女房のお迎えに行った。
そう、松戸工兵学校跡(松戸中央公園)で待つ。
横を見る。
うん、良い雰囲気だ。
なんか、歌を歌いたくなってきた。
練習するかな?
女房のお迎えに行った。
そう、松戸工兵学校跡(松戸中央公園)で待つ。
横を見る。
うん、良い雰囲気だ。
なんか、歌を歌いたくなってきた。
練習するかな?
今日もお迎え。
しかし、いつもと雰囲気が違う。
人が多いのだ。
19時35分。
いつもと同じくらいの時刻だ。
人がいるだけで、何か嬉しくなってくる。
人間が孤独の中で生きていけないということが根底にあるのも感じることができたということか。
いつもより照明も明るいような気がする。
今日もお迎え。
車の中で待つ。
場所は、松戸中央公園横。
かつての松戸工兵学校跡。
この場所が好き。
静かだから。
ただ暖かくなってきたから、パフォーマーが出現する。
そう、松戸中央公園の啓蟄はもうすぐなのだ。
ギターだったり、バイオリンだったり、金管楽器だったり。
うん、それもいいか。
写真を撮ったらいやに明るく写った。
今日もお迎えである。
松戸中央公園近くに勤めている女房である。
もちろん、待つ場所は旧松戸工兵学校。
そう、軍事施設の跡地である。
いつもは、中央公園広場と聖徳大学に正門につながっている道を撮る。
今日は大学校舎で、いつも使われていない門の前に車を停めたのでそれを撮った。
意外に怖いものである。
もう少し暗い感じだったのに、これだけ見えると何とも不気味である。
うん、いつもと違うと怖い。
かつて松戸市の相模台には、松戸工兵学校があった。
そう兵隊のエリートを育てる施設だ。
その場所は現在は文教地区である。
大学、中学校、小学校、裁判所、拘置所など公的な使われ方をしている。
かつて工兵学校の下士集会所や物干し場、運動譲渡して使われていたところには、公務員住宅が建っている。
そしてその住宅も現在はだけも居住していない。
その周囲に仕切りが建てられて中に入れなくなってから数年がたつ。
いよいよ取り壊しが始まるのだろうか。
聖徳大学校門近くの住宅。
ずっと、そう思っていた。
柏市の馬糧倉庫跡と考えられていた施設の正体はそうではなかったことだ。
柏市教育委員会が中心になって調査をした結果、
「旧陸軍高射砲第二連隊照空予習室」として使われていたことが分かった。
現在マップにも、そう表示されている。
昨日訪れた、旧吉田家住宅の休憩場の書庫にあった本を紹介する。
照空予習室は当時としては大変ハイテクな施設である。
柏:千葉県柏市根戸…現存(高射砲第2連隊)
加古川:兵庫県加古川市野口町水足…現存(高射砲第3連隊)
千葉:千葉県千葉市稲毛区小中台…1972年解体(陸軍防空学校)
浜松:静岡県浜松市中区城北…1964年解体(高射砲第1連隊)
甘木:福岡県朝倉市一木・屋永…1970年代末解体(高射砲第4連隊)
会寧:朝鮮咸鏡北道会寧群碧城面五鳳洞…不明(高射砲第5連隊)
平壌:朝鮮平安南道平壌府平川里・九井里…不明(高射砲第6連隊)
立川:東京都村山市学園…1960年台中ごろ解体(高射砲第7連隊)
屏東:台湾屏東氏宗蘭…不明(高射砲第8連隊)
何の施設か?
