戦車の歴史(4) ~ 電撃戦 ~

2016-03-25 19:59:51 | 軍事ネタ

前回記事 からの続き。
戦車の歴史について、第四弾。


・『黄の場合』

ポーランドを制圧したドイツ軍は西部戦線へ転戦し、
1940年5月10日にファール・ゲルプ(黄の場合)作戦を発動。
宿敵フランスとの戦いに臨んだ。

フランスはドイツとほぼ同等規模の軍隊を有する大国である上に、イギリスとの同盟があり、
またフランスへ攻撃をかける為にはベルギー・オランダとも戦わなければならなかった。
両軍ともに300万人以上の戦力を投入し合ったこの戦役は、ドイツ軍にとって大きな賭けであった。
戦車戦力の観点から見ると、ドイツ軍は2574輌の戦車を投入した。
ポーランド戦役の3466輌よりも少ないのは、ポーランド戦で消耗したのと、
故障したI号やII号の修理よりもIII号やIV号などの先進的な戦車の生産を優先したことに依る。

よってドイツ軍主要戦車の内訳は、

名称主武装配備数
I号戦車7.92mm機関銃523輌
II号戦車20mm機関砲955輌
III号戦車37mm砲345輌
IV号戦車75mm砲278輌

と、戦車総数自体は減らしつつも、III号とIV号戦車の比率はポーランド戦での僅か9%から、25%を占めるようになった。
軍事的先進国との戦いに備えた装備体系で臨んでいる。
また上記のドイツ製戦車以外にも、チェコから接収した35(t)戦車や38(t)戦車を合わせて300輌以上配備しており、
これらは37mm砲を搭載している為、チェコ戦車もドイツ軍にとって大きな戦力として配備された。




・英仏連合軍の方が装甲戦力に優れていた

対する英仏連合軍の配備戦車は、種類が多いので戦車区分ごとにまとめると、

名称戦車区分配備数
ルノーFT・AMR35戦車等軽戦車764輌
ルノーR35・ソミュア戦車等中戦車2215輌
ルノーB1・マチルダ戦車等重戦車400輌

などで3500輌近くを数えた。
ドイツ軍で言うとI号・II号戦車が軽戦車に相当し、III号・IV号戦車が中戦車に相当する。
さらに未だドイツ軍には配備されていない重戦車までもが英仏連合軍には存在した。
その上にベルギーやオランダ軍の戦車も存在するので、
つまるところ戦車戦力比だけで言えば、
連合軍はドイツ軍よりも質量ともに優っていたといえる。


・アラスの戦い

とりわけ5月21日に生起したアラスの戦いに於いてドイツ戦車部隊は苦しめられた。
フランス内陸部を進撃中のエルヴィン・ロンメル将軍の第7装甲師団が英戦車部隊から奇襲攻撃を受け、
攻撃をかける74輌の英戦車部隊の中にはマチルダII戦車の姿があった。

マチルダII戦車の正面装甲厚は75mmで、
当時の水準から言うと抜きん出た重装甲であり、
ドイツ第7装甲師団が準備していたあらゆる対戦車砲を物ともしなかった。
III号戦車の37mm砲では至近距離から背面を撃つことでしか貫徹できなかった。
IV号戦車の75mm砲も口径は大きいが榴弾用の大口径であり、
初速が遅い短砲身型の為に貫徹力はIII号戦車よりも低かった。
当時のドイツ軍内ではIII号が対戦車用の主力戦車、IV号が歩兵支援戦車だったのである。

この規格外の装甲に対してロンメル将軍は、急遽88mm高射砲を並べての火線を構築。
88mm高射砲は高々度の爆撃機に対抗するために高初速・大口径であり、
またスペイン内戦に於いてこの高射砲が敵戦車にも有効打となる戦訓を既に得ていたので、
それに倣い88mmでマチルダIIを撃退したのである。


しかし戦車同士で比べた場合の性能で劣っていることは
この事例を見ても確かだった。


・西部戦線の結果

連合軍の装甲戦力はドイツ軍よりも優越していた。
しかしこの戦いもポーランド戦役のようにわずか1ヶ月強で、
ドイツがパリを占領しフランスを降伏させイギリスをドーバー海峡へ追い落とすこととなった。
要因はいくつかあるが、その中でも戦車がこの勝利の主役となった。

フランスは今回の戦争も第一次世界大戦のように陣地を構築しての睨み合いになると踏んでいた。
ジリジリと陣地線を押したり引いたりして、砲撃や戦車で支援して歩兵を突撃させるような。
だからマジノ線という巨大な要塞線を築いたし、フランスの発想はあくまでも防衛的であった。

それ故に戦車運用も前大戦の延長線上にあった。
歩兵部隊の中に戦車を配備し、散りばめ、満遍なく配備した。
フランス軍人の中にはドイツのハインツ・グデーリアン将軍のように先鋭的な視点を持つ者もおり、
そういった者は戦車の集中運用を主張したが、それは機動戦の為であり攻勢的な姿勢と見られた。

国民も軍人も守勢的姿勢を持つ者にこそ賛同したのは、
前大戦で人口をすり減らした苦い思い出があったことと、
根強い厭戦感情が影響しているだろう。




・電撃戦とは

対するドイツ軍の戦車戦術の原則は集中運用だった。
戦車は戦車で固め、それに追従する歩兵部隊も自動車化され、
徒歩で行軍する歩兵や牽引される砲と、戦車を混ぜこぜにすることを拒んだ。
そうすることで戦車部隊はその快速さを十分に活かせた。

