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気がつけばふるさと離れて34年

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三浦しをん著 『月魚』

2020-05-30 21:52:49 | 読書
付近の日本人の友人と回し読みしている「暮らしの手帖」はここ2月ほどは外出自粛で友人と会う機会がないので、ずっと私の所にあります。


第3号で興味深かった記事のひとつは「わたしの仕事 古本屋店主」でした。


以前にもブログに記したことがありますが、私は本屋さんが好きです。
町に出かけたら別に買いたい本はなくても本屋さんには立ち寄りぶらぶらします。
一時帰国では東京丸の内の「丸善」と銀座の「教文館」には必ず一度は寄ります。

「暮らしの手帖」の「わたしの仕事」では東京練馬区で古本屋「ポラン書房」を36年間営業している石田さんご夫妻のお仕事ぶりが記されています。
絵本、芸術、歴史、哲学、詩歌など幅広いジャンルの本を扱っている古本屋さん→お店に足を踏み入れるだけでわくわくしてしまいそうです。

この記事を読んでいるうちに、三浦しをんさんの本で古書店を扱っていた小説があったのを思い出し再読しました。


古書店『無窮堂』の若き当主、真志喜とその友人で同じ業界で仕事をする瀬名垣の物語です。
真志喜が父と絶縁状態なのは、昔、『無窮堂』に遊びにきていた少年の瀬名垣が、書庫の捨て本の山の中から稀覯本の詩人・畠山花犀の『獄にありて思ふの記』を見つけたのに、真志喜の父はそれを知らずにいたこと、そしてそれを当時の店主・真志喜の祖父にとがめられて傷つき家を飛び出してしまったからです。

この本を読んで、古本屋の販売経路には3種類あるということを学びました。
1)ふつうの店頭販売(店に来るお客に売る)
2)古本業者の市に出して競りにかける卸販売
3)店で目録を作って顧客や図書館などに配り注文を募る通信販売
この小説の『無窮堂』は3番目で年に4回目録を発行しています。

また古書店にも階級があるようで、瀬名垣の父親は「せどり屋」と呼ばれ、同業者からは嫌われていました。
「せどり屋」とは古書の掘り出し物を第三者に販売して利ざやを稼ぐ古本屋のことです。いわゆる「転売業務」ですね。
あまり本に対する知識がなくても行える商行為なのが他の同業者から見下される理由なのでしょう。
でも瀬名垣は父親と違って古書店業者としての資質を備えていたのは、少年時代に稀覯本を目ざとく見つけたことからもわかります。

主人公の真志喜も古書に対して広範な知識と同時に、人物に対する優れた洞察力も持っています。
小説の後半である未亡人がご主人の蔵書を引き取ってもらう際、一冊だけ彼女にとって重要と思われる本をとっておいてほしいと頼まれます。
そして真志喜はこのご夫婦が共に演劇に興味を持っていたこと、彼女が飼っている二匹の犬に「ゴンとミール」と名付けていることから、
サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』の主人公の二人の浮浪者の名前がウラジミールとエストラゴンであり、
エストラゴン→ゴン、ウラジミール→ミールだと想像し、
この未亡人にはサミュエル・ベケット戯曲全集1を残すことにしたのです。

大学時代の授業にサミュエル・ベケットが出てきたのは覚えているし、ドイツにきてからケルンのシアターで『ゴドーを待ちながら』も観劇したことがあるのですが、主人公の名前はすっかり忘れていました。

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夫の日本語

2020-05-27 16:56:00 | 家族
今日は雲ひとつない青空でした。



起きがけにこの青空を見た夫が私に言ったのは、

„Der Himmel ist heute MARU“ でした。
(今日の空はマル)。

突然の日本語混じりのドイツ語には戸惑ってしまいました。

何か良いことがあると私は「マル!」と言っているのだそうで、それで今日の空はマルと言ったということです。
そうかなぁ、気が付かなかった。

私はこのところ三浦しをんさんの『格闘するものに○(まる)』を再読しているので、
本の表紙でも見たのかしら、でも漢字はそれほど読めないはずだしなどと思っていました。



夫が日本に滞在していたのははるか昔ですが、時折ひょんなところで日本語が出てくることがあります。
それは「オイシイ」だったり、「ドウモ」だったり、「チョット」などです。
日本でこういう言葉をよく使っていたのでしょうか?