まだ十分に資料に目を通してはいないが、「高射砲を打ち上げる際には、飛行機の位置と進む速度について得られた情報を機械式計算機にかけて、砲弾が適切な位置とタイミングで空中で破裂するように指揮が下す・・・」ために作られた施設のようだ。
柏市西部消防署根戸分署として現役の頃の写真
ゆきたんく撮影 2005.10.22
グーグルマップで、現存するもう一つの建物を確認した。 → Map
現ハリマ化成株式会社の工場の敷地ないで倉庫して使われているそうである。
丈夫な建物なので、このまま残ると思われる。
柏市のものも、戦争遺跡として歴史の証人として保存の方向だ。
最近千葉県で解体された、川光倉庫(旧陸軍気球連隊格納庫)は実に惜しかった。
しかし、保存に十分な資金を援助できる訳でもないので大きなことは言えない。
地方自治体が、歴史の証人として残してくれることを期待するばかりである。
今日は、朝の食卓で食事の横にチョコレートが置いてあった。
うちではあまりやらないことなのだが・・・
うん、決まった。
今日はお迎えに行くぞ。
足も状態が良くないので、早く家に帰りたいよね。
そしてお迎えに。
松戸市の相模台というところに上がる坂が何本かあるが、そのうちの一つに地獄坂というのがある。
現在の松戸中央公園はかつて、陸軍松戸工兵学校だった。
公園の入口には、門柱や歩哨楼が残されている。
そこと戸定通り(戸定館というかつて徳川昭武が家族と暮らした邸宅につながる通り)と相模台を結ぶ坂のことを地獄坂と呼んだのだ。
工兵学校の学生が、軍事訓練を終えてくたくたの時に学校に向かっての坂を登っている。
そこへ上官の声「走れ!」
命令は絶対である。
きつい角度の坂およそ300mをダッシュするのである。
それで地獄坂。うん、納得である。
だって、自動車でもきつい感じがするのだもの。
そして、ただ知る人ぞ知る名前だと思っていた。
さて、お迎えの話だった。
近くまできた時にナビを見た。
地獄坂って正式名称だったのか?
目に飛び込んできた名前を見てびっくり。
「地獄坂」
木場にある「木材合板博物館」に行ってきた。
展示や、ワークショップなど子供たちが興味を持って見学・参加できる内容が溢れている。
さすが日本と思わせる展示があった。
これは木製飛行機である。
第二次世界大戦中に使われたものだ。
さすが日本は大したものだと思ったゆきたんくであるが、この機体の形が日本的ではない。
解説を読むとドイツ軍のUボートにより多くの物資を沈められたアメリカが物資・人員補給をする目的でハワード・ヒューズの元で開発された「ヒューズH4ハーキュリーズ」という機体である。
高度25m、最高速度100マイルの記録を残して1回切りの飛行を終えた。
なぜ木製か。
戦略物資の金属の使用が認められなかったからである。
そしてボーイング747型機とほぼ同じ大きさであった。
世界最大の木製飛行機としてオレゴン州マクミンヴィルのエバーグリーン航空宇宙博物館で展示されているという。見たいものだ。
ちょっと前に素敵な景色を見たことを忘れていた。
もう、その日のネタが用意してあったから後回しにしたのだけれどね。
11/25(土)に陸上自衛隊松戸駐屯地に行って来た。
そう、陸軍松戸飛行場跡だね。
そこには当時使われていた遺構がいくつかあるので楽しみにしていた。
ただ、その前に目を奪われてしまったものがあったのでそれに触れたいと思う。
よく青い空と白い雲のコントラストが取り上げられるがここで見たのは違ったのだ。
「きれい・・・」
それ以外は浮かばなかった。
少し前に同様の投稿をしたが、まさにそれだった。
この通りの名前がある。
「いちょう通り」
シンプルで良い。
やっと行ってきました。
松戸飛行場跡。
現陸上自衛隊松戸駐屯地。
この辺りには松飛台(まつひだい)と言う地名がある。
これはかつての松戸飛行場からきているのだ。
正式には「逓信省航空機乗員養成所(通信省松戸飛行場)」という。
細かい歴史はたくさんあるのだが、それはさておいて今回はやっと訪問できたということを伝えよう。
1年に1回の公開日
かつての飛行機格納庫なども現役の倉庫としてしの姿を残しているのは貴重である。当時の格納庫が2つ、そして給水塔が1つ、庭園等の残されている。
新京成伝説の軌道を挟んだ東側には「陸上自衛隊関東補給処松戸支処」があって、長らく飛行機等が置いてあったが、この日にはもうないことが分かった。
あるうちに見ておくことが大切だと改めて思った。
足が動くうちに日本国中を回らねばと思う。
