我が家の日本小菊、寒さにめげず頑張っています。
先日、カナダの通信放送衛星を載せたJAXAのH2Aロケット29号機が打ち上げに成功しました。
糸川博士が1955年にペンシルロケットの水平発射実験を行ってから丁度、60年目で日本は国産ロケットで
商業衛星市場に参入することになりました。
糸川秀夫教授は日本の「ロケット開発の父」と呼ばれていますが、
欧米におけるロケット技術開発の指導者のひとりが「ヴェルナー・フォン・ブラウン」(1912年ー1977年)です。
ドイツ人のフォン・ブラウン博士はロケット技術の専門家として第二次世界大戦中、ナチス・ドイツのために軍需用のロケット開発に取り組んでいました。
1945年5月、ドイツは連合国軍に敗北することが確実となり、
フォン・ブラウン博士はペーネミュンデのロケット研究施設に居た研究・開発スタッフ500人をアメリカ軍に投降するため、
偽装書類で盗んだ列車で連れ出しました。
その後、フォン・ブラウンとロケット専門家たちはアメリカに移送され、戦後のアメリカの宇宙開発に大きく貢献するのです。
アメリカでフォン・ブラウンの最大の仕事は宇宙飛行士を月に運べる大型のサターンロケットの開発でした。
フォン・ブラウンの夢であった「人類が月面を踏む手助けをすること」はアポロ11号の月面着陸で実現されます。
当時は商業衛星という考えはなく、多大な費用がかかる大型のサターンロケット開発を疑問視する議員も少なくなかったそうです。
それでアメリカ議会の公聴会で「サターン・ロケット開発の意義」をフォン・ブラウンは述べることになります。
議員のひとりから「何故、これほどの費用をかけて月に向かうのかね? 月で何を捜そうとしているのか?」という質問への
フォン・ブラウンの答えがふるっています。
彼は間髪入れず、”The Russians!"と答えたのです。
米ソ冷戦中の当時、宇宙開発でも両国は凌ぎを削っていたので、「ロシア人に先を越されてはなるものか」という意気込みだったのだと
思います。
数年前、ドイツのテレビドキュメンタリーでこの公聴会の様子が放映され、沈着冷静にこのような警句を発した
フォン・ブラウン先生の映像は今でも記憶に残っています。
アインシュタイン先生が相対性理論の説明に「恋人との時間と熱いストーブに座る時間」を用いたり、
フォン・ブラウン先生の「月でロシア人捜し」といい、このような科学者の突飛なユーモアが私は好きです。
それから私事になりますが(というかブログ自体、全て私事を綴ることなのでこのような説明自体不要かとは思いますが、
全く別の話題になるのでーご了承を)、昨日は我が家の結婚記念日でした。
配偶者は毎年、薔薇の花を用意してくれるのですが、今年は特に綺麗な薔薇でしたので写真を載せたいと思います。
実は結婚当初は年数に応じて薔薇の花も増えていったのですが、10年を過ぎる頃から「ラッキーセブン」ということで
いつも7本になっています。