伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

今は昔

2008-07-31 23:15:50 | Weblog

えーっ、千葉県野田市のシリーズが続いています。

最近たばこを購入するためのカードとか、値上げとか、訳の分らない話が多い。
というよりも、ゆきたんくはタバコを吸わないので興味がないと言った方が正解に近い。

日本専売公社というのが1985年まであった。現在の日本たばこ産業(JT)の前身である。

 かつて存在した特殊法人で、「三公社五現業」の一つだった。

昔、社会科の時間に聞いたことがあるような言葉「三公社五現業」ってなんだったっけ。

 調べてみた。
三公社は、日本国有鉄道→JR
       日本電信電話公社 → NTT
       日本専売公社 → 日本たばこ産業(JT)

五現業は、日本郵政公社に移管の後
                →日本郵政及び傘下の4事業会社に分割・移管
       国有林野事業
       日本銀行券、紙幣、国債、印紙、郵便切手、郵便はがき等の印刷
       の事業     → 独立行政法人国立印刷局に移管
       造幣事業 → 独立行政法人造幣局に移管
       アルコール専売事業 → 日本アルコール産業株式会社となる

結局、その時その時の都合の良いように形が変わってきたのだと考えればいいのか・・・。

 えっ、野田市に何の関係があるかって?
そうでした。離合集散はいたるところであるが、後始末がどうもね。


専売公社跡地(避難場所)の表示

という、ゆきたんくなりの感じ方かもしれない。千葉県野田市の避難場所である「専売公社跡地」看板を見つけ中(最初の写真)を覗いたら一抹の寂しさを感じた。

「アパートの部屋の中が、前に住んでいた人が荷物を持って出て行った。大家さんは何もやっていない。」という感じだ。跡地入り口の門はボロボロ。新品のぴかぴかである必要はないだろうが、普通に開け閉めできるコンディションだといいと思う。
 中は草が生え放題。敷地内の古い建物はそのまま。跡地であり、史跡だというカテゴリーならばしっかりと保存してほしい。専売公社が歴史を閉じて23年。ずっと放って置かれたのだろう。同じ市内の旧関宿小学校跡地のように活用されないのだろうか。最も、土地の所有はどこなのかでも変わるだろう。

 

旧専売公社跡地

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いよいよ8月

2008-07-30 23:29:25 | Weblog

日本人にとって、忘れてはならない日がある。
そう、8月15日。終戦記念日である。
太平洋戦争に負けた日であるが、敗戦とは言わず終戦という。

テレビで終戦記念日に流される、昭和天皇の玉音放送は何回か聞いたことがある。
つまり、日本が戦争を終わらすために天皇陛下がご英断をされたということだ。
その英断の影にいたのが、終戦時に内閣総理大臣であった鈴木貫太郎氏である。


鈴木貫太郎氏の墓

鈴木氏は、大正~昭和中期までの軍人であり、政治家であった。
早くから海軍を志した。卒業後、日清・日露戦争で活躍。水雷戦術に優れ、特に日露戦争では、駆逐隊を率いて戦艦3隻を撃沈するなどの戦果を挙げた。

その後、海兵校長・海軍次官などを歴任し、特に海軍次官の時には「シーメンス事件」が発生、今で言う収賄の類だ。政治問題に発展し、八代六郎海相を補佐し、山本権兵衛や斉藤実らの海軍の長老を次々と待命とするなど、強硬な態度で臨んだという。あっぱれである。待命は半年の猶予を持つ事実上の解雇ではないか。
東郷平八郎元帥も抗議したが、突っぱねられたという。
国を動かす者は、それくらいの厳しさを持っていないといけないだろう。鈴木氏は自分にも厳しかったことが伺える。


墓の周りを囲むように設置されている貫太郎氏の略年譜

その後、連合艦隊司令長官や海軍軍令部長などを歴任し、侍従長として7年間、2.26事件で重傷を負うまで、昭和天皇の側で仕えたという。

ここまでで信頼の厚い人物であることは理解できる。
その鈴木氏が79歳の時だ。昭和20年の4月、沖縄で激しい戦闘が繰り広げられていたころ、首相指名の依頼があった。高齢を理由に固辞したが、天皇直々に「どうかまげてやってもらいたい」などと説得されて首相の座に着く。天皇陛下の信任厚い人間であった。