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オラトリオ合唱団

2020-05-25 17:52:00 | 日記
本の整理ばかりではなく、今日はオペラや歌舞伎のプログラムの整理をしました。
3年前に聴きに行ったケルン・オラトリオ合唱団のプログラムを見つけました。



演奏会は我が家から車で20分程の所にあるアルテンベルク大聖堂で行われました。
(絵葉書の写真です)



この教会から徒歩で10分のところには「グリム童話の森」もあります。
森の中に童話の場面が再現されています。
コロナ禍でこれまで閉鎖されていましたが、再開したということですのでまた訪れたいと思っています。

童話の森に行く途中に落雷で真っ黒になった大木が残されています。
まるで神の怒りの鉄槌が振り下ろされたかのようです。



先日読み終えたカミュの『ペスト』の中で疫病が蔓延する町のパヌル−神父が教会で「この災いは当然の報い」と信者に述べる箇所があります。
ペスト禍という災厄は神の天罰であるというのです。
でも『100分de名著』の解説書では「神という観念を信じてそれに頼ってしまうと結局人間の責任というものがなくなってしまう」という文章があり、「責任逃れ」をする輩が多い現代社会においては特に心にとどめたい文だと思います。



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カミュ著 『ペスト』

2020-05-23 17:59:00 | 読書
日本ほどではありませんが、ドイツでもカミュの『ペスト』を手に取る人が増えています。



元々長編は苦手な上、なおさらドイツ語だと読み終えるのがいつになるかわからないので、
日本語の電子書籍を購入しました。



日本語でも900ページ以上の長編は読み終えるのに時間がかかりました。
主人公の医師リウーの他に多くの人物が登場するので、初めに登場人物リストを作成するべきだったと後で気付きました。
後半は読み進めるのが大義になり字面だけを追っていたので、読後の充足感はなく消化不良気味になりました。
かと言って、また改めて読み返すなんて→とんでもないです。
それでNHKの『100分de名著』の電子版を購入しました。



カミュの経歴とか、サルトルとの比較、カミュの「不条理」についてなど、いかにこの小説のうわべだけを読んでいたか痛感させられました。
この小説を紹介したドイツの新聞記事でも記載されていた医師リウーの最後の言葉が読者に救いの光を与えてくれます。
「人間の中には軽蔑すべきものより賞賛すべきもののほうが多い」

「賞賛される行動」とは例えば危険をかえりみず、医師のリウーや市役所に勤めるグラン、パリから来た若い新聞記者ランベール、疫病が蔓延する様子を観察日記に記す青年タルーらにより結成される保健隊の姿に見られます。
保健隊は市の感染予防対策が遅々として進まない時に市民の志願者により結成され、自分たちで感染者の隔離を遂行します。そして保健隊員も感染してしまうのですが、そのひとりがタルーでした。
タルーは最後に医師リウーの家でリウーとお母さんに看取られ亡くなります。
タルーの「自分はあらゆる場合に犠牲者の側に立つ」という最期の言葉にも胸を打たれます。

アルジェリアの港町で4月から蔓延した疫病の終息宣言が出されるのは翌年の1月で実に10ヶ月間災厄は続きました。
今回のコロナ禍は終息までそれ程長くかからないことを祈っています。



コメント (4)
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久しぶり(8ヶ月ぶり!)のゴルフ

2020-05-22 15:50:00 | 日記
これまでコロナ禍で閉鎖されていたゴルフ場が、2週間前から再オープンしたので、
久しぶりにプレーしてきました。
ご無沙汰していた間に雛鳥が随分成長していました。








あまり日差しも強くなく、気持ち良くプレーできました。
悲しいスコアだったのは、写真を撮るのに集中していたからということにしましょう(😸)。
また来週もプレーする予定です。
これで運動不足が少しは解消されると良いのですが。






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