伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

夏、復活?

2008-08-31 21:05:41 | Weblog

 再び暑い日が始まったことは前に書いた。
これから徐々に気温が上がっていくことを思うと、つらくなる。
まあ、このところ雷が多かったが、雨のおかげで涼しい思いをしてきたが、地域によっては被害を被られているのでお気の毒である。


なんだぁ、こりゃあ

 今日、長男のおーちゃんと休日のデザートを千菓進(ちかしん…ゆきたんく行き着けの喫茶店)で食べた後、家の近くに土手に行ってみた。昨日の降雨のためにどれくらい江戸川の水が増水しているかを見に行ったのだ。

 土手に上る坂には車がいつもより多く止まっていた。それらの車を抜いていって目に入った表示が「なんだぁ、こりゃあ」である。


このように、車は通れない。イプサム置き去り

 柵が有っては車では行けない。満腹で眠りについたおーちゃんを車に残し、カメラを持っていざ出陣だ。


あらら、土手を境に左が町中、右が江戸川
土地よりも水位の方が高くなっている。

夏模様の青空には似合わない景色が眼前に広がっているのだ。


河川敷グラウンドに続く坂道を降りた・・・

 おぉ、様々な施設が水没している。いつもはあと100mは移動しないと江戸川には着かないのに、目の前から埼玉県まで泳いでいけるではないか。


おーちゃんと遊んだサッカーゴールが・・・

これじゃあ、小さい子が遊んだら溺死する深さだ。
閉鎖もうなづける状況であった。

さあ、これから季節感はどう変わるのか。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感動バニラ

2008-08-30 23:45:40 | マイグルメ

昨日投稿できなかった感動バニラ。

今日も空では雲の奥で、光っている。
まあ短めの投稿ならばなんとかなるだろう。

いつも買い物に行くと、最後に回るのがアイスクリームのコーナーだ。
前は6個でいくらというのが、今は4個でいくらと、物価高の影響が出ている。

そのアイスクリームのコーナーで見つけたのが「感動バニラ」だ。


バニラの香りを強く感じはしないが美味い

 なんとのことはない、いつも買っているアイスクリームに「MOW」がある。
そのパッケージの「感動バニラ」と記されていたのだ。

はっきり言って感動はした。
しかし言葉に表すことの難しさがある。

美味かった。
また食べたい。

というのが正直な気持ちだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感動のバニラのはずが・・・

2008-08-29 20:15:38 | Weblog

 現在8月29日20時13分だ。
なぜこの書き出しなのか。
空が踊っているのだ。
ドンドコドンドコドンの世界だ。
今日の御題は「感動のパニラ」のはずだった。

先日、知り合いと雷の話をしていた。
 友達の家に4台のコンピュータがあって、そのうち3台が雷にやられ、テレビと電子レンジが壊れたという話を聞いた。まあ、相当近くに雷が落ちたということだ。

今、これを書いている時にもビカビカと空は光り、唸っている。

ひとまず、草稿で保存し、コンピュータの電源を落とし、元からプラグも抜いておく。

 30日5時35分
 おはうございます。昨日はあまりにも雷が凄かったので「伝えたんく」の投稿をやめ、雷の動画撮影をすることにした。
 もう、記事を書くのは諦めた。コンピュータが壊れるのは避けたい。
で、ネタは「感動のバニラ」ではない。

 動画を撮ったので見てほしい。
ゆきたんくの家の窓から撮った雷である。
動画を動画で見るのではなく、レタッチソフトでキャプチャーした画面だ。

では、連続9枚。


おっ、やってきた


おぉっ、延びてきた


おおぉっ、さらに…


枝分かれ


それが延びて


あっ、明るい


そしてまた延びて


拡がって


片方だけ延びて

まあ、私も馬鹿なことをやっている。20秒毎に動画を12も撮った。
そのどれにも、大小あれど光っているのが写っていた。
まあ、コンピュータはやめておいて正解だったようだ。

 この連続写真を見ると、雷が光って延びていく間に明るい時と暗い時があるのにはびっくりした。どんどん明るくなっていくと思っていたからだ。

 まだまだ、今までに目にしてきたもので実際のものとは違う理解をしているものがあるのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やぁ、びっくり!

