goo blog サービス終了のお知らせ 

伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

2007-12-14 23:01:12 | 言いたんく

今日12月14日は全国的には、赤穂浪士討ち入りの日として有名である。

ゆきたんくにとっては時代劇にかまけている日ではない。
実はゆきたんくの母の命日なのである。

思えば母とゆっくりと過ごせたのは32年前の3月までのことであった。
ゆきたんく中学卒業後の春である。
4月からは高校に進学、それも全寮制の高等学校であるから両親とは離れて暮らすわけだ。

今思えば、親元を離れて1年半後に母親に異変が起きる。
学校で保護者面談が行われた。ゆきたんくをかわいがってくれた母だから私に会えることを随分と楽しみにしていたことと思う。面談が済み、部屋の連中がいなかったこともあって、ゆきたんくの部屋へ案内した時のことである。

…おふくろって、こんなに色白だったかな?…

その時は一瞬そう思っただけであった。

そから半年後の春。母がゆきたんくを妊娠したために退職した会社を訪れた。そこのご婦人とはずっと付き合いがあったのである。場所は恵比寿。今のように賑やかになる前の話である。ゆきたんくは短い春休みなので母について行った。子どものころたくさん可愛がってもらったところでもある。

駅から会社まで、途中に坂があるがいっしょに歩いていたはずの母の姿が消えた。
正確には遅れている。「まってぇ」心なし力が抜けたように聞こえる母の声。
坂をさっさっと登れないのである。当時42歳で腰が立たなくなるほどの年齢ではない。

…おふくろも年をとったなぁ…

その時も一瞬そう思っただけであった。

大学が決まり、高校を卒業し家に戻る日が来た。
住民票も高校の住所から実家へと移す。

家に戻って2日目の火曜日。ゆきたんくの実家は自営業を営んでおり、火曜日が定休日だった。
中学時代の友達と旧交を温めて帰宅した時、母が泣いていた。
「おなかにおできができたから、入院して手術しないといけないの」

その2ヶ月前に母が言ったことを思い出した。
当時田宮二郎の「白い巨塔」の最終回が話題になった頃である。
癌との闘いが終わった財前五郎の遺体がストレッチャーに載ってだんだん小さくなって行くシーンだと記憶している。

母「ねぇ、お母さんがああなっちゃったらどうする。」
ゆ「そうなる前に検査して、早めの手術を受ければいいじゃん」
母「そうだよね…」

その後は会話はなかった。再びテレビに目が戻っていたからである。

「もしや…」

それから9ヵ月後の1979年12月11日の月曜日ことだった。
母が入院していた蒲田にあるT大学附属病院は完全看護で、面会時間終了の19時にうるさい病院だった。

昼に病院に出かけた父と入れ替えに病院に行った。
その夜の病院食はおでんであった。
「どれから食べる?」
母は答えなかった。私の顔をじっと見ている。
「しょうがないなあ、疲れたのかい?じゃがいも好きだよね。」
うなづく母。そのようなやりとりを数回して、小さくしたタネを口に運んだがそんなに食欲はないみたいである。
時計を見ると19時半を回っている。「わぁ、まだ看護婦さんが周ってこない。ラッキー、みつかったらおこられるから帰るね。明日は父さんが来るから」

今思うと、病院側が私が母といる時間を特別にくれたのだろうと思う。

その時母が自分の腕を見つめ「これも、試練かもね。」と久しぶりにはっきりとした声で言った。

この時点で私は母の病名を知らなかった。正しくは、本当の病名を聞いていなかったというのが正解だろうか。

家に帰った時に親父が言った。「今日お母さんが、自分の腕を見て痩せてきたというんだ。癌じゃないかというんだよ。」
ゆきたんくも当時大学生である。父親が病名を言わなくたって自分で調べているのだ。どう考えても癌の症状であることは間違いないのだが、父に真相を聞けなかっただけだ。わたしは父の言葉を聞いて確信した。母は癌である。それも手術不能で手遅れの…

その夜のこと、就寝前に父が一言。
 「おかあさん、どうなっちゃうんだろうね。」

父から直接病名を聞いていなかった私は
 「元気になるといいね。」と答えた。

火曜日父は1日病院から帰って来なかった。
水曜日、父が着替えがあるから俺が行くという。私は店番である。もう大学も随分休んだ。
 しょうがないので譲った。それから15分後。
電話が鳴った。父だ。「ゆき、すぐに店を閉めて病院においで…」涙声であった。

店を閉め、カギをかけ、自転車をこいだ。心臓がパンクするほどにこいだ。20分で病院についた。母の病室に駆け込み、まず目に入ったのは冷えた飯に卵のかかった食べかけの飯である。なんだかんだいって好き嫌いがあった母が口にするものではない。どうにか生きようと懸命だったのだと思う。そして耳に飛び込んできたのは「痛い~、あー痛い」という母の声である。
父は母の頭をなでながら、「おうちに帰ろうね、帰ろうね。」と母に語りかける。
母は「痛い」と言いながらもうなづいている。

婦長さんらしき人が来て、母の点滴のボトルに注射をした。
数分後、母は静かに眠りはじめた。
父が診察室に呼ばれて行く。
戻ってきて、私に行った一言は「時間の問題らしい…」であった。

12月14日木曜日
 母の主治医のS先生から「ご臨終のようですね」と一言あった。
 父と私は聞き返した。よくドラマのシーンでは「ご臨終です」なんてやっているが、聞こえるか聞こえないかの声で言われたのだ。
「ご臨終のようですね。」
「は?」
「お亡くなりになりました。」と言って頭を深々と下げられた。
子宮癌、享年44であった。

思えば寮で見た母は、貧血で色白だったのだ。
坂を上れなかった母は、貧血で体に力が入らなかったのだ。
息子5○歳、母80歳で息子が母をおんぶしているポスターが一時期あった。
ゆきたんくも母をおぶればよかったと今でも思っている。

今はとっくに母の年齢を越えたゆきたんくである。
長男が今、母を亡くした時のゆきたんくの年齢である。

今はゆきたんくは倒れることはできない。
母の無念が分かる齢になってしまった。
母の無念を晴らすには、自分が元気で精一杯生きることが一番だろう。

「母さん、あなたの孫は2人とも元気だよ。上の方は俺より大きくなったよ。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ村Ping

http://ping.blogmura.com/xmlrpc/okr7t7fen957