その年、原爆投下による甚大な被害やソ連の満州侵攻が起こった。それでも徹底抗戦を主張する陸軍に対して、鈴木は天皇に「聖断」を仰いだ。その結果、終戦を迎えることができた。その後鈴木氏は暴徒に官邸、私邸を焼き討ちに遭ったが、危うく難を逃れ、関宿に居を構え悠々自適の静かな生活を楽しんだ。

終戦後2~3年の時間だった。

 現在は野田市関宿の実相寺に眠っておられる。

 


鈴木貫太郎記念館

 

 

実相寺

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ずっと・・・

2008-07-29 23:45:48 | Weblog

野田市(旧関宿町)の小さな街道に、お地蔵様がいらっしゃる。
きっと後から作られたであろう小さな祠に守られて・・・

 お地蔵様は、一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供がよろこぶお菓子が供えられていることがある。親しみをこめて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼んでいるが、詳しいことは知らない方の方が多いだろう。
調べてみた。


きれいなお地蔵さまだ。
赤い字は作られた当時のものだと言われている。

 地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、梵名クシティ・ガルバは、仏教の信仰対象である菩薩の一尊だ。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言うのだそうだ。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされる。

 今までは何気に「お地蔵様」、「お地蔵さん」と読んでいたが、随分と深い意味があるのだなと思った。もっとも宗教に関係することで意味の軽いものはないだろう。また地蔵十王経によれば閻魔大王の化身ともされている。地獄の門番の化身にはどうしても見えないが、そうであれば道端ではなく、分岐点に立っているお地蔵様の持つ意味はどうなるのだろう。

 お地蔵さまの役目は、お釈迦様が亡くなってから五十六億七千万年後に救済者弥勒菩薩が登場するまでの間、私達を救うことだという。
 釈尊が入滅し、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの仏のいない時代に、地獄・飢餓・畜生・阿修羅・人・天の六道(りくどう)に輪廻(さまようこと)して苦しむ人々を救うという菩薩だという。実際に真言宗のお寺では、六地蔵が必ずある。



道の分岐点に立つお地蔵さま

 上の写真を見て思うことだが、現在では何軒かの家屋が建っている。このお地蔵様が作られた頃はきっと何もなかっただろう。このように舗装された道路も、植え込みも存在しなかったはずだ。

 お地蔵様を良く見ると、「是より右は大町通」、「是より左は木町通」と刻まれている。道しるべの役割も果たしていたようだ。それらの字の下には、「桐ケ作村施工」と施工年月日(はっきりと読み取れない)があるから、刻まれた道案内は最初からあったと考えられる。今日の項を書きはじめた時、深く考えすぎて、分岐点に立つお地蔵様の意味を捉えようとした。そんなことではなく、道を確かめたり、ここを通る時に拝んだりしたのだろう。道行く時にお地蔵様のありがたみ、日常に幸せに感謝していたのに違いない。

 

 

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その昔

2008-07-28 22:45:04 | Weblog

「…夜の交通安全を守ったんだろうなぁ。」と思う常夜灯。

 様々な場所に遺されているが、元の場所に設置されているかどうかははっきりしないものが多い。写真の常夜灯は、流山街道(千葉県野田市山崎)にあるものだ。ここを所用で通るたびに目にしていたものである。コンクリートは土台だけで、そこから上は木でできるいる。屋根は金属でお覆われているが昔はどうだったのだろう。
 ある家の囲いが、鮮やかな水色のトタンなので場所を見失うことはない。
何の説明もないが、野田市の史跡みたいな扱いか、私物ということで同じ場所にあるのだろうと思っていた。

 ある日、ここを通りかかった時に交通量が少ない時があった。この場所で自分の車1台しかいない時があったのだ。すかさず道路脇に車を停め、この常夜灯をアップで撮った。中に白熱電球がはまっていて、屋根の端には電線がつなげてあるではないか。


アップですぅ

 「もしかして、これは点くのかな。」と考えもしたが、いつの間にか忘れていた。

 その後もいくつか常夜灯を見つけたが、ここのやつほどのインパクトはなかった。
 所用で、この常夜灯の前を通ることは何回もあったのだが、目も留めないことが多くなった。
 ある日のことである。関宿方面に夜から出かけ、松戸方面に戻っている最中にこの常夜灯を見つけた。夜で薄暗いはずなのになぜ見つけることができたか。

