伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

交通博物館にて7

2015-10-31 23:48:16 | 言いたんく

旧万世橋の遺構を見学していて考えさせられた。

旧万世橋駅の歴史は1912年(明治45年)に始まる。


 


さよならキャンペーンの時に写した初代万世橋駅イラスト 


 1923年に関東大震災で駅舎は焼失して簡素な駅舎が設けられた。

その大震災の時には遺体安置所に使われた。

駅としての機能も、周囲の交通網が発達するにつれ失われていった。

1943年(昭和18年)に駅は事実上の廃止となった。

交通博物館閉館に伴う公開はそれから63年経った2006年であった。

遺構を見て考えされられたこと・・・


 
階段からホームへの出口。ここに窓が設けられていてホームが見れる。

 


登り切ったところから階段を写す。 


 この2枚の写真に、ふつうはあるはずの物が写っていない。

一つは階段の滑り止めの金属。

そして手すりだ。

万世橋駅が事実上の廃止になったのは、昭和18年11月11日だ。

その2年前に、「金属類回収令」が公布された。

調べたが分からずじまい。

確証はないが、その時に滑り止めや手すりは回収されてしまったのだろうと思われる。

ある意味戦争遺産の姿でもあったのだ。



はっきりと分かる。手すりはない。


 もっとも、手すりがついていたはずの壁に穴の跡も確認できなかったから手すりは最初からなかったかもしれない。

ただ、滑り止めはなかった。

これも回収されたか、錆びて危険だったから撤去されたかは分からない。

階段のコンクリートに埋まっている留めるための金具は残っている。

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交通博物館にて6

2015-10-30 23:25:50 | 言いたんく

インターネットという便利がものができて、世間に広がってきた。

その時2006年。

回線も速度が速くなった。

そう、閉館してしまう交通博物館のサイトを覗いた時・・・

「旧万世橋駅」の遺構を期間限定で公開するという。

電話申し込みで先着〇〇〇名様。

何名だったか記憶にはない。

長男のおーちゃんは部活動。

のりたんはお仕事。

つっくんと2人分申し込んだ。


 

 


交通博物館の屋上からみた旧万世橋駅ホーム。


かつては人通りがたくさんあっただろう。駅構内。


テレビ番組の中でも時々登場する通路。


この時点で63年ぶりに人前姿を現す。もちろん、一般公開するにあたって綺麗にしたのだろう。


こんな場所も。掃除が間に合わなかったのだろう。


何かに見入るつっくん。


記念撮影のゆきたんく(つっくん撮影)


ホームの階段を登り、狭い窓から写した、旧万世橋駅ホーム。


 

現在では整備されて、マーチ・エキュート・神田万世橋になっている。

この機会を逸しては、当時の雰囲気を味わえなかったと思っている。

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交通博物館にて5

2015-10-29 23:05:04 | 言いたんく

交通博物館の所在地は、東京都千代田区神田須田町1-25。

現在はJR神田万世橋ビルのあるところだ。

かつての交通博物館にいつから展示されていたのかは記憶にない。

小さい頃はまったく興味を示さなかった物件なのだろう。

交通博物館の前身は何か。

1911年に鉄道博物館。(東京駅神田駅より高架下に開設)

1936年に日本交通文化博物館(旧万世橋駅駅舎跡の敷地を利用した新館に移転)

1948年に交通博物館に改称。

2006年5月14日閉館。

ゆきたんくが子供の頃に見ていたのは、日本交通文化博物館だったのだ。

 

そんな、ゆきたんくが見て新鮮に感じたものがこれだ。



万世橋駅の展示

 


交通博物館がかつては駅であることを知った。 


 実は、つっくんを連れて来た時に、もうすぐ閉館ということを知ったのである。

もう少し遅かったら、交通博物館を自分の子供に見せることなくその歴史に幕を閉じられてしまったのである。

今までにない展示があったのもそういう訳だったのだろう。


 