昭和20年3月10日。
東京は焼け野原になった。
あの東京大空襲である。
wikiを紐解けば
死者8万4千人
戦争継続の意思をそぐことを主目的に、一般市民(非戦闘員)を殺戮したのである。
木造家屋を焼くために、日本向けの油脂焼夷弾を研究開発した。
3月10日をはじめとする大規模な空襲は5回あった。
大小含めて合計では106回の空襲を受けた。
東京都墨田区にある飛木稲荷神社に昨日行って来た、
飛木稲荷神社 → Map
その神社の中に祀られているのが、ご神木のイチョウである。
東京大空襲の中、わが身を焦がして、懸命に火災を食い止め、町の延焼を防いだ。
西側からの業火で焼かれた。
戦後78年経っても、東京大空襲の傷跡は残っている。
そして多くの人か救われたということである。
戦後数年を経て、緑の芽を吹きだし復活した。
「身代わり 飛木の焼けイチョウ」である。
ゆきたんくも人の役に立ちたいな。
さて、9月2日の訪問記第3弾である。
1回目は「ボイラー室」
2回目は「発電室」
3回目は「物干し場」だ。
これが物干し場。
道路側(フェンスの外側)から見ていた時には3列くらい見えていた。
内側から見るとこんな感じなんだな。
しっかりしたコンクリート柱の上に、金属の棒が留めてある。
そこで、奥の2列を見に行こうとした。
突如戦闘機の音が唸りを上げていた。
黄色と黒のツートンカラーの機体が、ゆきたんくを威嚇している。
おまけに、この戦闘機、口がついていて威嚇音をカチカチカチと鳴らしている。
爆撃に弾は使わないが、液体毒物で攻撃してくるやつだ。
ゆきたんくは物干し場の奥を諦めた。
毒攻撃を受けたら最後、アナフィラキシーショックを起こす恐れがあるのだ。
正体は自分の小指ほどの大きさのスズメバチだった。
受付のある建物。戦跡かどうか分からなかった。
正体は自動車車庫で鹿島海軍のものだ。天井の鉄骨が渋い。
刺されまいと、倉庫まで逃げてきた。
写真を撮って、「物干し場」のうっ憤をはらしたが、何か立飛(立川飛行機)の敷地にある戦時中から使われている建物に似ていると思った。
2021年11月27日 一式双発高等訓練機の公開 → Map
9/2(日)に旧鹿島海軍航空隊跡に行ったことを書いた。
先日は旧鹿島海軍航空隊跡のボイラー室について書いた。
今日はその隣に鎮座している、発電室についてだ。
旧鹿島海軍航空隊発電
こんなに朽ちてしまっても、その中に入ることが許されている。
壁やトタンなどはボロボロだが、鉄筋がしっかりしているからなのだろう。
遠目に眺めていたスタ―に近くで会えるようなワクワク感の中近づいた。
発電機の台座だけで、機械はもうなかった。
毒ガス島と言われる大久野島の発電所跡に行ったことがある。
発電機の台座は残っていたが、機械はなかった。
計器盤のようなものがあったが、戦後ここが病院として使われていた時のものだろう。
あと当時をうかがうものは壁についているスイッチかな。
戦後80年にもなろうというのに、頑張っている遺構。
そう、このように朽ちていくばかりの物が、撤去されずに残すという選択をしていただいたことに感謝している。日本人は、もっとこのような史跡に触れるべきだと思う。
ゆきたんく号が帰ってきた。
「お帰り。」
さっそく働いてもらう。
病み上がりなのだが、頑張っていただく。
今日はい稲敷にでかける。
そう、お寺に卒塔婆をいただきにあがるのである。
そして、そこから車で30分ほどのところに「鹿島海軍航空隊跡」がある。
予科練のある阿見の隣りの美浦村だ。
旧歌詞見海軍航空隊、ボイラー室跡。
ボイラーね。
あっぱれ美浦村。
今までここを訪れても、遠目に眺めるだけで中に入るなどとんでもないことだった。
戦跡マニアが内緒で入ることがあってもゆきたんくは我慢した。
行った時に建物が崩れでもしたらと思ったのである。
ここが今年7月21日から一般公開になる。
跡地再生のためにクラウドファンディングを立ち上げたという。
何にしろ、歴史の証人のような古(イニシエ)の遺構。
それを保護管理していただけるというのは夢のようなお話。
これからもどんどん綺麗になっていくのだろう。
次回来る時が楽しみである。
追浜にある深浦湾に残されている桟橋がある。
海軍航空技術廠で使われていたものであろう。
波も穏やかで、水上機の離着率に適していたことから横須賀航空隊が開設され海軍航空技術廠が設置されるに至ったとのこと。
当時を偲ばせるものとしての一つが桟橋である。
これは現役なのだろうか。
周囲には船が停泊されていた。
桟橋 → Map