 常夜灯にハマっている白熱電球が点灯していたのだ。
 とても不思議な光景だった。いくつもの時代を超えて来たのかもしれないような常夜灯が、今現役として役に立っていることはうれしいことだ。

  常夜灯

 いつ行っても見れる常夜灯。不思議な存在感があります。

どなたか詳しいことを知っておられる方はいらっしゃるでしょうか。

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先人の苦労

2008-07-27 22:32:21 | Weblog

ゆきたんくが現在住んでいる所は、その昔水はけが悪く、洪水に見舞われたり、作物(稲)がとれなくなったりした所だそうだ。一枚目の写真は、松戸市博物館で学芸員さんの許しを得て撮った写真だ。下の写真は現在の様子。ほぼ同じ位置といってよいと思う。

 話を戻そう、大雨の際には洪水になる要素がたくさんあるだろう。農業用の水路はあったが、藻や葦などで、川がせき止められ、水が溢れるのだという。
 あの溢れた川は現在の坂川だ。逆さまに流れるので逆川というありがたくない名前も頂戴している。ここらの住民は、坂川の下流側の住民にお願いした。水が溢れた時のためにそれを流す樋門を作ったり、新たに川を掘ったりしたいと。

 下流側の住民は大反対、自分達も上流側の人間と同じ思いをしたくないのは人情だ。また莫大な金と労働力がいるということで幕府に願い出ようとする者もいたが、江戸へ行くためには下流側の土地を通らねばならないので、邪魔をされたこともあるし、命を落とした者もいるという。

そんな様々な苦労を味わい、苦労、工夫して、現在の形になってきたのだ。


現在の様子

 ゆきたんくは、ここに住んで15年目を迎えるが、すねの真ん中まで水が上がってきたことが2回ある。どちらも台風の時であった。翌日は水は引いていたが、水が運んできた物の始末に追われた。

 道路も舗装されているので、しばらくすると元に戻ったが、あの当時はどのような状況だったのだろうか。

 先人の苦労があって初めて、後につづく若者たちに近づくのだ。

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どこまで・・・

2008-07-26 23:55:45 | Weblog

今年の夏も暑くなるのは目に見えている。
え?、もう暑いって。
その通りでございます。

 地球温暖化が叫ばれているが、もう人間の手には負えないほどの存在になっているのだろうか。ヨーロッパ方面はもう暑いという。イタリアでは40度を記録したのではないだろうか。赤道直下のインドネシアに住んでいる義兄は、「日本はモンスーン気候だからここよりも暑いよ。」と言っているが、それだけではない気がする。
夏の茨城(父の田舎)
カメラの絞りが自然にかかる日差しの強さ

 青空に浮かぶ雲が綿菓子のように見えるのを待っていた幼い頃。あの時の夏は宝物にように感じた。

 道路に見えた水溜りを、追いかけても追いかけても触ることが出来なくて悩んだ小学校1年生の頃。水は意思を持っていると信じていた。

 サンダル履きで足の爪を割り、痛みを感じながらも遊びの楽しさの方が大きかった小学校中学年の頃。夢中になると痛みを感じないことを不思議に思った。

 ヒーヒーハーハーいいながら、日の暮れるまで遊んだ記憶は、数え切れない。その乾ききった喉に、本の一口のヤクルトが美味しかった。

 夏って、沢山の思い出が宝物になる季節だったと思う。

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どっち

2008-07-25 23:56:48 | Weblog

 写真は、群馬サファリパークのフラミンゴだ。
フラミンゴの体の色、正確には羽毛の色は鮮やかな明るい紅である。
 この色はフラミンゴの餌である藍藻類の色素によるもので、動物園で飼育する場合、飼料に色素を添加する事で保っている。

①しかしねぇ、そんなにまでして鮮やかなフラミンゴにすることが良いのだろうか。
動物園の動物は「見世物」には違いない。一般的には自然な形態を見てもらうための工夫はしているだろう。白熊の所にはプールを作ったり、ナマケモノの所にはぶら下がるための枝をを用意したり・・・。 動物園では、野生のフラミンゴが摂っている栄養を補填した餌を与えているのだというが、そんなことをしなくてもフラミンゴは生命を保つことはできるだろう。

②もともとフラミンゴという名称は、ラテン語で炎を意味するflamma由来しているのだという。ならばフラミンゴは自然界に属する自然な姿の紅色でなくてはならないだろう。よって飼料に色素を加えることは必須だ。

さて、皆さんの意見はどちらですか?