2008-08-28 23:30:09 | Weblog

美味い卵

 日本人のご馳走の1つに卵かけご飯がある。
 そう書いたのは、他国の方々は、卵を生で食べることをあまりしないと聞いたからだ。今日ゆきたんくは10年ぶりくらいに「卵かけご飯」を食べた。

 先日、知り合いの仕事を手伝ったお礼にと、いただいた卵があった。
なんと箱入り娘ならぬ箱入り卵だった。16個入りケースとでもいうのだろうか。
下さった方は「これ、お礼ね。卵かけご飯で食べるための卵よ。」と言われていたと思う。生で食べて美味いというのは相当の卵だ。何しろ卵かけご飯などという食べ物を忘れていたくらいだから。


フレッシュ・エッグである。

 昨日はのりたん(ゆきたんくの奥方)がおかずをたくさん作ってくれていたので卵かけご飯はやめておいた。いつものように「ごはーん」と呼ばれて行った先のテーブルに乗っていたのが、最初の写真の卵である。

 ご飯は炊きたてで熱々、それものりたんが研究していた発芽玄米入りである。そのご飯の真ん中に箸でくぼみを作る。
卵を割る。
殻も厚手で丈夫だ。
健康そうな卵。
 ごはんのくぼみに卵を落とす。


黄身の色が鮮やかだ。味が濃そうだ。

 いつも食べている卵より、黄身のオレンジが濃い。白身も粘度が強くしっかりとしている。カラザなんて気にしない。本当に美味そうだ。

 黄身に箸で穴をチョイと開け、醤油を少し垂らす。黄身が気持ち膨らんだ気がする。それを箸でかき混ぜる。ご飯が熱いうちが勝負だ。


久しぶりの卵かけご飯。美味そー!

 味は最高だった。ご飯がどんどん喉の奥に吸い込まれていく感じだった。
胃がご飯を欲しがっているようだった。下さった方が言われたことが良く分った。
この卵ならば、どんな料理を作ってもうまいだろう。生卵でこんなに美味いのは初めて食べた。

 最後に卵の生まれた地を記しておく。このブログで迷惑をかけてはいけないので電話番号は載せないでおく。興味がある方は調べていただきたい。

 (有)押木養鶏場
   千葉県船橋市二和西5-8―5 

たまごやさん

 


 (有)押木養鶏場龍ヶ崎農場
   茨城県龍ヶ崎市貝原塚町2963 

たまごやさん

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌ヶ谷大仏

2008-08-27 21:01:53 | Weblog

鎌ヶ谷大仏

 26の時に埼玉県から千葉県に越した。
最初は船橋市に住んだのだが、アパートを探す時に新京成線に乗った。
松戸から北習志野までの初めての乗車がすごく長く感じられた。

「なんかゆっくりと走る電車だなぁ。」
 それもそのはず、新京成電鉄の松戸・習志野間はとくにグニャグニャしているからだ。その時は軍用線の軌道敷跡を利用しているなんて知らなかった。

 途中我に返ったのは、「・・・・・大仏ぅ~、鎌ヶ谷ぁ~大仏ぅ~でございます。」の車内アナウンスが聞こえたからだ。最初の方は聞いていなかったといって良い。

 それほど衝撃的なアナウンスだった。聞いたことがない大仏だったからだ。

 それから3年間、船橋市民として暮らした。その次は3年間鎌ヶ谷市民になった。その6年間のうちの5年間は鎌ヶ谷在勤だったのにもかかわらず鎌ヶ谷大仏のことは記憶から消えていた。

 松戸に引越したその年、父親の実家へ行った帰りに鎌ヶ谷大仏のことを思い出し、地図を頼りに行って見た。

 


墓地の中にある鎌ヶ谷大仏
蓮の花の台座から頭頂までは1.8mで、ゆきたんくの身長と同じ
周囲の墓石と比べると、その大きさが想像できると思う。

 地図に載っている墓地の前を通った。大仏らしきものは目に入らなかった。
途中で向きを変え、再び墓地の前を通った。また大仏らしきものは目に入らなかった。ゆきたんくの目は、そう7mくらいの大仏を想像して上を見ていたのだが空しか目に入らなかったのだ。