味わいのある駅名板


壁に穴を開けた窓から覗けた、旧万世橋駅の階段。


 あぁ、ここかつての駅舎だったんだ。

ものすごく感動したゆきたんくである。

そう、交通博物館がもうすぐ閉館である。

何か見逃したものはないか確認する。

その時に目に飛び込んできたのは・・・

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交通博物館にて4

2015-10-28 23:56:00 | 言いたんく

ゆきたんくが小学校4年生の時に大阪で万国博覧会が開催された。

開催期間は夏休みにもかかっていたので、クラスメートの中には行く子もいたのだ。

ゆきたんくの興味は、3つ「太陽の塔」と「ガスパビリオン」と「リニアモーターカー」だけ。

あとも見てもつまらないと思っていたのである。

父親からも「行きたいか」と言われたが、「お金がかかるからいい」と遠慮したのであった。

そのお金があれば、サンダーバードのプラモデルの良い奴を1号~5号まで揃えたい気持の方が自分の中では価値が高かった。

今考えると勿体ないことをしたと思っている。

ただ、子供の価値観というのは大人とは絶対に違うということだ。

自分の心の中で一番のものを優先するのだ。

そう、交通博物館の話だった。


 1970年万博。15年後には実用化されるという話だった。それから45年・・・


 今では飛行機が大丈夫になったゆきたんくだが、かつては絶対に乗らない乗り物であった。

理由?

怖いから。

リニアモーターカーができれば、東京大阪間が1時間だという。

早くできないかなと思っていたのだ。

大阪に何の用もないのにだ。

子どもってそんなものだ。

かわいいじゃないか。

ただ、自分の中でも分からないのが新幹線の運転手になりたいと思っていたゆきたんくがリニアの運転手になろうと思ったことはなかった。



JNRのロゴが懐かしい。


 現在のゆきたんくは思う。

生きている間に乗ることができるのだろうか。

これも子供の頃の夢の一つだ。

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交通博物館にて3

2015-10-27 23:23:29 | 言いたんく

ゆきたんくの夢。

ささやかだと思う。

その一つ。

交通博物館には母が良く連れて行ってくれた。

家は洗濯屋。

定休日は火曜日。

だから日曜日に出かけた思い出はない。

火曜日に学校から帰る。

それから出かける。

母  「どこに行きたい?」

ゆきたんく 「博物館。」

博物館と言えば、交通博物館のことなのだ。

その中で見ただけで終わった展示物・・・

展示物というよりも食堂だな。



新幹線こだま号151系を模したビュッフェ。


 新幹線の食堂車はビュッフェと行った。

フランス語で「簡易食堂」のこと。

小さいゆきたんくはそんなことは知らない。

なんだか分からなかったのである。

この交通博物館で食堂車ということを知ったのである。

あんまりいろいろとねだった記憶はない。

しかし、この時はねだった。

ゆきたんく 「ここで食べたい。」

母 「それはだめ。」

母がケチだったわけではなく、食事の時間帯ではなかったことが一つの理由であろう。

次男のつっくんと一緒に食べるチャンスがあった。

 ここのカレーを食べたい。

だが、ゆきたんくが次男を遊ばせているのではなく、実は次男が付き合ってくれているのだ(笑)

つっくんの興味はここにはなかったし、ぜひ食べたいんだという親父の気持ちを伝えてもいなかった。

東京ばあちゃんとの果たせなかった思いも、照れくさくて言えなかった。

その時に、撮った写真である。

そして実際に食べたかったのはカレーではなく、800円の新幹線弁当だったのだ・・・

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交通博物館にて2

2015-10-26 23:13:43 | 言いたんく

そう、ずっと意味の分からなかった展示があった。

乗り物じゃないじゃないか。

当然である。

乗り物博物館ではなくて、交通博物館なのだ。

大人になってやっと意味が分かった。

交通機関が走る場所は道路である。

その道路等は乗り物だけが行き来する訳ではない。

人も行き来するのである。

人だけの道路もあって当たり前である。

そういう意味合いで展示されていたのだろう。

子どもの頃は、そのことに気がつかなかった。

というよりも、展示そのものが当時あったのかも曖昧な状態である。



日本三大奇橋の一つ、山口県岩国市の錦帯橋の模型である。

 


よく見ると、鏡で橋の造りがよく見えるようになっている。


 川を渡るための橋の造りの解説は、大変貴重なものであった。

様々な博物館等に学芸員の方がいらっしゃるが、素晴らしいものを伝える専門家の存在はなくてはならないものだと思う。

かくして、つっくんはここには興味を示さなかった。

写真を撮っている間に、どこかにランデブーである(笑)

ゆきたんくが錦帯橋に実際に行ったのは2009年8月6日。

これから3年後のことである。


 


なかなか歩きにくい錦帯橋。


構築学的には重量に強い構造である。アーチ橋構造はどの国でも見られる。


交通博物館では鏡で見ることができた、橋の構造である。素晴らしい造りだ。


 