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AED

2008-07-24 22:44:13 | Weblog

 とは、
心室細動とは心臓の心室が小刻みに震えて全身に血液を送ることができず、心停止の一状態だ。 心臓は電気刺激が順番に伝わることによって規則的に収縮し、血液を送り出すポンプの役目を果たしている。
 心室細動ではこの電気刺激がうまく伝わらず、心筋が無秩序に収縮している状態だ。
 これに電気ショックを与えて、心臓の働きを戻すことを試みる医療機器のことをAED(Automated External Defibrillator)という。

 自分が初めて心室細動という言葉を聞いたのは、高円宮様がお亡くなりになった時である。少しだが、サッカーに興味を持ち始めた頃で、高円宮杯という冠試合があることも知った。その直後に、テニスをやられた時に心室細動で亡くなったのだ。

 スポーツに深い造詣のあった宮様のことだから、こういう形で少しでも安全にスポーツが出来る環境が整えば喜ばれると思ってのことだろう。

 会社で学校で、官公庁でAEDの研修は必修になってきた。
写真のAEDは北陸道の新潟県名立谷浜サービスエリアにあったものである。公的な場所に頒布され、様々な所で研修が行われ、そして何よりもその物があること。そういう環境は良い環境である。このような三位一体の取り組みが国をあげて行われることは良いことである。

 たまには、やるじゃないか日本。

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意外

2008-07-23 20:25:22 | Weblog

いやぁ、夏の暑い時に暑い話で恐縮する。
旅行で青森に行ったが、「東北地方は涼しい。」というイメージは崩れ去った。
東北自動車道を北上していくと、道路沿いにデジタル電光温度計が設置されているのだ。それが、途中一泊した岩手辺りでは32℃となり、中尊寺の参道、月見坂付近で熱中症の症状が出始めたのだ。

 衣川荘という国民宿舎で、氷で頭を冷やし、夜中に何度もトイレに行くという体調であった。青森に行けば涼しくなるだろうという期待は・・・・

 高速の温度計は、33度、34度と上がっていく。「もうだめだ。この世のなごりに十和田湖を見たい。そしてゆきたんくに初めてハンマー投げを教えてくれた菅原武男さんの母校(毛馬内高校…現十和田高校)のある毛馬内に行きたい。」と大げさを装いながら寄り道をした。十和田湖畔は涼しかったような気がするが、車を停めたところがキャンプ地で公衆トイレがあり、それに駆け込む有様であった。

 青森は暑かった。十三湖畔にある「岩亮」という旅館に泊まり、夜の涼しさも手伝って体調が回復してきた。(そんなこと言って、五所川原の立佞武多は見に行ったのだ)そして次の日は竜飛崎に行くことにした。(結構無計画、弾力的扱いの旅行だ。)

そして竜飛崎は暑かった。しかし風の強いこと。体感温度は高くなく、これまでの旅程の中では快適であった。

 そして目が覚める出来事が・・・
 1枚目の写真は、竜飛崎にある歌碑だ。
♪ごらん あれが 竜飛岬 ♪
お聞きになったことがあるだろう。石川さゆり氏の「津軽海峡冬景色」の2番である。
この歌碑にある赤いボタンを女房が押したとたん、大音量で流れたのである。かなり強い風が吹く場所なので、音も大きめにしたのだろう。


日本三大潮流の津軽海峡の渦がイメージされた歌碑
真ん中の赤いボタンを押すと歌が流れる
ここをクリックすると聴けます

さて結論、歌で目が覚めたゆきたんくが最初に意識したのは意外・・・暑さだった。

 

竜飛崎

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無…夾雑物

2008-07-22 23:59:50 | Weblog

♪果てしない 大空と 広い台地の♪

松山千春氏の歌の歌詞である。北海道出身の松山氏らしい歌詞である。
もっとも彼の故郷は足寄であり、ゆきたんくが泊まった「あしたの城…豊富町豊徳」からはだいぶ離れている。