 近くの路地に車を停め、地図で確認しながら墓地に着いた。
すると目の前にかわいい大仏様がいるではないか。


正面から見た、鎌ヶ谷大仏

大仏様の横には鎌ヶ谷市教育委員会の解説版があった。
そこには

 通称鎌ヶ谷大仏と呼ばれている。
 安永5年(1776年)11月、当時鎌ヶ谷邑の住人福田文右エ門が先祖の冥福を祈 るため、江戸神田の鋳物師多川主膳に鋳造させた高さ1.8米の青銅で作られた露座の大仏である。
 その柔和なまなざしは、永く後世の人々に平和をさとすかのようである。これが開眼に当たっては上記福田文右エ門宅より大仏墓地に至る迄の約300米にわたる道路にござがしきつめられ、供養を行う関係者の歩行をたすけたという。これによっても当時の盛況をしのぶことができよう。

                         昭和48年10月  鎌ヶ谷市教育委員会

とある。 なんと一民間人が造った大仏なのである。
一般的には知られていない大仏であるが、ご先祖様に対しての気持ちをこのように表すことができることもすごいと思う。

 

鎌ヶ谷大仏

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松戸の戦争遺跡③

2008-08-26 21:12:05 | 戦争遺跡

 2回にわたって、松戸市内の陸軍境界標柱について述べてきた。まだまだネタはあるので、続いてもご勘弁いただきたい。

 前回までは、松戸工兵学校の周囲と、鉄道第二連隊軍用線軌道の終点が松戸市立第一中学校の裏門の辺りということを書いてきた。

 中学校裏門と新京成電鉄上本郷駅を結ぶ道路が現存しているのだが、これも旧軌道敷き跡である。その上本郷から胡録台に抜ける所にも軍用線の軌道敷き跡が残っている。とはいっても境界標柱を辿るしかない。
 その終点が千葉県立松戸矢切高等学校という話がある。
 矢切高校近くに見つけた境界標柱が2本ある。坂川という、昔氾濫した川沿いにある。長方形の畑の2つの頂点の所に立っている。風が強く、砂なども飛んでくるため、「陸軍」の文字は削れて見えなくなっている。後日友人との合同調査で夜に訪れた時に懐中電灯で文字を確認することができた。

昼のが2007年7月21日、夜のが2007年8月18日のものだ。


矢切高等学校近くの南側境界標柱を東側から見る


上写真を南側から見たもの
陸軍の文字が見える


北側境界標柱を東側から写した
右上に矢切高等学校校舎が見える。

上写真を北側から見たもの
これも陸軍の文字が見える。

 この2本の境界標柱は55メートルの間隔で建っている。
 そして、それぞれが陸軍の文字を外側に向けて建っているので、挟まれている所は陸軍用地であったはずだ。この間に数本の軍用線の軌道敷きがあったとしても不思議ではない。しかし、しらみつぶしに歩いてみても他に痕跡は見つけていないのだ。

 さて、次の1本は上の写真から800m離れた所に建っている境界標柱だ。
たまたま友人の家に遊びに行った時に見つけたものだ。何度も通っている場所なのに、気がつかなかったのである。やはりこういうものは戦跡に興味がある者以外の目には留まらない様にできているのだろう。まして、畑を囲む杭があり、等間隔に建てられている内の1本だったのだ。

 これも8月18日の調査で陸軍の文字を確認することができた。



友人の家の近く(上矢切)に建っていた陸軍境界標柱



上写真の標柱。陸軍の文字が分るだろう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松戸の戦争遺跡②

2008-08-25 22:28:44 | 戦争遺跡

昨日は、陸軍の境界標柱についての記事を書いた。

JR松戸駅の東側には、相模台という小高い丘がある。
その上がかつては、船橋中山競馬場の前身だった松戸競馬場という広い敷地だった。それが、今では文教地区で、聖徳大学、松戸第一中学校、相模台小学校などの学校を始め、裁判所、拘置所、松戸中央公園、公務員宿舎、イトーヨーカドーが連なっている。


松戸工兵学校の門柱
現在は松戸中央公園の入り口として残っている。

 松戸競馬場の後は、松戸工兵学校という当時では日本で最高の軍人を養成する施設だった。戦争には軍人の食料や戦争に使う物資を運ばなくてはならない、ということで鉄道大隊ができた。軌道敷を作る軍人である。後にいくつかの連隊に分かれたが、この松戸工兵学校を終点、習志野を始点とする軍用軌道が引いたのは鉄道第二連隊だった。現在は、その軌道の殆どを新京成電鉄が買い取り、新京成線として松戸―京成津田沼間の運用に使っている。

