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マーケティングの付加価値と罪について

 資産運用のビジネスは、考えれば考えるほど、マーケティング勝負のビジネスだ、ということが言える。現実をリアルに見ると、顧客は、良いファンドマネジャーや運用会社を事前に見分けることなどできないし、運用者の側でも本当に他人よりも良い運用が出来るという確信があれば、他人のお金ではなく、自分のお金(借りたっていい)を運用するはずだ。
 自分はファンドマネジャーを選ぶことが出来るという大いなる勘違い(「オーバー・コンフィデンス」から来る)と、他人には負けないけれども絶対に勝っているわけではないという運用者側の自信のない空元気とが重なり合う僅かな場所を、「良い運用」というものが存在し、これを「見分けることができる」という二つのフィクションを押し立てて商売にするマーケティングの行為こそが運用ビジネスの本質だ。
 ちなみに、「運用力」というものは、鍛えて強くなる筋肉のようなものではない。運用会社の社長はしばしば、「運用力を強化する」と発言するが、本気でそうできると思っているなら、その人は阿呆だろう。正確にいえば、運用の商品力を強化するために、運用部門に金をかける、ということは出来るのだが、それが運用成績に結びつくか否かは分からないし、少なくとも、経営上計算できるものではない。
 平凡な運用を、非凡に上手く売り付けることこそが、運用ビジネスの要諦である。
 そこでクローズアップされる技術が、マーケティングということになるが、運用商品の場合、マーケティングの役割を考えると、些か憂鬱になる。
 運用商品は、インプットが「お金」であり、アウトプットも「お金」であって、目的は、お金を増やすことだ。マーケティング活動により、顧客の購買行動に至るようないろいろなイメージが形成されたり、顧客の満足感に差が出たりはするだろうが、その運用商品を買ったことが意思決定としてどの程度損だったか得だったかが、金額ベースで計算できてしまう(たとえば、たまたま儲かった商品でも、後から分析してみて、実は運が良かっただけで、意思決定としては、ひどく損だった、というようなことが、分かる人には分かる)。
 マーケティングに顧客満足を増大させる付加価値があるとも言えるだろうが、この付加価値は、運用商品の目的に照らして評価すると、後から空虚なものだったと簡単に分かり、リセットされてしまう。いい加減なマネーライターのように、気休めや勘違いも効用のうちだ、という前提で運用を考えるなら、運用商品のマーケティング活動に対してポジティブな気持ちを維持することが出来ようが、ある程度以上の知識をもって、且つ真面目に考えるなら、マーケティング活動は、インチキ商品を高く売るための、騙しのテクニックを体系化したものに過ぎない、とも見えてくる。
 加えて、行動ファイナンスやその裏付けとなる脳科学の発達が、運用商品のマーケティングに体系的に悪用されつつある。これらが、人間の意思決定の非合理性の傾向を研究するものだとすると、「非合理性」の程度は、合理的な意思決定との損得で測ることが出来るが、その「程度」は、運用商品の売り手が利益を獲得するための原資になる。
 しかも、たとえば短期の時間選好率が非合理的に大きい双曲割引のような現象が、脳科学的に裏付けられた、人間のやむを得ない傾向性だとすると、これを利用した消費者金融のマーケティングや、多分配型のファンド(最近、私は、「猿が喜ぶ朝三暮四ファンド」などと呼んでいる)のマーケティングなどは、人間の弱さにつけ込んだ悪事の領域にあるのかも知れない。
 さりとて、たとえば、出来るものなら自分でやってみたいと思う、「投信のユニクロ」(取りあえず、顧客が払う年間の総コストが50ベイシス以下のアクティブ・ファンドとしておこう)を実現しようとすることを考えると、考慮のポイントはもっぱら販路であり、売り方であり、つまりは、マーケティングということになる。
 運用商品に限らず言えることだと思うが、少なくとも、「マーケティング」というものは、ビジネスを活性化する光の部分だけに注目すべきものではなく、その蔭の部分にも着目しなければならないと思う。顧客の側では、マーケティングに対する免疫を持つ必要があり、それはある種の啓蒙活動によって可能だと思うが、問題は、この予防注射の費用を負担してくれる主体が見あたらないことだ。
 運用あるいは金融におけるマーケティングというものについては、引き続き考えて行きたいと思っている。
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