 しかし、今までで1回だけの北海道旅行で北海道らしいと思ったのはサロベツであった。


サロベツの牛と

 放し飼いの牛、何十頭いるのだろうか。それを一人で移動させる牧人。
素直に移動する牛。300kg以上もある牛が大移動である。しかし、台地はびくともせず、揺れも感じないのだ。

 


稚咲内漁港にて

足を西に伸ばしてみる。漁港にぶつかった。そしてその先は日本海だ。
サロベツは稚内のすぐ南にあるが、ここから仙台までの距離を西に行けばもうそこはロシアだ。

 ゆきたんくは、建物1つない風景を普段は見ることができない所に住んでいる。人が作った人工物の中で、当たり前のように存在しているのが建物であり、写真の中にあっても違和感がないものだ。しかし、あらためて松山千春氏の歌詞にあったような北海道の景色を見ると、建物も本来は夾雑物であるのかもしれない。

 夾雑物のない世界はすっきりとしている。
 あっ、ゆきたんくが夾雑物になっているか・・・。

 

 

稚咲内漁港

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消えていくもの・・・

2008-07-21 23:41:58 | Weblog

♪ペンフレンドの 2人の恋は こと・・・・♪

 爆風スランプの名曲「大きな玉ねぎの下で」の出だしである。
「大きな玉ねぎって何だ。」と思っていたら、日本武道館の屋根についている金色の宝珠のことだそうだ。
 ペンフレンドの2人が、初めて会うのは誰かのコンサート。その会場が日本武道館という訳である。このことについては、この歌が物語の本になるというので、そちらを見ていただきたい。


日本武道館正面玄関である。
この日は用事で立ち寄った。食堂でカレーを食べた。

この日本武道館のある北の丸公園には、史跡といえるものが沢山ある。もちろん、都の史跡と認定されている訳ではないので、人によってそう思えるものなのかもしれないが。


近衛歩兵第一連隊跡

 ここは皇居の近くだ。戦争から皇居を守るために、日夜守護に任じた日本陸軍最初の近衛歩兵連隊の跡があった。終戦と共に解散。目標を失った若者達はどうしたのだろうか。


千鳥が淵公園の麹町高等小学校校舎跡

 学校編成によりなくなった麹町高等小学校

 現在の学校は少子化で減っているね。
 ゆきたんくの母校は、小学校が単学級でやばい。
 中学校は統合でなくなり、高等学校は閉校でなくなり
と、母校がなくなってきているのであります。


千鳥が淵池畔の高射砲台跡
終戦後、蓋がつけられた。
この下に弾薬庫があり、穴から爆弾を引き上げていたようだ。

 今は、休憩所として弁当を食べる人のベンチになったり、某大学応援団の方の練習する時の台として活躍している。
しかし、当初の目的としては、もうお払い箱なのである。

 歳を取ったのだろう。人ごととして見ていた出来事が、自分の問題として捉えられるようになってきた。消えていく物の数も増えてきた。

 

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ものさし4(真実は・・・)

2008-07-20 23:24:14 | Weblog

昨日は無知の怖さについて述べた。自分を測るための物差しは、完璧なものはない。自分を客観的に見る力をつけることが大切だと思うのだ。

そして、日本人の自分を他国の人間がどのように見ているかを考えなくてはいけない。誤解を招くといけないので敢えて敷衍するが、自分を相手に合わせることを第一にするのではない。現在の自分の、通用するところとしないところを見極めることを言っているのだ。

 昨日は、他国の歴史の中で日本とのかかわりについても触れた。
自分は、自国についてどれくらい知っているのか考えてみた。
すると意外に知らないことが多いようだと思う。

 ゆきたんくは戦争については肯定はしない。しかし、過ぎ去った歴史については省みて今後の日本を考える糧にしなくてはいけないと思っている。

 謎が1つ。 戦時中の施設だ。
 千葉県の船橋市と習志野市にまたがるような格好で文教地帯がある。
東邦大学、東邦大学付属中学校・高等学校、日本大学生産工学部が連なっているのだ。その近くには市営住宅や自衛隊もある。
 そして「習志野の森」と呼ばれる、荒れ果てた土地がある。
最初の写真のあるように、立派な門がある。鍵がかかっていて中に入ることはできない。1月に1回、入ることのできる団体があると聞く。