 その路線沿いには、多数の境界標柱が存在している。また、かつて軌道があった所にも境界標柱が建っている。

 最初の写真は、松戸市立第一中学校の裏に放っておかれている国有地に寂しく立っている陸軍境界標柱である。鉄道の軌道の境界標柱は、軌道の左右10mの辺りに建てられていたという。松戸第一中学校の裏門の辺りに軌道跡があり、通路になっているが、緩いカーブを描いて校庭の方に延びている。そこから10mくらの所に建っているのである。

 なお昨日紹介した、中学校正門近くの坂道途中にあった境界標柱がこれである。
一中側から見た境界標柱



一中を臨んだ上の写真と同じ境界標柱

この標柱を別の角度から見たのが上の写真だ。
奥の方に見える樹木は、正門を入ってすぐにある広場とプールの間にある。
この坂道は、工兵学校に物資を運んだ道なのかもしれない。



松戸第一中学校の東側校舎を臨む

最初の写真を東側から見た写真が上の写真だ。
境界標柱の向こう側に校舎が見える。
一般の方は、何でこんな所にと思うシチュエーションだ。
この取材から1年後に、戦跡探訪仲間とこの地を訪れた。
千葉県の東葛飾をつぶさに見て回っていたので夜になってしまったが…


上の境界標柱
夜、懐中電灯の光を当てて「陸軍」の文字の陰影を見ることができた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松戸の戦争遺跡①

2008-08-24 23:26:39 | 戦争遺跡

松戸市の松戸と岩瀬の間の相模台公園内にある陸軍境界標柱
昔ここは、松戸工兵学校の敷地であった。

 ゆきたんくの趣味の1つに戦争遺跡の探訪がある。
戦争遺跡というのは、戦争に使われた施設の遺構のことだ。
最初の写真は旧日本陸軍の境界標柱と言って、陸軍用地とその他を分ける境界に立つ柱である。みなさんのお住まいの町でも、〇〇市と刻印されたコンクリート製の標柱が地面に埋まっているのを見たことがお有りだろう。


松戸市松戸、太平という飲み屋の横にある標柱
 

松戸駅東口標柱①

 

 上の写真は、ゆきたんくが松戸市の住人になる前、松戸駅東口に用があって降り立った時、「何で、こんなところに邪魔なやつがあるのかなぁ」と乗っていたやつである。「陸」の文字が見えているが、その時は全然気づかなかった。

 


松戸市立第一中学校正門前の坂の途中の標柱
ゆきたんくの息子が一中生だった時、用事でこの標柱の横を通った。
なんでこんな邪魔な柱を立てておくのかと立腹した思い出がある。 

一中標柱①

 

 今は、戦争遺跡を探求する仲間ができて、時間の都合の良い時などは、合同調査をすることもあるゆきたんくである。
 一番の仲間は横浜在住の方だが、その方が戦争遺跡のサイトを作るに当たって一番最初に調査したのが、ゆきたんくの地元である松戸工兵学校だったことが縁で親しくなったのであった。
 その後、たくさんの標柱を確認したり、自分で新規を見つけたりしたが、「幸たんく」の製作に時間がかかり、戦争遺跡サイト「勲侘記由」の更新をしていない。
 記憶から消える前に、ブログで紹介しておくのも良いだろうと思い、今回のようなタイトルをつけてみた。

 松戸市胡録台の境界標柱が私有地にあり、地主にお断りして取材させていただいたことがあった。その方に、陸軍の鉄道第二連隊の軌道敷が、江戸川沿いの低地にある松戸県立矢切高等学校まで伸びていたという情報を元に探したものである。

 矢切高近くの畑に2本立っていた標柱は、戦争遺跡サイトを作っている方がもう載せておられた。それ以外に見つけたものを紹介して、今日は筆を置く。

 下の2枚の写真の中に標柱が1本ずつあるが、これは対で位置している。わかりやすくいうと、家庭にある駐車場の両脇に狛犬のように位置しているのだ。

 場所は個人の自宅の敷地なので紹介はしない。松戸市矢切まで明かす。


はっきりと「陸」の字が見える


こちらは「陸軍」の2文字が見える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の楽しみ⑫

2008-08-23 23:48:21 | 

 旅の楽しみの一つに、予習があることは前に書いた。
 しかし、地図が不完全だととてもストレスを感じる。
 まして、海外旅行では、帰国後にどこに行ったのかを検証するのに地図は欠かせない。昨今ではgoogleなどの地図が充実してきているのでまずは困らない。

