿(のみ)という違ったものは、
それぞれが貴いのだ。
それぞれが貴く、どれも無くてはならないものなのだ。
なのに、世の人びとが鋸(のこぎり)こそ素晴らしいと言えば、
だれもかれもが鋸(のこぎり)になろうとする。
世の人びとが鉋(かんな)こそ素晴らしいと言えば、
こぞってみんな鉋(かんな)になろうとする。
しかし、世の中にはいろいろな人がいて、
それぞれの持ち場で働いているからこそ、
世の中がますますよくなってゆくのだ。
あなたがたは、ともすれば、
目立つ鋸(のこぎり)という仕事を目標とするかもしれない。
しかし、鋸(のこぎり)の役割ができるためには、大きな力がなければならない。
大胆で、決断力に富み、迅速で、
そして仕事が速くなくてはならないだろう。
そうした性格の人は、鋸(のこぎり)の役割を担うのがよい。
しかし、一方では、几帳面でサービス精神に富み、
そして多くの方がたに気配りができるような人がいるであろう。
こうした方がたは、
鋸(のこぎり)という役割は必ずしもその性分には合わないのだ。
そういう人びとは鉋(かんな)としていかに艶(つや)を出すか、
いかに滑(なめ)らかに仕上げるかということを努力すればよい。
それが、本来の自己を生かす道であるのだ。
また、専門的にのみ生きている人もいるであろう。
狭く、細く、しかし力強い仕事をしたいと願う人もいるであろう。
これは、鑿(のみ)の仕事であろう。
小さなところを削り、彫り、そして役に立つ。
これが鑿(のみ)の仕事だ。
こうした専門的な仕事を軽蔑する人もなかにはいるかもしれない。
あるいはそうした仕事についていて、
自ら自嘲的になっている人もいるかもしれない。
しかし、このような仕事はあるのだ。
鋸(のこぎり)によってしては、ほぞをつくることは難しい。
鉋(かんな)によっても、ほぞをつくることは難しい。
鑿(のみ)によってこそ、ほぞはつくることができるのだ。
このように、
それぞれ適材適所ということがあることを忘れてはならない。
さすれば、ある者は社長となり、
より多くの困難、波風に遭うかもしれないが、
その社長業を、自らがこなさなければ、
幸福でないと思うのは間違いかもしれない。
地位の上にある人、下にある人、
それはあくまでもこの世的なる序列であって、
それが真実の仏の序列ではない。
それぞれ、適材適所ということが実現されて
はじめてすべてのものがよくなってくるのだ。
決して、欲望の自由を満たすことが、素晴らしいことではないのだ。
みんなが社長になりたいからといって、
すべての人を社長にしていては、
その会社に働く人たちは、次つぎと失業して、
そして大いなる苦難をなめるであろう。
社長になるべき器があってこその社長であるのだ、
ということを知りなさい。
さすれば、自らの分相応(ぶんそうおう)に生きていることを決して悔いてはならない。
もちろん、経営する立場に立つ者は、
人事は公平にしなくてはならないであろう。
また、雇われる側にあっても、
公平な処遇をされることを願うことは正しいことであろう。
しかし、どうか私の語った鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、鑿(のみ)の例を思い出してほしい。
それぞれの持ち場に使われてこそ、役に立つのであり、
そして喜びがあるのだということだ。
間違った場所で使われて、真の喜びはないということなのだ。
このことを、よく知りなさい。
(177~184ページ)

念いがすべてであり、人は自分が思っているとおりの存在になれる。

たしかにこれは、人生の真実なんだけど、でも、人は、自分の適性がある分野で活躍するのが幸福なのも、また真実。

自分に適性がまったくなさそうな分野に願いを持ってみても、本当に適性がなければ、そう長く思い続けることはできないのでありましょう。

つまりは、「適材適所」というのもまた、深い人生の智慧だったのだと、今日改めて深く私は感じ入っているのです。

 

『仏陀再誕』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




仏さまや神さまを信じて信仰の道に入ったら、異性には手を触れてはいけないのかなあ? 異性を経験してしまったら、宗教者として生きていくことはできないの? 結婚していない彼氏、彼女と自由に付き合ったら、堕地獄の罪になってしまうの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『新・心の探究』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 やはりできれば、現代では、夫婦単位で一つの信仰を持っていく方向に行くのがいいと思うし、あるいは恋人であっても、同一神理を信じている者どうしのお交際(つきあ)いというものは、これはいいのではないか。なるべく同心の者どうしが、共通の人生観をわかち合う者どうしが、苦楽を共にしていくのがいいのではないか。そういうふうに感じるわけです。
 したがって性的なものも、もちろん極端な行き方について賛成はできるわけではありませんけれども、極端に潔癖症に陥るのもまた不自由。中道にこそ入るという表現は適切ではありませんけれども、要するに、神理なら神理、人生観なら人生観という一つの目的を共有する者どうしが自分達を解放し、愛し合い、幸福にし、豊かにしていくために、異性との接触を持つこと自体は罪でも悪でもない、こういうふうに思います。要するに、肉体の奴隷となってしまわないことです。また、がんじがらめの堅物にもなってしまわないことです。まあそういうふうに、人間というものは、できるだけいい目的を持ってその達成を促進するという面があるなら、その手段に関しては、合理的と思える範囲で許容していくというのが一つの方向ではないだろうか。(中略)
 こういうふうに、ある程度の枠を設けながら、自由にしていくことが現代的にはいいのではないかと思います。
(75~77ページ)

異性との接触を持つこと自体は罪でも悪でもないけど、肉体の欲望に溺れてしまわないこと。

逆に、がんじがらめの堅物にもなってしまわないこと。

最初期のころの御講義なので、できるだけ難しくならないように説いて下さってますけれども、仏教的な言葉で説明すれば、要するに、異性との関係も、両極端ではない「中道」が求められる、ということなんだと思います。

そして、同じ信仰を持った者どうしでつきあい、いずれは夫婦となっていき、人生の苦楽を共にしていくのがよい、ということなんだと私は思うのです。

 

『新・心の探究』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