門の横には、レンガの構造物が、この形は軍隊だ。

しかしつてがないので、外から中を撮影する形になった。

ここは元陸軍習志野学校の跡地である。習志野学校の本部の基礎や「動物慰霊之塔」がある。慰霊塔はまだ、本物を見たことはない。


本部建物の基礎と言われている。
なぜこうまで、壊されているのか・・・


毒ガス施設の可能性有りらしい

 遺構の状態から、意図的に破壊された可能性のある建物の基礎がたくさんある習志野の森。うがった見方をすれば、何かまずいことをした可能性があるらしい。

あくまでも「らしい」だが、一説には毒ガスの研究が行われていたとも。
この近くにある児童公園は、当時の弾薬庫を改造したものだが、しっかりとした造りである。証拠隠滅と思わずにはいられない。
 かつての戦争による他国との関わりを考える時、自分の国についてあまりにも知らなさ過ぎるような気がしてならない。

 戦争遺跡は悪ではない。私たちの反面教師でもあると思う。それらを糧にして、平和な国を国民全員で作ることができる世の中にしたい。

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ものさし3(無知)

2008-07-19 22:55:49 | Weblog

 仕事が一段落して、連休を迎えたので、頭や体の力を抜いてリセット状態にした。こうした時に普段考えている途中でやめてしまったことが蘇ってくるものなのだ。

 今回の題名を「無知」としたのは、知らないことというのは恐ろしいことだということを思い出したからだ。

 2002年の春、4日間の休みを利用して香港に行った。澳門(マカオ)やシンセンにも足を伸ばしたが、香港での出来事が忘れられない。香港についた時はもう夜の10時であった。香港島のホテルに着いたが食べ物がない。近くにセブンイレブンがあった。英語が通じるというので、片言の英語でカップヌードルを買い、ホテルで食べた。翌朝は空腹で目が覚めた。せっかくの香港なので朝は外食をすることにした。お粥の美味しい店があると聞いていたので、街中を物色した。それらしい店は地元の人で賑わっていた。現地語(広東語)の早口でコミュニケーションをとりながら楽しそうに食事をしている。

 勇気がなくて、その中には入っていけなかった。すぐ隣にファミレスのようなところがあったので入った。最初の写真にあるように、メニューは漢字で書いてある。中国のような簡体字ではなかったので読むには読んだが、なにか怪しい気がして・・・

 オレンジ色の紙に書いてあった品目は、全部最後に「粥」がつくものだった。しかし、分ったのはピータンだけだった。

 そして注文したものは粥ではなく、


ミルクティー



目玉焼きつきトースト


ポテトとソーセージ

である。

 こんなものしか注文できなかった自分にがっかりした。もっとできるものだと思っていた鼻の高い自分がいたことにも気づかされた。食事をしながら店員の方をふと見ると、アジア系の人ばかりではなく、バタくさい顔つきの人もいる。そして会話は流暢な英語だった。片言ではない。スピーディーな会話である。相手が変われば広東語で話している。そう、ジェッキー・チェンの映画の中のようである。

 旅行後に香港のことについて調べた。これがゆきたんくが旅行をする時に予習をするようになったきっかけと言って間違いない。

 まず、あの朝のメニューである。香港まできて、「こんなもの」という表現を使ったが、まずはお詫びしたい。「こんなもの」ではなく、1996年まではイギリスの植民地だった歴史がある。それが分っていれば、あのイギリス式のメニューだったことに気がついたはずだ。

 パン、ミルクティー、ソーセージ類・・・


ウェールズ「パンディ・イン」のミルクティー


ソーセージと卵とハッシュポテト

 2003年の夏に渡英した時、ウェールズのB&Bで食べた朝食と同じ構成である。イギリスでは「こんなもの」と思わず、感激し、香港では「こんなもの」と思ったのは無知であるがゆえ、香港のことを蔑視していた自分がいたのではないかと思う。

 香港の人たちが英語も堪能な訳も、レストランでは考えてもみなかった香港の歴史があるからだ。

 2日目の夜は、上環(ションワン)のホテル近くにある閉店間際の麺家(ミンガー)でワンタンと粥を食べた。ワンタンは、プリプリのまん丸で日本のワンタンの3~4倍のボリュームはあった。言いたいことは、ここの店主とのやりとりは英語だったことだ。何のことはない地元の人が英語を操っている。私と英語で話、同僚とは広東語でやりとりをする。その時に、「香港って・・・」とイギリスの植民地だったことに気づき始めた私だった。「英語が話せてすごいですねぇ」なんて話したらとんでもないことになることだった。最も学校教育の中では1997年までは英語の授業があったという。今では一部を除いて中国語の授業が強制的に入ってきているようだ。