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交通博物館にて

2015-10-25 23:57:46 | 言いたんく

子どもに帰ってしまう。

次男を連れて交通博物館に来たのは良いが、わくわくしているのは息子ではなくて自分であった。

いろいろな思いが頭の中を駆け巡るのである。

ゆきたんくを交通博物館によく連れて行ってくれた母は、自分が19の時に亡くなった。

自分の子供たちは祖母であるゆきたんくの母に会っていないのだ。

ゆきたんくの実家が東京なので、子ども達は、「東京ばあちゃん」と呼んでいる。

次男には、東京ばあちゃんがよく連れてきてくれたことを話し、中を見て周る。



遂に乗れなかった「ひので号」


 自分が幼稚園児の時に買ってもらったカラー図鑑に載っていた「ひので号」。

中学生になって修学旅行に行く時に乗れることを楽しみにしていたが、ゆきたんくが行く4年前までで廃止。

ついに乗ることはできなかった。

そんなことを次男に話す。

次男はよく話を聞いてくれたが、しょうがねぇ親父だと思ったに違いない。

そして現在の鉄道博物館との大きな違いであるが、交通全般を扱っていた交通博物館の展示物も貴重であった。



富士重工業のすばる


マツダの自動三輪


 他にも自動車の展示物はあったが、ゆきたんくが自分の目で走っているのを見た2台である。

次男は興味を示していた。

「カーブでひっくり返らないのかなぁ。」

そう、何を見ても新鮮なもっと小さい頃に連れてこれなかったことを悔いる。

長男は、ついに連れて来れなかったのである。

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そういえば

2015-10-24 23:45:27 | 言いたんく

子どもの頃によく連れて行ってもらった交通博物館。

そんな子供時代のゆきたんくが思ったこと。

「自分の子供も連れて行かなきゃ。」

である。

それが叶ったのは親になって18年後である。

仕事が忙しかった。

土日のないような状況だった。

もっとも長男は高校生になっていて興味なし。

陸上競技に燃えていた。

次男のつっくんと行ったのだ。



万世橋の上から景色に見入るつっくん。


 次男が交通博物館に興味があった訳ではない。

ゆきたんくの我儘である。

その訳は・・・



閉館が決まった交通博物館。入り口にある新幹線0系。


 2006年5月14日に閉館が決まったというニュースを聞いて、愕然としたゆきたんく。

自分の子供を連れて行くことをすっかり忘れていたのである。

あわてて、スケジュールを確認した。

4月22日が空いている。

次男に交通博物館のことを話した。

つっくん 「何、それ?」

ゆきたんく「とにかく見に行こう、無くなっちゃうんだ。今のうちだ。」

どうにかこうにか、自分の思いを果たした強引な親である・・・

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あこがれ

2015-10-23 23:06:22 | 言いたんく

小さなことなのに覚えていることがある。

それは、ふいに思い出した。

ゆきたんくが小さい頃に母によく連れて行ってもらた交通博物館。

2006年に閉館している。

小学校低学年の頃は電車の運転手になりたかったゆきたんく。

友達の家に行く時に、大井町の跨線橋の途中で電車に見入ってしまい約束を忘れてしまうほどだった。



交通博物館、神田川沿いのロゴ 


2007年、さいたま市に鉄道博物館に姿を変えて再オープン。

その鉄博に仕事がてら行ってきた。

鉄博は交通博物館と違い、鉄道に限局した展示である。

自分にとって物足りなさはあるが、鉄道関連資料がある限り楽しい。



懐かしのクモハ101形


 これを見るだけで心が躍る。

子どもの頃に乗っていた電車である。

もっとも最寄り駅の大井町駅は京浜東北線の駅だから、水色の車両である。

ふいに憧れていた品物に出会った。


 