 で、困った。
現在、インドネシアの旅を「旅たんく」にて鋭意製作中である。
まして、ジャワ島内の移動手段は、飛行機以外では自動車だったので、どの道をどう通ったかが重要だ。グーグルアースでは日本はまず困らずにどこをどの道路が通っているかが分る。イギリスなんて、その細かさは異常なほどだ。

 ところがインドネシアの地図は、どのサイトを見ても細かいのがないようなのだ。義姉のパソコンを借り、ネットで調べることも限界だった。ブロックМにある「そごう」の紀伊国屋書店に行ってもそこで役に立ったのがスカルノ・ハッタ空港の売店で売っていた地図だ。
写真には2冊の地図が写っている。「ジャカルタ」と「ジョグジャカルタ」の地図だ。

「Periplus Travel Maps」というアジアで一番売れている地図らしいのだ。
もっとも、この時初めてお目にかかったのだ。


ジョグジャカルタの地図
見やすい、使い易い、細かい内容

 この地図がなければ「インドネシア」の項は作っている時点で意欲が半減以下になって、結局有名どころの紹介に終わっていただろう。そんなのは旅の専門誌を見た方が面白いし、作っても仕方がない。

 この地図があって本当に助かった。これと、グーグルアースを組み合わせて検証していけば、かなり正確な情報を盛り込んだページができるはずだ。

 今、インドネシアの項は、写真の整理、名前付け、そしてコメント無しの全ページが完成した。リンクの確認をし、コメントを入れたら公開したいと思う。大きめの写真のリンクは後回しにしないとあと半年かかってしまうからだ。

 この地図がなければ、もっと早い公開になる予定だった。私自身は作っていて、公開は遅れるが、地図があって良かったと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の楽しみ⑪

2008-08-22 23:28:41 | 

 旅の楽しみ⑩では、以前行ったけれど、無勉強なために物事の真価を見れなかったこと、そしてそのリベンジについて書いた。

 さて、まだまだ続きます「旅の楽しみシリーズ」。
さっそく、今日8月22日にリベンジしてきた。
場所は茨城県ひたちなか市。

 今から4年前の10月に、息子の追っかけで次男を連れて、笠松運動公園(ひたちなか市)に行った。
 帰りに県の史跡である反射炉を見に行った時の写真がこれである。周囲が暗く、照明が薄明るく照らし出していたので、このような色合いになった。
 最初の写真の方が見やすいだろう。


反射炉の写真
レタッチソフトで随分と明るくした。


レンガ焼成窯
この時は周囲が暗くて不気味だった。
自動車に次男を残し、一人での取材だった。

 時は10月16日、日が落ちるのも早くレンガ焼成窯の写真には夕焼けが写っている。その時と同じ場所で試合があったので、今日も追っかけである。
というよりも長男のアッシー状態であると言っていい。

 もちろん、試合後にここに寄る事は計画済みである。
試合が終わり、長男に美味いものを喰わせ、闘争本能を奪い取ってからの取材である。


再びやってまいりました、反射炉跡の案内板。
前回よりも時刻は4分遅いが、まだまだ明るい。


巻き込んだ長男の記念写真。

 


反射炉の材料のレンガを焼いた窯


レンガ焼成窯の別角度からの眺め


 明るい時に見ると、その様子が良く分るだろう。上から3枚目の写真を見てもらうと分ると思うが、写真を撮った位置は漆黒の闇に包まれている。ゆきたんくは高所・閉所・暗所恐怖症なのである。おまけに一人であったので恐怖の限界と興味の限界のすれすれのところで撮影したのである。

 かくしてリベンジは成功したのである。あぁ、スッキリした。
そうそう、2004年の時は長男はひたちなかの市場の近くに宿泊していて、ここにはきていないのであった。

 

反射炉
茨城県ひたちなか市栄町1-10

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の楽しみ⑩

2008-08-21 23:39:41 | 

 今では、旅をする時の予習でも十分に楽しんでいる。
 国内旅行では、昭文社のまっぷる「たびまる」がお気に入りである。
 あまり詳しすぎないのがいい。
 大筋の部分が詳しく書いてあって、そこから先は個人に興味関心の深さに任せられているような気がするのだ。

 さて、今日はその予習のことを書くのではない。
今までの旅の中には、計画に任せて旅行後にあまり何も残らないこともあった。
たまに興味を感じても自分の無知さのために、せっかくの知識獲得の機会を失ってしまうこともあった。

