気がつけばふるさと離れて34年

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ワールドカップ優勝祝賀会

2014-07-18 15:14:13 | 日記


他のブロガーの方々のお写真は本当に綺麗です。

それに比べて私の写真の何とお粗末なこと。そのためブログアップもためらっていました。

でも私のブログは他の方にご披露するということよりもまず自分自身が感動したことや懐かしい思い出を綴っていきたいということです。

ブログを始める動機のところにも書いたようにお友達に「ねぇ、ねぇ、聞いて、こんなことがあったのよ」という風に。

というわけでまたボケ写真の掲載になりますが、この間の祝賀会の感動を記します。





ドイツの優勝チームはルフトハンザ2014便(LH2014)でリオデジャネイロからベルリンに到着しました。

もちろんこんな便名は今月だけ特別で2014年の優勝を記念する特別機だからです。

そして機体にはLUFTHANSAの文字の代わりに「FANHANSA」、隣は金色で「SIEGERFLIEGER」
(優勝機)の文字が燦然と輝いていました。

ちなみに2006年のドイツ開催時にはルフトハンザ機は機首の丸い部分をサッカーボールの模様に塗り替えていました。

私は2006年、ベルリンでドイツ対アルゼンチン戦(確か準々決勝だったと思いますが)が行われた時仕事でベルリンにいました。仕事を終えてケルンに戻る便が丁度、試合開始時刻直前で何故か待合室にいたパイロットとクルーが乗客に「こうなったら出発を一時間ほど遅らせますか?」などとジョークを交わしていました。離陸したあとも機長が機内放送で「皆さん、今日は特別に試合が行われているベルリンのオリンピアスタジアム上空を旋回したいと思います」(実際はもちろん飛ばなかった)とか「ケルンまで一時間の実況中継を行います」など結構浮かれていて私は「それより安全操行をお願いしますね」と思ったことでした。



ドイツはこれでワールドカップ4度目の優勝です。

前回1990年にローマで優勝した時、私は母の看護で日本にいました。

眠い目をこすりながら夜中に決勝を観戦しました。クリンスマンがガッツポーズで走り回っていたのを覚えています。

この黒塗りのオープンカー(バスかと思っていましたがベンツの特製トラックだそうです)で選手は空港からブランデンブルク門前の祝賀会場へ向かいました。



祝賀会の舞台ではナショナルチームのメンバーは試合後疲れているだろうのによく短い時間にこれだけのパーフォーマンスを身に付けたなあという位、4-5人のグループに分かれて歌とかダンスを披露してくれました(アルゼンチンを揶揄するような歌もありその後、物議を醸していましたが)。
でも最後に選手全員がひれ伏して裏方さんに(バスの運転手とかコック、マッサージ師など南チロルでの強化合宿から含めてほぼ7-8週間一緒だったメンバー)感謝していたのが印象に残りました。

1990年の優勝時はまだ西ドイツだったので(ベルリンの壁は1989年に崩壊しましたがドイツ統一は1990年の10月3日なので)、統一後初の優勝ということになります。

冷戦時、レーガン大統領がこのブランデンブルク門の前で「ゴルバチョフさんこの壁を取り壊しなさい」と演説した歴史的な場所で行われた統一後初のワールドカップ優勝祝賀会は胸を打つものがありました。

とても長いブログ記事になりました。

明日からピレネー山脈のトレッキングに出発しますので2週間ほどブログはお休みします。
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司法通訳

2014-07-13 17:58:07 | 日記


通訳といっても個人の商談通訳から大きな国際会議の会議通訳まで種類は色々です。

司法通訳にも警察で調書を取るときや裁判所での法廷通訳などさまざまなケースがあります。

特別の資格試験というものはドイツにはなく、私の場合、州の商工会議所の通訳士・翻訳士試験の合格証明書と無犯罪証明書

無債務証明書などを添付して警察署、上級裁判所に登録しました。

登録は以前は無料だったのですが、現在は有料になっています。

法廷通訳で思い出に残っているのはある日本人女性のことです。

彼女はご主人が問題のある方だったこともありストレスで罪を犯してしまいました。

最初は男性弁護士と通訳が彼女の担当だったのですが、男性だということで中々お話ししてくれなかったため、

女性弁護士と私が指名されました。

彼女はドイツの刑務所で服役後、現在は日本に帰っています。

結審後、彼女が服役している刑務所へ訪ねる義務はもちろんなかったのですが、日本へ帰国するまで定期的に訪ねて行ったの

は彼女のお母様からお手紙をいただいたからです。

近所の公園から子供たちの声が聞こえてきて彼女のことが思い出されたことや知り合いもいない地なので宜しくお願いします

といったことが切々と書かれていました。

お母様は私と同じ年ということもあり、さぞかしご心配してらっしゃるだろうと涙が出てしまいました。

その頃、私は短歌に興味があったので私の心情を以下のように詠みました。

法廷で通訳をしぬその人の母の頼むの手紙おろそかならず

母親のことを詠った短歌で涙を誘われるのは郷隼人さんの歌です。

無期懲役の判決を受けてカリフォルニア州の刑務所で服役している郷さんへはいつも鹿児島のお父様が英語で宛名を書いて

手紙を送っていたのだそうですがそのお父様も亡くなられ英語が書けないお母様が書いた手紙を受け取ったときの思いです。

老い母が独力で書きし封筒の歪んだ英字に感極まりぬ

郷さんは朝日歌壇に何度も登場される方なので日本に一時帰国する度に朝日新聞を購入して彼の名前を見ると

「ああ、まだご健在なのだ」とお歌を眺めていたのですが、今回の一時帰国では何故か見つけられず残念でした。





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トリエステ と 須賀敦子さん

2014-07-07 15:28:12 | 読書

 先日ドイツのテレビでトリエステが紹介されていました。

スロベニアとの国境に位置するイタリアの港湾都市を訪れたことはまだありません。
「ユリシーズ」(まだ読んだことはありませんが)のジェイムズ・ジョイスが1904年から1915年まで住んでいたこととかハプスブルク家の人々が好んだ保養地だったとか興味深いことを知りましたが、トリエステと聞いてまっさきに思い浮かんだのは須賀敦子さんのご著書「トリエステの坂道」でした。



 阿川弘之さんだったか久世光彦さんだったか記憶が定かではないのですが、「新しい小説を読んでつまらなくて落胆、憤慨する位だったら漱石の猫を読む」とどこかに書いておられました。私も最近はあまり新しい本を購入することが少なくなっています。昔、手にした小説の内容を忘れてしまったということもありますが、限られた残りの人生はできるだけ良書に接したいと思うからです。私にとっての「猫」は須賀敦子さんの本です。

 須賀さんのことは彼女が教鞭をとられていた大学の独語科を卒業した通訳仲間が紹介してくれました。
その後、よく仕事でご一緒した大学の先生も「須賀敦子って良いよね」というのを聞いて嬉しく思ったことを覚えています。

「トリエステの坂道」の中で特に印象的なのは以下の文章です。

  『… 周囲がイタリア語ばかりのなかでは、自分の中の日本語が生気を失って萎れるのではないか』

 ドイツに来てすぐに海外放送局の日本語課で仕事を始めたことや、通訳と翻訳の仕事をしてきた関係でドイツ語環境の中にあっても比較的、日本語には接してきたような気がします。でも自分の日本語が萎えてきていることは認めざるを得ません。

 須賀さんの本を読んで、せいぜい日本語のブラッシュアップに努めたいと考えています。そしてなにより彼女の毅然とした人生への姿勢をいくらかでも身に付けることができたらと思います。

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