 かつて日本は、朝鮮(この話の時の、南北の線引きが分らない)の方々に様々なことをしてきた。その1つに日本語を使うことの強制があった。戦時中とはいえ、思い上がったことをしたものだ。だから、朝鮮のお年寄りの中には日本語を話せる方がいる。それを日本人が「すごいですねぇ」なんて言った日には・・・

 考えただけでも恐ろしい気がする。

 そして何よりも忘れてはならないのは、香港がイギリスの植民地になる前は日本の植民地だったこと。そして1945年8月15日に日本軍が降伏し、すかさずイギリス軍がやってきたが、香港の方々はこれを記念して「香港解放記念日」として祝っているという。かつて日本軍に肉親を殺された方々が今でも多く住んでいるということを忘れてならない。

 他国にいく時には、その国の歴史を勉強する必要があるということだ。
無知と言うのは怖い。

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現役

2008-07-18 23:43:22 | Weblog

 前にコマーシャルで「何も足さない、何も引かない」というのがあった。それを形にしたのが写真のグラスではないだろうか。

 なんの変哲もないコーラグラスである。

 これは千菓進(ちかしん…ゆきたんく行きつけの喫茶店)のマスターが40年近く前に東京から持ってきたものである。
 40年前といえば、自動販売機があったかどうか、そして売っていたコーラが瓶か缶かも定かでない。ゆきたんくの古い記憶の中では、コーラはビン売りだったこと。児童販売の前面についている栓抜き器(栓抜きと栓のゴミ箱を兼ねたやつがあった。)で栓を抜いて飲んだり、栓の裏側のくじ(栓の裏側についているシートをはがし、そこに表示されているお金をもらえた)をしたりして楽しんだこと。

 どうやら、缶売りになる前に作られたグラスのようだ。
 シンプルでありながら、究極の美しい形だと思う。特に今日はトマトジュースを頼んだので、グラスの形が映えると思ったのだ。このようなグラスが、まだまだ倉庫の中に当時の新聞紙に包まれてあるという。
 そしてその新聞紙は抹茶に変色しているという。

 これからも現役続行である。

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職人

2008-07-17 23:28:34 | Weblog

今、深刻な物価高になっている。
原油高騰の折、様々な物品の価格が上がってしまった。

 写真はゆきたんくの、ラーメン店お気に入りナンバー1の「ラーメンハウス中島」のワンタンメンだ。醤油ラーメン店ではこの店の右に出る店があるだろうか。もちろん、ゆきたんくの舌がそう言っているのだから、別の意見は受け付けません。

 まあ、ラーメンだけでなく店主もお気に入りである。ここの店主はいわゆる職人である。スープ作りにかける情熱は半端ではない。

 ところがこの間(かん)、スープを捨てているという。
話はゆきたんくがカメラを出したところから始まった。なぜカメラを出したかというと、何か、この日のスープがいつもより綺麗に見えたからだ。「きれい」よりも漢字の「綺麗」が当てはまる琥珀色のスープである。
 店主が「いつもと違うでしょ」と言うので、何かあると思っていたら、味を維持するためにせっかく出来たスープも煮過ぎると味が落ちるので捨てているのだそうだ。

 価格高騰で、スープの原材料もガスも値上がりし、財布の紐が固くなった方々は外食を控えるからスープがさばけないのだ。

 素人でも知っていると思うが、家庭の味と飲食店の料理の味が違うのは、その作る量にあるという。同じ材料で作るのしても、一度に沢山作った方が味が良い。ここ中島でも、それは同じだろう。つまり、現在お客が減った状態でもスープ作りは、今まで同様に行わなくては、中島の味が出ないということだ。

 材料を減らし、現在の収入に見合った営業をすることで客足はますます遠ざかることはもとより、自分が作り上げた味を出せないことが嫌でたまらないという。

 この職人気質がすごくいい。どんな状況のときでも生き方を変えないことは素晴らしい。もちろん、頑固一徹でなく店を存続させるための創意工夫は怠らないことを付け加えておこう。

 

ラーメンハウス中島

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