 そう、今日書く旅の楽しみは「リベンジ」だ。
今から15年前に訪れて、自分の中では後悔ばかりが強く残っている旅があった。
福島県南会津郡下郷町の大内宿(写真)だ。

 江戸時代の宿場町の家並みが保存されていて重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。15年前はゆきたんくはとても愚かなことをした。
 家並みを撮ろうとしてやめたのだ。理由は「人が住んでいるから。」
大内宿の入り口から数件は、そんなに派手な店の様相を呈していない。
 昔の家屋に、そのまま人が住み続けているのだと思ったのだ。
 だから写真も撮らなかったし、そこから奥には行かなかった。観光客もほとんどいなかったのでも、奥に入ってはいけない気がしたからである。

 実に勿体無いことをした。大内宿のことをよく知っていれば、貸切状態になったのだ。並ばずに蕎麦を食べ、流れる清水で冷えたジュースを飲み、行き来する人を気にせずに写真撮り放題、もちろん有名店の店主とツーショットだって可能だったのだ。
 ところが残っているのは、大内宿入り口にある駐車場のトイレくらいのものである。
 まあ、その駐車場で大学の陸上競技部の2年先輩に12年ぶりに再会し、年賀状のやり取りが始まったことは、とても良いことではあった。

そう、再び大内宿を訪れることができたのだ。 
今度は予習済み。いろいろと写真を撮り、蕎麦を食べ、江戸情緒を満喫した。


とても美味しい水。
北海道のサロベツで飲んだ時以来の美味さである。

 


そばがきしるこアイス添え
あたたかいそばがきと冷たいアイスのコラボだ。
ほどよく甘い小豆あんこが秀逸。
そば処「石原屋」さん

 今まで行ったところの真価に触れることかできなかった時、再び挑戦することの楽しさは、頂上に行き着かなかった山にリベンジする登山家のような気持ちかもしれない。それもまた楽しいのである。

 

大内宿
福島県南会津群下郷町

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の楽しみ⑨

2008-08-20 23:42:13 | 

 旅の楽しみシリーズ、、、、、続きますねぇ。
今回は不謹慎な部分にも挑戦してみたい。
 「旅の恥はかき捨て」なんて言葉を聞いたことがあると思うが、基本的にはゆきたんくは嫌いである。
 しかし人間は言っていることとやっていることが違うこともあると思う。

 今回の四国の旅は、高知がメインだった。はずしてはならならいランドマークには「桂浜」がある。
 その桂浜の東南端には上龍頭岬というのがある。そこにいくつかの人工の砂州みたいのがあった。一番東にあるのが一番でかい。


右下に突き出ている所である

「海よ~、俺の海よぉ~・・・・・・」
そう、海に出来るだけ近づきたい。
その大きな人工砂州の上を先端に向かって歩き始めた。
適当な高さもあるので、すごく気持ちが良い。


どんどん海に近づくのだ。


人工砂州途中からの北側を撮った。

そして、冒頭にある写真のように、打ち寄せる波のショットを何枚も撮って楽しんだ。
一番良く撮れたのを載せた。

そして、満足して戻った時に、目に入ったのは・・・
下写真にある表示だ。


立ち入り禁止の表示、ガーン気がつかなかった

なんと「立ち入り禁止」の表示であった。
大男3人組で人工砂州の突端で楽しむだけ楽しんで、その全てが終わってから気がついた次第である。
 そういえば、他の観光客は誰一人として近づかなかった。こちらを見て怪訝そうな顔をしていたようにも見える。

 もう後の祭りである。でもね、誰もとがめる人はいなかったのだ。

ところが・・・この人にしっかりと見られていた。


坂本龍馬像

昭和3年から、この桂浜を見守り続けている坂本龍馬様であった。

海より深く反省した次第である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の楽しみ⑧

2008-08-19 23:54:18 | 

拙サイト「幸たんく」のコンテンツに「旅たんく」がある。
今までも旅の楽しみについて書いてきた。
旅した所をサイトにまとめるのもなかなか楽しいものである。
完成してしまえば、コメントつきのアルバムになるからだ。