新幹線ランチのトレイ


 実際には記憶が定かではない。

この器で食べたこともない。

食べたいと思ったような記憶が蘇ってきたのである。

私の中で新幹線と言えば0系なのだ。

それをモデルにしたトレイは憧れていたはずだ。

交通博物館は、幼い頃母と濃い時間を過ごした場所なのである。

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再会

2015-10-22 23:56:10 | 東京都立秋川高等学校

先日秋川50という催し物について書いた。

そこで卒業以来初めて再会したY君との旧交を温めた。

とりえのなかったゆきたんくにスキルをくれた一人である。

このことは「東京都立秋川高等学校31…リコーダーの思い出」で書いている。

彼は、秋川高等学校の全期が集まる50周年の舞台で校歌を歌った。

現在は音楽に携わる仕事をしている。

彼の歌は、進行過程の作業の関係で聴くことはできなかったが同期として誇らしかった。

「音楽は聴くもの」と思っていたゆきたんくに、「音楽はやるもの」という姿勢をくれたのは彼だった。

彼はリコーダーを教えてくれた。

そのおかげで楽譜も初見で読めるようになった。

マルチ・プレーヤーのマイク・オールドフィールド氏の楽曲との出会いで、様々な楽器に興味を持ち、手を出した。

彼がいなかったら、自分の趣味の中で楽器を奏でるということが無かったと思う。

秋川50の2次会は同期会である。

Y君と同席し、当時の思い出や感謝の気持ちを述べた。

「・・・?」

残念なことに彼は覚えていなかったのである。

びっくりしていたY君。

同様に私がかつての陸上競技部の仲間に感謝された話もでたが、私が覚えていなかった。

若い時の思い出は、自分にとってどうだったのかが記憶に残っているものなのかもしれない。

だと言って、Y君への感謝の念は薄まることはない。

自分の趣味を広げてくれただけでなく、現在の仕事にも役立っているのだから。



ヨハン・パッヘルベル 


 楽器ができなかった自分に夢があった。

「パッヘルベルのカノン」を吹いてみたい。

それは夢であった。

ソブラノリコーダー一つ満足にできなかった中学生時代のゆきたんくの夢であった。

上に肖像画を載せては見たが、誰と問われたら答えられない程度の知識である。

曲は大変有名であるが、その顔も分からないゆきたんくである。

そのパッヘルベルがその音楽家の生涯の中で唯一書いたカノンが「パッヘルベルのカノン」だという。

Y君のおかげで手に入れることができたスキルを試す時がやってきた。

偶然楽譜を手に入れることができたからだ。

リコーダーの楽譜である。

これにギターバートを加えて5重奏を試みたのである。

出来は荒いが、まあゆきたんくなのでしょうがない。

ソプラノリコーダ・パート 2つ。

アルトリコーダー・パート 2つ。

クラシックギターパート 1つ

では音源をアップする。

お時間のある方はリンクをクリックしてお耳汚しをしていただきたい。

今から14年前の録音だ。

時間のある時に録り直してみたい。

ゆきたんくの弾いた パッヘルベルのカノン。

Y君に感謝。

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心落ち着く8…ラスト

2015-10-21 23:22:32 | 

ライムストーンの家。

これを見ると心落ち着くということで始まった「心落ち着く」の最後の投稿だ。

初めて意識したのはコツウォルズではない。

「ライムストーン」とか「蜂蜜色の家」とか言う言葉を知らない時に、すでにその建築物を見ていたのである。

それから、この色が頭の中に住み着いた。

まずは先日の投稿のウッドストックから東へ3.4km行った場所にある教会だ。

やはり家の建材としてライムストーンを使っている。



シップトン・オン・チャーウェルにあるホリークロス・チャーチ → Map

 

 
お墓も芝生の中にあって綺麗。 墓石もライムストーンかな・・・


 さて、話を最初に戻すが、2枚目の写真の中に、初めて意識した建物が写っている。

後姿なので、正面からの写真を載せよう。


 


シップトン・マナー(2011年12月) → Map


 オックスフォードの中心から北へ直線で11㎞。

シップトン・オン・チャーウェルという村がある。

そこに16世紀から建っている領主の館である。

この「領主の館」のことをマナーハウスと呼ぶ。

この建物は1995年まで、ヴァージン・マナー・スタジオという名前で機能していた。

ゆきたんくのフィバリット・アーティストのマイク・オールドフィールド氏のソロデビューアルバム「チューブラーベルズ」が誕生した場所である。

日本人では、平成元年ごろに大ヒットを飛ばした4人組の「たま」がここでアルバムのレコーディングをしている。

マイク氏の何で知ったかは忘れたが、とにかく最初に見たライムストーンの建物が旧ヴァージン・マナー・スタジオなのである。

最初に訪れたのが2003年8月9日。

熱波の最中で気温は40℃近かった。

いろいろ探したが見つからない。

この辺りで一休みと車を停めて車外に出たが、暑いのですぐ木陰に入る。

ふと後ろを振り返ったら目に飛び込んでしたマナーハウス。

その時の写真がこれである。


 


旧ヴァージン・マナー・スタジオの建物(2003年8月)


