吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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土蜘蛛伝承の田油津姫 No509

2019-02-11 11:59:00 | 神霊界考察
土蜘蛛と呼ばれるまつろわぬ一族の伝承が各地に残っている。
以前葛城地方を参拝した際に葛城の高天彦神社の傍に蜘蛛窟があり
葛城一言主神社にも蜘蛛塚があることは知っていて
おおよその伝承については知識があった。
葛城という呼び名も日本書紀によると
神武天皇が葛で編んだ網で『土蜘蛛』を捕らえ殺害した事から、
元々「高尾張邑」と呼ばれた地を葛城に改めたとある。

高天彦神社の傍の蜘蛛窟は最初訪れた時にはインターネットや
携帯ナビがまだ普及していなくてデジカメも無い時代だったので
確実にたどり着いていたのか分からないのだが
ここには正式にもう一度参拝に来なければならないと
思ったことだけはしっかりと記憶に残っている。
それ以降何度か蜘蛛窟を訪れている。

それとは別に香春に訪れて神夏磯姫の調査で知った子孫の
夏羽の妹の田油津姫が土蜘蛛とされていることに興味を持った。
神夏磯姫は景行天皇の時代であり
夏羽や田油津姫は神功皇后の時代である。

山門とされるみやま市に蜘蛛塚という古墳があり
ここは以前は女王塚とも呼ばれる古墳なのだが
被葬者は田油津姫か葛築目だとされている。

ところで以下のような歌を見つけた。

しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖かに見ゆ
    万葉集 沙弥満誓 巻三 335

ここで歌われる『筑紫の綿』とは蚕の繭からつくる綿のことらしいが
みやま市は平安時代より養蚕がなされてきている地域で
『筑紫の綿』の産地の主だった地域と考えられる。

『呉音霊を考える No402』で絹について以下のように記載している。

「この太白とは呉の始祖のことで姓は姫となっている。
倭は自ら呉の始祖の太伯の後胤といっている。
記紀には天照大神の忌服屋での機織りの話があるが
古来の呉織の絹織物のことを呉服という。
読みは「くれはとり」だ。
呉からは養蚕の技術と機織りの技術がもたらされている。」

思うに九州の山門の土蜘蛛とは
呉系姫氏の血を引く機織りの巫女のことではないかと感じられる。
蜘蛛は糸で蜘蛛の巣をつくるので
機織りの巫女を蜘蛛に例えたのではなかろうか。


蚕の渡来伝承では「御伽草子の金色姫伝説※」が知られる。
茨城県筑波郡の蚕影山神社(蚕影山略縁起)にも似た伝承がある。
「天竺の霖夷大王と光契夫人の間に金色姫が生まれたが
后の死後に父王が迎えた後妻の后に妬まれ迫害を受ける。
父王は姫を桑のうつぼ船に入れて海に流し
やがてそのうつぼ船は日本の常陸国豊浦に流れ着き
権太夫という漁師に助けれらるが
結局は死亡してしまい、その遺体は蚕となった。
姫は夢に現れて養蚕の方法を伝えた。」
とされ、今も「金色姫伝説」として語り継がれている。

※『庭訓徃來註』「蠶養」譚や『養蚕秘録』も類似伝承を記載

初期の養蚕技術が渡来人によってもたらされたのは間違いなく
中国の長江流域では少なくとも3000年前には養蚕による絹製品が存在しているので
筆者が調査している春秋の呉時代の末期には呉系姫氏の来訪とともに
日本に養蚕技術が渡来していてもおかしくないのだが
渡来伝承が上書きされていて良く分からない状況にある。
考古学的には福岡市早良区の有田遺跡の絹らしき繊維が
紀元前5世紀ごろのものと考えられ話の辻褄は合う。

では上書きの内容はというと
朝鮮系の藤原不比等が編纂した日本書紀において
3世紀か4世紀に朝鮮半島から渡ってきた渡来人の阿知使主が
中国三国時代の呉に使いを出し
工女の兄媛,弟媛,呉織,穴織の 4人を連れてきたことが
日本における絹織物の最初とされ上書きされている。
藤原氏がつくり上げた創作である「朝鮮から遅れた日本に文化が渡来した」
という話は現代においてもはや破たんしているのだが
それを認めない御用学者は確かに多い。
ちなみに伝承では「旧居である朝鮮帯方の人民男女はみな才芸があるが,
最近は百済と高句麗の間にあって去就に困っているためこれを呼び寄せたい」と
天皇に進言し使者を派遣してその人民を勧誘し帰化させたとある。


記載途中
コメント (29)
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