拙サイト「幸たんく
ゆきたんくが幸せを感じたことならなんでもOKのサイト
左フレームの小さい「旅」たんくをクリックすると下の画面になる。


旅たんくの画面
画面のボックスの上に薄水色のタブがある。
国内、海外、友達をクリックすると旅行記に飛ぶ。


 その前に、ゆきたんくがコンピュータを楽しみ始めた理由を述べよう。
それは、コンピューターが様々な事柄を一元管理することができるからだ。
仕事でも遊びでもそれは便利なツールと言えるだろう。
テキスト、画像、映像、音をフォルダ別にしまっておくだけでなく、様々なアプリケーションで加工・編集することができるからである。また、ネットを通した情報の収集、交換、コミュニケーションも時刻に左右されずにすることも可能である。

 その結果、コンピューターでサイトを創ることで、アルバムを作るような感じになってしまっている。
「旅の楽しみ」に話を戻そう。旅は、その計画や実際がとても楽しい。学問に例えると、仮説を立て、検証計画を立て、検証することが当てはまるだろう。その後は考察してまとめねばならないが、サイト作りはその考察に当てはまるかもしれない。


ツアーで行った北京(2006年)のトップページ


まったくの自己計画のイギリス(2003年)のトップページ

 とりわけ、いつも行ける訳ではない海外サイトの作りは力が入る。というよりも力を入れないと作ることができない。ガイドブック等に載っていない事象は調べなければならないからだ。

 最近、昨年の4月の高山祭り、8月に行った白川郷のサイト作りが終わった。とは言っても、小さい写真をクリックすると中サイズに、それをクリックするとオリジナルサイズになるように貼るリンクが不完全である。その前に作った2006年末から2007年正月にかけての京都・奈良のページについては、奈良が途中まで、京都はリンク未設定である。

 それは、昨年末から正月の7泊8日のインドネシア旅行の製作に取り掛かりたかったからだ。海外旅行を近い順から遡るとインドネシア(2007-08)、中国北京(2006)、イギリス(2003)と数は非常に少ない。しかし、2006の中国がツアーだったのに対し、イギリスとインドネシアは完全な私事旅行であったので、ガイドブックに載っていないところを多々訪ねたのだ。このような場合、記憶が残っているうちに作らないと分らなくなってしまうことがある。

 これから作るインドネシアについては、旅行終了後の2日間で、撮った写真や動画をフォルダを作り、名前をつけてしまっておいた。ガイドブック、インドネシアで購入した地図、ICレコーダーにとっておいた会話を元にして作業した。
 運転好きのゆきたんくであるが、ジュネーブ協定の関係で、国際免許を持っていても日本人がインドネシアで車の運転はさせてもらえないのだ。
 しかし、今回の旅行は、義兄がインドネシアの会社に勤めている関係で義兄専属の運転手さんがいて、様々なところに連れて行ってくれた。義兄はインドネシア語はペラペラである。奥方の義姉はインドネシアの方である。つまり兄夫婦がいる時には、言葉には困らなかったのだ。間にジョグジャカルタを入れた予定であったが、ジョグジャカルタでも運転手を頼んでくれて足の不便はなかった。

 つまり、このような旅行をまた経験することは、義兄に甘えなくてはならないので、いつでもできることではない。また、義姉はインドネシアの中部ジャワ出身の方なので、ガイドブックにはない美味い屋台にも連れて行ってもらうことができた。

 旅行後半年が経過しようとしているので、そろそろ作らねばと思いたったこの頃である。
 ところで、インドネシアの最初のページは一番初めにある写真である。松任谷由美の「スラバヤ通りの妹に」という歌を聴いて訪れたかった所である。(まだリンクは貼っていない)
 旅って何回も楽しめるのだと思うゆきたんくである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青春の続きは

2008-08-18 23:37:07 | Weblog

昨日は少し寂しい記事を書いてしまった。

室伏選手の父親の談話では、現役続行とのこと。
本人は腰の痛みについては語らず。

「自分のできることをやった。」ことの大切さを以前から話していた。
 ハンマーヘッドの加速についての博士論文を書いていることから、それを検証しなくてはならない立場にもある。それを自らの体をでやるのか、他の選手がやるのかでは自分の人生における満足度も違ってくるのではないだろうか。