 何かホッとした。

やっと見つかったこと。

30年の夢がかなったこと。

いろいろと重なったが、建物の色が優しかったことも大きいだろう。

そう、詩人、ウィリアム・モリスがイングランドで一番美しい村と言ったビブリーの建物の色。

ゆきたんくは、それをシップトン・オン・チャーウェルで初めて見たのである。

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心落ち着く7

2015-10-20 23:24:04 | 

オックスフォードから北西へ18㎞行ったところにウッドストックという町がある。

The Cotswolds AONBの右側にあるオックスフォードシャーの西側に位置する街だ。

ちなみにAONBとはArea of Outstanding Natural Beautyの略である。

日本語に訳すと「特別自然美観地域」と言ったところか。

そのすぐ隣のウッドストックでお世話になったB&BがThe Duke Of Marlboroughだ。

マルボローの公爵という意味である。



B&B ザ・デューク・オブ・マルボローだ。 ライムストーンでできている。 → Map


そこから3㎞行ったところに世界遺産のブレナム宮殿がある。

この宮殿の主人がマルボロー公爵なのだ。

その中にはイギリスの首相を務めた、有名なウィンストン・チャーチルがいる。 



このブレナム宮殿もライムストーンでできている。その規模の割に落ち着いた雰囲気なのはそのせいか。


 ウッドストックというとアメリカのニューヨーク州ベセルで行われた40万人を集めた大規模野外コンサートの名前として知っている方が多いと思う。

 実際、ゆきたんくもイギリスにウッドストックという場所があるとは思わなかった。

イングランドの小さな街、ウッドストックを知ったのはブレナム宮殿の所在地としてではなかった。

その話は次回に。

 

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心落ち着く6

2015-10-19 23:05:40 | 

またまたボートン・オン・ザ・ウォーターのお話。

ゆきたんくの中で一番最初に行ったコツウォルズがここだから外せないのである。

ライムストーンの家並みは応えられない。



どうですか。


これもどうですか。


これは ん?


 この3枚の写真はボートン・オン・ザ・ウォーターの街を小さくしたモデル・ビレッジという場所だ。

ライムストーンを小さく加工して、本当によく造ってある。

ゆきたんくの右隣にある建物はバプティスト・チャーチだ。

本物の写真はこれである。



教会前にゆきたんくが立っている。


 最初の2枚だけで、コメントでとぼけておけば、ミニチュアとは気づかれないほど精巧な造りである。

そう、モデルでも心癒されたゆきたんくであった。

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心落ち着く5

2015-10-18 23:15:01 | 

心落ち着く3でビブリーのことを書いた。

スワンホテルとガーデンが綺麗だ。

8月のビブリーの写真だ。

12月のビブリーもよい。

まぁ、ガーデンは殺風景だという予想をしていた。



建物に絡まる蔦類は常緑のものと枯れるものがあることを知った。(蔦かどうかは正確には分からない)


予想に反して、緑が植わっている。芝も健在だ。これはこれで良い感じだ。


 街中を歩く。

ライムストーンの家が立ち並ぶ。

それだけで心がホッとするのがコツウォルズの良い所だ。

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秋川50

2015-10-17 23:01:32 | 東京都立秋川高等学校

ゆきたんくの母校。

東京都立秋川高等学校。

2001年閉校である。

ゆきたんくを大きく変えてくれた全寮制の高等学校である。

その秋川高等学校創立50年を記念して式典が開かれた。

諸先輩を始め、何人ものOBがスタッフとして骨を折って実現したものである。

誠に頭が下がる思いだ。

その式典の中で胸の中を去来したものは言葉や文章では表せないし、そのような能力をゆきたんくは持ち合わせていない。

いつもながらの感想を書こうと思う。



会場 中野ゼロ 


 式次第に沿ってお話をいただく。

会場内には1期から34期までのOBが一同に会している。

もちろん全員出席ではない。

しかし、秋川が好きでたまらない者たちが集ったことは間違いない。



1年生のいる1棟の造り。涙が出てきた。学習時間によく漫画を読んだものだ。


寮の2階と校舎を結ぶ渡り廊下。ここに同期のやつらと社会科教師の車を運んだこともあった。


この校舎は建て替えで無くなり、新しい寮棟も取り壊された。

そして、毎日毎日、ハンマーを投げていた昼礼場も今はない。

秋川高校で過ごした時のことを思い起こしながら、濃い時間を過ごした。

卒業以来の友人の顔を見ながら、当時の関わりについて思い出す。

あぁ、こいつのおかげて今の自分があるんだ。

 相手は覚えていなかったけれど・・・

あぁ、こいつのおかげて、今の仕事がやりやすいんだ。

 相手は覚えていなかったけれど・・・

ゆきたんくとのりたんの仲人をしてくれた先生も奥様と一緒に来ていてお会いすることができた。

この先生が自分をここまでにしてくれた。

秋川高校だからこその3年間というのを持った人間が集った中野ゼロ。

その日は、自分のパワースポットになった。

ありがとう、東京都立秋川高等学校。 

 会の実行委員会の皆様のご苦労に深く感謝します。

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