次の特徴として無線器の完全装備化が挙げられる。
これを当時実現したのはドイツ戦車部隊ぐらいだった。
戦車と自動車のみの編成で快速を活かし突破するということは、
友軍戦線から孤立するということと同義である。
そんな中でも部隊間連携をとれるように無線を装備し、統率を維持していた。

現場指揮官への権限委譲も革新的だった。
かつてない機動戦のさなかでは、戦況は刻一刻と変化する。
特に孤立している中で上級指揮官からの指示を待っているとなおさら状況が遅れていく。
ドイツ軍は十分な機動戦を行うにあたって、現場指揮官に大幅な判断権を与えていた。
これにより前線で戦う戦車部隊は、自らの機動力を損なうことなく、
現場の視点と判断のみで縦横無尽に暴れまわることができた。
これがなければ無線化も十分には活かせなかったろう。

近接航空支援の活用も欠かせなかった。
機動戦に於いて戦車部隊が快速を発揮すると砲兵を置き去りにしてしまい、
十分な火力支援が得られなかった。
それを補うのが爆撃機の存在で、ドイツ軍は前線からの要請に応じて、
爆撃機が十分に近接航空支援ができる体制を構築していた。
これにより強固な抵抗に際し砲兵の支援がなくても、
"空の砲兵"である爆撃機が前面敵部隊を打撃し、
戦車部隊が進撃することができた。


上記の特徴が合わさり、目標地点までの一点突破を旨としたドイツ軍は、
戦車部隊がフランス前線を突破し、後背地を自由に荒らし回ることができた。

フランス軍は前大戦のような膠着戦を想定していたので、機動戦に追いつくことができなかった。
戦車は分散配備されていたので、戦力を集中して襲来するドイツ戦車部隊に対抗することもできなかった。
前線を突破されても、あくまでも司令部からの指示に頼る体制であった為、
司令部からの指示を携えた伝令が到着する頃には状況がまるで変化していた。
無線機も十分でなかった為に、前線が突破された報が回ると、
あちらこちらでドイツ兵を見たという報告が上がり恐慌状態に陥った。

フランス軍前線部隊は、物理的にも精神的にも、"置き去り"にされた結果、
組織的行動が不能に陥り、実際には大した損害がなくても、集団投降せざるを得ない状況が発生した。


ドイツ軍の電撃戦とは、敵軍部隊を物理的に破壊する思想ではない。
一点突破によって戦線の背後を荒らし回り、前線司令部や補給施設など中枢部を破壊して回り、
その効果として情報・連絡や補給を遮断し、少数部隊で多数の敵軍部隊をソフト面で
機能不全に陥らせ降伏に至らせるドクトリンである。

突破した戦車部隊が敵部隊後方に迂回・包囲し、
友軍部隊と連携し殲滅する作戦もしばしば見られるが、
そういった包囲殲滅戦は厳密には電撃戦とは区別される。


1940年の西部戦線では真の電撃戦が最大限に発揮され、史上稀に見る大勝利に繋がった。
またこのドイツ軍の電撃戦は、当時画期的であるだけではなく、現代の戦闘教義にも通じており、
戦車の歴史を語る上では欠かすことができない事柄である。

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14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2016-03-26 21:53:38
戦間期から大戦初期の兵器は結構好き
Unknown (evilsheep)
2016-04-10 01:55:31
いつも楽しく拝見させていただいています。

過去の軍事記事などを読み、中世でも戦国時代でもよいのですが、いわゆる武術の達人と呼ばれる人たちは、1戦で何人ぐらい殺害出来たのだろうかと調べてみましたがどこにも載っていないのです。

出てくる内容としては、個人の武術は戦争において無意味という書き込みは沢山出てくるのですが、具体的な数字とかは全く見当たらず、また完全に無意味であれば武術というものを鍛錬する必要も無かった筈と考えています。

ゆっきぃさんはここらの情報などをご存知でしたら、教えて頂きたいです。
Unknown (Unknown)
2016-04-26 12:48:39
オーストラリアの導入する潜水艦がフランス製に決まりましたが、yukky氏はどう思いますか?
Unknown (Unknown)
2016-05-07 12:08:04
次のバトルフィールドは第一次大戦で確定みたいですね。
Unknown (Unknown)
2016-08-08 14:48:25
もうとっくにHoI4発売されてるよゆっきょん
BF1もCiv6も発表されたよゆっきょん

もうブログは更新しないのゆっきょん
Unknown (Unknown)
2016-08-22 08:22:40
バトルフィールド1は銃剣突撃しまくりたい。後、ブログ更新楽しみにしてます!
Unknown (Unknown)
2016-08-24 12:10:09
ゆっきょんはtree of savorはしないのかな?
真善美の探究 (中村)
2016-10-14 21:48:20
真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。

《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
Unknown (Unknown)
2016-10-16 11:23:27
久しぶりに来たらコメントに変な長文あって草
Unknown (Unknown)
2016-10-25 17:56:30
バトルフィールド1のオペレーションっていうゲームモードが面白すぎる。戦争映画の中にいるような感じ

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