 昨日の記事を、自分の耳に入ってきた事実を元に、自分のものさしの常識で膨らませてしまって、室伏選手には申し訳ないと思っている。

 そして、それを長男のおーちゃんの引退に絡めてドラマチックな展開にひたっていたのかもしれない。

 室伏選手の青春は「ハンマー投げ」なのだろう。今から30年ほど前、八カ国対抗陸上という大会があった。その時のハンマー投げ日本代表は室伏重信選手だった。
 その室伏選手を見たいために集中していたのだが、目の前の通路で騒いでいる子供がいた。
 「パパァー、頑張れー」と繰り返し叫んでいた。
 競技を終えた室伏選手は、私の近くのスタンド席に座った。さっきの子供はその席に走りよっていった。そう、その子供が広治選手だったのだ。
 まだ3~4歳の頃だ。その頃からハンマーに親しんでいたという。人生の殆どをハンマー投げとともに過ごしてきたのだ。

 これからの残り少ない現役生活を、自らの研究の検証材料として完全燃焼するのだろう。自らの肉体がその検証に耐えられなくなった時、彼に変わるタレントが日本に存在するのだろうか。学者・指導者としての彼の人生がロンドン・オリンピック以降に始まるのかもしれない。

 バレーボールでいうアメリカ監督の郎平氏(中国)のように他国のコーチになっている可能性もある。旧ソ連(ロシア)のリトビノフ選手(ハンマー投げ…世界歴代3位86m06)は世界歴代2位のイワン・ティホン選手と世界歴代4位のワジム・デビャトフスキー選手のベラルーシ勢を育てている。
 室伏選手も英語をはじめ、言葉には堪能だというから可能性が高いだろう。
まずは、自らの肉体で検証・考察し強い日本人選手を育てる指導者になっていただきたい。

 そうすると私も、長男のおーちゃんもずっと青春をしていられる気になるからだ。

これからも室伏選手には、様々な形で頑張っていただきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青春・・・

2008-08-17 23:59:05 | Weblog

北京オリンピックで楽しみにしていたハンマー投げが終了した。

日本の期待を背負った室伏選手は5位入賞を果たした。
33歳という年齢から、優勝は難しいのではと思っていたので十分だった。4年間お疲れ様でした。

 金メダルを獲得したアテネオリンピックの次の年は休養に当て、休養明けの一昨年は世界大会は82m以上の記録で負け知らずであった。博士号課程の論文に忙殺された昨年は82m以上が1回で、後は満足のいく投げは出来なかったと思われる。
 良い時と悪い時が混在するのは、「伸び盛りの時」と「衰えてきた時」だ。今年に入り、調整しながら頑張っていることは分ったが、腰椎捻挫になったと聞いた時には体の衰えが迫ってきている、今までの負荷に体が耐えられなくなってきたことを感じた。

 今日の投げをテレビで見ていたが、技術的にはこれ以上ないという完璧な投げではなかったかと思う。それプラス体力でさらに記録は伸びたはずだ。

 今から23年前、室伏選手の父の室伏重信選手が日本新記録を出した。25歳の時の記録を12年ぶりに更新したのだ。ゆきたんくは大学を卒業し、ハンマー投げやる環境にはなかったので、重信選手の情報はかかさずに集めて青春を楽しんでいた。
 そしてロス五輪(1984)で自己記録には程遠く、予選落ちした姿を見て年齢にはどんな名選手も勝てないことを感じた。後に水を抜くほど、膝に水が溜まっていたことがわかるが、これぞ体の衰えだ。しかし、当時は「中年の星」とか言われて話題になっていたし重信選手も頑張っていた。

 そしてゆきたんくの陸上競技にかける青春の火は重信選手のフェードアウトともに静かに消えていった。

 先日、ハンマー投げをやっている長男のおーちゃん(写真)が、大学を卒業したら陸上は終わりにすることを言っていた。来シーズンを10年間の青春の締めくくりにするつもりらしい。日々衰えていく室伏広治選手の姿を見て、引退が近いことを感じ自分に投影したのだろうか。
 テレビ観戦で室伏選手が投げる度、納得いかない顔をしているのを、きっとこうだと解説してくれる。もう自分が投げているつもりなのだろう。
 ゆきたんくは、息子と話をしながら、青春時代に引き戻されていた。もう体はハンマーを投げるどころではないが、テレビを見ている時にサークルの中に立っている自分を感じることができたからだ。いわゆるバーチャルな青春である。

 そんなゆきたんくとは逆に、現役としての現在進行形の青春のまとめに入っているおーちゃんを見て、大人になったなあと思うゆきたんくであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ村Ping

http://ping.blogmura.com/xmlrpc/okr7t7fen957